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二畢引

ることを中国政府に知らしめた。これは何より、

応すれば、むしろ事態が悪化する事柄が存在す

段である「燗報封釧」や「公安刀」をもって対

民思想」では封じ込めることができず、常套手

問題は、「毛沢東思想」や「都小平思想」「江沢

新型肺炎・重症急性呼吸器症候群(sARS)

ジェネラリストとしての知識人ではなく、医師

そうであったように何らかの政治派閥に連なる

るとする告発が、①九○年代初めまでしばしば

る。これは例えば、患者数が過小報告されてい

能してきた香港の伝統的な地位を脅かしつつあ

国と世界を結ぶ「情報・知識の窓ロ」として機

他方、グローバリゼーションは皮肉にも、中

公開・共有体制の整備を進めることである。

定的である。必要なのは、中国政府が自ら情報

は、両地域での世代交代も相まって、もはや限

まる香港が情報・知識面で中国に為しうること

めるかにかかっている。あくまで外部者にとど

。j

一情報・知識のカハナンス

象徴的に物語る。

中国にもグローバリゼーションの大波が容赦な

という専門家によって、②同じく九○年代初め

「自転車の乗り方を記した本」を何十冊読ん

クロー

製造業のグレードァップなど情報・知識の自由

中国の改革・開放政策はまさに踊り場にある。

く押し寄せ、問題解決に当たり、言論・表現の

までしばしばそうであったように香港メディア

でも、自転車に乗ることはできない。「芸能人

東亜IhL4342003年8月号

26

な流通を前提とする、内需振興にも直結する櫛

自由と情報公開制度の上に成立する悩報・知識

にではなく、米の週刊誌『タイム』に対して行

が出演するテレビ番組」を何時間見ても、歌手

はじめに

の世界的な共有が不可欠な時代に入ったことを

われ、その内容がl「週刊誌」でありながら

になることはできない。いずれも実地訓練を噸

その将来は情報・知識の共有と創造をいかに進

示す。経済面でも、WTO(世界貿易機関)へ

l印刷された紙面ではなくウェプページを通

ね「身体で技能を覚える」ことが必要である。

造改革が待ったなしの段階に入っている。

の加盟もあり、轡本や土地・不動産、人材、技

じてただちに世界に報道された、などの事実が

一、中国情報の還流

術等の要素市場の形成、サービス産業の育成、

Ⅵ』


(△

「本」をマス・メディア、「実地訓練」をパーソ

ナル・メディアとすれば(世界銀行□九九九])、 中国・アジアの近代化は両者を峻別し、後者を 体得することで達成されたと言える。 「「香港情報」の創造者

大多数のアジア諸国・地域は一九六○年代以

降、マス・メディアの管理を強化する一方、多 国籍企業を総致、生産技術や会社経営の知識等 を吸収し鯰出の拡大を通じて近代化を進めた。 こうした開発戦略の先頭を走ったのがアジアで 初めて輸出加工区を設置した台湾だが、輸出加 工区は五○年代の香港に着想を得たものである。 蒋港には当時、新中国成立前後の混乱から主と

して上海から資本や人材が流入し、製造業をは

経済特区について鄙小平は「技術、管理、知 識へ対外政策の窓口である」(特区窓口論)と言っ た。そうした技術や知識をもたらすことを期待 されたのは、西側先進諸国ではなく香港やマカ オ、台湾などの「同胞」である。また経済特区 は、少なくとも西側先進国企業の警戒心を和ら

げる先導役としての役割を期待された。このた め経済特区は南部に集中的に設戯された。| 対外開放政策は、パーソナル・メディアとし ての人間や企業組織に体現化された技術や知識

の吸引を意図したが、一方で政治的に歓迎され ない「ブルジョア思想」も主としてマス・メディ アを通じて入り込んだ。

中国ではこれを「ハエ論」と呼ぶ(窓を開け れば新鮮な空気も入ってくるが、ハエも同時に 入ってくるという開放警戒論)。ズェ」の中に は、都小平路線に内在した「保守喧改革」の対 立を反映し、香港経由でブーメランのように還っ てくることを狙った中国発の情報・知識もあっ た。当然だが、発信者は主として胡鰯邦、趙紫 陽の二人の「改革派総理」に迎なるブレーンら である。彼らは自陣宮が劣勢にある時、しばし

ば香港のマス・メディアに保守派に不利な情報 をリークした。

「中国国民」でありながら「特殊な歴史的駆

情により実態としては外国人」という「同胞」

が作る活字メディアは「港刊」と呼ばれたが、 ①新華社香港支社など在香港中国機関が現物を 北京に送付、②わずかな期間、少部数だったが 中国での販売が公式に許可、③中国内に密かに 持参されるか郵送lという二つのルートを通

して幹部や知識人の間で読まれ、また党宣伝部

や統戦部、研究機関等で研究された。したがっ

てその情報は、同胞自身、在香港の外国人、お よび諸外国の対中観に加え、「党内世論」に少

なからぬ影響を与える。守勢逆転や政策の完遂

を狙う改革派にとって、内外世論の形成に影響

力を持つ香港メディアの利用価値は高いのだ。

これまで香港メディア(新聞)が報じた「ス

クープ」と呼べる情報はおよそ次の四つと言わ れる。

・一九八四年九月、『快報』か香港返還を巡る

「中英共同声明」の全文を公式発表の一日前 に掲載。

・一九九二年一月、『明報』が都小平の南巡(広

東省視察)を報道○

二九九二年十月、『快報』が党大会の江沢民

演説を事前に掲載○記者が北京で拘束。

二九九三年七月、『明報』は朱錯基が人民銀

行行長を兼務していた時期の金触政策を報》喝

記者は北京で拘束。

このうち、「改革派」の巻き返しに股も劇的

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じめ各煎産業が勃興、いわば香港全体が輸出加 矼区化する形で輸出主導の発展を成し遂げた。 こうした香港から始まるアジア近代化の環は、 数1年を経て中国に帰り着いた。中国が設瞳し た経済特区は、台湾の輸出加工区の成功に触発 されたものと言われる。すなわち、「中華人民 比和国の成立」そのものがl上海の停滞と引 き換えに香港を育て、その香港が台湾の開発に 刺激を与え、さらにはその台湾の開発戦略を中 国が倣うことでl「中華人民共和国の改革」 を導いたのだ。

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に成功したのは南巡報道だが、この前の確認情 報はむしろ例外である。大部分の中国悩報は未 確認のままその短い寿命を終える。 香港メディアで伝えられる北京の政局絡みの 中国情報は、一般に「香港情報」と呼ばれる。 「香港情報」は今日では「あまり当てにならな い情報一般」を指すが、元は香港発の「あまり 当てにならない中国に関する悩報」を意味した。 その代表例が香港の中国専門雑誌が盛んに掲繊

する「中南海の内幕」である。かつては「保守 派嘱改華派の権力闘争の真相」として海外でも 紹介されたが、専門教育を受けた香港人ジャー ナリストは「政治八掛亘当たるも八卦、当たら

ぬも八卦の政治情報)と呼んで、そのほぼすべ てについて一倒して無視している。

「香港情報」が比較的プラスに評価されたの

は、西側先進諸国の中国ウォッチャーによって、 他に頼るべき憎鰯源がなかった改革・開放前の ことである。とくに七一年の一一クソン訪中前は、 この穂の「香港悩蝋」を香港でウォッチするの がいわゆる「中国ウォッチャー」の仕事のほと んどすべてだった。

||、香港と中国ウォッチング

香港が中国ウォッチの拠点となったのは文革 初期の六○年代後半である。

したが、英国が香港に持ち込んだのは主として

言うまでもなく、香港は一八四二年の南京条 約による香港島の割譲で植民地化の第一歩を印

貿易の技術・ノウハウだった。一九四○年代の 新中国成立前後には、主として上海人が、資本 だけでなく、製造、金駐、娯楽・飲食を含むサー ビスなど、貿易以外のほとんどすべての産業技 術・ノウハウをもたらした。四五年九月~四九 年十一一月の間に推定百二十八万五千人が流入し 人口はほぼ倍増したが、この時の難民は農村出 身者が大部分を占めた以前とは異なり、兵士や 警官、専門家、知識人、事務員、商店販売補助 など都市出身者が四割以上を占めた。彼らは到 着後数年で工業労働力やサービスの非熟練労働 者、自営技能者などとなり、香港の工業化を牽 引した。新中国成立後も、五○年代の反右派闘 争、六○年前後の大躍進の失敗と飢餓、六○年 代の文化大革命などを受け、香港への流入は断 続的に続いたが、時代が下るにつれ概して「知 識人」は減少し「経済難民」が増加した。 上海人はマス・メディア産業の発展をも促し た。武侠小説で世界的に著名な輩良廠(ルイス。

チャ)が五九年に創刊した日刊紙『明報』がそ の代表例である。『明報』は香港で初めて(とい うことは恐らく世界初の)「中国専門ページ」

を設けた。「香港惰報」の生みの親と言える。

新中国成立前は香港と中国間の往来は自由で あり、香港において中国情報の需要は低かった。

しかし、新中国が国を閉ざすと、流入した多数

の大陸出身者は「向こう側の母国」の情報を渇 望した。『明報』はこれに着目、丁望や周青など 中国を逃れた知識人を迎え入れ、六○年代半ば 「中国ページ」を設けた。目論見どおり、部数は

急伸した。西側マス・メディアも『明報』に注 目した。『明報』は「中国ページ」を担当する中

国出身の知識人や記者を続々と雇い入れたが、 彼らは「世界最高の中国ウォッチャー」と呼ば

れ、また香港自体が世界最高の「中国ウォッチ」

の拠点となった。香港の代表的な親中国系紙で ある『文騒綴』ですら中国情報の入手は難しく、 『明報』を最大のライバルと見た。 ニクソン訪中に続く七三年の連絡事務所の米 中相互開設を受け、米政府は香港での諜報活動 を縮小する一方、英ロイター通信が七二年十一一 月、北京支局を開設した。中国ウォッチの拠点 としての香港の地位が低下したのは間違いない が、実際には北京にいてもラジオ北京や新華社

に頼るだけだったので「それなら優れた分析家 が多い香港にいた方が良い」との理由で、北京

は重視されなかった(○三ロー・盲目Fのの[]g←])。

これに加え当時、欧米メディアはペトナム戦争 の取材のために香港駐在を好んだ。他方、香港

28

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合し

■_ として最も鰍いていた時期だったと言える。

あった七○年代は、香港が「中国情報のメッカ」

へ。こうした米中「脱冷戦」プロセスの渦中に

ら「世界と岬び接触を始めた中国を伝える香港」

「アジアにおける西側の砦としての香港」か

世界に伝える必要が生まれたからだ。

中国の国際社会への「復帰」を踏まえ、中国を

ジ」を設けた。これは香港最大の英字紙として、

は七三姪同隠面から独立させる形で「中国ペー

の英字紙『サウスチャイナ・モーーーングポスト』

などよりはるかに切実な域内問題が次々に生起

るアジア通貨危機後の経済不振など、中国政治

よびタイミングにおいて返還時期と完全に重な

香港基本法の起草、九○年代の民主化問題、お

港への帰属意識を一段と強めた、④八○年代の

の「香港のヒーロー」が生まれ、香港住民の香

の中からブルース・リーやマイケル・ホイなど

が登場し、大衆文化を形成、そうした大衆文化

波テレビなど地元市場依存型の視聴覚メディア

通増加に努めた、③六○年代末から映画や地上

情報」ではなく「香港の政治・経済情報」の流

を始めるなど、香港政庁が返還をにらみ「中国

ることを希求した。『明報』の狂は中国での販

は共産党幹部に影響力を持つ海外華僑に読まれ

香港市民より一握りの北京の共産党幹部、また

そ者」でなければ奪取は難しい。また書き手も、

産党の筋の人」、つまり香港人にとっては「よ

集長。すなわち、中国情報は多少なりとも「共

副編集長。『当代』発行人も『文艫報』の元副編

ルマ出身蕪僑・『争嶋』の温脚は『文應報』の元

海外華僑の資金で創刊。『鏡報』の徐四民はビ

『明報』元副纏築長の丁望は『動向』、『解放』、 『潮流』の創刊に参加。『七○年代』は共産党と

在良庸は『大公報』(中国大陸で出版)出身。

川香港域内情報の需要増加

『中国燗報の需要の低迷

として三点を指摘できる。

までほぼP貸して低迷を続けている。その理由

る需要は七○年代半ば以降、返還を挟んで今日

しかし、呑港住民自身の「中国情報」に対す

を設けた時のような発行人と香港住民との間の

が創刊された。しかし『明報』が「中国ページ」

『潮流』、『当代』等が、九○年代には『前哨』等

年代には『中報萬『百姓蘂『動向』『解放(開放)』、

角鏡』、『鏡報』『争鳴』、『香港週間』等が、八○

えたと言える。七○年代には『七○年代』、『広

九○年代前半まで断続的に創刊され、むしろ増

中国情報そのものは、専門誌が七○年代以降

という新たなコンテンッを求めたり、企業体と

じた「報禁」の解除で競争が激化、「中国大陸」

行し、ブームを演出した。新聞の新規刊行を禁

綴済情報だった。台湾資本も香港で新聞等を発

報ブーム」が再来した。ただし、その情報とは

都小平の南巡後の九○年代前半にも「中国情

②経済情報への関心のシフト

二、「香港」の情報・知識の生成

売が黙認されるよう八○年、郡小平への個人攻

この背景として、①七○年代を通じて香港生

一体感はもはやない。発行人はいずれも「変わ

して中国市場参入の足がかりを欲した。体験的

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した、などを挙げることができる。

まれの香港人によって構成される「香港」が形

る母国」への期待を強めた華僑か親中国系メディ

に言えば、この頃から中国情報に占める経済情

撃を禁止する社内通達を出し、八九年の天安門

成されつつあった、②同じく七○年前後から、

アからの蛎向組という、香港人にとっては「よ

報が急増したと推測される。

経済情報は参入が比較的容易である。香港が

事件までこの自主規制を貫いた。

瓶に米国でマス・コミュニケーションやジャー

そ者」だったからだ。

翻って、中国情報の草分けである『明報』の

1

ナリズムの学位を得た教員を招聡し香港中文大

学等に新聞学科を設置、「香港人記者」の養成

29

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召目

必ずしも発信地点である必要はない。その担い

れに伴い、「香港悩報」は政治的センセーショ

娯楽紙である。同じライが『アップル』より五

内容は社会記噸・都市情報主体の典型的な大衆

という香港初の総合週刊誌の方が「反中」色は

ナリズムを失い、きわもの好きの一部香港人は

九○年代を通じて『当代』、『百姓』、『九○年

濃い。九四年七月ライ自身が連戯するエッセー

手がジャーナリストである必要もない。ある米

代員旧『七○年代』)など定評ある中国観察雑

で李鴎総理を罵倒し、ライが中国で展開してい

年早く、九○年に創刊した『ネクスト員壱週間)

柄を大々的に推奨した後にネガティブな報告を

誌の廃刊が相次いだ。西側メディアは「返還後

た衣料品チェーン店が閉鎖処分を受けた。同誌

中国情報から離れていった。

発表、株価を急落させた。ある米系証券は社長

の言論統制を恐れ自主廃刊した」などと報じた

系証券の香港拠点は九○年代初め、中国側述銘

が「反中」と見られた香港企業の株式上場事務

が、これは誤りである。人口構成で大多数を占

は職を失った。呑港の証券管理当局も、中国企

論誌を読まなくなった」(当時の李怡『九○年

める「香港人は中国の政治をますます嫌悪し政

国取材許可が取れていない。

まで香港の主要メディアの中で唯一、正式な中

も発行部数トップを争うが、両誌・紙とも今日

は週刊誌の中で最大部数を誇る。『アップル』

ティブな銀告を書いた一米系証券のアナリスト

業の株式f場が急剛した九○年代後半から「証

代』編集長)のが真相である。さらに、中国ウォッ

ライ個人の対中観はともかく、→つの雑誌メ

天安門事件後の九○年代を通じて趨紫陽系人

た」。日刊紙『アップル・デイリー』の創刊につ

た。問題は自主規制に走る新聞にあると気づい

多くの情報を欲しがるはずなので不思議だと思っ

減少した。将来に不透明感が増せば人間はより

「香港返還が近づくにつれ新聞の鯛読者数は

民に対し、九○年代は衛星放送スターテレピを

上波テレビのスピルオーバーによって広東省住

香港の大衆娯楽情報は、伝統的には香港の地

「反中の商品価値」が低下したからにすぎない。

単に香港市民の間で天安門事件の記憶が薄れ、

イも逃げ腰になった」などと椰楡もされたが、 枠組みの有効性の希薄化

30

を途中で投げ出した。中国系企業についてネガ

券取引所(注“香港の証券取引所はそれ自体が

チャーが高齢化した要因も大きい。改革開放政

特に日本では誇張されている。『反中』は政治

ディアの傾向として見た場合、その「反中」は 代は、「中国情報」が宿したイデオロギー性を

ではなくファッション。天安門事件の記憶が鮮

策が定着する中での読者と送り手双方の世代交

の確執がしばしば表面化する。最近の日本のマ

相対化しつつ、九○年代における大衆紙や情報

明である限り、香港で『反中』は売れる」(同氏)。

上場する株式会社)は上場審侮を甘くしている

ス・メディアの中国報道については「デフレと

誌の興隆へと刑緒する。

のではないか」と不信感を鍬らせており、両者

風気低迷が深刻化する中、『中岡巨大市場』は

こうした「商業判断」が「反中」を生む背景で

脈が後退、代わって政権内部に上海出身者が増

いて、社長(当時)のジミー・ライ(黎智英)は

通じてほぼ中国全土に伝えられた。その他、テ

ある。香港返還の頃から「さしものジミー・ラ

えるにつれ、「改雅旧保守」という対立勝図(こ

こう諮るが、その紙面に「自主規制に走る新聞」

レビ番組、コンサート、現地活字メディアの報

二、香港大衆メディアの形成

れ自体が考案荷である雑誌名にあやかって「争

以上の「反中」記事を見つけることは難しい。

メディアの編災者)という声も聞く。

溌笈に結び付く数少ない情繍の-2(経済系

鳴史観」と呼ばれる)は「k海川幅その他」と

③「改革派閥保守派」という

いう「改雌」を所与とした図式に変質した。こ

Iih螢笛目自白堅壜


した純商業紙として政治とは距離を脳き、娯楽・

報が量的に減少し、海外の中国ウォッチャーか

るのは当然である。繰り返せば、そもそも「香

道等を通じても伝播した。香港の芸能娯楽情報 一般に、娯楽・芸能情報は主にテレビの登場

港情報」とは、中岡大陸出身の知識人が香港で

ら弓香港情報』は質も落ちた」などと見なされ

伝達し、経済市場化を多少なりとも促進したの

で一挙に活性化する。六七年にTVBが開局し

発信した中国情報、いわば『香港で発行され

芸能・都市情報を多く掲載し、大部数を誇る。

は間違いないが、ひいては「中国の政治にどん

たが、テレビは「芸能人」という新たな職業を

る中国の新聞・雑誌』に戦った情報」だったの

が、西側の商品・サービスに関する情報・知識を

な影響を及ぼすか」(馬傑侭・香港中文大学新

生んだ。同局は七三年から美人コンテストを主

本のマス・メディアは米国メディアのようにホ

川学科教授。J・カラン、朴明珍(編)[二○○

芸能人の誕生は、新聞・雑誌上の写真量を増

ワイトハウスの内幕を報道できないのか。米政

だ。「北京の圧刀に屈した香港メディア」など

いかもしれない。香港の大衆娯楽情報自体、日

やす。カラー化などでもコストはとがり、メディ

府の圧力に屈したか」と非難するにも等しい。

催するが、最高の人気番組の一つとなり、芸能

本をはじめ先進諸国の影響を受けており、中国

アは「情報媒体」から発行部数の増加を至上命

二])は、今後の研究課題である。しかしこれら

の大衆娯楽メディアも香港だけでなく、日本な

令とする「広告媒体」へと変質する。「大資本」

と論評するのは的外れである。それは「なぜn

ど先進諸国からの影響が強い。『ネクスト』を真

が企画・演出する大衆文化がこうして形成され

界入りへの股も権威ある登竜門ともなった。

似た総合誌か広州で生まれたが、ビジネス・モ

る。そして、大衆文化は香港生まれ香港育ちの

は、かつての「香港情報」ほどの影響力は持たな

デルの提供という観点では、香港の娯楽メディ

編集者やプロデューサーの滞要を増やす。

地k波テレビ、および地味だか二十世紀初頭以

七○年代に成奨したTVB(香港テレビ)等の

める『アップル・デイリー』や『ネクスト』は、

過去十年余り、香港活字メディアの主流を占

覚メディア出身の香港人世代のジャーナリスト

ラジオの報道部長等を歴任Cこうした王に視聴

ナリズムの学位を取得後、呑港に戻りテレビ、

れたジャーナリストの第一世代であ互米でジャー

に香港中文大学新聞学科を卒業。香港で養成さ

『ネクスト』初代編集長の梁天偉は、六八年

の一つである「統一戦線」に「愛国主義」を冠

当化する政治的教銭として、マルクス主義理論

士」は全国政治協商会議に集結した。これを血

家も活用した。これら国内外の「非共産党系人

鍵を担い、建国後も国内に残っていた民族資本

たのは、「同胞」だけではない。巡国前の資本宅

改革開放政策を進めるに当たり中国が重用し

三、中国の情報創造 プロセスの変容I

アは中国南部においてなお影轡力を持つと言え

来述綿と続く『華僑日報』(創刊一九二五年)、

が、九○年代以降の「香港情報」の増大を担っ

よう。

『成報』つ一九年)、『明報』(五九年)、『天天日報』

栄毅仁、香港の王寛誠(故人)や李嘉誠らが

した「愛国統一戦線」が打ち出された。中国の 中国出身者による「香港情報」から香港人自

「愛国人士」として署名だが、いずれも中国国

ている。

る。『星島』(三八年)、『東方日報』(六九年)など

身による「香港情報」へ。香港人か香港におけ

際信託投資公司(CITIC)の初代理事(栄

(六○年)等の「中立紙」の系譜に属すると言え

、部の「右派」系紙も内容面では「中立紙」に

る情報・知識の主要な創造者になれば、中国情

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近い。「中立紙」や一部「右派紙」は植民地に誕生

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」i・■出自。と………………………………~………

は理事長)に任命された。八○年代半ばに新た

マス・メディアの「改革方針」を簡単に言え

UI

金銭等を受け取る行為)禁止等へ次第に脱イデ

オロギー化した。市民のプライバシー意識、企

しかし、マス・メディアの自由化はあくまで

業監視意識も強まった。

が、そのためには例えば新聞では公費・社費に

経済的動機に基づく。赤字メディアを支援する

ば、地方分椛化を通じた商業化である。商業化 を迫られるメディア機関は広告の猶得が必要だ よる購読ではなく、自腹を切る個人読者の増加

余力を失っただけである。マス・メディアが共

な「非共産党系人士」として私営企業が勃興し たが、その経営者も九○年代後半に政治的地位

が欠かせない。週末版の拡充等を通じて娯楽。

今も変わらない。この結果として、改革開放時

「マスメディアの自由化・産業化

を高めた。

生活情報を轍やし、伝統的な郵便局経由の配達 に代え、路面店等を含め自社販売網を整備。併

彼らが国や企業等の組織運営に必要な知識を

イデオロギー」という対立構図が繰り返し浮上

代を通じて「マス・メディアの自由旧社会主義

産党の「喉舌」として宣伝部の管理下にあるのは

そのキャリアに袋づいて直接、間接に提供した

産開発への参入など経営多角化(コングロマリッ

の宣伝方針に関する決定』(全七条)が規制強化

する。八一年一月の『当面の雑誌・新聞・放送

テレビでは八三年十月、「ラジオとテレビに

の噴矢だが、八三年の「精神汚染」反対キャンペー

ト化)を進めた。

せて夕刊紙の買収等を通じた企業集団化や不動

とすれば、より一般的で抽象的な知識を不特定 多数者に伝達するマス・メディアも、八○年代

おける四つのレペルでの発展と管理、および中

ンを経て八○年代後半以降、その対立は尖鋭化

半ば以降、相当程度、自由化された。このこと

央ネットワークと地方局との統合を求める混合

は、そうしたマス・メディアを狛な活動舞台と

する大衆作家・芸術家などいわば「フリーラン

放送」(四級弁広擶電視)が採用された。これは 国・中央(|航位)、省。直鰯市・自治区(三十 単位)、市・県(約四百五十単位)、郷(約一千

迎える。

後の「和平演変」反対キャンペーンでピークを

ぞれテレビ局を設立することを許可した地方分

権化措憧。これを受け八五年には地方局が前年 比二倍余りまで急増。また広告獲得のためドラ

中国の思想史において、都市部に改革の重点

が移った八○年代後半、二つの変化が起こった。

ポスト文革世代への交代、②知識の内容として、

すなわち、①知識の担い手として、文革世代↓ これに伴い当局の対応も、イデオロギー統制か

香港↓世界への拡大である。こうした新時代を

マを中心に人気の高い番組が香港や米国、日本 から盛んに輸入された(』目壹8西。局[ご房])。

二、思想史上の二つの転機

九百単位)の四つのレペルの各行政単位がそれ

由化」反対キャンペーンに続く天安門事件、直

する。そして、八六~���七年の「ブルジョア自

スの知識人」も生成した。この頃から十九世紀 的なマルクス主義の用語である「群衆」ではな く、「価値観の共有に基づく災団的意思」を含 意する、二十世紀以降に西側でより一般的に使 用される「大衆」が共産党系メディアでも使わ れるようになった。

九二年には『第三次産業の発展を加速するこ とに関する決定』が公布され、マス・メディア が初めて産業として位置づけられた。二○○一

らポルノや非倫理的な内容物の規制、有償新聞

体現した人物として、安徽省合肥の科学技術大

年末には第三次産業の発展を促す二つ目の文書 として『十汽剛にサービス業の発展を加速する

(ちょうちん記事を書く見返りに取材相手から

△_

ことに関する若干の政策措置の意見』が出、マ ス・メディア産業の「競争力向上」が護われた。

-32-


『P

些一」Zi-

いう西側価値観を前面に押し出し民主化を要求

〃励之は八六年秋、「知識人」の処遇改善と

進み、党内対立は一段と鮮明化する。ネガティ

紫陽の時代、国際化と国民の価値観の多様化が

怒りを買い、胡耀邦は失脚する。しかし続く趙

方励之の批判に始まる民主化運動は都小平の

『知識革新工程』の試点工作の展開に関する應

九八年六月、国務院は「中国科学院による

る」と指示。

はわれわれの二十一世紀の発展に重大な鍵を握

九八年二月、江沢民は「知識経済、革新意識

く、「欧米との単純な比較から言論の自由を中

改革の試みをほとんど念頭に置いたものではな」

ンフレの沈静化を踏まえ、朱諮基が経済構造調

放の超克」を試み始める。南巡後に高進したイ

天安門事件を経て、中国は「都小平の改革開

うが、③当時、米国発の「情報技術革命」が世

い、など江沢民個人の政治的野心を指摘できよ

高指導者として独自の政策を歴史に残す必要が ある、②上海に確固とした権力基盤を形成した

苣句

■‐

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した。「中国政府の前近代性が知識人に対する

ブな意味での「香港情報」が股も活躍したのは

報提網」を採択。国家革新体系の試点として、

学副学長だった物理学者の方励之がいる。

冷遇の中に現れている」として「政治を欧米並 この時期である。

を決定。

中国科学院が『知識革新工程』を牽引すること

に近代化するには知識人の知的営みを重視し、 その活用を図ることか必要」であり、「そのた

めに言論の自由を保障しなければならない」と

「第二次現代化」とも呼ばれる「科教興国」

心とした民主化を要求した」(加々美光行〔二

整に乗り出した九五年、江沢民は技術やノウハ

界を席巻し「米経済の復活」に世界が瞠目した。

四、中国の情報創造 プロセスの変容Ⅱ

○○二)。弓切の媒介を置かずに直接に最高

ウの「国産化」を目指し「科教興国」戦略を打

そのうえで、④テクノクラートである江沢民が

主張した。この体制批判は「紅衛兵世代が体制

指導者の都小平を痛罵するという批判の手法は、

ち出した(表参照)。その舞台としてはもはや、

「知識の国産化」への志向を一段と強めたlな

戦略が打ち出された背景として、①新世代の最

政治的暴力の洗礼を受けていないポスト紅衛兵

西側の技術やノウハウを最初に取り入れた同胞

ども併せて挙げることができよう。

内にあって追及していた法治の実現による政治

世代の現役学生には、きわめて理解されやすく

に近接する広東省ではなく、上海か選ばれた。

情報技術は途上国にとって、それをうまく使

受け入れやすいものだった」(同)。

芸術分野では、「第五世代」と呼ばれる一三-

えば「革新」のための画期的な知識となる。情

報・知識は本質的に公共財である。しかも、そ

「知織の「国産化」へ 一九九六年、「国家技術革新体系」の建設を

うした情報・知識を低コストで移動可能とする

ウェーブの映画監督が台頭した。文化大革命後 に再開された北京映画学院の第一期生で、紅衛

決定。企業の技術革新能力向上のため『技術革

九○年代半ば以降は、情報・知識はまたたく間

兵世代に属する。八四年の張軍釦監督の。人

九七年、経済体制と経済成長方式の根本的な

に「国際公共財」化する。先進諸国がいかに知

デジタル技術とインターネット技術が普及した

建新、張沢鴫、具子牛らが、それまでの特徴だっ

改変を打ち出す。二十一世紀中ごろまでに現代

的所有権で保護を試みようと、徹底してブラシ

新工程』が始動する。

たプロパガンダ性やセンチメンタルなドラマ性

化のための堅実な基礎を基本的に実現する。

と八人」をはじめ、陳凱歌、田壯壯、張芸謀、黄

を拒否する一巡の映画を発表し、衝撃を与えた。

-33-


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表1980年代以来の中国の主要な革新政策 国家ikWi体系 知織地[Wiシステム

知識伝捕システム

技術iIf新システム

知識応用システム

国家科技術積極化j1.

1983

画 1984

国家iIt点実験室設立

1986

111家「I燃料学M1金

1987

ハイテク研究発展;} llhi(863,ihlli)

国家重点工業性実験

国家iK点実験猶設立

国家科技進歩賞

国家[I然科学lf金

国家星火ズト画

宝設立

(農村地域の科学技

術普及;filIi)

ハイテク研究発展iiト 画(863計画)

火炬訓・画(「中国ハイ テク産業発展;+画」)

1988

科学技術の成果のiF【

1990

点的な活I鵬f山 国家工程Hf究センター 建設計画

1991

19

iK大雄礎研究項目計 ihi(挑戦AI画)

~産学研匂合同開発 I:秘計画

1993

科学技術進歩法

企業技術センター迎 設計画.科学技術進

生産力促進センター

211L段

科学技術進歩法

世紀を跨ぐ人材獲成

中国21世紀議定

歩法 中国21世紀繊定

中国21世紀識定

1996

皿大科学工程

技術革新工程

1997

国家堕点基礎研究発 属計画(973計画)

蕊礎学科人材穫成基

知識革新工程

教育振興行動計画

1994

1998

工穏

出所:張鳳.何伝啓(1999)「国家811新系統」高等教育出版社(中国北京)等から作成。 クポックス化しない限り、地球規模で技術・知

になるのだ。

識のフリー・ライディング(ただ乗り)が可能

江沢民は北京での第十六回「世界コンピュー

ター大会」(WCC2000)側幕式で演説し、

中国のIT戦略について「ITの応用による工

業化のレペルアップを重んじ、ITの活用によ

り伝統産業を情報化によって改造する」とした

うえで、「情報化で工業化を牽引し、『後鯵徳符些

を発揮しつつ技術の飛蹴的な発展を実現する」

と「後発効果」に言及した。第十次笂力年汁両

(二○○一~二○○五年)でも、情報化による

工業化戦略を打ち出すが、ここでも「後発性の

利益」が強調された。「後曇燦位」とは簡単には、

情報技術を活用すれば、容易かつ低コストで先

准一技術を模倣・吸収しうることを言う。

中国のIT産業が注目されているが、華南で

活発な伝統的な加工貿易とIT巌蕊面、実は創

造力を求めない点で相互性がある。ソフトウェ

ア技術は蕊認能力があれば本を読んで習得でき

る。換言すれば、オンラインで学ぶことができ

る。これに対し、例えば自鋤車の製造技術は活

字に直したり、デジタル情報化することが胴雛

である。冒頭の自転車や歌手の比嶮で言えば、

「身体で覚える」以外に習得の方法はない。高

級素材の製造技術も一定の時間をかけて「身体

34

+1


--

野であるのは偶然ではない。

その技術が「内から創造・体得される」産業分

だけでは猶得できない、自動車や高級素材など

服も鯛体な産業の一つが、情報技術を駆使する

難な知識のご櫛である。「ITに強い中国」の

ることを示す。アイデア(知恵)も対象化が困

の習得が問有の文化や伝統と強く結び付いてい

か難しいということは、その技術そのものやそ

で学び取る」ことが必要である。また、対象化

初に社会主義体制の変革に乗り出した中国でも、

進行、情報・知識の流出が加速した。世界で最

がコスト高となり、組織のダウンサイジングか

は電子情報産業が発達し、逆に技術の囲い込み

促す制度設計がなされている。七○年代頃から

が続いているもののl、知識・情綴の創造を

帰属するか、所属する組織に帰属するかは議論

を制定しI貫金労働者の知的生産物か個人に

独占や囲い込みを抑止する一万、知的所有権法

む民主主義など、企業や国による情報・知識の

独占禁止等の競争政策や言論・表現の自由を含

る宗教的、慣習的な情綴・知識かある。

部において、家族の外側の地域社会で共有され

生まれる情報か多い。この他にも、主に非都市

定多数者が参加し市場取引されて初めて価値が

まりマス・メディア情報には、公開され、不特

安くもない」価格で活発に取引されている。つ

ロダクツに体化する形で、概して「高くもなく

情報はマス・メディアとして、またはマス・プ

業など組織の属性情報芸術的・思弁的な知識・

治家や芸能人、企業経営者等の人物や政府、企

アナリストによって分析もしくは暴露された政

「市場の失敗」が深刻化したことを、「組織」に

二1世紀は悩鰯化または知識化の進展に伴い

トで開放、共有すべきか、困難な模索が続いて

政府、企業はどんな情報資源をどの程度のコス

官僚機構や国有企業等の組織の開放、すなわち

ス・メディア情報は伝統的にいわゆる「報道機

悩報や芸術的、思弁的な情報・知識である。マ

ディア情報、つまり人物や組織の属性に関する

今日の中国に最も欠けているのは、マス・メ

二、マス・メディア情報を欠く中国

よって補完しようとした時代だったと言うこと

いる。それは政治改革にほかならない。

(国家社会主義)、社会主義は、そうした情報・

みる。二十世紀を特徴づけた財閥、ファシズム

規制や公的資金の投入等により保護・支援を試

な利川を目的に企業は囲い込みを企図し、国は

知識の供給や価値水準を維持するため、排他的

モノの価値も下落しやすくなる。そこで情報・

識化か進綬すれば、通常はそれらと一体である

貨幣価値は低下しがちである。また情報化・知

情轍・知識そのものは貨幣価値が全くないか、

教護的な情報・知識は義務教育の形で、低コス

他方、典型的な公共財である基礎科学的・一般

である。企業情報は従って、概して高価である。

術、財務、顧客情報などの多くはなお企業秘密

が義務づけられIRも重視されつつあるが、技

かつ閉鎖的である。上場企業は一定の情報公開

体制を整えつつある。企業は恐らく最も保守的

隠匿性が強いが、その他の情報については公開

ば、政府は外交、軍事関連の惰報・知識はなお

西側先進諸国の経験に基づいて一般論を言え

うえに新たな情報・知識が自発的に創造される。

人化)、チャネルを通じて広く共有され、その

部の情報・知識が表出されパーソナライズ(個

自主的または外部からの圧力により、組織内

る。

情報・知識を取得、広く伝える刀を備えつつあ

や企業を凌駕する、もしくはその「壁」を破って

組織)、地域災M、さらには佃人までもが政府

絲及で、NGO(非政府組織)、NPO(非営利

ネットなど低コストでの情報収災・発信手段の

関」が創造し流通してきたが、今日ではインター

ができる。情鰯や知識は本質的に公共財なので、

知識の組織内部化の究極的な轡である。

トでの普及が図られている。ジャーナリストや

二つの世界戦争の反省から第二次大戦後は、

-35-

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い情報・知識がなお圧倒的に多い。

党内、国有企業内など組織内部でしか流通しな

対して中国は、社会主義国らしく官僚機構内、

への、獲得経路における「外」から「内」への転

知識の質の側面における「技術」から「属性」

る。中国でのsARs騒動は、こうした情報・

江沢民は縄済開発に直結する先進技術へのフ

換期に生起し、そのゆえに中国政府の対応の稚

香港や先進国から流川して事足りる悩報・知識

リーライディング(ただ乗り)の側面のみをグ

マス・メディア慨報は、それが芸術的、思弁

ではない。技術や科学知識の諸外国からの吸収

ローバリゼーションのプラス点とし、「後発効

拙さや社会の脆弱性が露呈し、国際的インパク

がしばしば国策として推進される一方、例えば

果」の活用を力説する。しかし、グローパリゼー

的であるがゆえに地域や民族、文化との密着度

外国産のテレビ番組やマンガ、歌綴曲の流通が

ションのもう一つの側面、すなわち組織開放に

トを持つ一大問題と化したのである。

「文化侵略」などと非難され、しばしば規制さ

通じる内からの知識創造にも注目すべきである。

が強く、外部からの借用が困難な情報でもある。

れるのもこのためである。逆に言えば、マス・

ばら中国政府の意思にかかっている。 参考文献

一詩寒筌只玲、ミヨ□・一二の⑩三一の要「。

・○三■‐⑤二巨色■[$の(面二・)(]垣置)、岑冒。、勾一冑二百・

。」色目のい○色『『■Pシ凸罠臣己頃0」旨で色『戸(固」・)(函ごCs)

on‐三閏「句一己亘員菖皇自営』島(喝j・カラン、朴明

珍(縄)(二○○三)『メディア理論の脱西欧化』 勁草轡房

。」冒冨●函◎三m(]垣冨)言Qヨロ「ご冒諒ミミミ『可苛‐

宅屋三一の云冒困○『C巨尹百・

三房『◎ヨヨ、手ミロ・一二のいげご◎『一・○弓汕。『の①昌玉cc」

・目安の三.『一二口目【(】竃②)}吏○コミC国両ミミ句ミ

爵ロロミ一息三℃g穴可・蔦鼻潟呑、C9句ミミ一句ミ世 じてsARSの刻一刻転変する感染状況につ

政府情報の公開、問い合わせ窓口の開設等を通

る知識と惰綴』東洋経済新報社

界銀行『世界開発報告〈乞冨・竃〉開発におけ

メディア情報を燗やすには、政府・企業の情報

いての知識・情報が個人化されていれば、必要

公開制度の整備に加え、言論・表現の自由を保

障し、それを内部から創造しうる環境整備が不

物資を買い溜めてサナギのように家にこもる

物の窃取を「後発効果の発露」や「超資本主義」

融・資本市場の形成に役立つ。また、知的創造

第十八号

察」東京経済大学『コミュニケーション科学』

・森一道(二○○三)「知識の国際移動に関する考

港の新聞人・梨智英とその時代員未刊行)

・森一道二九九七)『ミスター・ホンコンI香

教育出版社(中国北京)

・張鳳、何伝啓二九九九)『国家創新系統』高等

大革命』岩波書店

・加々美光行(二○○一)『歴史のなかの中国文化

可欠である。

「引きこもり」はより小規模なものになってい たに違いない。国有企業・銀行の情報公開が進

中国が余りに閉鎖的で、巌業レベルも落後し

などと呼んで肯定する誤った心性も正され、オ

おわりに

ていた改砿朋放初期と異なり、香港が放つ情報・

リジナリティ溢れる芸術作品や工業製品が創作

めば、それ自体の改革、および透明度の高い金

知識の中国に対する影響力はもはや限定的であ

されるようになるに違いない。

組織開放や言論・表現の自由化を通じて内か

る。情報・知識の「質」の面でも、現在の中国 的知識ではなく、内発的に創出する必要のある

ら知識・憎報の創造ができるか。その答えはもつ

に必要なのは外部から借用可能な技術的・科学

属性的な悩報、またはマス・メディア情報であ

36


Hong Kong Joho to Chugoku 2003