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平 成 二 十 二 年 四 月 ~ 平 成 二 十 三 年 三 月 実 施

シ ニ ア サ ロ ン さ く ら ん ぼ ( あ さ ぶ )

平 成 二 一 年 度 札 幌 市 シ ニ ア サ ロ ン 地 域 貢 献 支 援 事 業 指 定

平 成 一 八 年 度 札 幌 市 シ ニ ア サ ロ ン モ デ ル 事 業 指 定


昔語り「麻生今昔物語」(今は昔・・・)

ナルク札幌さくらんぼ シニアサロンさくらんぼ

代表

八百坂 康 子

昔語り「麻生今昔物語」発行によせて

札幌市保健福祉局長

岡 村

龍 一氏

2頁

高 畑

敬 一氏

3頁

語り部

塩川

喜一郎氏

4頁

語り部

黒川

弘基 氏

6頁

語り部

大門

隆司 氏

8頁

緑の深い麻生の街づくりに

NPO 法人ナルク代表

第1回 「屯田兵入植から町センまで」

第2回 「四つ角から五叉路へ~麻生神輿とよさこいソーラン」 第3回 「今は昔・札幌と麻生」 第4回 「15 歳の特年兵」

語り部

筒井

10 頁

語り部

好川

之範 氏

12 頁

語り部

佐藤

克彦 氏

14 頁

語り部

多田

洋子 氏

16 頁

島崎

一枝 氏

18 頁

第5回 「麻生に届いた司馬遼太郎の手紙」 第6回 「民生委員活動について」 第7回 「自治振興のエピソード」 第8回 「きもの処島屋

草創期の麻生」

第9回 「麻生西町内会と商店街」 第 10 回 「薪(たきぎ)能のはなし」 第 11 回 「新琴似歌舞伎について」 第 12 回 「藍染めのおはなし」

語り部

語り部

田中

20 頁

語り部

照井

22 頁

義晴 氏

24 頁

語り部

語り部 あとがき 編集後記

1頁

宮崎 石毛

26 頁 28 頁 29 頁


はじめに・・・ 地域貢献支援事業

昔語り「麻生今昔物語」(今は昔・・・)

温故知新

ナルク札幌さくらんぼ シニアサロンさくらんぼ 代

表 八百坂 康子

昔の麻生の街ってどんなところだったんだろうね? そんな素朴な質問が出たとき、私はすぐに返答が出来なかったのです。 私たちは、札幌市よりおもに麻生の街に根差した地域貢献事業をせよ!との 指定を受けながら、あまりこの街を知らないことに気がつきました。 私は麻生の街が大好きで、"シニアサロン"(札幌市はつらつシニアサポー ト事業)の開設にあたり、麻生の街にサロンを設けました。交通の要所であ り、多種多様の商店街があり、銀行、郵便局など立ち並び、文化の薫り高い 街として心弾む街であります。しかしながら、これからもっともっと麻生の 街に貢献するためには麻生の歴史や文化、経済を、そして何よりもここに住 む人たちのことを、この町を切り開き、築きあげた先達の方々のお話をお伺 いすることこそ重要だと考えたのです。

.. ――故きを温ね、新しきを知る――結果、多くの方々のご苦労を知り、思い を知りました。私たちもそれを踏まえ、何が出来るのか、何が求められてい るのかを知ることができました。そして、私たちを心より信頼し、とても優 しく接していただき、受け入れてくださったことに感謝します。 ご縁があって、麻生の町にサロンを開いた、身も心もどっぷりとつかりた い、愛されたいと切に思いました。 さて、私たちは、昨年 10 月より、 『愛の見守りたい』という試みを始めま した。これは、ナルク会員の高齢者の方々への安否確認の FAX 通信です。 高齢者の皆さんが一番心配していること、それは孤独になりたくない、お しゃべりしたい、ということだと感じてはじめた試みです。これからはさら に広く皆さんに呼び掛け、麻生にお住まいの皆さんの一助となるべく活動を 発展させます。 シニアサロン「さくらんぼ」が、麻生の街にとってなくてはならない存在 となれば、こんなうれしいことはありません。


昔語り

「麻生今昔物語」発行によせて 札幌市保健福祉局長 岡 村 龍 一 「シニアサロンさくらんぼ」の皆様が、この度 『昔語り「麻生今昔物語」』を刊行されますことに、心からお慶び申 し上げます。 札幌市の高齢化率は既に2割を超え、今後もさらに増加すること が見込まれております。 札幌市といたしましては、地域において高齢の方が健康で元気に 安心して暮らせるまちづくりを進めているところであり、そのため の事業の一つとして、平成 17 年度から「札幌市シニアサロンモデル 事業」を実施し、高齢者団体が自主的に運営する高齢者の居場所づ くりを進めるため、生きがいづくり、情報交換、地域貢献活動など の活動を行うサロンに対し支援を行っております。 貴サロンは、この制度により平成 18 年度に麻生地区に開設され、 平成 21 年度からは「地域貢献支援事業」に移行した上で、古着物の リメイクや防災頭巾づくりに加え、地域住民のためのコンサートや 講演会を開催するなど、札幌市が進める地域福祉の向上やまちづく りの促進に、多大なるお力添えをいただいておりますことに対して、 深く感謝申し上げます。 今後とも、サロン関係者の皆様が、充実した活動を続けられると ともに、活力のあるまちづくりの先導役としてご活躍されることを ご期待申し上げます。 最後になりますが、 「シニアサロンさくらんぼ」並びに「特定非営 利活動法人ナルク札幌」の益々のご発展と、関係各位のご多幸を祈 念いたしまして、お祝いの言葉とさせていただきます。


縁の深い麻生のまちづくりに NPO法人ナルク代表 髙 畑 敬 一 今は故人になられた有名なアメリカの経営学者 ドラッカー氏は「日本の近代史の中で最も大きな危機であり転換期 であった二つの時代、明治維新と太平洋戦争敗戦後を見事に乗り切 り、むしろその後驚異的な発展を遂げられたのは、親族・家族と地 域の強い絆があったからである。今日では第三の大変革期を迎えて いるが、尐子高齢化を始めとする三つの変革テーマを、同様に解決 出来るだけの絆が残っているだろうか」と話されたことがある。 孤独死が増え、無縁社会という新しい流行語が生まれてきている 最近の日本は最大の強みである親族・家族・地域の絆を失ってしまっ た。行政や社会は隣近所の助け合いの復活に懸命であるが、プライ バシーが優先されればうまくいきそうもない。つまるところ目的意 識を同じくする市民が集まってNPO法人やボランテイア団体をつ くり、新しい絆を構築して地域の中で広域的に「支えあい」活動を 展開する以外に道はないのではなかろうか。 ナルク札幌さくらんぼのシニアサロンは麻生の街で新しい絆をつ くっている貴重な活動事例である。 「愛の見守りたい」活動をナルク 会員だけに止まらず、シニアサロンの利用者や麻生に住む独り暮ら しのお年寄りにまでその輪を拡げてほしい。それが「安心して生涯 暮らせる街づくり」につながる。 ナルク札幌の皆さんのこれからの奮起に期待したい。


第1回

屯田兵入植から 町センまで 語り部 塩川喜一郎氏

プロフィール

昭和 38 年北見より札幌市に転居、和光地区に 居住。同地区で会社を経営。 昭和 56 年麻生連合町内会発足時に副会長、昭 和 58 年に麻生連合町内会会長に就任。 以後、麻生連合町内会会長、副会長として、 麻生地区の発展に貢献。

昭和38年4月に、生まれて間もない子どもをつれて、北見市から 札幌に出てきました。当時、電車が北27条まで通っていました。 駅前にあった不動産屋さんで「この辺に土地を買いたい」といって 紹介されたのが、現在、住んでいるところです。 麻 生に 住んで5 0 年近く、町内会の活動 に も 色々 参加して き ましたが、一番の思い 出 が 麻生 総合セン タ ー 設 立に 尽力した こ とです。 町 名変 更で麻生 町 と な った のが昭和 3 4年。北連合町内会か ら分かれて、麻生連町が創立されたのが、昭和56年4月でした。 連町が出来た頃から、会館が欲しいという声がありました。問題は お金が集まるかどうか。そんなわけで私が、昭和58年に麻生連合 町内会長に引っ張り出されたのです。 連町が出来たときに、会館建設期成会が組織されて、最初は建設 資金3000万円集めることを目標にしていました。それが最終的 には7000万円の予算でやるということで、市と交渉して認めて もらいました。ホールの部分には当初は舞台を設置するようには計 画されておりませんでしたが、さらに演劇も出来るようにと、私が


頼んで、幕と舞台を作ってもらったというようなことがあったわけ です。 費用の件について は、町内会の中には、 会館建設用の資金を ためてきたところ、ま ったく準備がないと ころ、色々ありました ので、全部で12通り の案を考えました。距 離の近いところはた くさん出してもらい たいとか、遠いところは尐し軽くていいですと、そんな調整をして ようやくすべての町内会に納得してもらいました。 町内会から分担金が段々入ってくるようになり、5万円以上出し てくれた寄付者は、ホールの壁に名前を書いて顕彰することにした りしました。350万円を小切手で寄付していただいた会社もあり、 麻生会館の建設には、そんなこんなで、結局8000万円近くの資 金が集まり建設にこぎつけることができました。 麻生会館は今でも、連町の重要な財産です。各町内会の意見をま とめたり、調整したりしました。また、多くの方に寄付をお願いし たり、市と交渉して、わたしたちの考えを認めてもらったりしまし た。 そんなふうにして、みんなの力であの会館を造ったのです。 わたしが56歳の時で、生涯の思い出となっています。 2010 年 4 月 14 日


第 2 回 四つ角から五叉路へ~ 麻生神輿とよさこいソーラン 語り部 黒川弘基氏 プロフィール 麻琴会の初代頭を 3 年間。その後、副会長を 3 年。 麻生街づくり委員会では初代会長千葉さんの後を 受けて、会長などを歴任。 よさこいソーラン祭りに「あさぶフラックス」代 表として参加。

私は昭和19年4月20日に地元で生まれ、新琴似小・中学校を卒 業しました。今日は主に、昭和30年当時のことを話します。私が 小学5年生くらいです。 父、修策は昭和32年10月31で閉鎖になっ た帝国製麻琴似工場の最後の工場長でした。5丁 目を除いて麻生町のほとんどが工場の敷地で、そ の1番西側、今の3丁目に、工場長社宅があり、 そこに住んでました。玄関前のアカマツの木が、 今でも残っています。子どもの頃、登っては、親 によく怒られました。 現在は5叉路ですが、当時は西5丁目通りか らまっすぐ新琴似駅につながる道路はなかった。だから道銀の前に あったバス停は、四つ角(よつかど)という名称でした。 新琴似は当時、亜麻と大根の産地でした。大根をたくさんつるし た馬橇が行き交っていました。 亜麻の生茎は工場敷地 に運びこまれると、水につ けて(滲水)発酵させ、広 い干場(かんば)に並べて 天日乾燥させます。これを タービンで砕いて繊維だ けを抜き出して、糸を作る (製綿・製糸)。それを本 社工場(北7東1)に運ん で、織物にするわけです。


製綿の作業では、大量の亜麻クズがでます。これが貴重な資源で、 工場や共同浴場の燃料にした。社員は社宅に持ち帰ってストーブに くべていました。冬でも燃料費は無料でした。 毎日近所の仲間と遊びました。チャン バラ、ビー玉、くぎ刺し、パチンコ、三 角ベース。道具も自分たちでつくりまし た。竹の「ぼっこ」を刀にする。パッチ をくりぬいて鍔を作る。つば裏にクレヨ ンを塗ったり、ろうそくを垂らしたり、 自分だけの工夫をしました。そんなことがひどく自慢だったんです。 北区長だった加藤さんは、歳は私より随分下ですが、子どもの頃 よく遊んだ仲間です。後に、会合で何十年ぶりに会ったときに懐か しくて、思わず「とっち。ずいぶんえらくなったなぁ」なんて呼び かけてしまいしました。 うちの3軒北側 に、工場が設立した 麻琴(まこと)神社 があって、お祭りや 映画など工場関係 者の親睦の中心に なっていました。神社は、工場閉鎖の時に月形に移転。今でも南樺 戸神社の名称で残っているということです。 工場閉鎖後も関係者で親睦団体を作り、麻琴会と名づけました。 若い者で神輿を担いだりした。それはイナセなものでした。半被を 纏って毎日曜日の町内会清掃活動をした。そんなこんなで、平成4 年に「あさぶフラックス」として、町内会で第1回のYOSAKO Iソーランに参加することにもつながっていくのですが、それはま た次の機会に。 私が若い頃、元気の良かった時の話です。 2010 年 5 月 12 日


第3回 プロフィール

今は昔・札幌と麻生 語り部 大門隆司氏 昭和 14 年利尻町生まれ。 札幌向陵中学、西高校、成城大学卒業。 昭和 39 年から平成 11 年まで札幌市役所。 平成 16 年まで札幌市土地開発公社に勤務。

私は利尻島で生まれました。 曾祖父が明治 20 年に富山県から来て、 鰊の定置漁を営んでから4代目にあたります。曾祖父は網元として 朱塗りの御殿に住み、春の漁を終えると富山に帰っていたそうです。 大正 12 年に国から郵便局の開設を依頼されたことから、島に通年で 暮らすようになりました。 現在の家はその時に建てて、2 年後には百年目を迎えます。百坪ほ どの敷屋風のつくりで、材料はすべて富山から持込み、釘は一切使 っていません。私も毎年、夏には島で過ごしています。 父が札幌 2 中の卒業生でした。息子も西高へ行かせたいとの思い から、私は中学 3 年時に向陵中学に越境入学。その後、西高に進み ました。高3の頃から東京にあこがれ、勉強も身に入らず大学受験 に失敗。その後上京し、浪人生活を経て入ったのが成城大学でした。 キャンパスは高級感が漂い、雰囲 気が抜群で居心地がよい。社会勉 強をするには最適だったため、5 年かけて卒業しました。 札幌での就職を希望するも、求 人がま���たくない。やむを得ず札 幌市を受験し、幸いにも合格しま した。1年間の腰掛のつもりでし た。性格も生活態度も、まったく 公務員向きでないと自覚してい たからです。 結果として 35 年在職しました が、その理由は仕事に対する興味


からです。役所は総じて先例主義かつ非能率です。現状に満足しな い性格の私は、そこに改善・改革の余地があると思い、仕事に対す る面白さ、楽しさを見出しました。例えば職員採用試験を東京でも 実施し、優秀な人材を得ることが出来たのです。悔いの無い職業人 生を送ることができたと思います。 現在も住む北 39 西 7 に居を構えるにいたったのは、母がバスに酔 う体質だったから。母は、自分が住むために市電沿線の土地を買っ たわけです。当時の地名は新琴似で、あたり一帯が雑草と畑の田舎 でした。当時麻生緑地は墓地で、通りにはほとんど人影も無く、夜 は真っ暗で不気味でした。その後この地域に緑地が整備されます。 そして麻生総合センターが完成し、大いに発展するわけです。 札幌オリンピック が昭和 47 年。麻生の 発展は、この年、区制 によって北区が誕生 したことを契機とし ます。道路と下水道が 整備され、一気に都市 化が進みました。多く の人々がこの地に移 ってきました。さらに 昭和53年に地下鉄 の南北線が麻生まで延長されて、発展に拍車がかかったわけです。 2010 年 6 月 9 日


第4回

15 歳の特年兵 語り部

プロフィール

筒井

肇氏

昭和 4 年生まれ。 平成 13 年インペリアル麻生町内会会長。 麻生地区社会福祉協議会会長、麻生地区防犯協会 顧問等を歴任。 平成 21 年より札幌市北区麻生まちづくり協議会 会長、麻生連合町内会会長を歴任。

今日は今から 66 年前、私が 15 歳の頃の話をします。66 年前とい うと 1944 年。当時私たちが大東亜戦争と呼んでいた戦争が終わる前 の年です。その 2 年前に特年兵制度というのができました。14 歳か ら 16 歳の尐年を全国 から集めて、兵隊にし ようというのです。新 たに兵隊を作りたい、 でも当時の日本には、 もう子どもしか残っ ていなかったわけで す。 私が中学 2 年の時に軍需工場に行くか、 特年兵になるかを迫られ、 志願して特年兵になることを決意しました。母親も納得してくれた のです。翌年 4 月 5 日に横須賀竹山海兵団に入隊しました。札幌か ら汽車で丸 3 日かかりました。着いた日に、はじめてハンモックで 就寝したのです。 特年兵は 27 分隊に分かれ、私は 23 分隊に所属しました。分隊生 活は、朝は普通科の勉強、午後からは水泳、行軍、カッター(手漕ぎ のボート、日本語では「端艇(または短艇)」 )、銃剣術などの訓練です。毎日毎

日、繰り返されました。常に競争をさせられて、成績が悪いと食事 も取らせてもらえず、何回も同じ事をさせられるのです。背中が折 れるように痛くなるカッターの時間が私には一番の苦痛でした。 入隊して 10 ヶ月経った頃、突然鎌倉に行く命令がだされました。 各所の寺に皆が分散して宿泊しました。やらされた仕事は穴掘りで、


鎌倉の中心部から九十九里浜に向かって 3 交代で横穴を掘るのです。 16 人で8時間かけて1m 掘れという命令でした。鎌倉の地面は硬く 15 歳の私たちは死に物狂いで作業を続けました。私の肩には今でも その痕が残っています。 穴を掘り終わらないうちに、海兵団に呼び戻されました。戦争が 終わる年の 1 月のことです。戦争がいよいよ厳しくなったので、私 たちを実戦配備すると告げられました。 皆は別れ別れ になり、私たち 20 名は千葉県館 山海軍航空隊に 配属されました。 そこで毎夜のよ うに、木更津上空 を通り東京や川 崎を空襲するた めに向かうB29 を見て過ごしま した。東京方面の上空が真っ赤に燃えていたことが今でも記憶に残 っています。 その後、奈良県の大和海軍航空隊に転進。山と山の間の、上空から は見えない防空壕のような所で通信作業に従事しました。我々は次 に沖縄へ行くことが決まっていました。 1期前の特年兵は 3000 人中、2200 人が南方で戦死しています。 16 歳、17 歳のまだ子供でした。私たち 2 期も 1200 名が戦死をしま した。私も同じ運命をたどっていたかも知れないのです。 私たちは修学旅行を経験していない世代です。高校生、大学生と して勉強することが出来ませんでした。17 歳になれば、皆が志願兵 として戦地に赴きました。 本当に戦争ほどむごいものはありません。戦争は絶対にしてはな らない。周りの国の人たちと仲良くしましょう。 これが 15 歳で特年兵となり、今年で 81 歳になる私が、特に若い 皆さんに強く訴えたいことです。

2010 年 7 月 28 日


第5回

麻生に届いた 司馬遼太郎の手紙 語り部 好川 之範氏

プロフィール 1946 年札幌市生まれ。歴史作家。麻生地区在住。 祖父、父が帝国製麻会社に勤務。 道新文化センター講師。 著書に「坂本龍馬―志は北にあり」(北海道新聞 社刊)はじめ、歴史物多数。

40代のころ、司馬遼太郎 さんに著作を送ったところ、 思いがけなく私の処に御礼 のハガキが届きました。司馬 さんが書いた「麻生」という 二文字が、ふんわりとして、 それは味わいのある、良い感 じなんですねぇ。 誰もが認める司馬さんの 代表作のひとつが「竜馬がゆ く」です。龍馬と言えば皆さ んは何を思い浮かべるでし ょうか。今日は龍馬とわが北 海道との関係をお話したい と思います。 龍馬は長崎で日本初の商 社、亀山社中を設立し、交易で世界に伍していこうという志を有し ていました。 でも彼の念頭にはもう一つ、蝦夷地開拓があったのです。残され た記録には、蝦夷地に渡ろうという計画が具体的なもので4回確認 できる。妻のお龍さんの聞き書きにも「本気で蝦夷地に渡ろうと考 えていた」との発言がある。 また龍馬の次の世代に当たる土佐、坂本家の多くが蝦夷地に渡り ました。その代表的人物が坂本直寛でした。直寛は龍馬のおいです。


植木枝盛などと一緒に自由民権家として活動しましたが保安条例違 反で投獄されます。獄中で自由な新天地の開拓を決意しました。叔 父さんの影響があったのかもしれません。 出獄後、直寛は蝦夷地開拓のためのキリスト教を基盤とした合資 会社北光社を組織します。土佐の同志を率いて北見での農場経営を 企画しました。これが明治30年。翌年に浦臼に移ります。別の農 場がありました。この地で水害被害者の救済に尽力するなど社会活 動に携わります。 その後、札幌北辰教会(北1条教会)でキリスト教の伝道師にな り全道で布教活動をします。 十勝監獄の受刑者にキリストの教えを説きました。ひとはそんな 直寛のことを「龍馬の再来だ」といいました。平成 23 年は没後百周 年にあたります。 「ちょっこうさん」と呼ばれて親し まれた山岳画家、坂本直行は、直寛の 孫です。直行の父、弥太郎は釧路で坂 本商会を設立。直行は釧路で生まれ、その後札幌へ。北大農学部に 進学し、山岳部に所属しました。卒業後は十勝・広尾町へ入植しま す。7人の子供をもうけ、牧場の経営をしながら北海道の自然をモ チーフとした風景画や植物画を描き始めます。 そう、帯広、六花亭の包装紙に描かれているあれですね。戦後は 農民運動に従事。50歳を過ぎて画業一本に絞りました。北海道の 山と原野を心から愛した「ちょっこうさん」は郷士、坂本家の8代 目当主にあたります。 このように坂本龍馬の「世界雄飛の志」や「開拓精神」はその子 孫たちを通して札幌、浦臼、旭川、北見、広尾など全道のいたると ころに根付いているわけです。 2010 年 8 月 11 日


第6回

民生委員活動について 語り部 佐藤 克彦氏

プロフィール

昭和 10 年河東郡音更町生まれ。北大法学部卒業 後、北洋銀行。 平成 10 年から 22 年 11 月まで民生・児童委員。 麻生地区民児協会長。

皆さんは民生委員についてご 存知でしょうか。民生委員法で、 300世帯あたり1人の割合で 地方自治体に置くことが義務付 けられています。その役割は、 65歳以上の高齢者や児童の福 祉と人権を守る為に様々な活動 を行い、相談を受けること。問 題解決や予防にむけて地域の方、 専門家と連携しながら日々取り 組んでいます。職務は相当ハー ドですが、無給ボランティアで す。30歳以上であれば就任資 格がありますが、若い方のなり 手は尐なく、70代の方が多勢います。 任期は3年です。私は12年努めて、平成 22 年 11 月に75才で 引退します。12 月 1 日には全国一斉で新たな民生委員・児童委員が 委嘱される予定です。札幌市の麻生地区では民生委員 34 名、主任児 童委員 2 名です。 民生委員は、常に住民の立場にたって相談に応じ、支援、助言を 行うボランティアです。児童委員は、児童、妊産婦、母子家庭など 子供に関わる事項を職務として、民生委員が兼職します。特別職の 公務員ですから厚生労働大臣の委嘱で就任します。住民が抱える問


題に対して適当な制度、施設やサービスを考えて、利用していただ き、問題の解決に努めています。 私たちは、市からの 調査票を下に、まず高 齢者や障害者、低所得 者 な ど 福 祉 の 問題 を 抱 え る 地 域 住 民の 生 活 実 態 や 現 在 の暮 ら し ぶ り を 把 握 しな け ればなりません。個人 情報保護法の影響で、 情 報 把 握 の 為 には 地 域住民の協力と地道な努力が必要となります。 現在は、65歳以上で1人暮らしのお宅を訪問して日常生活の変 化を確認するとともに、話し相手になる「1人暮らしの高齢者等巡 回相談事業」に重点的に取り組んでいます。 また北区保健福祉部に対して公的な解決を要請するなど、関係行 政機関と地域住民を繋げるパイプ役を担っています。町内会と民児 協との情報交換と連携は災害が起きた場合などには特に大切になり ますので、日ごろから連絡を密にしております。 全国的に「無縁社会」の進行に伴い高齢者や子供には様々な問題 が生じています。民生委員は、1 人暮らしの高齢者、母子家庭、不登 校や引きこもりの若者の抱える問題に対して尐しでも解決に向けて お役に立ちたいと日々活動しています。その際には個人の秘密を守 り、特定の人を優先的に取り扱うことなく、公正な職務を心がけま す。向上心を忘れず、各種の研修を受けて常に研鑽を行っています。 困ったことがありましたなら、安心して相談してください。 2010 年 9 月 22 日


第7回 プロフィール

自治振興のエピソード 語り部 多田 洋子氏 昭和 12 年札幌郡篠路村にて出生。 昭和 39 年麻生自動車工業設立。 昭和 60 年札幌市長より、青尐年健全育成に貢献、 功労表彰。 平成 16 年北海道知事より、 青尐年健全育成に貢献、 北海道社会貢献賞。 平成 19 年札幌市長より、札幌市自治振興功労者表彰。

昭和 38 年に北 15 条東 16 丁目より現在の麻生 8 丁目に移り、39 年 から麻生自動車工業を開業しました。当時は雑草が生い茂り、石狩 街道の砂利道を走行する車両の砂煙で困惑しました。実家より鶏を 3羽もらって飼い、鶏は 1 日 2 個ずつ卵を生み子供たちが楽しみに していました。 私の所の北町内会は、水 位が高く、路面が非常に軟 らかかったので役員会で相 談し、帝国製麻会社の解体 したレンガを頂いてきて、 道路に敷き詰めましたが、 自動車が通行したとたんレ ンガは土の中に埋まってし まい、ほとんど効果はなく 苦笑したことも、懐かしい 思い出です。 北町内会でも子供会を作るということになり、私は子供会にかか わることになりました。 一番下の子供をまだ背負っていた頃です。当時はまだ町内に子供 が多く、運動会も出来る状態でした。麻生球場は以前、拓銀の野球 場で休息場も併設されていました。そこをお借りして、いろいろ催 しを行い、そのあと親睦会で楽しみました。 昭和 57 年、子供会に携わる傍ら、青尐年育成委員になり、札幌会 館の送迎バスをお借りして滝野に炊事遠足を行いました。買い出し


や鍋、釜については町内や父兄の皆さんが自発的に協力してくれま した。活動はお泊まり会やサッカー大会に広がっていきました。 子供と大人が集まって、ガヤガヤと何をしても楽しい時代で、車 の走行も尐なく、屋外でいつも子供が遊んでいるような感じでした。 今と比べると本当に隔世の感がします。 昭和 61 年より良きお友達に恵まれて婦人部活動を推進させて頂き ました。 平成 19 年思いがけなく、札幌市自治振興功労者として表彰を受け 恐縮しております。私がこのような賞をいただくことができたのも たくさんの良き仲間に恵まれたからです。お世話になった方々に改 めて感謝いたしております。 2010 年 10 月 13 日


第8回

プロフィール

きもの処島屋― 草創記の麻生 語り部 島崎 一枝氏 大正6年生まれ。 昭和 22 年に着物の店「島や」を狸小路8丁目で夫・ 猛夫氏と共に経営。北37条西3丁目に住まい、 昭和58年から創成西町内会婦人部長に就任。

人生は自分が主役、美しく生きよう! 好きな言葉は、 「誠実と信用は、無形の財産」 。

創成西町内会の区域は北36・37条の西2~4丁目です。昭和5 6年に北連町から独立しました。このあたりは戦後、急速に発展し た地域で市街地の調整もなく、地主の考えで道路をつくり分割した ために、碁盤の目になっていないところや、道幅が狭い箇所もあり ます。雪が降ると路がすぐグチャグチャになり、歩くのに大変苦労 致しました。 私は夫と共に、北37条西 3丁目に越してきました。 夫は町内会設立と同時に副 会長に就きました。そのこ ろ同じ町内会員であっても、 隣近所しか面識もなく、ま るで都会の砂漠のようで、 す���違っても挨拶の交わし ようもないことを残念に感 じていました。 そこで私が中心となり、 家庭に閉じこもらず視野の広い生き方をする為の場、互いに喜びや 悲しみを分かち合う場として婦人会の設立を提案したのです。幸い にもこの呼びかけに多くの主婦たちが賛同してくださり、昭和58 年1月に60人を集めて創成西婦人会が誕生しました。 会員たちは町内に不幸があれば駆けつけて手伝いをします。役員 が会員に働きかけて重度身障者へのボランティア、町内花壇の整備、 寄付活動など多彩な活動をします。会費を徴収せず、月1回の廃品 回収と一般寄付で費用をまかないました。何かが起これば、みんな


が集まり、段取りよくさっと片付ける。そんなフットワークの良さ が自慢です。 婦人会の呼びかけで4月から町内一斉清掃を始めたところ、主婦 はもとよりご主人・子供や、町内老人クラブ英寿会の皆さんがホーキ とスコップを手に総勢130人が参加。皆で創成川周辺から西5丁 目自動車学校付近までを清掃いたしました。この時は、町内会の潜 在的能力と住民の公共への関心の高さを誇らしく思いました。 活動が認められ、わが婦人会は昭和63年10月に札幌市市民憲 章実践モデル団体に指定されたことは望外の喜びです。 最後に、婦人会設立の時に私 が挨拶として述べた言葉を引 用させていただきます。 「新しい時代に向かって生 活している私たち婦人は、家庭 人としても社会人としても大 きな役割をもっております。こ れを果たす為にも教養を高め、 視野を広め、能力を養うことが 大切です。そのためには拠りど ころ(婦人会)が必要であり、 それを自らの手で生み出すこ とに意義があるのです。まさに、やってやれないことはない。やら ずにできるわけがない、のです」 2010 年 11 月 10 日


第9回

麻生西町内会と商店街 語り部 田中 巌氏

プロフィール

昭和19年生まれ。 昭和47年から10年間、麻生町5丁目で洋品店を 経営。 昭和52年から麻生商店街の役員を8年。 その後、現在まで町内会役員を歴任。

私は学校を出て金市館に勤めました。全道各地の支店に勤務して、 30歳前に麻生洋品を開業しました。学校に行く子供のために落ち 着きたかったからです。 麻生5丁目の町内会の名称は麻生西町内会。私は町内会長につい て今年で13年目になります。南北は琴似栄町通、東西は四番通に 面し、ちょうど野球場のような形です。覚王寺がホームべースとす ると、道銀がライト、ジップがレフト方向になります。かえって解 かりにくいですか。 ここが商店街として発展 したのは、まず昭和38年 に市電が麻生まで延びてか ら。ジップの前に停車場が ありました。昭和39年に 道銀麻生出張所ができる。 木造で3階建てでした。 最初は空き地と畑ばかり で、電車が走っていた駅前西4丁目の岡橋。あの上に立って、北の ほうを見下ろすと、遥かに麻生の道銀が見えたんです。その後、尐 しずつ店舗がそろってきました。 道銀から北のほうへ美容室・ビューテイ大井、中川時計店、正札 堂洋品店、みとき食堂、中能金物店。今の北欧のところに麻生湯が あって、中通りを挟んで私の店。その向こうによろい寿司。ここの 主人は伊達藩士の末裔だと聞きました。停車場前がパワーボウル。 ブームの頃には、まだ若かったおふくろが回数券を買って通ったも のです。


西のほうは喫茶スウイング、永倉さんのミサワ洋電。麻生富貴堂は、 暖簾分けされた本屋です。金市館の系列の暮らしのデパートがあり、 その向こうに原田歯科がありました。 そんな商店街も、一歩仲通に入れば畑や空き地が多い。私は高校 に通うようになるまで、休みの日は畑仕事をしていたものです。仲 通で思い出すのは、昭和52年の頃だったか。車の通行を遮断して 催した町内会の大運動会です。その頃は、町内にまだ子供がたくさ んいて大成功に終わりました。でも一回きりで中止のやむなきにい たります。というのは、新聞に載ったおかげで警察の知るところと なったからでした。 その後も毎年秋には、 レクリエーションとし て、バスで盤渓に出かけ、 ソフトボールで汗を流 した後、ジンギスカンパ ーティーをするのが定 番でした。30人くらい の子供が参加していま した。 麻生商店街振興組合の活動で思い出すのは近代化計画です。昭和 52年にダイエーが進出。反対だけでダメだということで、商店街 の今後を模索したものでした。アーケード化、空き地にショッピン グビルを建てるなど十数回にわたり勉強会を開き、実施五ヵ年計画 書に纏め上げました。でも地権者への説得を始める前に下火になっ てしまう。きっと個人商店の力自体が 弱まってきていたのでしょう。私たち 振興組合の会員が見た夢でしたが、文 字通り夢に終わったのです。 2010 年 12 月 15 日


たきぎのう

第 10 回

薪 能の話 語り部

プロフィール

照井

武氏

昭和6年函館に生まれ。 昭和 34 年より麻生町在住。 高校教員、大学講師の傍ら、能楽研究・観世流能楽 師永島忠俊氏の弟子として舞台に立つ。能学会の事 業として「幽玄 1~3」の執筆編集に携わる。平成 5 年に市民芸術祭大賞を受賞。

父の勤めていた会社の支店を転々としていた太平洋戦争終戦の、 昭和 20 年に韓国の釜山中学に在学していました。その時知り合った 韓国の友人から「日本の能はどんなものか」と聞かれ答えられませんでした。 戦後旧制函館中学(現在の中部高校)に転入したのですが、先輩に 大阪の能楽師大槻十三師に従事した方がおり、その先生に謡曲の稽 古をしました。東京から見えていた小鼓の先生樫本孔英師にも指導 を受けました。 昭和 34 年に麻生団地に越してきて 52 年目。ずっと麻生で暮らし ています。昭和 34 年に札幌能楽会を設立して、教師をする傍ら、能 や歌舞伎の普及や演出・企画・運営に携わってきました。 平成 5 年のことです。私が麻生の住人だということからか、麻生商 店会の会長、永倉さんから商店会設立記念事業の話をいただきます。 麻生で能を行うなら、麻生球場。球場でやるなら薪能(たきぎのう)、 をということで話がきまりました。全国で初の 球場での薪能です。 当日は風の強い日でした。にもかかわらず麻 生球場は満員御礼で、1800 人もの人が集まって いただきました。演目は「土蜘蛛」と「羽衣」 。 土蜘蛛には、夜更けに病気で臥せていた源頼光 の部屋に法師が現れる。法師、実は蜘蛛の化け 物(シテ)で、千筋(ちすじ)の糸を繰り出し て頼光をがんじがらめにするという場面があり ます。公演では、和紙で作った「蜘蛛の糸」が 強い風に乗って綺麗に舞いました。その見事さは、いまでも語り草 になっています。


羽衣は羽衣説話を基にしています。 能では、漁夫に、松にかけてあった 羽衣をもち去られようとして悲しむ 天女(シテ)を見て、舞を踊ること を条件に、漁夫(ワキ)はすぐに羽 衣を返します。穏やかな春の海、遠 く富士を望む白砂青松の三保の松原、 美しい天女の舞、軽快な謡とそれに 乗った舞は、祝祭的雰囲気を盛り上 げます。沢山の市民に大変喜んで頂 きました。当日までの準備は本当に 大変でしたが、私どもそして商店街 の方々の苦労が報われたわけです。 私は今年で 80 歳になります。教育者として 50 年関わってきまし た。これからは能の普及の為に、若者や初心者の為の公演や教室を 通して、後進の育成に努めて行きたいと思っております。 2011 年 1 月 19 日


第 11 回 プロフィール

新琴似歌舞伎について 語り部 宮崎 義晴氏 昭和 14 年生まれ。 学校法人宮崎学園琴星幼稚園園長。 平成5年から新琴似歌舞伎伝承会事務局長を務 める。

伝承会は 80 年以上途絶えていた新琴似歌舞伎を復活させました。 平成 8 年 3 月のことです。演目は「浜松屋」と「白波五人男」。皆素 人で、サラリーマン、教師、公務員、牧師、町内会役員など様々な 人が集まり、北区長や連絡所長も出演。昼夜 2 回公演でサンプラザ ホールが満員になりました。

新琴似歌舞伎の発祥は鳥取出身・田中松次郎にさかのぼります。 芝居好きの田中は農閑期に近所の若者を募り、明治 30 年頃に新琴似 神社の境内で歌舞伎芝居を始めます。全盛期には団員が 60 余名とな り、ついには私財を投じて常設小屋・若松館を設置。新琴似 7 条1 丁目のあたりです。入場料はとらず、投げ銭だけで運営したといいま す。そんな松次郎の情熱も映画に勝てず、大正の初めに新琴似歌舞 伎は終幕を迎えます。狸小路では有楽館が営業していました。 80 年を経て、平成 5 年に新琴似プラザが完成した頃のこと。北区 まちづくり構想のなかで、地域挙げての歌舞伎復活の話が浮上。地


域有志で新琴似歌舞伎伝承会を立ち上げることになりました。とい っても素人の集まり。地元に住む能の照井先生から、歌舞伎に精通 する書家、島田無響先生を紹介してもらい、その指導を受けて、3 年がかりで準備を進めました。本当に一歩ずつの気の遠くなるよう な作業でした。そしてみんなの努力で復活公演を迎えることが出来 たのです。 その後公演は 10 回を数えます。同時に新琴似中学生と地域住民対 象の歌舞伎の講座を始めました。若者への歌舞伎の伝承も重要だと 考えたからです。当初は座学だけでしたが、生徒の興味をつなぎと めるために、次第に生徒に化粧をさせカツラをかぶせることになり、 最後には実際に演じさせてみようということになりました。 「白波五人男」を演じるのに生徒が4人しか集まらないというこ ともありました。帯の締め方や下駄での歩き方が解からない。そも そも正座ができない。最初はどうなるかと思いましたが、中学生の 成長は目を見張るものでした。今では、伝承会公演の重要な役どこ ろを占めています。昨年の演目は「仮名手本忠臣蔵」11 段目「大星 の決意」でしたが、大星由良助、大野九郎兵衛など主要な役どころ を中学生が演じています。 そんな伝承会にも問題が山積しています。最初はみなの熱意で公 演にいたりましたが、それを続けていくのは大変なことです。また 1公演を催すのに舞台、衣装、会場費などで 100 万円単位のお金が 必要になります。若い出演者は育ったと思ったら、すぐに巣立って いきます。公演を継続していくことは並大抵のことではありません。 しかし私たちは地域で歌舞伎を 演じ、次世代を育成していくことを 意義あるものと信じて、これからも 活動を続けていきます。札幌市とり わけ北区の皆さんには、様々な形で のご支援をお願いいたします。 2011 年 2 月 9 日


第 12 回 プロフィール

藍染めのはなし 語り部 石毛

たかし

巍氏

昭和3年生まれ。札幌市役所。昭和 60 年から 篠路コミュニテイセンター初代館長として天然 藍の研究・普及・指導に努める。平成6年から 篠路天然藍染振興会初代会長

藍染めは独特の色 彩を持ち、日本では奈 良時代の昔から庶民 の間で親しまれてき ました。阿波(徳島) 地方で行われるもの が最も有名です。札幌 市の藍の栽培は、明治 15 年に徳島の百姓、滝 本五郎が篠路に入地 したことに始まりま す。開墾は困難を極めました。慣れぬ土地、木々や笹の根が密生し ていました。大豆・大根・ソバ等色々な作物と共に、滝本は藍も植 かんばつ

えてみました。高い商品性があったからです。旱魃、バッタの襲来 にも負けず、品質の良い藍がたくさん出来ました。 藍の葉を染料にするには、乾燥させてから水をかけ3カ月間くら つ

い室の中で発酵させて蒅(すくも)を作り、さらに搗き固めて藍玉 をつくる必要があります。当初は葉を徳島に送っていましたが、そ の後徳島県は地元産業の育成のため葉藍の他県からの買い入れを禁 じました。寒冷地篠路で藍玉を作ることが出来るかという問題に直 すくも

面した滝本は、自力で 蒅 製造方法の改良を進めるとともに、広く資 本を集めるため篠路興産社株式会社を設立します。滝本の努力によ って、興産社の藍玉は、明治 23 年内国勧業博覧会で一等有功賞に輝 くまでにいたります。 そんな篠路の藍も滝本の死によって衰退します。それから 85 年、 藍染めは篠路で蘇りました。藍を通じて郷土愛を育てていこうとい


う住民の要望に応えて、新設の篠路コミュニテイセンターに藍染室・ 展示室が設置されました。私はたまたま、センターの館長に赴任し たことをきっかけに藍の研究・普及にのめりこんでいきます。天然 藍染めの復活を試みましたが、教えてくれる人もなく、自分なりの 工夫を重ねました。期せずして滝本五郎と同じ道をたどったのです。 センターの裏に畑をつくり、藍を栽培してみたりもしました。 センターでは毎年、 藍染め講習会の講座 を設け、受講後、受講 生たちは次々とサー クルを結成してゆき ました。一層の藍染め 文化普及を目指すた めにはサークルの糾 合をはかることが必 要との認識から、私が 音頭を取って百人ほ どの会員を擁する篠路天然藍染振興会の結成にいたりました。平成 6 年のことです。 私はもう 83 歳です。数年前に大病も経験しました。地域に根付く 伝統文化である藍染めを後世に脈々と伝えて行きたいと念じて活動 してきました。現在、25 年に及ぶ私の藍染め研究の成果を一冊の本 にまとめようと、1 年 3 ヶ月をかけてようやく完成が見えてきたとこ ろです。 そんな私が敢えて言いたいことが1つあります。男性にもっと藍 染に興味を持って頂きたい。 「染め」の面に惹かれてか、会員は女性 が大多数です。しかし「天然」藍染では 30 キロの葉藍を運ぶ、120 リットルのお湯を入れるなど男性の根気強さと力がぜひとも必要な のです。一層の皆さんの協力と参加をお待ちします。 2011 年 3 月 9 日


あとがき・・・ シニアサロンさくらんぼは、平成18年から NPO 法人ナルク札幌 さくらんぼが運営しており、今年 5 周年を迎えます。 サロン開設当初、 「私たちの若いころはね…」などという話に花を 咲かせていましたが、その中で、麻生の昔の生活や町の様子に興味 を持つようになりました。 ここはひとつ、麻生にかかわる方々を講師に、様々なテーマでお 話を伺おうではないかと始めたのが、昔語り「麻生今昔物語」です。 ここに登場していただきました12人の方々を、私たちは「語り 部」と紹介させていただきました。皆さんのお話は、ただ過去を伝え るだけではない、ここ麻生にかかわりながら、それぞれの人生を一 生懸命に過ごしてきた、麻生という地域に対して様々な思いをお持 ちであることから、そう、呼ばせて頂きました。 「語り部」の皆さんのお話を聞き、知らなかったことを知り、忘 れていたことを思い出したりするなかで、私たちはこれから、地元 への愛着心をさらに様々な形で広げていけるのではないかと思いま す。 私たちが作ったこの「麻生今昔物語」は、麻生のほんの一部を描 いているにすぎませんが、 「語り部」の皆さんのお話は、どれも生き 生きとしたエピソードにあふれ、明るく力強いメッセージです。 この「麻生今昔物語」は、きっと、これからの麻生の町おこしの 力になるものと思い、ここに小冊子としてまとめることにしました。 快く「語り部」をお引き受けくださった皆さん、貴重な資料をお 貸しいただいた皆さん、一緒にお話を聞いてくださった皆さんに、 心よりお礼を申し上げます。

東北地方太平洋沖地震の被災者の皆さまへ 平成 23 年 3 月 11 日(金)、この冊子を作成中に、 未曽有の大震災が日本列島を襲いました。 被害にあわれた方々へ、心よりお悔やみを申し上げる とともに、一刻も早い復興がなされることをお祈りします。


編集後記―――

「麻生今昔物語」の担当責任者として、企画編集の一連の作 業がやっと終わりました。講師の依頼、当日の取り仕切り、録音テ ープおこし、パソコン打ちと慣れない仕事に無我夢中で走り続けて きました。このささやかな冊子には、麻生に暮らした、そして現在 暮らしている住人の声と事跡を幾分かは込めることができたかな、 と思っています。一年間、この仕事にずっと追いかけられてきたよ うな感じがいたしましたが、他方で、この作業過程を楽しみもしま した。やっとここまできて、肩の荷が降ろせました。 最後に協力してくれた仲間、壽田・奈良両氏に感謝いたします。 (河上道子)

60 年近く旧石狩街道沿いで暮らしています。今では東区です が、今でも鉄北地区の住人だと自覚しています。子供の頃、北 23 条 西 4 にあった映画館オリオン座によく行ったものです。そんな私に とって麻生は遠い場所だと感じていました。思いがけずに「麻生今 昔」の編集に携わることになり、先人の血と汗と涙の物語に接する ことが出来ました。札幌が開けてわずか 130 年。よく文化も伝統も ない地だといわれます。でも麻生には、麻にまつわる物語が、そし て能や歌舞伎の伝統があるのです。素人ゆえ、編集作業は思いのほ か大変でした。この小冊子によって、多くの方が「麻生の今昔」を 知り、この街に興味を持つ「きっかけ」としていただけたなら、と てもうれしいです。 (壽田建)

昔語り「麻生今昔物語」は、昨年 4 月より開始された連続講座 であり、総勢 12 名の方々に「語り部」としてお話をしていただき、こ れを記録した。正直、麻生とは関係の薄い内容の話かと思えること もあったが、実は、これらのエピソードは、すべてここ、あさぶを 基盤として構築された、皆さんの人生の一部であることがお分かり かと思う。現在の麻生の賑わいからすると想像も出来ない過酷な開 拓・開発の時期を経て次第に発展する地域社会を土台としながら 人々が人生を構築していった、その基盤は、麻生にあったのかと思 わせられる。軟弱な地盤の上にかくも大きな発展を遂げた麻生には、 先達の幾重にも張り巡らされた、太く柔軟な根がしっかりと地固め をし、かつ複雑に絡み合っていたのか、と気づかされる。 「語り部」の皆さんの人生に焦点を当てたこの「麻生今昔物語」は、記 録というより、「記憶」というほうがふさわしい。 (奈良正彦)


平成 18 年度札幌市シニアサロンモデル事業指定 平成 21 年度札幌市シニアサロン地域貢献支援事業指定

〒 001-0045 札幌市北区麻生町 5 丁目 2-35 コーポラスひかり 106 号 T/F 011-758-1103 HP http://www2.ocn.ne.jp/~sssakura/ E-Mail ss.sakuranbo@view.ocn.ne.jp (交通機関)地下鉄南北線麻生駅 2~3 番出口から徒歩 1 分

*落丁・乱丁 ご容赦くださいますようお願いいたします。


麻生今昔物語