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2006 年度後期個人発表製作意図

森村・川村ゼミ 2006 年度後期ゼミ論文 2007/1/12(金) 04G0311 桑原 翔


2006 年度後期個人発表に際して私は、3 部の絵画から構成される作品を制作し、その一連の制 作物に対しては「美しき神秘――森・海・宇宙」(The Beautiful Mysteries -Forest, Ocean, Galaxy) という題名を付した。本文章は、上述の作品を見たことを前提とし、その制作意図の説明というところ に第一の重点をおいて書かれるものである。作品の複製写真については、末項、あるいは付属の CD-R に記録された画像データを参照してもらいたい。 まず、作品の形式的なところから話を始めたいと思う。今作品は、F10 号型のキャンバスの上に絵 筆を用いてアクリル・グァッシュを乗せて描かれたいわゆる「絵画」3点を一連の展示物として展示し たものである。すなわち、形式は非常に古典的・伝統的な絵の描き方に従っている。私が今回、この ように古典的な「絵画」という手法をとった理由としては、「『デジタル』への疑心」という意図がまず挙 げられるだろう。『デジタル』とはデジタル処理されて制作された物を総じて呼んだ時の名であり、もち ろんのこと、『アナログ』と区別されたい。私は制作にあたって現代のメディア表現の殆どがデジタル・コ ンテンツ化されてきているという現状に目を向けた。かつてシネマトグラフから 16mm フィルム、35mm フィルム映画へと発展を遂げた映画のメディアはいまやデジタル・ヴィデオ(DV)に取って代わられてし まったと言っても、もはや過言ではない。映像制作において、撮影から編集、そして映写にいたるまで 終始フィルム作業のないノンリニア編集が今や主流となっている。そして写真表現においてはそれま でアナログフィルムカメラのみが使用されていたが、同等に現代ではデジタル・フォト・カメラでの撮影 や制作が顕著に現われているところである。音楽の分野においては、1980 年代以降コンパクトディス ク(CD)の出現により、早い時期にレコードというアナログメディアは終焉への第一歩を踏むことになるの だが、それを複製する媒体としてのカセットテープはミニディスク(MD)へとシフトしていき、やがてはオン ライン上で「データ」として交換されるようになるのだ。そして絵画に関しても、DTP(コンピュータ上でグ ラフィックを描画、構成し、プリンターで出力する方式)があまりに主流になっているために、グラフィッ クデザインの分野で、極端に考えるならば、その手でレタリングして雑誌の題字を描く者は消えてしま ったのだ。かつてのファインアートは、コンピュータ・グラフィック(CG)へと姿を変えてきている。 私はこのような芸術表現のデジタル化に対して不満や否定の念があるわけでは決してない。むしろ 私はこれらのデジタル化された、あるいはデジタル処理されたコンテンツを大いに自分の価値観の中 に取り込んで行きたい姿勢を持っている。なぜなら『デジタル』は現代に見合った、合理的な方法論 によって必然的に必要に迫れ、生まれたものだと考えるからだ。フィルムを使った写真や映像の制作 に比べると、デジタルメディアを使用した方法であればそのコストを大幅に下げることが可能であるし、 その編集や加工における利便性は格段優れたものであろう。一部の映画や音楽といった、ある種の 娯楽的要素を踏まえた芸術作品に関してはその配給ということを第一の目的としているので複製され やすい形状、すなわち『デジタル』であることが望ましく、現にそうなのである。このように現代のアーテ ィストがデジタルな手法を取り入れていることに異議を唱えるつもりは、重ねるが、ない。けれども私は、 情報の「デジタル化」ということの根本的な概念に、わずかな疑心を隠しきれないのである。「デジタル 化」するとは、そもそも、ある情報を2進数化することを基本としている。デジタル化された芸術は、そ

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の色も、形も、音も、光もすべてが文字記号に変換され、さらには0と1の2進数(バイナリ数)へとエン コードされてしまう。0と1という単純なパターンに変換された芸術は、その瞬間に複製・交換が可能と なり何時、何処、誰の前を問題とせずに再現されるのだ。エンコードされた0と1の記号は、On と Off の2種類の信号によってインターネットなどを通じて世界中に広がる。はるか遠くから発信されたこの バイナリの信号は、自分の手元に届いた時にコンピュータ上でデコードされ、もとの作品が復元され、 現前する。 私が首を傾げたくなってしまうのは、芸術という、それぞれの作者が、ある一種の美学を用いて制 作したものが、果たして0と1というバイナリ数に置き換えられることが出来るのであろうか、というところ である。私たちは未来のある一点を境に、0と1というたった2種類の文字記号の配列パターンからデ コードされた情報からしか、芸術的な美や感動を味わうことができなくなってしまうのであろうか。私た ちは多くの芸術作品に心を魅了され、感動を味わい、そしてその美しさにため息をもらす。しかし近年 では、そうした芸術作品のほとんどの裏側に0と1という数字が潜んでいるのだとすれば、私たちの感 性は数字によって操作されているとも解釈されうるだろう。テレビで映像を見ていて、そこから情報や 感動を受け取りながらも、それが赤と緑と青の小さな光の集合体である、ということに無頓着すぎては いけない。メディアを通じて認知することと、そのメディアによって再現されたものを知ることとは、必ず しもイコールにはならないだろう。つまり、我々の見ているものと知っているものとの間の関係はいつも 不安定なのである。(ジョン・バージャー『イメージ‐Ways of Seeing 視覚とメディア』PARCO 出版, 1968 年,8 ページ) だからこそ、その事実にアンチテーゼにも成りきれない疑問を抱いた私は、今回 の作品では、バイナリ数に決して変換されることのない、純アナログな存在としての「絵画」をその手法 に用いたのである。但し、この文章の末項に印刷されているものと、CD に記録された画像は、元の作 品をデジタル変換した『複製』であることを意識的に留意して欲しい。 また、展示方法については、極めてシンプルな形をとった。これは、今回の作品が「絵画作品」であ り、展示方法をその表現とする「インスタレーション作品」でないことの強調である。具体的には、3つ の作品をそれぞれ独立させて木造のイーゼルの上に設置し、それらを横に並べるだけというものであ る。展示場所となった法政大学市ヶ谷キャンパスボアソナードタワー内のマルチメディア教室を、最 低限の照明効果を除いて殆ど改造することはなかった。しかし、絵画作品の裏側に関しては、自分の なかで「作品の一部ではない」つまり「見せるべき側面ではない」という認識があったため、3つ並べた イーゼルの前にビニールテープで境界線を設け、暗にその線より観者が近づけないようにした。 形式的なところの解説を終えて、その絵画の中に私が描こうとしたものを説明したいと思う。先にも 触れた通り、今作品の題名は「美しき神秘」である。私が言うところの、この「美しき神秘」とは、主に私 たち人間を取り囲む自然界の存在物であったり、あるいはそのさらに外側に潜む宇宙であったりする。 これらに共通する特徴として確かに私が強調したいのは、それらが皆、人間から美的な価値を認めら れてかつ、文化的営みの対象となっている、ということである。自然界に存在する森、海、川、空、雲 などのいずれをとっても、人間は感覚的にその美しさを感じる。森の深緑や海の青に惹かれながら、 人間はそれらを対象として何らかの活動をするのだ。これは、その美や感動を表現しようとする芸術

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の営みであったり、その仕組みや根本を知り探ろうとする科学の営みであったりする。これらの営みは 皆、それらの対象物への何らかのアプローチを意味している。自然界はもちろんのこと、人間の創造 物では決してない。ゆえに人間はそれを知ることはできても、潜在的に理解している状態でいることは 不可能なのである。すなわち、完全に人間の営みの外側の事象で存在しているそれらの物体や現象 は人間の前では謎に包まれてしまうのだ。この謎こそが、これらを神秘たらしめているものであると私 は考える。すなわち、この「神秘」が人間に知的好奇心や探究心、そしてそれらに、より迫ろうとする表 現の欲求を与えるのだ。人間の文化・創造的な営みはここに原点があるということが私の考えである。 生い茂る木々が緑色をしているのも、海があんなにも広く深い青をしているのも、空に雲が浮かんでい るのも、人間にはなにひとつとして身に覚えのないことだ。しかしながら人間はそれらを知ることになる。 この瞬間から、人間は自然界へ語りかけてそれを理解しようと試みるのである。その極端な例が、今 回私が大きなモチーフの一つとした「宇宙」である。人間は宇宙に対してごくわずかなことしか理解し ていないだろう。これは人間のもつ天文学が力不足である、ということでは決してない。人類は自然を、 さらには宇宙を解釈するために素晴らしい完成度をもつ理論体系を作り上げてきた上、今日もその発 展の足を止める気配はまるでないのだけれども、相対的に、宇宙が余りに巨大で、謎に満ち溢れてい るため、そのような表現となる。そういったものを私は「神秘」と呼びたい。 「神秘」という概念をモチーフにしていたルネ・マグリット(René Magritte, 1898~1967)という画 家がいる。「世界の神秘を見えるものにする」というのが、ルネ・マグリット氏の絵を描く口実なのである。 (巖谷國士『シュルレアリストたち ―眼と不可思議―』青士社,1986 年出版,122 ページ)物事には、 日常の中で万人の目にさらされている外観よりももっと大きく広がった、魅力的な裏面があるはずなの だ。事物のごく自然な現象の中に、重要な秘密が潜んでいる。マグリットは、絵画という手法を通じて そんな見えない隠れた面を巧みに捕まえ、既成の論理を無視して見えるものに変えてしまう。物事の 基礎を掘り深め、それが持つ謎に包まれた、現実の生活の中では隠れて見えないような超現実的な 面を見つけ出し、それを絵に表現することで私たちにそれを疑問として呈示するのだ。このようにして 日常生活の中にある平凡な物が謎めいた、神秘的な物に変わり、私たちはそれを新しい視点から照 らし出すことが可能になるのだ。 それでは私が表現しようとしたものはこの「神秘」そのものであったかというと、それを否定しなけれ ばいけない。私が表現しようとしたものとは、厳密には「大いなる美しき神秘を目の前にしてそれに対し て何の働きかけもできない時の無力感から生じる自己の中の爆発」であり、つまり私は直接的にこれ らの神秘を表象することが極めて困難であり、表象することがかえってその神秘性を低めてしまうので はないかという危惧に至った。分かりやすく換言したならば、私の今作品は表象し得ないことの肯定で あり、表現をすることを放棄することが、いかにそれらの具象が神秘に満ちた偉大なものなのかを表 現することに繋がると考える。森も、海も、そして宇宙も、文字通り「絵にもいわれないほど」美しく、神 秘的なのである。表象という手段を用いてそれらの神秘に立ち向かうことを放棄して、降伏してみる、 というところの考えであり、現代のデジタルに埋もれた社会の中で私がアナログを使ってできることは、 その降伏なのであった。我々人間が自然や宇宙に対して興味を示し、その偉大さを讃え、あるいはそ の美しさに感動し、ありとあらゆる芸術表現でそれを表象しようとし、あるいは独自に科学を生み出し、

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その謎に迫ろうと夢中になっているのだが、それら自然は我々人間に語りかけてくることは決してない。 自然は、芸術や科学で立ち向かおうとする人間に対して寡黙であり、人間はそれらの神秘を前に独り 相撲をせざるを得ないのだ。 今回私は、キャンバスの上に絵の具を乗せていく最終的な表現方法としては、複製画像を参照し ていただけたら理解は容易であるが、抽象表現であり、モチーフとして用いられた「森」や「海」そして 「宇宙」への再現性ということを私は放棄した。上述の通り、森や海、宇宙、これらの美や神秘性を忠 実に再現することのあきらめこそが、その美と神秘性の肯定につながると信じているからであり、よって 絵画という、極めてその表象技術を要する媒体でもって、その表象を放棄してしまうことを選んだ。(も し再現性を求めた作品を作るのであれば、私は写真や映像などデジタルなものを選んだ。)そして葉 や枝、あるいは波、そして星々を形象する輪郭線の代わりにキャンバスの上に台頭してきたのは無数 の「文字記号」なのである。つまりアルファベットやアラビア数字などの文字をキャンバス上に敷き詰め ていって、それを作品とした。 私が『文字を描く』というプロセスに至ったのは「共感覚」という概念が大きく関わってくる。「共感覚」 とは、“一つの感覚の刺激によって別の近くが不随意的に引き起こされる”という定義を広義的に持っ ており、その例えば物を食べると指先に形を感じたり、音を聴くだけで色が見えたり、という感覚のこと である。現象の中の一つである、「文字の概念から色を認識する」働きを私自身が体験するために、 抽象絵画の「色」という要素を、主観的な共感覚の逆算を利用して「文字記号」にエンコードしてしま おうと考えたのだ。その文字が何色で描かれていようが、Aは渋い赤、Bは深い緑、Dはオレンジ色、3 は空色、6は青みの緑色…などという組み合わせが対となって私の中に存在するため、ある色で塗り 分けられる箇所にはそのルールに従って、同一のアルファベットを絵筆で描いていった。細部では文 字の集合であり、全体としては抽象絵画になる、という作品に仕上げた。その輪郭を文字に代用する 時点で、完全に形状における再現性はなくなってしまうが、私はモチーフの持つ固有色を唯一作品の なかで表現している要素として残した。すなわち、「緑の森」「青の海」「黒の宇宙」である。基本色をそ れぞれのモチーフに設け、それぞれを区別した。全体的に色の系統を揃え、各絵画の内部では、文 字の配列が微妙に濃淡やグラデーションを生み出しているのだが、それが「遠くから見ると何かに見え る」などの再現をすることを意識してはまったくないため、その濃淡の散らばり方は、見る人によって何 らかの形に伝わったはずではあるが、そのシェイプは固定しない。特に「黒の宇宙」の作品に関しては、 ややグラデーションを考え、徐々に色味や明るさが変わるように文字を配置したために黒い宇宙の上 に明るい天体が集合しており、それが何かを形成している、ようにも見えたはずだが、特に私としては 意識的に何かを再現した、わけでは決してない。 今回、「共感覚」をきっかけにアイデアを得て、絵画というバイナリ変換されることのない形態を用い て、あえてそこにまた「文字」という記号をマテリアルとして用いたことには、デジタルに対するアイロニ ーをこめた、という意図も関係がある。しかしながら、そこに新たな意図を話に持ち出すことは混乱を 招き、またこの作品のメインコンセプトとは何だったのだろう、という議論に立ち戻ってしまう。「神秘」を 表現したかったのか、デジタル表現に対するアンチテーゼをしたかったのか、共感覚的な発想を元に

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文字で抽象画を構成したかったのか、というただでさえ混在して、絡まったコンセプトをさらに分かりにく くしてしまったことを大きく反省している。「共感覚の概念を表現に引用すること」「非デジタルなメディ アでの表現」という二つの大きなコンセプトが互いに干渉しあってしまい、互いに効果や説得力を希薄 なものへと変えてしまった気がする。そして且つそれらが、モチーフとしての「自然界の神秘」とどう関 わってくるのか、という点で、それらを貫く一本の線が存在しなかったために、今回の作品の狙いがど こにあるのかを特定することができなかった。これは非常に大きな反省点である。また今回の作品を 解説するに際しても、やはり自分の主観的な考えでしかそれが通用しないことを痛感している。これは 制作に移る前の段階でのコンセプトがしっかり練られていないままに制作に移ってしまったからである。 今後の展望としては、今回の反省点を大きく考えて、今一度自分の表現スタイルというものを改め て見つめなおしてみたいと思う。今回は前期に「共感覚」という概念を研究発表したことから、そこから 上手にアプローチできないか、ということにややこだわりすぎてしまった気もする反面、もっとそれを題 材として作品に使っていく時にいい方法がアイデアとしてあるのだろうという考えから、「共感覚」という テーマを続けるか否かも自分のなかでは大きな問題になっている。また、そのスタイルとして今回「絵 画」という形をとったのだが、これは今後このスタイルでやっていく、ということではなく、試作の1つと捉 えて欲しい。これまで学んできたことを有効的に自分の表現活動の中に取り入れていきながら、来年 度中に自分のスタイルというものが確立されていなければならないのだろうと考えている。今年度扱っ た「共感覚」という概念に関しても、それにこだわりすぎることなく、外側にもアイデアのよりどころを向け て行きたい。制作にはまずそれ相応のしっかりと固められたコンセプトを用意しなければならない。ゆる ぎないコンセプトにのっとった、自分のスタイルの確立ということが今後の課題となるだろう。

参考 リチャード・E・シトーウィク 「共感覚者の驚くべき日常」 草思社 2002 ジョン・バージャー『イメージ‐Ways of Seeing 視覚とメディア』PARCO 出版,1968 年,8 ページ 巖谷國士『シュルレアリストたち ―眼と不可思議―』青士社,1986 年出版,122 ページ

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『美しき神秘―― 森・海・宇宙』より“森” The Beautiful mysteries ― Forest (2006 年・キャンバス・グァッシュ・530×455mm)

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『美しき神秘―― 森・海・宇宙』より“海” The Beautiful mysteries ― Ocean (2006 年・キャンバス・グァッシュ・530×455mm)

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『美しき神秘―― 森・海・宇宙』より“宇宙” The Beautiful mysteries ― Galaxy (2006 年・キャンバス・グァッシュ・530×455mm)

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『美しき神秘―森、海、宇宙』について  

My explanation of my paintings named "The Beautiful Mystery - Forest, Ocean, Galaxy".

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