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水戸藩の尊攘運動についての一考察 桜田門外の変から坂下門外の変に至る動向を中心に 2013年8月 9 日 第1版第1刷発行

工 藤 宏 昭

著  者  

工 藤 宏 昭

発 行 者  

〒480−0133 愛知県丹羽郡大口町替地2丁目199番地 電話0587−95−6861 FAX0587−95−6861 ©工藤宏昭 2002

印刷・製本/自宅


水戸藩の尊攘運動についての一考察


『水戸市史』中巻四 水戸市役所 一九八二)及び(『幕末維新全殉難者名鑑』幕末編 新人物往来社 一九八六)をもとに作成  表一(

 表三 同右

『水戸市史』中巻五 水戸市役所 一九九〇)及び(『幕末維新全殉難者名鑑』幕末編 新人物往来社 一九八六)をもとに作成  表二(

(3) (2) (1)


坂 下 門 外 の 変 関 係 者 一 覧(3) 氏  名

贈位

年齢

役  職

墓 所

備 考

平山  兵介  繁義

従五位

23

新番組兵蔵繁纓の子

回向院、 酒門共有墓地

変名 細谷忠斎

黒澤  五郎  保高

従五位

30

多賀郡河原町(日立市) 回向院、 日立市河原町 郷医緩平の子

小田  彦三郎  朝儀

従五位

30

書院番組源太左衛門 朝久の子

高畠  房次郎  胤正

従五位

35

久慈郡小島村 (金砂郷村) 組頭

河野  顕三  通桓

従五位

25

下野河内郡本吉田村 回向院、 変名 三島三郎 (栃木県南河内町)医者 栃木県南河内町

川本  社太郎  惟一

従五位

越後魚沼郡十日町 回向院、 23 (新潟県十日町市)医者 変名 豊原邦之助 新潟県十日町市 柳玄の子

川辺 佐次衛門 元善

従五位

31

小普請組

変名 吉野政介 東禅寺事件に参加

回向院、 常盤共有墓地

変名 朝田儀助

回向院、 金砂郷村小島

変名 相田千之充 東禅寺事件関係者

回向院、 常盤共有墓地

変名 内田万之介 長州藩邸で自刃


東 禅 寺 事 件 関 係 者 一 覧(2) 氏  名

贈位

年齢 (没年)

役 職

墓 所

常盤共有墓地

有賀  半弥  重信

正五位

23

大番組喜衛門 重将の子

古川 主馬之助 忠興

正五位

23

久慈郡中染村 (水府村)田楽 師盛吉の子

回向院 水府村中染

小掘  寅吉  秀富

正五位

19

下野芳賀郡高岡村 (栃木県茂木町)農

茨城県立歴史館

榊  鉞三郎  享徳

正五位

23

矢師忠兵衛 経滋の子

回向院、祗園寺

岡見  留次郎  経成

従五位

大番組甚兵衛 (元治元年) 経知の子 23

石井  金四郎  信敏

正五位

31

中村  貞介  繁広

正五位

29

那珂郡小船村 (緒川村)農

緒川村小船

山崎  信之助  信義

正五位

20

久慈郡馬場村 (常陸太田市) 」農

常陸太田市 馬場町

郡方手代

京都市 回向院、江林寺

不明(文久三年) 吟味役準之介の子

木村  幸之助

佐原騒動で死亡

前木 新八郎  正美

正五位

38

書院番組 市左衛門正節の子

常盤共有墓地

森  半蔵 長昌

正五位

36

使番与左衛門 直元の子

常盤共有墓地

黒澤 五郎  保高

従五位

多賀郡河原下村 30 (文久二年) (日立市)郷医 緩平の子

回向院 日立市川原子町

行方郡若海村 (玉造町)修験

渡辺 剛蔵

玉造勢に参加

矢澤 金之助

(安 金之介)

高畠 房次郎  胤正

従五位

35

久慈郡小島村 (金砂郷村)組頭

千葉 昌平  有国

正五位

30

甲冑師義観の子

池田 為吉  忠厚

正五位

24 (文久二年) 町方同心

中村 乙次郎

正五位

34

小池 庄兵衛

備 考

下野宇都宮(栃木県 宇都宮市)商

回向院 金砂郷村小島

襲撃には不参加

回向院

襲撃には不参加

宝蔵寺

襲撃には不参加 襲撃には不参加 襲撃には不参加


桜 田 門 外 の 変 関 係 者 一 覧(1) 氏  名

贈位

金子  孫二郎  教孝

正四位

58(文久元年) 郡奉行

高橋  多一郎  愛諸

正四位

47

奥右筆頭取

常盤共有墓地

高橋 荘左衛門 諸徳

従四位

19

床机廻

常盤共有墓地

関 鉄之介 遠

従四位

39(文久二年) 郡方勤

常盤共有墓地、回向院

斎藤 監物 一徳

従四位

39

瓜連静神社長官

瓜連町静、回向院

岡部  三十郎  忠吉

正五位

44(文久元年)

書院番組五郎衛門 忠義二子

光台寺、回向院

杉山  弥一郎  当人

正五位

39(文久元年) 鉄砲師

常盤共有墓地、回向院

黒澤  忠三郎  勝算

正五位

32

大番組

常盤共有墓地、回向院

山口 辰之介 正

正五位

29

公子抱傳頼母 常盤共有墓地、回向院 徳正四子

蓮田  市五郎  正実

正五位

29(文久元年) 寺社方手代

常盤共有墓地、回向院

大関  和七郎  増美

正五位

26(文久元年) 大番組

常盤共有墓地、回向院

森山  繁之介  政徳

正五位

26(文久元年) 矢倉方手代

祗園寺、回向院

森 五六郎 直長

正五位

24(文久元年)

使番與左衛門 常盤共有墓地、回向院 直元五子

佐野  竹之介  光明

正五位

22

小姓

常盤共有墓地、回向院

広岡 子之次郎 則順

正五位

21

小普請組

酒門共有墓地、回向院

鯉淵 要人 鈴陳

正五位

51

上古内諏訪 神社神官

常北町上古内、回向院

稲田 重蔵 正辰

正五位

47

郡方元締

神崎寺、回向院

広木  松之介  有良

正五位

25(文久二年) 評定所物書雇 妙雲寺

海後 磋磯之介 宗親

従六位

78(明治三六年)

本米崎 常盤共有墓地 三島神社神官

60(明治一四年)

小納戸役三郎 常北町石塚 大夫武和弟

増子 金八 誠

年齢(没年)

役 職

墓 所

備 考

常盤共有墓地、回向院

有村 次左衛門  兼清

正五位

23

薩摩藩士雄介弟

東京青山墓地、回向院

有村 雄助 兼武

従四位

28

薩摩藩士

東京青山墓地、南林寺

高橋多一郎長男

大関和七郎兄

黒澤忠三郎弟

黒澤忠三郎、 大関和七郎甥

有村次左衛門兄


附  録


結びにかえて

81

対立はこの後もはや収集がつかなくなり、激派は更なる過激な行動に出て元治元年(一八六四)三月の藤田小四郎

(東湖の四男)等による筑波挙兵(天狗党の乱)によって頂点に達した。しかし、結局この天狗党も敗北し、慶応元

年(一八六六)二月藤田等主だった三百五十二人は斬罪に処せられた。この後慶応二年(一八六六)頃になると血で

血を洗う抗争が繰り返され、藩勢は著しく弱体した。こうした一連の熾烈な対立抗争によって薩長の活発な動きとは

対照的にこれに遅れをとることになったのである。そしてついに明治に入ってからもこの遅れを取り戻すことが出来 なかったのは、このような抗争の結果多くの有為な人材を失ったためである。 註

 『水戸藩史料』下編 一三九頁 吉川弘文館 一九七〇復刻 『水戸藩史料』上編坤 八一七頁 吉川弘文館 一九七〇復刻         「東禅寺一件 二」所収「疑問ノ答書」 ( 『続通信全覧』類輯之部三三 六七九頁 雄松堂出版 一九八七)            『水戸藩史料』下編 一五六頁 吉川弘文館 一九七〇復刻

(4) (3) (2) (1)


80 水戸藩の尊攘運動についての一考察

大原重徳に随従して京都を発して関東に下った。そして六月十日、大原勅使は江戸城において幕政改革を命ずる朝旨

を将軍家茂に伝達した。このようなことは前代未聞のことであり、まさに朝廷権力の伸張と雄藩の台頭を示した出来

事だったのである。そしてこの結果として一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永が政事総裁職に任命され、八月七日、こ

の両者は老中等と連署して久世広周 安 ・ 藤信正両老中の失政を朝廷に陳謝した。このため十六日両老中は隠居 急 ・度

慎に処せられ、ついで十一月二十日には追罰されて永蟄居を命ぜられた。一方また幕府は朝旨を奉じて、同月二十八

日安政の大獄で処せられた者の墓石建立を許し、刑に服する者を釈放したが、この措置は桜田門外の変 東 ・ 禅寺事件 坂 ・ 下門外の変関係者にまで及ぼしていったのである。

 このように文久二年に入ると時勢は一変して、朝廷権力の伸張と雄藩の台頭が目覚しくなる。そしてこの契機とな

ったのが坂下門外の変なのである。しかしその原因を坂下門外の変だけに求めることは出来ない。桜田門外の変 東 ・

禅寺事件 坂 ・ 下門外の変を通して、徐々に幕府の権威と権力が失われていった結果として、このような事態に陥った

のである。そしてこのような幕府の権威と権力の失墜は、同時に御三家の権威と権力の失墜につながり、それは政治

上における水戸藩の指導力の低下を意味していた。文久二年以降の朝廷権力の伸張とほぼ平行した薩摩や長州などの 外様雄藩の台頭がこれを物語るのである。

 また、このような水戸藩の政治的権力の低下は単に幕府の権威の低下との連動性だけでなく、水戸藩自体にもその

原因を含んでいた。かねてから、斉昭の改革政治を喜ばなかった門閥派 反 ・ 改革派とこれを支持する尊攘派との確執

が藩内にあったが、戊午の密勅降下後はこの攘夷派も激派と鎮派とに分裂した。そしてこれまで見てきたように、こ

の激派と鎮派の対立は玉造勢の処分や東禅寺事件の処置をめぐってより深刻なものとなっていった。こうした藩内の


結びにかえて

79

戸学である。この水戸学は主として前期と後期の二期に分けられる。二代藩主徳川光圀の『大日本史』に編纂に始ま

った前期水戸学が歴史の学問的研究を主眼としていたのに対し、後期には、内憂外患のもとで国家的危機を克服す

るための思想が形成されていった。この思想をまとまった形で表現した最初の人物は藤田幽谷である。幽谷はその著

書『正名論』で君臣上下の名分を厳格に維持することが社会秩序を安定させるための要件であるとする名分論を唱え、

これ以後尊王思想に理論的根拠を与えた。そして幽谷の門人であった会沢正志斎と、子の藤田東湖はこの思想を継承、

発展させた。会沢はその著書『新論』の中で民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を力説

した。ここに、従来から唱えられていた尊王論と攘夷論がはじめて結び合わされたのである。そしてその唱えるとこ

ろの尊王とは、儒教と神道思想を結びつけ天皇を道徳的なつまり忠と孝の中心的な存在とする国体論である。したが

って徳川幕府は、天皇統治を補佐する中央政府であるとする。この考えは幕府の存在を否定しなかった。そこで尊王

敬幕といわれた。こうした尊王思想であるからして必然的に攘夷が強調されていったのである。しかし尊王敬幕はそ

もそも矛盾を含んでいた。ところが、これらの事変 事 ・ 件を起した志士達は水戸学に発した尊王攘夷思想の忠実な信 望者であったために攘夷に走り、この矛盾に気づくことが出来なかったのである。

 そして坂下門外の変後、時勢は大きく変化した。国事周旋に乗り出していた長州藩は長井雅楽の航海遠略策に失敗

すると、朝旨に沿った破約攘夷に切り替えて、再び周旋しようとした。また新たに薩摩藩も国事周旋に加わり、島津

久光が藩兵千余人を率いて入京した。薩摩藩の当面のねらいは朝廷勢力を背景として、幕政に介入して改革を迫ると

いう、朝廷を中心とする公武合体政策であったのである。久光は文久二年(一八六二)四月二十三日、京都において

挙兵討幕を企てる薩摩藩急進派有馬新七等を殺害して(寺田屋事件)、薩摩藩急進派を壊滅させ、五月二十二日勅使


78 水戸藩の尊攘運動についての一考察

政体を乱り、夷狄之大害を成し候儀眼前にて実に天下之安危存亡ニ拘り候事故、痛憤難黙止京師へも及奏聞、今般天

(2)

誅ニ代り候心得にて令斬戮候。申迄には無之公辺へ敵対申上候儀にハ毛頭無之、何卒此上聖明之勅意ニ御基公辺之御

(3)

そしてオールコックを襲撃した志士達が所持していた「存意書」には以下のようにある。「此儀追々夷狄御退攘之

政事正道ニ御復し、尊王攘夷、正諠明道、天下万民をして富嶽の安ニ処せしめ給ハん事を希ふのミ」  

最後に安藤老中を要撃した志士達が所持していた「斬奸主意書」には以下のようにある。「微臣共、痛哭流涕大息之

其にも相成、乍恐万分一叡慮台慮をも奉安候。卑賤之身に取誠以無此上難有仕合奉存候」  

余り無余儀奸邪之小人を令殺戮、上ハ奉安天朝幕府、下ハ国中之万民共夷狄に成果候所之禍を防き候儀に御座候。毛

(4)

頭奉対公辺異心を存候儀ハ無之候間、伏て願くハ此後之所井伊安藤二奸之遺轍を御改革被遊、外夷を掃攘し叡慮を慰

め給ひ万民之困窮を御救ひ被遊候て、東照宮以来之御主意ニ基づき、真実ニ征夷大将軍之御職を御勤被遊候様仕度」

 これら三つの史料に共通して言えるのは、あくまでも幕府に対しての異心は無く、自分達の行為によって幕府を正

しい方向へ導き、この結果として将来的には外国人を追い払うという強い一つの信念を持っていたのである。これに

は御三家の一つとしての使命感さえ感じられる。しかし、幕藩体制という制度の下で最も幕府を支えなければならな

い御三家の一つがこのような破壊的な行為に出てしまったことにこれらの事変 事 ・ 件の矛盾があったように思われる。

これらの事変 事 ・ 件以後、志士達の意に反して幕府の権威が大いに失墜したのも、このことが原因の一つであると考 えられる。

 そして、彼らとて何の根拠もなくしてはこのような強い信念を貫き、矛盾を繰り返すことはなかったであろう。こ

のような志士たちの心底には、信仰と言ってよいほどの尊王攘夷思想があった。そしてこの思想を裏付けた理論は水


結びにかえて

77

さらに坂下門外の変が失敗に終わったことも先の二つの事件にその原因を見出すことができる。これは桜田門外の変

以来、安藤老中が警備を厳重にしていたこともさることながら、襲撃者が圧倒的に少なかったことが失敗した理由に

あげられる。安藤老中要撃を実行した志士達は、期に後れた川辺を含めても七人であった。さらにこの中で水戸の人

間は五人であり、他藩からも人材をかき集めて何とか人数を合せたのである。これは文久元年(一八六一)の十月に

(1)

水戸側から長州側に送った書に「国難以来為天下国家、慷慨奮激力を尽し候て就死又ハ繋獄候者、士民にてハ凡二百

人にも罷成候。升平の世にハ奇怪の事と慨歎に不堪候。右之次第により義勇之士残り候ものも不少候」とあるように

事 ・ 件はいずれも他藩との協力によって決行しようとした点が注目される。桜田門外の変は薩

玉造勢と東禅寺事件の残党狩りが厳しく行われたために人数が不足していたからなのである。   ま た、 こ れ ら の 事 変

摩藩と、坂下門外の変では長州藩と提携しようとした。この提携はいずれも実を結ばなかったものの、従来幕府政策

によって互いに孤立状態にあった雄藩間に横の連携が生じたのである。後の政局を見ると、このことが与えた影響は

決して小さくないと思われる。また、東禅寺事件では史料の制約上その経緯を明らかにすることは出来なかったが、

下野の志士も参加しており、さらに坂下門外の変でも下野の志士達と提携し、彼らも積極的に行動している。このこ とは桜田門外の変以降、攘夷運動が広がりをみせたことを示している。

 結果的に見れば桜田門外の変で果せなかった当初の計画を、年を追うごとに次々と実行していったように見える。

これは偶然にしてそうなったのであるが、しかしその信念には共通のものを見出すことができる。この信念はそれぞ

れの事変 事 ・ 件を実行した志士達が所持していた「斬奸主意書」および「存意書」によって見ることができる。まず

井伊大老を要撃した志士達の「斬奸主意書」には以下のようにある。 「暴横之国賊其侭指置候ハ ます 公辺之御     


76 水戸藩の尊攘運動についての一考察

結びにかえて

 これまで見てきたように万延元年(一八六〇)から文久二年(一八六二)にかけて水戸藩の攘夷派が起した、幕末

を象徴するかのような攘夷事件である桜田門外の変、東禅寺事件、坂下門外の変は決して単発的に起こったものでは

なく、連鎖的に起こったものなのである。特に東禅寺事件は他の二つとは違い、その矛先が外国人に向けられたもの

であり、さらに水戸藩の攘夷派の頭目的な人物が指揮したという記録もないので異質的な事件に見られがちである。

しかし、第一章でふれたように桜田門外の変の当初の計画から滞在異人は標的とされていたのであり、東禅寺事件の

原因をたどれば、オールコックの挙動もさることながら、桜田門外の変の再発を恐れた幕府が玉造勢に対して過酷な

処分を水戸藩に強いたことから事件は誘発されたのであり、また、襲撃に参加した渡辺剛蔵が玉造勢に参加している

ことを考えると、その頭目であった大津彦五郎と全く無関係であったとは思えないのである。『水戸市史 中巻(五) 』

によると東禅寺事件の軍資金は玉造勢から出たもので、渡辺が出発直前にその金を回収したものであるという。

 そして、この後に起こった坂下門外の変は、桜田門外の変を受けて、幕府が公武合体に方針を変え和宮降嫁を実行

したこと、そして東禅寺事件を受けて幕府が外国公使等の要求に応じて品川の御殿山に公使館を建設することを認め

たことなどがその引き金となっており、先の二つの事件から誘発されたものなのである。また、東禅寺事件と同様に

安藤要撃は桜田門外の変の当初の計画に入っていたのである。そして桜田門外の変後、安藤要撃を指揮したのは桜田 門外の変の首謀者の一人である野村彝之介であった。


第三節 坂下門外の変とその結末

75

また大橋訥庵の塾生の仕業とも言われていた。このため幕府は逮捕の手を宇都宮に伸ばし、児島強介 菊 ・ 池 教 中、 真

岡の小山鼎吉 横 ・ 田藤太郎、その他得能淡雲 多 ・ 賀谷勇等を次々と捕らえた。しかし水戸藩に対しては、東禅寺事件

の時のような干渉も圧力も一切なかった。後日になって水戸浪士の所業とわかっても一切触れることが無かったのは、 被害者である安藤の権威が失われたためである。

 平山等六人と期に後れた川辺の計七人は各々「斬奸主意書」を所持していた。これには安藤老中要撃に至った心情

とともに、安藤の罪状として、和宮の降嫁、廃帝の調査、御殿山の外国公使館設置のことなどが述べられていた。こ

のため幕府は坂下門外で闘死した志士達が所持していていた斬奸主意書を秘したが、川辺が桂に残したものが世に出

て、その内容は士民が知るところとなり、攘夷派の志士達を発奮させた。事変後、安藤老中はその名を信行から信正

と改名したが、傷が癒えて登城しても最早以前の威信はなく、四月十一日内願によって老中を免ぜられた。 註

 八組士。萩藩校明倫館に入り、学問進んで村田清風に接し激励された天保十一年はじめて仕官し右筆座の筆者を勤め、嘉永六年の米使来航によ り相模警護に加わり、安政五年には山田亦介らと兵庫警衛の方策を定めた。   『水戸藩史料』下編 一五八頁 吉川弘文館 一九七〇復刻         (1)

『鈴木大日記』文久二年一月十七日条が『水戸藩史料』に引用されている。  同右 一六〇頁 この部分は、

(3) (2)


74 第三章 坂下門外の変

ずした。そして帰ってきた時には「斬奸主意書」を残してすでに自刃していたという。長州藩は同日幕府へこのこと

を届け出た。この届書で長州藩は自刃した者が水戸浪士であることは報告しているが、川辺という本名は明かしてお

らず、さらに桂に後事を託したことも秘している。この時長州藩としては、藩主毛利慶親が出府して長井雅楽の航海

遠略策を幕府に建白し、公武間の周旋に乗り出そうとする重大な時期であったので、幕府の嫌疑を避けようとしたも

しかし、一方で長州藩は川辺の遺体についてはこちらで処理したいと再三幕府に懇請した。幕府は大法の許さない

のと思われる。  

ことであるとしてこれを断固として拒否し、十九日には川辺の死体を南町奉行黒川盛泰の役邸に運んだ。そして、こ

れについては自然と桂に嫌疑がかかるところとなり、幕府は桂とその手付役伊藤俊輔(後の博文)を町奉行所で喚問

したが、長州藩主の公武間周旋のこともあって、寛大な処分に止まった(三月十八日桂は屹度叱、伊藤は叱に処せら れた)。

 事変の当日、慶篤も祝賀により登城していたが、安藤老中要撃の変報が届くと城中は騒然とした。登城していた大

名達は退城の際、非常に警戒して警衛の人数を増やし、特に紀伊藩は陰供六十人、駕籠の前後に四十人、左右に二十

(3)

人を配した。しかし、慶篤は平常通り退城した。これについて鈴木大は『鈴木大日記』の中で「此義は公にても能く

御了簡被遊、御供を増し候儀は御意地に御なり、不被遊候様也」と慶篤の心中を推しはかっている。

 幕府は長州藩から、要撃に遅れ藩邸で自刃した者が水戸浪士であるとの報告を受け、薄々は水戸浪士の所業であ

ると感じていたと思われるが、六人は変名を名乗って闘死したため断定することは出来なかった。また一般の噂で

は、ロシアとの条約締結に落度ありと安藤老中から問責され、万延元年十一月に自刃した外国奉行堀利 の家来とも、  


第三節 坂下門外の変とその結末

73

書には、一番三島三郎(河野顕三)、二番豊原邦之助(川本社太郎) 、 三 番 細 谷 忠 斎( 平 山 兵 介 ) 、四番吉野政助(黒

澤五郎)、五番浅田儀助(小田彦三郎)、六番相見千之充(高畠房次郎)とある( ( )内が本名) 。また、この平山等  

六人の要撃によって、安藤老中を警護していた士にも多数の負傷者を出した。同日付の安藤の届書には深手五人、浅 手四人の計九名が負傷とある。

 安藤老中要撃は平山等六人の手によって行われたが、この他、川辺佐次衛門もこれに参加することになっていた。

川辺はこの日約束通り坂下門外に来て安藤の登城を待っていたが、早く来すぎたようで、また同志の姿も見えなかっ

たので、しばらく付近を徘徊して時間を潰していた。しかしこの途中で坂下門外で事あることを聞き、急いで戻った

が、現場に到着した頃には事はすでに終わっていた。このため川辺は、せめて「斬奸趣意書」だけは世に伝えてその

意を明らかにしてから進退を決することにし、桂小五郎にこれを依頼するため外桜田の長州藩邸上屋敷を訪れた。こ

(1)

の時の様子は兼重愼一の筆記に見ることができる。これによると五つ時、突然一人の者がやって来て、自らを内田萬

之助と称して桂への面会を要求したと言う。しかし桂は不在であったので、桂の友人の奥平数馬が代わりに応接した。

ここで奥平は内田(川辺)に桂への面会の理由を聞いたところ、内田(川辺)は自分が水戸藩の川辺佐次衛門である

ことを告げた。このため奥平はこれを邸吏に告げ、川辺を有備館の一室に誘い、桂の帰りを待たせた。ここで奥平と

川辺は杯を交わし、時勢を談じた。さらにこの席で奥平が川辺にこの後の進退について尋ねたところ、川辺は元から

死を覚悟していると言ったという。この後、夕方になって桂が帰ってきて川辺と面会した。この席で川辺は「今日安

(2)

藤閣老ヲ要撃セント同盟セシカトモ機会ヲ失ヒ遺憾ニ堪ヘズ途上自刃セントスレドモ、嘗テ君ノ名ヲ知ルヲ以テ後事

ヲ委託セント面謁ヲ煩ハシタリ」と述べた。桂はこれを慰諭し、このことを麻布邸にいる藩主に報告するため席をは


72 第三章 坂下門外の変

第三節 坂下門外の変とその結末

 一月十五日は上元の佳節に当たり、在府の諸大名が登城して将軍に謁見する日であった。安藤信行は、朝五つ時、

西丸下の官邸を出て桔梗門外から坂下門に向かった。桜田事変以来、幕府の警戒は非常に強く、またこれと同様に幕

閣も深く警戒していた。特に安藤は己が攘夷派の非難の的になっていたことを自覚していたので、何れも屈強の士

を選び、駕籠の左に徒士頭、右に刀番を配し、その前後左右に大小姓十四人、徒士頭取二人、徒士十七人、押方三

人、道具方八人、ほかに大目付 目 ・付 書 ・ 簡方 勘 ・ 定人 右 ・筆 徒 ・ 士 目 付 を 従 え る と い う 厳 重 な 供 連 で あ っ た。 そ し

て、安藤の行列が坂下門下馬所の前に着こうとしたその時、一発の銃砲が発射され、これを合図に平山兵介 小 ・ 田彦

三郎 黒 ・ 澤五郎 高 ・ 畠房次郎 川 ・ 本社太郎 河 ・ 野顕三の六人(坂下事変関係者については別紙付録参照)が左右から

安藤の駕籠をめがけて切りかかった。平山は事に先立って安藤の供連を視察して警備が厳重であることを知り、予め

要撃の方略を立てていた。このため平山は自訴の振りをして紙をたたみ、その中に短刀を入れたのを持って乱闘の隙

に乗じて駕籠の後方に回り、これを突き刺した。この平山の刀は安藤の袴腰の上を斜めにかすめ傷を負わせた。しかし、

これと同時に警衛の士が集まって平山を倒した。安藤はこの後すぐに駕籠を出て坂下門内に走り込もうとし、これを

見た河野は後を追って背後に迫ったが、これまた警衛の士に囲まれ倒された。この他、小田 黒 ・澤 高 ・畠 川 ・ 本も警

衛の士達と闘争し倒された。安藤は刀番と共に門内に駆け込んで、何とか九死に一生を得ることが出来たのであった。

 このように坂下門外で安藤老中を要撃しようとした六人は、いずれもその志を得ることなく闘死した。この後、徒

目付 小 ・ 人目付が六人の死体を検分し、坂下門に近いほうから一番 二 ・ 番と死体に紙札をつけた。そしてこの時の調


第二節 下野志士との連携

71

 動を進めるため脱藩、僧形となり得能淡雲と改名したうえ諸国の志士と交わる。この前後大橋訥菴に師事した。  『水戸藩史料』下編 一四四〜一四五頁 吉川弘文館 一九七〇復刻

 幕末期宇都宮藩家老として、同家老間瀬和三郎(後の戸田忠至)らと共に穏健改革派として藩政を処理せんとした。大橋訥菴 ・ 島強介らと親交があった。  棋太郎 児

(7) (6)

岡 ・ 田真吾 松 ・本


筆し、一月八日にかつての門人で一橋家の近習番であった山木繁三郎にこの建白書の取次ぎを依頼した。山木はこれ

を承諾したが、事が重大であったのでこれを用人に告げ、用人はこれを幕府に自訴したので、ここに南町奉行黒川盛 泰の配下によって関係者の逮捕が開始された。

 大橋は十二日に捕らえられ揚屋入りを命ぜられ、また小梅の思誠塾も捕吏数十人によって家宅捜索が行われ、証拠

書類は押収の上、家財一切は土蔵に入れて封印された。しかし、幕府は厳重な探索にもかかわらず、安藤老中要撃計

画を探知することは出来なかった。これは大橋の妻が予め事を察して、 証拠となる文書類を破棄、 隠匿したからである。

しかし、この大橋の逮捕により、平山等は一月二十八日を決行日としていたが、最早一刻の猶予もならずと、十五日 要撃を決行することとなる。 註

 父、清水赤城は上野国高崎に生まれ、江戸に出て兵学者として著名であった。四男訥菴は信濃国飯山藩士酒井力蔵の養子、後江戸へ出て佐藤一 斎の門に入り儒学を学び、江戸日本橋の大物商大橋淡雅の婿養子となった。淡雅は下野国粟宮出身で、清水赤城や佐藤一斎 渡 ・ 辺崋山らと親交あ

嘉永三年正月医者修行のため出府。帰国後、医業の傍ら家塾を開き、また詩文を揮毫して生活の糧とした。水戸学の影響を受けること強く、水   戸藩士に知人が多かった。また、大橋訥菴 菊 ・ 池等とも交遊があった。

・ 商を家業とし、年寄して名主を勤めたこともあった。祈綱の代には家産蕩尽した���、彼は国学を学び、時  横田氏は宇都宮支族と称し、質屋 穀

 

 紙価を高からしめた。

・ 機 の 論 を と き、  る学者であった。時に訥菴は宇都宮藩主戸田忠温の招聘により講書したが仕官せず、安政四年には『闘邪小言』を刊行し、尊王 活

 

(1)

(2)

 万延元年藩命により江戸に赴いて昌平黌に学び、久坂玄瑞らの志士と交わる。また大橋訥菴の門に入り、同門の多賀谷勇らとも交友があった。 嘉永三年以降大洲藩命により伊予小松藩儒近藤篤山、江戸の儒者藤森天山に就き朱子学を学んだが、天山の影響を強く受け、文久元年尊攘運  

 事を憂い四方の志士と交友があった。また、息子の昌綱を大橋訥菴に託し、文武の修練を積ませた。

(3)  

(5) (4)

70 第三章 坂下門外の変


第二節 下野志士との連携

69

戸を発する時に託されたが、長州藩では藩主毛利慶親が出府して、自ら公武間に航海遠略策を以って周旋しようとし

一方、江戸の大橋は、水戸側志士の到着が遅れ、また下野側に要撃後の処理につき意見の一致が見られなかったこ

ていた時であったから、桂は水戸側の要請に成す術も無く、西丸 岩 ・ 間の書状も無為に終わってしまった。   (7)

ともあって、斬奸決行の期日を十二月二十八日から明春へと再び延期した。十二月二十六日、宇都宮から出府した藩

士岡田裕とその義兄松本棋太郎の両人が大橋を訪れ、折りよく居合わせた平山を交えて決行について協議した。その

結果、決行の期日を明春とし、(一)安藤老中を要撃して幕府を混乱させる、 (二)決行後は急使を上京させて攘夷の

勅諚を朝廷に奏請する(三)一橋慶喜を擁して日光山に攘夷の義兵を挙げる、との事を改めて確認した。ここに参加

者は水戸側から平山平介 小 ・ 田彦三郎 黒 ・ 澤五郎 高 ・ 畠房二郎 川 ・ 辺佐次衛門の五人と宇都宮側の河野顕三 横 ・ 田藤

太郎の二人、大橋の門人で伊予脱藩士の得能淡雲の合せて八人となった。彼らは椋木に護られて宇都宮に移ることに なったが、この間河野は江戸と宇都宮を往復し、高畠と川辺は再び水戸に潜伏した。

 宇都宮に移った志士達は、商家は人の出入りもあって危険なので、一部は戸田忠厚の計らいで城内にある自邸に、

一部は二荒山神社社家中里主族の邸内や境内にある神楽寺などに潜伏して正月を迎え、大橋の命が出るのを待った。

そしてついに文久二年(一八六二)一月八日平山 小 ・田 黒 ・澤 河 ・ 野の四人が宇都宮を出立して江戸に潜行した。しかし、

児島は病のため歩行困難で参加不能となり、椋木と横田は斬奸後直ちに上京して後図をなし、その他の者は待機する ことになった。

 前述のように文久元年十二月二十六日岡田裕と松本棋太郎が出府して大橋を訪れた際、一橋慶喜を要して日光山に

攘夷の義兵を挙げようと謀り、さらに大橋に慶喜への周旋を依頼した。そして大橋もこの策に乗り、その建白書に加


68 第三章 坂下門外の変

(5)

(4)

しかし、この挙兵に応じて集まったのは、下野の河野顕三(後に坂下事変に参加) 小 ・ 山鼎吉 横 ・ 田藤四郎 藤 ・ 太郎

(3)

らに駒込邸の水戸藩邸に幽囚中の長岡残党三十余名(第一章第五節参照)を奪回して同志とする策を立てた。  

父子、肥前の中野晴虎、丹後の宇野東櫻、伊予の得能淡雲等三十人ほどであった。十一月八日の夜、彼らは大橋に事

を挙げることを迫ったが、大橋は同志の不足から事は成り難いと判断し、計画を中止し、彼らに解散を命じた。この

ため大橋は義挙から斬奸に活路を開くことを決心し、あらためて水戸藩の策に合流することとなった。

 この後、常野の志士達は協議を重ね、水戸側では斬奸決行の人選に取りかかった。しかしこの人選は難航し、十二

月十日には平山がその督促のために山口正定を訪れた。山口は翌十一日住谷にこの模様を報告している。ここで平

山 は、 来 る 十 五 日 に 決 行 す る の で 是 非 と も 水 戸 側 か ら 六 人 を 出 す よ う 下 野 野 ・ 村とも相談してほしいと言ったという。

平山はあくまで十二月十五日決行を意図していたが、いかにも期限が切迫しており、しかも藩庁の激派に対する監視

が厳しく、行路の危険も考慮しなければならなかった。住谷等は同志と協議して十五日の計画を二十八日に延期し、 二十日頃には志士を宇都宮に送ることとなった。 

 こうして水戸藩有志は苦心の末に志士を送り出したが、それは単に安藤老中を討つ手段にすぎず、本来の目的はそ

の後の措置にあった。即ち朝廷に頼って勅諚を幕府に下し、幕政を改革することである。そしてこれにはどうしても

大藩の力に頼らねばならなかった。そこで最後に再び長州藩に望みを託し、十二月十八日、西丸 岩 ・ 間から桂宛に「此

挙に臨み他之周旋助力を不加してハ多少之功を奏し難し。其多少之功を要するハ同盟志士の力にあり。此挙傍観せハ

(6)

如此之挙再出不可期。実に徐々に御謀り不申ては多罪に似たれ共、事情の是に至る人事の能く成し得候処に無之と、

先生願ハ丙辰成敗之盟御固取し被下度書ハ不尽言、来正十五日を御期シ被成度」との書状を送った。これは平山が水


第二節 下野志士との連携

67

人の椋木八太郎に託して上京させ、議奏正親町三条実愛に攘夷の勅諚の降下を要請した。また同時に斬夷によって幕

児島は野村等と会談し、大橋が中心となって斬夷を計画したが、五人しか集まらず、あと五人を水戸藩で募りたい、

府を窮地に陥れようとして、椋木の上京とほぼ時期を同じくして児島を水戸に派遣したのである。  

資金などの面はこちらで手当てする、と言ってこれを懇請した。これに対して野村は、斬夷には同意できないが、斬

しかし、その後児島からの連絡がなかったため住谷は下野と相談して平山を宇都宮に派遣し、これによってようや

奸ならば可とすると答えたのでほぼ相談が成り、児島は同志にこのことを報告し、再度参上すると約束して帰郷した。  

く下野との連絡がついたが、水戸藩の有志と大橋との間には、時局打開の方針についてかなりの相違があった。大橋

はあくまでも朝廷から攘夷の勅諚を要望し、これに呼応して斬夷を断行して時局を開こうとし、このために椋木の京

都入説の結果を待ち望んでいた時であったから、水戸側の安藤斬奸策には時期尚早として賛成しなかった。このため 下野との連携はなったものの、事態は容易に進展しなかった。

 しかし、十月下旬になっても大橋が望みをかけていた京都からの吉報はなく、椋木は幕吏に追われる身となって、

大橋の京都密奏は全く失敗に終わった。たまたまこの時、大橋の門人で長州藩家老毛利元統の家士多賀谷勇が、武蔵

本庄の郷士尾高弘忠等と協議して輪王寺宮慈性法親王を奉じて、日光または筑波山に攘夷の義兵を揚げる策を立てた。

彼らはこれを原忠敬にも説き、ついで下野真岡の小山朝弘を訪れ、小山を伴って宇都宮に到った。この計画を聞いた

大橋は、輪王寺宮擁立策も確立しないうえ同志を募ることもしないので、この計画を危ぶんだが、京都入説策が絶望

的であったためこれに期待をかけた。そして多賀谷は輪王宮用人と宮の擁立を協議し、尾高は同志を募るため上野

下野 下 ・ 総の各地を奔走、大橋自身は攘夷の大号令の発布を朝廷に奏請し、また大藩を京都守護の任に当たらせ、さ


66 第三章 坂下門外の変

第二節 下野志士との連携

 丙辰丸の盟約に始まった長州藩との連盟が実を結ばなかったのに対し、他方で下野志士との提携がなろうとしてい

た。これより先の万延元年(一八六〇)十二月、平山兵介 住 ・ 谷悌之助 中 ・ 島久蔵は、玉造勢には参加しなかったものの、

これと同様に水戸藩の現状に悲憤し、脱藩して関西地方に赴き、京都に入って事を謀ろうとしたが警備が厳重で果せ

ず、文久元年(一八六一)二月九日住谷と中島は泉州堺で幕吏に捕らえられた。平山は一人東帰して五月の初旬に水

戸に到着したが、この頃は玉造勢の残党狩りが厳しく行われていたので、平山は頭髪を剃り細谷忠斎と変名して那珂

郡田谷村の郷士田尻知好等の家を転々として時期を窺っていた。そしてこの時、桜田事変後領内に潜居していた関鉄

之介とも連絡がつき、密会している。ちょうどこの頃は、薩摩脱藩の郷士伊牟田眞風や庄内脱藩の郷士清河正明等が 水戸領内に潜入して、志士の間に決起を遊説して去った後であった。

藤 ・ 田東湖

の門に入り就学していたので、水戸には同門の知人がおり、密かに山口正定の家に留まって、野村彝之介等に斬夷の

 九月初旬になると下野宇都宮の児島強介が水戸に遊説に来た。児島は商家のであるが、若くして茅根泰

(1)

(2)

同士を求め、さらに平山とも密会して安藤要撃について議した。児島は隅田川の東岸小梅村で思誠塾を主催する大橋

訥菴の門人であり、大橋の義弟で宇都宮城下で木綿問屋の豪商佐野屋を継いだ菊池教中の知遇を得た。この菊池も義

兄の大橋の感化を受けて熱烈な攘夷論者であった。児島が水戸に遊説に来たのはこの大橋に依頼されたからである。

 かねてから王政復古の策をめぐらせていた大橋は、皇妹和宮が降嫁のためいよいよ関東へ下向しようとしており、

また安藤老中が廃帝の故実を調査させているとの風説を聞くと、時機到来と察して王政復古の策論を著し、これを門


第一節 長州藩との連盟計画

65

 庚申丸に設置してその頭人となった。  江戸に出て昌平黌に学び、肥前の草場又三と知り合う。明治二年八月藩主昭武の北地開拓の請願が実を結び、岩間誠之と先発して経営にあたった。

『水戸藩史料』下編 一三〇頁 吉川弘文館 一九七〇復刻     

 招かれ、藩校秉彝館の教授兼侍医となった。嘉永二年再び江戸に遊学、昌平黌および久敬舎に入る。この間徳川斉昭の知遇を得、また各藩の尊攘 派と親交を結んだ。  

 

 安政二年小十人目付組頭進任し、文武に励み、国事に奔走した。京都滞在中には岡山へ赴き、兵庫開港阻止を藩主池田茂政に懇請した。 天保六年生家を弟に譲り、郷医山本貞惇に学んで医業の門戸を開いた。弘化元年江戸に出て昌平黌に学び、四年七月帰郷した。藩主水野勝進に

(4) (3) (2)

           同右 一三一頁

(5) (6) (7) (8)

 同右 一三九〜一四〇頁

『水戸藩史料』下編 一三三頁 吉川弘文館 一九七〇復刻        

   同右 一三二頁 

 同右 一三一〜一三二頁

(21) (18) (16) (15) (9) (10) (19) (17) (11) (20) (12) (13) (14)


っ た の は、 先 に 桜 田 事 変 に お い て 金 子 高 ・ 橋等と提携してその運動の任にあたった野村彝之介であった。さらに、原

忠敬 下 ・ 野隼次郎 住 ・ 谷寅之介等がこれを斡旋した。そして十月には美濃部 岩 ・ 間等が江戸から帰藩して、長州藩要

路 と の 足 掛 り を 同 志 に 告 げ た。 こ れ に よ っ て、 野 村 下 ・野 住 ・ 谷 等 は 協 議 し て、 同 月 二 十 九 日、 住 谷 と 下 野 の 名 義

で周布 桂 ・ に書状を送り、「此度公武御合体の名を設け、和宮御下向を奉促、甚敷に至り候てハ、主上之御英明を奉

忌、御譲位の調に取懸り候暴横之所為絶言語、可悪之至に御座候。 (中略)対州(安藤)事、故井伊掃部頭遺志を継き、

奉悩叡慮候段大罪人に御座候間、掃部頭同様斬除致し、其機に乗し勅使を以勅諚御下に罷成候ハ、天下之人心感激奮

起致し、衰頽を挽回之基も相立可申、さも無之候てハ奸謀稔熟致し、勅諚下り候とも、彼是奉妨候手段を廻し候程難

 天保二年家督を継ぎ、継いで江戸に出て坪井信道に用意の術を学ぶこと四年、帰国後藩世子の侍医となった。安政二年九月長崎に赴き航海術を

辰丸における盟約はついに実を結ぶには至らなかった。

戸藩ではすでに事情は切迫しており、さらにこの両藩の盟約に最も必要としていた人物を失ったので、水長二藩の丙

桂は直ちに返書して、周布が藩主の忌諱に触れ帰国して辞職したことを報じ、このために時期の猶予を願ったが、水

 十一月十四日岩間は再び書を桂に送って前書の回答を求めた。桂が前書と再書に接したのは同月二十日のことで、

ある。しかしこの時期、周布は長井雅楽の公武間周旋を阻止するため西上し、 桂もまた藩務のために江戸を離れていた。

長州藩側は京都において勅諚を幕府に下す運動をするよう懇請した。即ち東西呼応して義挙を断行しようとしたので

測奉存候間、何分貴藩之御忠誠を以、叡念を奉安候御良謨奉渇望候」と述べ、水戸藩側は安藤老中の斬奸にあたるから、

21

 蘭人に学び、帰国して西洋学所創設を建言して許され、医業を廃してその長となり、四年藩最初の洋式船丙辰丸の艦長となり、文久元年海軍局を

(1)

64 第三章 坂下門外の変


第一節 長州藩との連盟計画

63

桂 松 ・ 島側から両者の血印を押した誓書が西丸に渡され、次に水戸側から長州藩重臣の周布政之助への贈り物として

18

( )

『大日本史』が松島に渡された。この後、西丸が「十五日ニ誓言スル所、其ノ破ルト成スト孰レカ難キ」と尋ね、こ

20

しかし、この両藩同志の盟は二藩有司数名の私約にすぎず、その実現のためには両藩要路の協力を待たねばならな

って攘夷派の志士達は、いよいよ安藤要撃を謀議することになった。この時水戸に在って攘夷派の志士達の先頭に立

 そしてこの年の九月、安藤老中が和学者塙次郎等に廃帝の典礼を調査させているとの風説が水戸に達し、これによ

ない長井を借いて、周布になお一筋の望みを託したのであった。

が、長井は長州藩周旋の趣旨を説くのみで会談はそ���以上に進展しなかった。このため水戸藩側は、思想的に相容れ

べるまでには至らなかった。ついで、八月三日、ようやく長州桜田藩邸で長井 周 ・ 布と美濃部亨との会合が催された

五郎の斡旋で周布を長州麻布藩邸に訪ね、水戸藩の窮状を訴えたが、周布は時勢の非を説くのみで、互いに意見を述

相容れない航海遠略策を藩論として、公武間の周旋に乗り出すために出府したのである。七月三十日岩間誠之は桂小

東禅寺事件後のことであり、この頃は幕府の圧迫が厳しく、水戸藩の情勢は一変していた。しかも長井は水戸藩とは

ってからも水戸 長 ・ 州両藩士の会合は催されたが、長州藩要路の直目付長井雅楽 手 ・ 元役周布政之助が出府したのは

あったから、武田は自分も嫌疑の多い身であるからとして自重して動かなかった。この後文久元年(一八六一)に入

かった。同年秋、桂は武田耕雲斎に長州藩要路への一書を懇請したが、当時水戸藩では斉昭が没し、慶篤も謹慎中で

 

この時点ですでに水戸藩側には、桜田事変の再演の計画があったことがわかる。

の間で成破の盟が結ばれ、水戸藩は破、すなわち破壊、長州藩は成、すなわち事後収集の任にあたることになった。

れに対し桂は「破ル難シ」と答えた。これを受けて西丸は「然ラハ其難キ者ヲ取ラン」と述べた。ここにおいて両藩

19


(6)

(5)

(7)

会談では、まず、西丸が「諸君ノ謀ル所夫何ノ術ソ」と尋ねた。これに対し、桂は「予ハ先ツ貴藩君公ヲ初メトシ、

(8)

尾公及他侯伯ノ幽蟄ヲ解カント欲ス。」と答え、さらに「而シテ足下ノ謀ル所何ノ術ゾ」と尋ねた。これに対し西丸

」と答え、桂もこれに同意して、十五日にお は「身ヲ殺シテ至大事ヲ當世ニ行ハント欲ス。必誓約ナクンバアラズ。

互いに誓文を持ち合うことを約した。そして、十五日には西丸の提案により桂と西丸が別室において一対一で会談し

(9)

た。この席で西丸は桂に誓文を見せた後、「十二日ノ會先生ノ説ニ水戸尾張及諸有名大夫ノ幽蟄ヲ解カント誠ニ然リ。

其幽蟄ヲ解クノ術何等ノ術ゾ」と尋ねた。これに対し桂は「當今ノ有名公 ト盟約協同、幕府ニ上書シテ以テ其罪ヲ ( )

可解ナリ」と答えた。これに対し西丸は「誠ニ然リ。而シテ其結ブ所ノ 伯何ノ ソ」とさらに質問を重ねると、桂 10

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( )

ナリ。先生其一ツヲ取レ」と迫った。これに対し桂は難色を示しながらも、 「予今日誓書ヲ不作、足下ノ誓書ノ如キ

任ニ當ラバ、亮必ズ彼ノ二ツノ者ニ出ン。先生若シ此ノ二ツノ者ニ出テバ、亮、 伯ヲシテ幕ニ献策スルノ事ヲ可負

然ニサク可ク」と述べ、さらに「此献言ノ任、貴藩ノ君公ヲシテ作興セシムルノ任、先生負ヲ得ルヤ否。貴藩若シ其

者ニ出ン。若シ夫我之ヲ施行スルモ、有為ノ大藩此虚ニ乗ジ幕府ニ献言シ、世如斯ンハ政令遂ニ不可治、災ハ之ヲ未

と西丸は「我カ著意之ニ異リ、我、死士を放テ重三ノ事ヲ施サンカ、或ハ横濱ニ外國人ヲ屠ランカ。我必ズ此二ツノ

ハ虚名安キヲステ、危ヲ侵ス者殆ト稀也」と述べた。これに対して桂が「果シテ然ラバ足下ノ術何ノ術」と尋ね返す

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は「未タシ」と述べるしかなかった。西丸はさらにこれに続けて「方今三百歳ノ安 諸 大夫タル有名ト雖モ、多ク

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島に送りこの日の談合は終わった。そして十九日、場所を丙辰丸船上に代えて両者の会談が開かれた。この席でまず

藩の船舶丙辰丸にて談合したいと述べ、西丸もこれに同意して、最後に水戸側から四人の血印を押した誓書を桂 松 ・

ハ予之ヲ受ン」と述べ、さらに即答し難いことであり、且つ酒樓で議すことではないので、後日、品川に停泊中の長

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62 第三章 坂下門外の変


第一節 長州藩との連盟計画

61

第三章 坂下門外の変

第一節 長州藩との連盟計画

 桜田事変当初の計画では、井伊大老と同時に安藤老中を討つことになっていた。しかし、様々な事情のため安藤要

撃を果すことは出来なかった。井伊大老の死後、形勢はやや変遷したかに見えたが、その後の状況から、水戸藩の攘

夷派はやはり安藤を井伊大老の遺策を継ぐ者と見なし、安藤要撃を志すことになった。この時、長州藩の中で、水戸

の有司と提携してことを為さんと計る者がいた。これより先、安政の大獄が起こると、長州藩は在京の藩士を国許に

召喚し、在府の藩士には他藩士との往来を禁止するなど、努めて幕府の嫌疑を避けてきた。このために安政五年の末、

関鉄之助 矢 ・ 野長九郎が萩に行き奉勅除奸の遊説をした時には、長州藩の要路は自重して動かなかった。しかし長州 (1)

藩は、桜田事変以後、反論を一変して公武間の周旋に乗りだしてきたので、藩士の運動もまた活発となっていた。

が航海練習の命を帯び、丙辰丸の艦長として江戸湾に入って品川に停泊した。た  万延元年六月、長州藩士松島剛蔵

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またま桂小五郎も藩校有備館の舎長として江戸に在勤していたので、両者が会談した結果、水戸藩と結んで時局を打

開することに決した。松島は佐賀藩士草場又三の紹介で、七月八日水戸の郷士西丸亮と会合して時事を談じたが、両

(3)

(4)

者は直ちに意気投合し、これがきっかけで両者の交流が出来た。この後、十二日 十 ・ 五日と鳥八十の酒樓で会談が行

わ れ、 水 戸 藩 側 か ら 西 丸 岩 ・ 間誠之 園 ・ 部 源 吉 お よ び 結 城 藩 士 越 宗 太 郎、 長 州 側 か ら 桂 松 ・ 島が出席した。十二日の


文政六年長崎出島に商館付医員として着任。文政十一年八月帰任に当たり、いわゆるシーボルト事件起こり、翌十二年九月日本国外追放を受け、

 この後オールコックは勇戦した警護兵に対し、英国ビクトリア女王から賞牌を贈与することにした。なお、この経緯について詳しく考察してい

 十二月五日オランダに帰った。その後安政六年七月和蘭商事会社評議員として日本に再来し、文久元年幕府より顧問として招聘を受け五月江戸に 至って種々建言し、また学術面でも教導にあたった。  

(13)

るものに長谷川昇氏の「英国ビクトリア女王賞牌受領一件」(『日本歴史』第515号 1991)がある。    

(14)

60 第二章 東禅寺事件


第五節 事件後の外国公使等の対応とそれに対する幕府の対応

59

つであった対馬問題(第二章第二節参照)にも尽力することを約束した。イギリスは日本における主導権を得るため

にロシアの動きを非常に警戒していたのである。このため、ホープ提督は二隻の軍艦を率いて七月二十三日対馬に赴

き、ロシア艦の条約違反行為(不開港場における繁船)を責めてその退去を求めたので、ロシア艦は対馬から引き上 げていった。

 東禅寺事件は公使オールコックに危害が及ばなかったものの幕府を窮地に立たせた。オールコックは始め、事件に

ついて水戸藩主と幕府の関与を疑っていたが、警衛の番兵たちが刺客を殺傷し、彼等の間にも死傷者を出すほど十分

に奮戦したことや幕府と水戸藩の努力で逃亡者が次々に逮捕されたことで誤解を解いた。さらに、安藤の粘り強い外

交手腕によってオールコックの理解をえることが出来た。しかし事件の結果、幕府は締盟各国の要求によって品川御

殿山に各国公使館を新築することになった。当時、御殿山は桜花の名所として知られ、江戸市民が遊楽する絶好の場

所であったので、このような景勝地が外国人に貸し与えられることは攘夷派の志士達を憤激させ、次の事変を生む要 因となってしまったのである。 註

       「東禅寺一件 二」所収「同日公使ヨリ當日形状細説ノ来翰」(『続通信全覧』類輯之部三三 六六三〜六六六頁)  雄松堂出版          一九八七 同右所収「同五日右ニ答フル閣老ノ返翰」(同右 六七〇〜六七一頁)        

(1) (2) (3) (4)

「東禅寺一件 二」所収「六月一日米公使ヨリ兇徒処罰ヲ速ニセサレハ悲嘆ノ禍ヲ速クニ至ラント忠告ノ来翰」(同右 六五八頁)  

 同右所収「同日閣老ヨリ兇徒ノ懐中セシ連名ノ私稟ヲ贈リ併テ逮捕ノ策略猶怠ラサル旨ノ書翰」(同右 六七二〜六七三頁) 「東禅寺一件 三」所収「同十四日探偵ノ策略怠ラサルト護衛ノ一部引去リシ所以トヲ閣老ヨリ弁明ノ返翰(同右 六八四頁)  

(12) (11) (10) (5) (6) (7) (8) (9)


一方、幕府としては開市開港の交渉がようやく軌道に乗りかかった折、このような事件が起きたので、大いに困惑

し、対処に苦慮した。しかし、当時外国公使の中で最も信頼していたハリスから六月一日付の書簡で「台下若し今般

之兇徒を速に捕へ、且ッ罸せさるときは、夫よりして貴国に在て最悲歎すべき事件起り避くベからさるにあらん」と

 

および通訳森山多吉郎、イギリス側ではオールコックと東インド=シナ艦隊司令長官ホープ(

)海 Hope, John

期について譲歩する態度に出て、使節団の派遣をむしろ積極的に進める方針を決めた。さらに当時の幕府の悩みの一

 この会談の結果、オールコックは日本の複雑な国内事情と幕府の苦境を理解した。このため、一転して開市開港延

14

けて、安藤は大名達の「京都手入」の事実を告げざるをえなかった。

て、単なる精神的皇帝である帝がなぜそのような有力な反対をなしうるか、というオールコックの追及的な質問を受

打ち明けた。幕府としては、このことについては、ハリス以外の外国代表には明言を避けてきたことであった。そし

を任命している形式になっていること、その朝廷が攘夷を主張し、大坂 兵 ・ 庫の開市開港に強く反対していることを

目に久世広周も参加している。この会談で安藤は国内の複雑な事情をオールコックに告げた。すなわち、朝廷が将軍

)、そして通訳のマイバーグ( Myburgh )のみであった。この他二日 軍中将にオリファント( Oliphant, Laurence

 この結果、七月九、十日に両者の秘密会談が行われた。この会談の出席者は幕府側では老中安藤信行と若年寄酒井

の他の複雑な事情については何とかして会談に持ち込んで伝えようとした。

政にまで干渉して厳しく残党逮捕を命じ、オールコックに対しては警備に不備がなかったことを繰り返し弁明し、こ

そしてオールコックの強い抗議から、いよいよ事件の重大さを見て取ってその処置を決し、水戸藩に対してはその藩

) と 会 談 し、 こ の 席 で も 同 様 の 忠 告 を 受 け た 。 の忠告を受け、六月三日にはシーボルト( Siebold, Philipp Franz von

13

58 第二章 東禅寺事件


第五節 事件後の外国公使等の対応とそれに対する幕府の対応

57

希望を述べるとともに、犯人の逮捕状況及び逮捕した者からその背後関係について現在探ろうとしていること、そう

したことからある程度成果の上がったところで報告しようとしていたことを述べ、あらためて面会を希望する旨を伝

えた。さらにこの書簡には犯行に加わった有賀半弥以下十四人連名の「存意書」の写しが添えられた。しかし、この

書簡と六月四日付のオールコックからの書簡はすれ違ったようで、六月十四日付の書簡でこれに対して返答した。こ

の書で幕府は、先の四項の質問については六月五日付の両書簡で述べたとし、江川太郎左衛門支配下の鉄砲隊の引き

上げについて弁明した。さらに犯人逮捕については「探索之方戦捕の術は、今は生 者之供状も具されと聊も心掛り  

関与を疑った。このような事情からオールコックは強い抗議をしたものと考えられる。

の、延期については全面的に反対していた。こうした折、公使館が襲撃されたので、水戸藩主の内命とともに幕府の

ールコックはこれについて、その意見を英国政府に主張するための全権使節の派遣を説き、一定の理解は示したもの

す悪化させることになると憂慮した幕府は、期限延期を求める将軍の親書を各条約締結国の元首宛に送っていた。オ

と か ら、 残 る 江 戸 大 ・坂 兵 ・ 庫の開市開港を条約の定める期限までに行うことは、人心を強く刺激して事態をますま

港後、物価が騰貴し民衆が生計を失い、貿易への不満が生じていたことや、攘夷派の動きが活発になってきているこ

六二年一月には江戸を貿易のため開市し、六三年には兵庫の開港及び大坂の開市を行うことになっていた。しかし開

一八六〇年には新潟を開港し、 カ国条約により、安政六年(一八五九)には神奈川 長 ・崎 箱 ・ 館の三港を開港していたが、

 このようなオールコックの強い抗議と幕府の対応には当時の外交問題が深く関わっていた。当時幕府は、安政の五

捜索していることを伝えた。

ある所は我政府の領地は勿論、藩封の地といへとも厳にその領主に戎命して敢て油断あるなとなし」と述べ、厳しく

12


衛の者達は十分に奮戦したことを述べ、警備の方法についても「我等於曽て其辺之掛無も少からさるに寄り、最前新

(7)

に護衛之ものを命せし頃、其境内のみならす館内にも相詰為置度旨申入るるといへとも、其許背て承引なけは暫く其

(8)

意に任せしか遂に今般之危急に及べり」とオールッコクの指示通りにしていたと述べ、さらに「以後護衛之士を館内

留置く事は領諾有之度」と警衛の者を館内に入れてほしいとの幕府の希望を述べ、水兵上陸の件に関しては、 「言語

(9)

不通処より、貴国の兵卒等兇徒と衛士とを識別する事不能、自然如何様之過誤に及ぼるも難計、却て是の為に防禁之

とこれを断った。そして、 事件に関する様々 手筈を失ふに至らんかと懸念の筋不少は右兵卒は差戻され候様いたし度」

な事情については「先概略を演述して、答えお���び件々の事情は猶跡より可申入候得とも、書中にては其事を尽し難

( )

 幕府は先のオールコックからの六月二日付の書簡に対する返書と同日に「先に返書を以て申入し趣もあれとも、猶

めた。

このような事件再発防止の処置はどうなっているのか、との質問をして返答を求め、さらに、重ねて厳しい処罰を求

っているのか、(二)犯人の逮捕状況はどうなっているのか、(三)幕府が入手した犯行声明書の提出を求む、(四)

信 を 抱 き、 六 月 四 日 付 の 書 簡 で こ れ に つ い て 大 い に 不 満 を 述 べ る と と も に 、 (一)警衛の番兵達の責任問題はどうな

代のため何の説明もなく引き上げさせた。オールコックはこの理由を知らなかったので、幕府のこのような態度に不

 しかし、これより先の六月三日、幕府は事件直後から警衛に加えていた江川太郎左衛門支配下の鉄砲隊を、警衛交

きに付、不日面晤にて万事詳悉せんと欲す」と会談の席でこれを明らかにする旨を伝えた。

10

ックに送った。この書簡で、幕府は重ねて警衛の者等は十分奮戦したことと、警衛の者達を館内へ入れてほしいとの

此 末を縷述して護衛之士面々用意等閑ならす、且常之我政府之注意浅からさる段諒察を乞ふ」旨の書簡をオールコ

11

56 第二章 東禅寺事件


第五節 事件後の外国公使等の対応とそれに対する幕府の対応

55

第五節 事件後の外国公使等の対応とそれに対する幕府の対応

 前述のように幕府は桜田事変の時とは一変して、水戸藩に対して厳しい処置に出たが、これには当時の外交問題が 大きく影響していたのである。

事件後オールコックは、六月一日付の書簡で事件の大意と英国水兵の上陸による使臣館の警備を申し入れ、翌日の   (1)

書簡で事件の詳細を述べるとともに、「兵器を携へたる者使臣館を襲わんとせしに、公然として防禁するもの之に抵

抗することなく、又之を妨くることもなくして戸外に至らしむ」と警備に対しての不満を述べ、あらためて「「ハー

(2)

女王の の軍艦一艘を江戸に呼て不列顛の一個の強き番兵を上陸せしめ、使臣館警衛之為に備ふる日本兵 レマイステート」尊 称

の一助たらしめたり」と英国水兵の上陸を申し入れ、さらに「如何なる無法の人と雖も、何の報酬もなき目当にて唯

徒らに自ら死を求め、或は人を殺すを快楽として御大老を殺害し、或は周囲に兵士の警衛ある使臣館を襲ふが如き最

(3)

も危険なる企てを為さんと試るものあらんや。使臣館中の人を殺害し尽すといへとも此迷頑なる廃棄人の為め何等の

利益あるや。此の如き人々は此事件を起す原因にはあらずして、之を施行するに用ひらるる器械なり」と水戸藩主の

(4)

指示によるものではないかと疑い、幕府に対して「殺害人と之を命ずる人と当方に能く道理を示して、共に之を糺明

「一国戦争の苦害を遣すへき原因となる醜 する事との間に於て猶予する事なく速に決断あるを日本の要事と思へり」

(5)

むへき耻辱を我々旗旌に与へ、残悪なる攻撃に関係せる輩を罪科に処し、一改革を為すべき法則を建るに非すんは、

(6)

日 本 政 府 及 び 大 名 も 其 尊 栄 威 権 を 落 し、 諸 君 主 よ り 軽 視 せ ら る る を 免 れ さ る べ し。」 と 述 べ、 厳 し い 処 罰 を 求 め た。

これに対して幕府は、六月五日付の書簡で「警衛之諸士並番兵之もの等死傷等の危難に及ぶまで奮勇苦戦せし」と警


変を生む要因となってしまったのである。

茅根伊予之の後継者と目され、従兄東湖に学んだ。嘉永の末川路聖謨露使応接のため長崎に向かうとき、  少年の頃より俊秀の聞え高く、藤田東湖 ・  請うて従者となり、帰藩して弘道館訓道に挙げられ、安政三年史館勤めに移った。

 『水戸藩史料』下編 八六頁 吉川弘文館 一九七〇復刻   同右 一〇八〜一〇九頁  安政二年選ばれて蘭学を修め、三年弘道館舎長に挙げられた。玉造勢の屯週により鎮撫に派遣されて周旋に勤めた。

(1)

 

(4) (3) (2)

54 第二章 東禅寺事件


第四節 事件後の処置

53

出入りを厳しく監査させ、また、目付物頭等を数隊に分けて各組同心や猟師等をも引率させて山間僻地に至るまで厳

しく捜索させた。この時の状況を会沢正志斎は八月十九日に上書した書で「三執政下著ニにても指たる目に見候儀も

無之、尤激抔申騒立候者共、手を替、品を替、様々六ヶ敷事を申立、役方を劫し候ニ付疑惑を生じ、二の足をふみ候

(3)

て、騒立候者之機嫌を取候様子ニ承り候所、近頃ハ役方評議一決仕、弥わる者を召捕候事ニ相成候ニ付、捕方之者共 も身ニ入候て相働き、久敷見通し候者も追々手に入候様子ニ御座候」と述べている。

こうして残党狩りが強化されていった結果として、八月二十六日には常陸国那珂郡入本郷村に潜居していた前木新  

八郎と森半蔵は水戸藩吏に囲まれて自刃し、木村幸之助も十月に水戸領内馬場村で逮捕され、水戸の獄舎に繋がれた。

また、襲撃には参加しなかったと思われる中村乙次郎は陸奥郡山で逮捕され、水戸の獄中に病死し、池田為吉も江戸

で捕らわれ獄死した。この他、桜田事変残党の関鉄之介も越後国湯沢の温泉場で逮捕されている。さらにこの残党狩

りは東禅寺事件関係者に限らず玉造勢にも及び、逮捕投獄される者が続出した。ここに至って、先に細谷の幽室に入

っていた大津彦五郎は、その志が全く得ないことを知り、抗議の絶食を続け、囚中に死亡し、その他、大津と共に囚 に就いた者もそのほとんどは囚中に病死した。

 一方、幕府の追及も厳しく、襲撃には参加しなかったと思われる千葉昌平も上野国茂呂村で幕吏に捕らえられて江

戸に護送され、十二月二十五日に先に捕らえられ、入獄中であった榊鉞三郎、石井金四郎と共に死罪に処せられた。 この他、十月九日には浪士等が宿泊した南品川村の旅籠寅屋の定兵衛等を罰した。

(4)

 このような厳しい取り締まりにより、長谷川允廸は同志に与えた書状の中で「此上追捕等出来候はバ、猶々切迫人

而已出来、詰り事変を招き候姿に御座候半と苦心仕候」と述べ、次の事変が起こることを憂慮したが、現実に次の事


52 第二章 東禅寺事件

した。こうして幕府の干渉によって、十九日には元執政の大森尹諧に再勤を命じ、大久保忠貞を執政とし、二十一日

には大寄合頭市川弘美、佐藤信近、榊原照煦、朝比奈泰尚、鳥居忠順、その他大番頭、書院番頭等十数名を藩内取締

掛に命じた。しかし、幕府はこれでも十分とせず、さらに圧力を加え、二十四日には執政杉浦政安、肥田政好を罷免

し、逼塞とし、激派の者達に最も人望のあったいわゆる三老の岡田徳至、大場一真斎、武田耕雲斎の政務参与を免じ

このように幕府は水戸藩に対して強硬手段をとり、藩庁も幕命を受け入れ、東禅寺事件の責任を、三老をはじめと

て謹慎に処し、元執政の太田資忠、鳥居忠順に再勤を命じた。  

する激派に着せて退け、興津良能等の登用によって鎮派が藩政を左右した。また、事件後の水戸浪士に関する風説は

その実に過ぎるものがあったため世人の恐怖するところとなり、またこれと同時に水戸浪士の名を借りて横行する者

も少なくなかった。水戸の有志等はこれを弁明したが、その疑惑を解くことはできなかった。このため東禅寺事件の 残党狩りは一層厳しくなった。

 七月二十二日、江戸執政の白井久胤、興津良能、興津良顕等が藩内取締の命を以って水戸に帰藩した。ここに至っ

て幕府は二十七日に久しく延滞していた桜田事変の獄を断じた。そして、白井等の帰藩の結果として、八月三日には

持筒頭岡崎内膳に水戸城下取締盗賊改加役を命じ、五日には先手物頭布施十衛門に同じく取締を命じ、七日には海浜

各所に留任する先手物頭に取締追捕を兼任させ、さらに藩内の取締は厳しいものとなった。

 これ受けて藩庁は、さらに八月九日、諸有司及び一般に東禅寺事件の残党及び浮浪の徒の逮捕を命じ、翌十日には

幕命により重ねて浪士の逮捕を諸職に厳達した。そして、十五日には先手物頭師岡猪之允に組同心を率いて北郡に出

張させ、北辺に逃亡した壮士等の逮捕を命じ、さらに諸職を部署に分け、各地に出張させて、江戸ー水戸間の要所の


第四節 事件後の処置

51

第四節 事件後の処置 (1)

 東禅寺事件は、原忠敬が会津侯に寄せた書に「イキリス国ミニストル等長崎表より京都拝見之上、東海道罷下候趣

国許へ相聞へ、右に付種々浮説もさしをこり、以ての外御国威を損候様心得候ニ付、一時存詰候精神を以て拾人餘風

(2)

と立去候処、右之者共昨春以来小川村、潮来村辺へ屯居罷在候組ニ無御座候間、役人ニ於ても油断仕候所、不図も忍

出、品川東禅寺乱妨之始末ニ及び云々」とあるように水戸藩にとってはまさに青天の霹靂であった。

 事件後の六月一日、慶篤は事態を憂慮して、幕命に先立って士民が事件の浮説を信じ、南上することがないよう厳

重な取締を在藩の家老達に命じた。これを受けて、藩庁は目付 郡 ・ 奉 行 等 に 命 じ て 部 下 の 吏 員 を 長 岡 駅 に 出 張 さ せ た。 しかし、事件後の幕府の水戸藩に対する意向はすでに劇変していた。

 六月五日、幕府は慶篤に登城を命じたが、慶篤は病と称してこれを辞したので、七日強いて登城させた。この席で

閣老等は慶篤に藩政の改正を勧告し、先ず興津良顕を執政とすること命じ、さらに家老白井久胤、興津良能、尾崎為

六月九日、慶篤は幕府の指示に従い、興津良顕を執政とした。すると幕府は十五日、直ちにこの興津良顕を呼び出

貴、参政飯田正親、側用人横山信熈等を呼び出して藩政の怠慢を厳しく叱責した。  

して東禅寺事件の余党の逮捕を命じた。興津は人心の錯乱を憂慮して猶予を願い入れたが、断固として許されなかっ

たという。さらに十六日には、水戸藩に兵力を以って残党を逮捕し、 もし遅疑緩慢なる時は厳譴あるべしとの旨を達し、

そ の 他、 会 津 桑 ・名 忍 ・ ・姫路 庄 ・ 内等の諸藩に水戸藩逃亡の士民の追捕を命じた。ここに至って慶篤も躊躇するこ

となく直書を家老及び家中に下して、幕府の厳命によって藩重役に異動のあることを告げ、藩内を静謐にするよう諭


50 第二章 東禅寺事件

 大和国郡山を藩庁とした藩。六度にわたって領主の交代をみたが、いずれも譜代の有力大名であった。

「東禅寺一件 二」所収「同日閣老ヨリ兇徒ノ懐中セシ連名ノ私稟ヲ贈り併テ逮捕ノ策略猶怠ラサル旨ノ書翰」 (同右 六七三頁〜六七四頁)   

「東禅寺一件 一」所収「同日風説書」 ( 「続通信全覧」類輯之部三三 六四六頁 雄松堂出版 一九八七)    日 戸家臣ノ申稟」 「東禅寺一件 四」所収「八月 水 ( 『続通信禅覧』類輯之部三三 七二二頁 雄松堂出版 一九八七) 欠     「東禅寺一件 一」所収「同日松平時之助ノ申稟」 (同右 六三六頁)  

 譜代大名松平氏(六万石)の藩で代々老中職を勤めた家柄。東禅寺警護を命ぜられる前はオランダ公使館である麻布の長応寺を警護していた。

(9) (8) (7) (6) (5) (4) (10)


石井の四人は寅屋に戻り、中村と山崎はその場で自刃し、石井は失敗して捕らえられ、山名主水助へ預けられた。岡

見は一人この場を去って京都に向かい、後に文久三年の大和挙兵に参加し、捕らえられて京都で死罪に処せられた。

森と前木は常陸に逃れ、黒澤はこの場を去って翌文久二年坂下門外の変に参加した。矢澤金之助については、八月の

(7)

水戸藩の報告では、「領分西内之村と申所ニ潜居候振ニ付、是又手配為致候処、牧野越中守領分笠間の方 迯去候間、

(8)

跡追掛候得共、行衛難相知。」と述べられている。渡辺剛蔵については、『水戸藩史料』にも『続通信全覧』にもその 後の記録はない。

(9)

」と  ところで、警備にあたっていた大和郡山藩の藩主松平時之助は五月二十九日付の書簡で「浪人体之者三人討留

述べている。さらに、六月五日付の老中からオールコックへの書簡にも「乱入せしものの内三人は其場に殺傷し」とあ

る。このことから、乱入した浪士の内三人が死んだことは確かである。右の古川と小掘のほか、 『水戸藩史料』下編

には有賀が闘死したとあり、右の六月五日付の書簡に添えつけられた幕府側の浪人踪跡報告では木村が「堂寺におゐ

「東禅寺英假公使館兇徒襲撃一件 一」 (以下東禅寺一件と略す)所収「同日風説書兇徒ノ姓名」(『続通信全覧』類輯之部三三 六四二 六四三頁   

 註

あり、実際に闘死したのは有賀だと思われる。

前はない。しかし、木村は文久元年十月に馬頭村で捕らえられているので、恐らく幕府が有賀を木村と誤認したので

て即死」とあり、六月十五日付の大目付への逃走者追跡命令の書簡の逃走者名簿には、有賀の名前があり、木村の名

10

 雄松堂出版 一九八七) 「東禅寺一件 一」所収「同日風説書防戦被創ノ姓名」(「続通信全覧」類輯之部三三 六四二頁 雄松堂出版 一九八七)  

(1) (3) (2)

第三節 東禅寺討入

49


48 第二章 東禅寺事件

付とは「存意書」のことで、本文の後に、風説書の有賀以下十四名が連名で名を連ねている。このことから考えても、

(5)

存意書に連名していない者が襲撃に参加したとは考えにくい。おそらく右の高畑等は二十三日に水戸を出発した一派

(4)

で、襲撃には合流できなかった者達であろう。

兵が山門外の法蔵寺、西尾藩兵が裏手の上洞庵、講武所から選抜された外国御  この時の東禅寺の警備は大和郡山藩

用出役四十余名がオールコックのいる本堂付近を���れぞれ担当しており総勢二百人ほどであった。三手に別れた浪士

等の内、一手は総門から門番の制止を振り切って乱入したが、構内にいた外国御用出役が真っ先に駆けつけ、続いて

郡山・西尾の両藩兵がこれに加わり、闘争に及んだ。二十九日付の御用出役頭取の報告では、この一手は五六人であ

(6)

ったという。さらにこの闘争の後、御用出役が館内に入った時は、残党はいなかったと述べている。一方、外の二手

については、二十九日付の風説書には「何方より入込候哉。浪人体の士十人程夷人館ニ押込候」とあり、さらに同日、

高輪町の町名主も同様の報告をしている。恐らくこの二手が裏手から館内に侵入したものと思われる。そして、総門

から乱入した一手の内二人も館内に進入した。暗闇の中で右往左往するうち、この内の三人がオリファントとモリソ

ンの部屋にたどり着き、刀で両人を切りつけ、傷を負わせた。そして他の一人がオールコックの部屋に迫ったが、オ ールコックを傷つけることはできず、結局浪士等は志を得ずに堂外に脱出した。

 闘争の結果、警備兵の被害は外国御用出役の者が一番被害が多く、死者一人と負傷者五名、その他数名が軽傷を負

った。さらに、大和郡山の藩兵三人が負傷し、その他、借馬別当の熊吉が死亡し、異人門番人と表門番人と料理人の

一方襲撃した浪士等は、古川と小掘の二人が闘死、榊は闘争の結果、負傷して捕らえられた。岡見、中村、山崎、

三名が負傷した。  


第三節 東禅寺討入

47

第三節 東禅寺討入

 当時、水戸藩では藩士の江戸往復を厳しく取り締まっており、攘夷派が南上するには水路によるほうが安全であっ

た。東禅寺事件で負傷し、捕らえられた榊鉞三郎はその経路について「去る廿四日、水戸領玉造湊拾四人乗にて出帆。

(1)

東禅寺門前海岸より上陸致し切込。地理不案内故不覚を取、残念之由申之三十人乗者、前日廿三日同所出帆。是者何

れに忍居候哉不知」と述べており、二十三日から二十四日にかけて二手に別れて玉造湊から潜行したことが窺われる。

そして恐らく二十四日に出帆した者たちが実際に襲撃した者たちであると思われる。さらに、二十九日付の風説書に

(2)

は「一昨廿七日夜八時頃、(南品川宿二丁目寅屋定兵衛方に)浪人体止宿致し、翌二十八日朝四ッ時、又々七人罷越、

都合拾三人同夜 時頃右拾三人出立」とあり、二十七日の夜に到着し、六人と七人に別れて投宿して、二十八日の朝

に合流し、夜にここから東禅寺にむかったものと思われる。ここに十三人とあるのは、残りの一人については情報が

そして二十八日の夜、一同は寅屋に会して決別の宴を張り、四つ時過ぎ、浪士等は三手に別れて東禅寺に乱入した。

欠けていたか、或いはこのあと合流したのかもしれない。  

これを決行した者は、二十九日付の風説書によると、有賀半弥、岡見留次郎、前木新八郎、榊鉞三郎、木村幸之助、

石川金四郎、渡辺剛蔵、森半蔵、古川主馬助、山崎信之助、中村貞助、小掘寅吉、黒澤五郎、矢澤金之助の十四名で

ある。この他に、『水戸藩史料』下編には高畑房次郎、千葉昌平、池田為吉、 中村乙次郎、 小池庄兵衛等の名前もある(襲

(3)

撃者及び関係者については別紙付録参照)。しかし、実際に襲撃したのは風説書の有賀以下十四名ではないだろうか。

捕らえられた榊は右の経路のほかに「本文書付者銘々所持、連判帳者半弥壱人所持致候」と述べている。この本文書


し、或いは人民を銃殺するなどの暴行を働いた。

この急報に接した幕府は、四月に外国奉行小栗忠順 目 ・ 付 溝 口 八 十 五 郎 を 対 馬 に 派 遣 し て そ の 退 去 を 交 渉 さ せ た が、

小栗はこの処置に苦しみ、すぐに談判を中止して、領民の安撫とロシア人を平穏に取り扱うべきことを命じて帰って

 

しまった。このようなロシア人に対する外国奉行の態度は攘夷派の志士達をさらに憤激させた。

 そしてさらにイギリス公使オールコックが香港での用事を済ませた後、その帰路を利用して長崎からの陸路の旅行

を幕府に申請した。長崎奉行は何度も船旅を進めたが、オールコック一行はこの制止を無視して小倉に到り、それよ

り海路で東上し、五月八日に兵庫に上陸した。幕府は京都に入ることは断念させたが、オールコック一行は大坂 奈 ・

良・桑名を経て東海道を下ることになった。この報は瞬く間に四方に伝播し、攘夷派の志士達は神州の地を汚すもの

と憤激したのである。そして玉造勢の過酷な処分は水戸藩の攘夷派を刺激し、ついにオールコック襲撃を決行するこ

 註  

に入るを例とした。そこを攘夷派の浪人清河清明や薩摩藩士伊牟田眞風らに狙われ、公使館にほど近いところで惨殺された。

彼は当時プロシア使節オイレンブルクの条約を援助していたが、その交渉場所である江戸赤羽接遇所から麻布禅福寺の米公使館への帰還は夜  

ととなった。

 

(1)

46 第二章 東禅寺事件


第二節 東禅寺事件発生に至るまでの物情

45

金子勇次郎は外国人が日光を参拝するとの噂を聞き、これを要撃しようとしていた。恐らくこのようなことが風説の

)が江戸の赤羽で Heusken, Henry, C.J.

因になっていたと思われる。さらにここで、水戸藩において玉造勢以外にも斬夷を計画していた者がいたのは、後の 事件を考える上でも注目に値する。 (1)

(  そして同年十二月五日、アメリカ公使館通訳のオランダ人ヒュースケン

七名の浪士に襲撃され死亡した。犯人は薩摩藩士と思われたが、これも犯人は捕まらなかった。これより先、幕府は

数百名の浪士が横浜の外国人居留地に放火し、同時に江戸の各国公使館を襲撃するという目的で集結しているから、

一時的に外国領事は全員横浜に移るように、また外国代表は公使館を離れて江戸城内に避難するよう提議していた。

しかし、幕府のこの提案に対する各国公使の意見が決まらないうちにヒュースケン殺害事件が起こってしまった。こ

の時、警護の幕吏が十分な対処をしなかったことと、またもや犯人が捕まらなかったことは外国公使等を憤慨させた。

この結果、ハリスを除く各国公使等(英 仏 ・ 蘭 ・ プ ・ ロシア)は江戸を去り、横浜に退去した。しかし、各国公使等

がとったこの処置は幕府に対して大きな反響を与えることが出来ず、しばらくして江戸に帰ることになった。これに

際して、公使等は幕府の懇請によって帰府する形式を望み、結局、幕府を脅して将軍名義の招請状を各国公使に送ら

せるという形をとって約一ヵ月後には江戸へ帰った。事件そのものはこれで解決したが、攘夷派の志士達に与えた心

理的影響は少なくなかった。彼等は外国側の威嚇と幕府の屈服を見て取って、さらに闘志を燃やしていった。

 文久元年に入ると、さらに攘夷派の志士を憤激させる事件が起こった。この年の二月、ロシア軍艦ポサドニック

)が対馬の浅海尾崎浦に来て付近を測量し、その後芋崎浦に停泊して、船体修理と称して営舎を作り、 号( Possadnick

永住の施設を構え、占領を図る状況となった。さらに、このロシア人たちは上陸すると、民家に乱入して家畜を掠奪


44 第二章 東禅寺事件

第二節 東禅寺事件発生に至るまでの物情

 開港以来、攘夷派の憎悪の念はこれを断行した幕閣と同様に外国人にも向けられていた。この頃、攘夷派の志士達

による外国人殺傷事件が頻発し、幕府を困惑させ、外国人を恐怖におとし入れていたのである。

  ま ず 開 港 以 来 は じ め て の 外 国 人 殺 傷 事 件 が 安 政 六 年( 一 八 五 九 ) 七 月 二 十 七 日、 横 浜 で 起 き た。 日 露 修 好 通 商

条 約 の 批 准 書 交 換 と 樺 太 国 境 確 定 交 渉 の た め 品 川 に 来 航 し て い た ロ シ ア の シ ベ リ ア 総 督 ム ラ ビ エ フ( Muraviyov,

)が率いる艦隊の士官 水 ・兵 司 ・ 廚夫の三人が食料購入のため上陸中、数名の武装した日本人 Nikolai Nikolaevich

に襲われて士官と水兵が殺害され、司廚夫が重傷を負った。ついで十月十一日には横浜在留のフランス領事館勤務の

Alcock,

)と商人 De vos

清国人が洋服のため西洋人と誤認されて殺害された。翌安政七年(一八六〇)一月七日にはオールコック(

)が殺害された。 Dekker

)の通訳の伝吉が殺され、二月五日には横浜に上陸したオランダ商船長デ ボ ・ ス( Sir Rutherford デッケル(

 年号が安政から万延に改まると攘夷派の志士達を憤激させる出来事が相次いだ。この年の七月四日、幕府はハリス

)が通行中に何者かに腕を負傷させられた。 Natal

に登城を許し、さらに七月二十四日にはオールコックが富士登山を行った。そして、この年の九月十七日、三田済海 寺門前でフランス公使の従僕でイタリア人のナタール(

 これらの外国人殺傷事件の犯人はいずれも逮捕されないままで不明であったが、このいくつかには水戸藩の浪士が

関係しており、また関係があると噂になっていた。実際、ナタールが殺害された頃には、長岡の残党である大津等

が小川村に屯集して攘夷を盛んに唱えていた。さらに、玉造勢には参加しなかった桜田事変首謀者の金子孫二郎の子、


第一節 玉造勢の発生とその処分

43

 嘉永三年家督を告ぎ、安政五年小姓頭となる。文久三年側用人に進み、藩主徳川慶篤の上京に随従した。

 

 天保三年家督を継ぎ、安政五年側用人に補された。この間、勅書返納の不可を唱えて建論するところがあった。のち大番頭に転じて調練係となる。  『水戸藩史料』下編 五三〜五五頁 吉川弘文館 一九七〇復刻

(3) (2) (1)


42 第二章 東禅寺事件

 しかし、藩庁では二月二十四日に目付等に命じて大津等九人を評定所に拘引させ、玉造残党の逮捕を命じるととも

に、二十四日には大津等を同所に幽囚させた。藩庁がこのように厳酷な処置に出たのは幕府の指示があったからであ

る。三老等はこれに大いに反対したが、その議は有志等と相容れることはなかった。このため、慶篤は家老等に命じ

てさらに衆議を尽くさせ、両説を折衷してこれを処理することにした。この結果、大津等は城東の細谷村に移され、

謹慎扱いとして幽閉され、三月十日、藩庁はこれを幕府に申達した。しかし、ここも通常の牢獄と変わりなかった。

 しかしながら、幕府はこの処置に満足することなく、三月二十九日には水戸藩の家老を呼び出し、速やかに壮士を

糺問し、且つ残党を追捕するように命じた。これを受けて藩庁は、郡奉行 町 ・ 奉行等に対して、支配下の村々に潜匿

している者があれば、住民に取り押さえて届けさせるように命じ、もしそれを見逃すような者がいたら、本人と同罪

に処するとし、村役人から五人組に至るまで友吟味するようにと指示させた。これはいわば密告の奨励であり、この

ために同じ村に住む人々が相互に不信感を持つような事態に陥った。一口に長岡の残党いっても、昨年の秋頃には帰

宅していた者も多かったが、それらの人々も密告によって摘発され、不信感はさらに広がっていった。幕府はさらに

四月一日、慶篤が登城すると、重ねて壮士等の処分を促し、早急に鎮圧を加えることを求めた。これを受けて藩庁は

四月六日、用人永田甚兵衛、目付佐野清六等を穿鑿掛に命じ、処断に着手することとなった。

 このように玉造勢の処置については三老をはじめとする激派と、鎮派である有司の対立を深刻なものにした。しか

し、この裏には幕府の干渉があり、幕府としても桜田事変の再発を恐れたため、特に水戸藩に対しては厳格な態度で

望まざるをえなかったものと思われる。しかし、それが結果としては藩内の対立を深めることになり、激派の人々を 更なる過激な行動に駆り立てることとなる。


第一節 玉造勢の発生とその処分

41

横浜へむかうときは、船で下総の銚子港辺りの海岸へ上陸し、九十九里から房州海岸に出て、そこからまた乗船する、

玉造勢を放置できなくなった藩庁では、重ねて鎮撫の策を議し、とりあえず藩論を一定して鎮定の方略を立てるこ

と浪人達が述べているとの風聞を報告した。  

とにした。このため、慶篤は武田を江戸に出府させ、在府家老とこれについて議論させた。武田はここで、政府内部

からの改革を強く主張し、慶篤は武田の意見を大いに受け入れるとともに、厳正なる政令によって不法の徒を逮捕し、

鎮定するとの裁断を下し、これを幕府に申達してその順序を定めた。すなわち、二月九日、藩庁は目付 郡 ・ 奉行 先 ・

手物頭加役に命じて不法の徒を逮捕させ、同日、幕府も水戸において浪士の逮捕に着手することを諸有志に命じ、ま

た、関東八州の諸侯及び領主に徘徊する浮浪の浪士は猶予なく捕獲するよう命じ、その他、仙台以下東北二十余藩に

も同様に警戒するよう命じた。そして、翌日の十日には鳥居忠順、太田資忠、大森尹諧等鎮派の執政を表家老として

このように武田の出府の結果、その願通り人事の刷新が行われたが、壮士鎮定の責任は武田をはじめとするいわゆ

退職させた。  

る三老が一身に背負うことになったのである。これにより、三老は、以来鎮定に努め、諸有志等も協力して壮士を服

従させることに努めた。このため大津等も三老が藩政革正の任に当たるなら、尊攘の大義を事業に施すことができる だろうと信じ、遂に退散を承諾することにした。

 二月二十八日、大津等四人は、玉造村を退去して那珂西村の宝幢院に入り、興野都栄等二人は河和田村に退去して、

それぞれ嘆願書を提出して、罪を一身に受けるとともに、部下に対しては寛大な処置がとら���るように、と述べて自 首した。また、武田も上書してこのことを願い出た。


40 第二章 東禅寺事件

第二章 東禅寺事件

第一節 玉造勢の発生とその処分

 林忠左衛門等三十八人と別れた大津彦五郎等の一派は、斉昭逝去のため二十六日江戸を出立した慶篤を新宿駅から

陰ながら警衛して帰途についたが、水戸城下に入らず、南郡の小川村に屯集した。藩庁は多方これを説諭したが、大

津等はこれに従うことなく、九月には斉昭の遺志を継ぐ事業を拝見してから進退を決するとの陳情書を提出し、三隠

(1)

(2)

居の登用をはじめとする藩上層部の陣容一新などの要望を個条書きで述べた。この後、勅書返納の猶予が認められ、

三隠居の登用などがあり、また、藩庁は美濃部亨や飯田正親を現地に出張させ他方鎮撫に努め、諸有志等も周旋した

結果として、一時やや鎮静したが、文久元年(一八六一)の一月中旬から再び活動が盛んになった。大津等は玉造村

上 ・総 下 ・ 総の代官である佐々木道太郎が幕府に上申し

に屯集し、同所の郷校である文武館を本陣としたので玉造勢と称されるようになった。

(3)

 この玉造勢の横暴は目にあまるものがあった。二月に安房

日々 た書によると、文武館には「無二無三日本魂」と書いた旗と、「進思尽忠」と書いた横のぼりをそれぞれ一本立て、

調練し、また、軍用金を調達するため常陸新里の村役人を脅迫し、さらに隣国である下総の小見川にまでその範囲を

広げ、金子を催促している。さらに、途中で行き会った者たちを不法に堀や溝に投げ込み、鉄扇によって打ちたたき、

帯刀している者からはその刀剣を奪うなどの乱暴をするので、利根川筋の往来はなくなったと述べ、さらに、三月に


第五節 事変後の物情

39

 安政四年床机廻に選ばれ、のち馬廻組となる。同五年の藩難、ついで翌六年の勅書返納阻止に奔走した。万延元年二月金子孫二郎ら評定所に召  喚されるを聞き、これを奪わんとして藩兵と消魂橋に戦って負傷し、このために井伊大老要撃に加わらなかった。  彦之丞義綱の弟。安政五年の藩難以来国事に尽力。翌年の長岡屯集に参加した。 (1)

(2)


38 第一章 桜田門外の変

また、先の大貫 島 ・ 田勢を含む長岡の残党等は、斉昭が逝去すると、皆期せずして南上したが、藩の役人に阻止され、

その結果、慶篤は二十四日、登城するとともに、この三人を藩政に参加させる命令を下した。   (1)

(2)

新宿に集合した。しかし、ここでその進退について議したところ、議論は遂に二派に分かれた。この結果、林忠左衛

門等の一派は薩藩に攘夷の先鋒たることを請い、大津彦五郎等の一派は退いて時期を待ち、尊攘の義兵を上げようと

八月二十七日、林忠左衛門等三十七人は、江戸の薩藩邸に至り、天下の浪人と称して、斉昭の死後、天下の模範と

計った。  

なるのは、当家の主人であるから、その武徳を慕って参上したのであり、攘夷の兵を挙げるときには我々にその先鋒

を勤めさせてほしい、との趣旨の意見書を提出し、薩藩の英断を促した。しかし、薩藩は直ちにこれを幕府に報告し、

幕府はしばらくこの三十七人(のち下野清介が加わって三十八人となる)を同藩へ預けるとの命令を下した。しか

し、薩藩でもこれらの処置に困り、水戸藩に引き渡そうとするがうまくいかず、空しく日時を費やし、翌文久元年六

月には鹿児島へ送ろうとした。しかし、この三十八人等は、その志願が達せられないことを悟り、目的もなく鹿児島

に行くのも、このまま空しく日を送っても、元主人や同盟の者たちに対して名義が立たないからと生国に帰ることを

望んだ。これによって薩藩はこの事情を幕府に上申したので、幕府では六月二十日に水戸藩の家老を召喚して、浪士

三十八人の引取りを命じた。水戸藩は薩藩に照会して、七月五日これを小梅の別邸に引取り、直ちに駒込の藩邸に移

した。水戸藩は、はじめこの者達を水戸に送還しようとしたが、幕府は許さなかった。この後、三十八人は翌文久二

年十二月十七日に放免されるまで、駒込邸に幽閉され、このうち九人が幽囚中に死亡した。


第五節 事変後の物情

37

撃するとの風説が広まったので、同四日には、特に浦賀奉行に命じて船舶の入港を監査させ、その他、講武所 外 ・国

軍 ・ 艦の三奉行に命じて横浜方面の海上を監視させた。そして、十八日には水戸藩に勅書返納を妨げているもの及び 桜田事変残党で領内に潜んでいる者を逮捕するように命じた。

 この後、大貫勢は鎮撫の命があるに及び、同月に、一命をかけても勅書返納に反対する覚悟であるとの旨の陳情書

を藩庁に提出し、いったん退散したが、幾ばくもなく再び島田村に集合し、四月には同様の趣旨の陳情書を再び藩庁

こ の 後、 八 月 十 五 日、 斉 昭 が 逝 去 し、 慶 篤 は 八 月 十 八 日 に 幕 府 か ら 帰 国 の 許 可 を 得 て、 二 十 六 日 に 江 戸 を 出 立、

に提出した。  

二十九日水戸に到着し、九月二十七日に斉昭を瑞龍山に葬った。慶篤はこの機を以って長く水戸に留まり、自ら庶政

を実施しようとし、また、士民もこれを望んだが、幕府はしきりに参府を促した。このため翌二十九日、慶篤は手書

を家老等に下し、参府のやむをえないことを諭し、藩内を鎮静させた。その後、十月三日にまた手書を家老等に下し、

告志篇の大意を示諭し、斉昭の遺志に従って、尊王敬幕の大義を明らかにして、これに違背することがないよう訓示

し、さらに、学校掛家老杉浦政安と元家老武田耕雲斎に命じて、斉昭の遺志を継ぎ文武を奨励すべき旨を師範一統へ 諭させた。その後、慶篤は七日水戸を発して、十日に江戸に到着した。

 幕府は、十一月十四日に慶篤の登城停止を解き、明日から平常どおり登営することを命じたが、慶篤は病と称して

これを断り、内密に久世老中に書状を送り、藩内の激派が斬夷などの暴挙に出る恐れがあるので、それを防止する処

置がとられるまでは登城できない、と述べた。このため幕府では、激派の者等が信服している元執政の岡田徳至、大

場一真斎、武田耕雲斎の三人を登用させることとし、十九日に久世邸へ水戸藩の執政を呼び出してその旨を伝えた。


36 第一章 桜田門外の変

第五節 事変後の物情

 幕府では、井伊大老によって登用された老中の内、太田資始と間部詮勝は、それぞれ安政六年の七月と十二月に罷

免され、この二人に代わって万延元年一月に任用された安藤信行ならびに以前から在任していた脇坂安宅と松平乗全、

内藤信親の四人が桜田事変の時の老中であった。そして、事変後間もなく四月に松平乗全が、また十一月に脇坂安宅

が辞職し、それに代わって閏三月に久世広周、六月に本多忠民、十二月に松平信義が老中となった。このうち、井伊

政権以前にも老中であった久世広周は勝手掛、また安藤信行は外国事務取扱の職務を担当し幕閣の中心となった。

・ 藤政権は、桜田事変の反省に基づいて公武合体の方針をとり、朝幕間の融和を図ろうとして、以前からあ  久世 安

った和宮降嫁の案を四月から推進しようとしたが、和宮がすでに有栖川宮と婚約していたことなどもあって、十月に

勅許が下るまで朝廷と幕府との間の交渉は難航した。この事態は、幕府が自己保全のために朝廷に対し無理なことを

強要したのものとして多くの批判を招き、幕閣の中でも、久世はもと一橋派に近く、そのため井伊大老と対立した経

緯を持つのに対して、安藤は若年寄の頃から井伊大老に同調しており、したがって大老の遺策を継承する者とみなさ

れたので、尊攘派の志士たちの憎悪は安藤に集中することとなり、後の事変を生む要因の一つとなった。

 一方水戸では、勅書返納を阻止しようとして、前年の安政六年以来、江戸街道の長岡宿に集まっていた士民は、長

岡勢と呼ばれ、万延元年(一八六〇)二月に自発的に解散したが、桜田事変後、再び水戸の西郊の河和田村に集合し、

幕府は甚だこれに警戒し、閏三月に入るとこれらの者が安藤、石谷等を斬殺し、さらに横浜に侵入して、夷館を襲

やがて海岸に近い大貫村に移り、大貫勢と呼ばれた。  


第四節 事変後の処理

35

諸大名に伝達された。 註  『水戸藩史料』上編坤 九一六頁 吉川弘文館 一九七〇復刻   『水戸藩史料』上編坤 九一七頁 吉川弘文館 一九七〇復刻

 跡部正房の養子となり、文化十四年家督を継いだ。文政中斉昭擁立に尽力し、後罪を得て職を免ぜられた。天保十年若年寄となり、弘化の藩難 には斉昭の雪冤運動に加わり謹慎に処せられた。嘉永二年十一月慎を解かれ、安政十年十月定江戸若年寄として再勤。同六年十二月の勅書返納の    評定に列席し、返納慎重論を進言した。

 文政六年家督を継ぎ、安政二年正月家老となる。同四年従五位下信濃守に叙任し、五年九月致仕した。文久二年執政に上げられ、三年二月藩主 徳川慶篤に随従して上京、四月に帰藩した。  

(3) (2) (1)

 天保四年七月家督を継いで敦賀藩主となり、安政六年外国掛、万延元年勝手掛となった。この間、安政六年七月には若年寄遠藤守胤と共にロシ

(4)

嘉永七年五月徒頭に進んで筑前守と称した。安政五年四月井伊直弼の大老就任問題に際しては、  幕臣。文政八年十二月召し出されて小納戸となり、 松平忠固派の一員として直弼と面接し、大老就任を懇請した。  

 ア使節ムラビエフと樺太境界につき折衝した。

(5)

 て入門する。やがて彦根藩主となり、直弼の懐刀として京都公卿方を中心の裏工作に敏腕を振るい、義言大老と恐れられた

藤堂氏に生まれたが、岡藩主十二代中川久教に子なきため天保十一年十月養子となり、同年十二月家督を継いで十三代岡藩主となった。節倹の    政を行い、文を修め、武を講じたが、政変急な時としては消極的で、志士に対しては常に冷酷であった。

 自らは伊勢の出自と語るのみで謎が多い。天保十二年結婚して近江国に止まり高尚館を開いた。翌年十一月埋木舎の井伊直弼は彼の高名を聞い

(6)

(7)

。文政五年十一月叙爵。十一年三月元服 昇 ・ 殿を許され、安政四年議奏となった。安政の大獄の際には長野義言より朝廷にお  堂上公家(清華家) ける悪謀画策の代表に数えられ、幕府の堂上処分案には五十日の慎を擬せられたが、堂上処分を寛宥にせられんとする孝明天皇の思召により処分    を免れた。

(9)

(10)


に対して申し訳ないことになる、との考えから返納に反対していると述べている。そしてさらにこの考えを批判して、

朝廷から見れば、日本国にはかえられないのであって、どの外様大名に勅諚が下ることになってもやむをえないので

あり、返納せよとの命令が出たのもこのためであろう、と述べている。そして、家中市民を一和にするためには、教

育を行き届かせなければならないとし、さらに、井伊家に対しては厚く法事をし、家督が相続されたら懇意にし、共

一方、幕府は一時返納督促を躊躇したが、四月から五月にかけては、水戸藩からの返納を督促する勅諚を改めて下

に徳川家のためになるのがよい、と述べている。  

されるように朝廷に要請していた。四月十九日には、未だに返上しないのは朝廷に対し不敬になるとし、これ以上遅

滞すれば違勅に当たる、との原案を所司代に提出した。これにより所司代は関白に結託してこれを奏請したが、勅書

返納問題が桜田事変の原因になったというのに、今それを督促したら、朝廷を怨むことになる、と危惧した孝明天皇

の意向によって却下された。そこで幕府は文案を修正し、国内一致して外夷を防禁しなければならない時機に私の闘

(9)

争をすべきではないので、勅書を返納すれば寛宥の処置が取られるであろう、との内容に改めて再度提出した。しか

し、これも却下されたので、幕府はさらに脅迫の手段に出て、議奏、徳大寺公純を公武の和合を妨げる者としてその

職を罷めさせた。これにより、遂に右の案文に即した返納督促の勅諚が幕府に下されることになった。こうして返納

諚返納問題は一応の解決を見たのである。この後、戊午の密勅は、文久二年十二月十五日に至り、幕府の許可を得て

び出し返納猶予を承認する旨を伝達した。そして、同月二十四日、藩庁はこのことを藩内に告示した。これにより勅

水戸に達せられることなく、この後、八月十五日斉昭の死に及んで、十月十九日、江戸城中に興津 尾 ・ 崎両家老を呼

督促の勅命は六月十三日に所司代に達せられ、所司代は禁裏附大久保忠良を東下させた。しかし、この勅諚はなぜか

10

34 第一章 桜田門外の変


第四節 事変後の処理

33

 三月二十日、家老興津良能がまず老中松平乗全の邸を訪ね、勅書返納の猶予を請い、二十二日には同じく家老尾崎

為貴が内藤信親の邸を訪ね、翌日、上申書を提出した。しかし、この書は「御挨拶に及難」と同日の夕方に返却され

たので、藩では心配していたところ、二十五日に松平乗全の邸で、安藤信行を除く老中の全員が会合し、勅書猶予に

ついて協議した。その席上で乗全は、返却の措置は軽率であったとし、老中の職にある者としては天下の騒乱の端緒

を作る事がないよう、水戸藩の実情に応じて無事に取り扱いたい、と述べ、一同もこれを了承した。このように水戸

藩は勅書返納猶予を乞い、難局を脱出しようとした。幕閣にもこれを受け入れようという者もいたが、内部には依然

としてこれを拒んでいた者もいたのである。『公用方秘録』の閏三月の条には、内藤紀伊守から内使があり���水戸の

勅書返納を促し、もし返納しないときは違勅により水戸家を滅亡させるとの意を内示したことが記されている。この

ように、幕閣は中心二端を抱き、一面では水戸藩の猶予の申請を受け入れようと装いながら、一面では井伊の残党等

へ同情を表した。ここでも両藩に対して断固とした処置ができなかったことが窺える。

 一方、水戸藩においても勅書に関しては意見が分かれていた。即ち、家老等は猶予の命を得ることを望み、多方申

請に努めていた。一方、先に返納の儀に賛成していた学士等は事変のために躊躇すべきでないと立論した。また、従

来から返納を不可とする多数の論者はこれと全く反して、事変以来一層気を吐き、大勢の一変を期していた。特に長

岡の残党は、京都の消息を待って、相応じて打って出ようとし、なお各地に屯集していた。このため、斉昭はこれを

深く憂慮し、手書を慶篤の寄せ、藩政に関する将来の自体と勅諸問題から起こった紛議の結末を明らかにし、前後の

方策を示諭した。ここで斉昭は、返納に反対する人々は、徳川家を扶助するようにとの有難い勅諚であるのに、もし

これを返納し、万一にも他の大名に同様の勅諚が下されることになれば、東照宮(家康)や威 義 ・ 両公(頼房 光 ・ 圀)


32 第一章 桜田門外の変

変の当事者が一方は親藩の水戸徳川家であり、一方は譜代の名門彦根井伊家であったから、両藩に対して断固とした

処置を取ることができなかった。また、井伊家の復讐から両家の私闘に発展することを恐れ、井伊家の慰撫に終始し た。よって、両成敗の処置を講じて両藩の衝突を避け、これを処理したのである。

 これより先、閏三月十八日、幕府は水戸藩に対して、勅書返納を拒んでいるもの及び桜田事変残党で領内に潜んで

いるものを逮捕するように命じた。この命があると井伊家の者は大いに喜んだという。しかし、二十日、慶篤は水戸

家老にこの命について「役人之外へハ決て響不申候様一同申合せ取扱候様可致候事」と諭した。しかもこれは幕命に

よるものであった。このことから推察するに幕府の真情は表裏相反し、必ずしも水戸を制するためではなく、井伊家

の人心を慰撫するためのものであったと思われる。当時水戸藩では長岡の残党が、桜田事変後に再び大貫に集合して

おり、大貫勢と称され、その動向に幕府 藩 ・ 庁も大いに警戒していた。幕府が十八日に出した厳令にも「於御領内差

拒候者共并今般於外櫻田及狼藉候残党御領内ニ潜居候ハバ、御召捕」とあり、この命についての幕府の真意は大貫勢

に対するものと思われる。また、事変から一ヶ月以上を経過してから、このような処置にも出たことに幕府の苦心が 窺われる。

 ところで、斉昭は今後も勅書に関して事件が起きることを憂慮し、側用人に諮問して万一の処分を審議させた。こ (8)

の他、後の更なる禍乱を憂慮した者も少なくなかった。輪王寺宮は事変後の調停を図り、勅書返納猶予を幕府に周旋し、

中川修理大夫久昭は閣老を歴訪してこれを遊説した。これらのことは、桜田の事変は実に勅書返納の命から起こった

ことであるので、その命を撤回するか、或いは猶予の命を与えることによって水戸の人心を慰撫することが後の禍変

を防止する唯一の手段であるとの意から出たものであった。そして、これは元より水戸藩の望むところでもあった。


第四節 事変後の処理

31

府を禁じた。さらに翌七日の夜には、隠居中の岡田徳至、大場一真斎、武田耕雲斎のいわゆる水戸三老を呼んで、同

また、水戸藩庁は三月六日、金子孫二郎の亡命を江戸藩邸に移牒し、幕府へ進達した。これより先、二月十八日に

じことを諭すよう命じた。しかしこの後、武田は慶篤から出府の命があり、同日出発した。  

高橋、関等の亡命を幕府に上申していたが、同志の命を受けて事変の一報を届けるため帰藩した畑の申立から金子の

( (5) )

(6)

関係を知ったのであった。そして、同日江戸藩邸の要請によって、床机廻七十余人を発足させた。

三 月 七 日、 幕 府 は 参 政 酒 井 忠 誹 側 ・ 用取次薬師寺元真を上使として彦根藩邸に遣わし、鮮魚 氷 ・ 砂糖を下賜し、幕

(7)

一方井伊家はこれを楯にとって、十日には彦根 佐 ・ 野より逐次家来の到着を告げ、幕府に処置を促した。さらに、

日、幕府は愛麻呂に家督を相続させた。こうして幕府は摸稜両端の手段によってこれを彌縫したのである。幕府は事

弼の名を持って、死後は嫡子愛麻呂に家督を相続させたいと幕府に請い、三十日に直弼の喪を発した。翌四月二十八

 三月三十日、幕府は慶篤の登城を停止すると共に、直弼の大老職を免じた。さらに、閏三月二十三日、彦根藩は直

長野義言にいたっては余燼を集め、党をなし、あくまで宿意を果そうとしていた。

 

その他、持筒頭 先 ・ 手頭に府内を巡行させた。

目付に命じて府下の偵察を厳しくし、さらに竹橋 田 ・安 清 ・水 半 ・ 蔵の諸郭門を閉鎖し、有志の他一切出入りを禁じた。

によるものと疑い、水戸家を陥れようとしたことにこれを見ることができる。そして、九日には町奉行 勘 ・ 定奉行

ては彦根の家臣とその感情を同じくして厳しい処分を望んでいたのである。先の評定所の訊問において、斉昭の内命

えがたく、不穏の色があったためである。この幕府の内諭は一時の慰諭であったが、幕吏の中にも井伊の党類にあっ

府は必ず水戸家を、井伊家の人心が満足するよう厳しく処断すると慰諭して台命を待たせた。彦根藩士等の忿恨は耐

 

5


30 第一章 桜田門外の変

府は懇輸して退け、塩谷豊後守を上使として井伊家に台命を下し、且つ薬品を賜わってこれを慰撫しようとした。し

(4)

かし、彦根藩邸の時勢は、復讐のため水戸藩邸を襲う、所領の下野佐野から兵を徴発した、などの風説があり、決し て穏やかではなかった。

が水戸街道の新宿駅に出張中に、たまた  そしてこの四日の夜、桜田の変報が水戸に達した。これは徒目付久米幹文

ま畑弥平の急行に会し、事変のことを聞いて、これを水戸に急報したものであった。これより先、畑は一挙後これを

金子に報告した後、水戸に急行していた。斉昭は夜八つ時頃、家臣からこの書状のことを聞き大いに驚いた。これが 水戸に達した第一報であった。

 その後三月六日には小石川邸から奥右筆森亥之吉等が水戸に到着した。森は四日の夕刻に慶篤から昨日来の彦根の

動静、邸外の風聞を探索したところ、格別に心配するようなことはなく、幕府の内意によって大老は病死の体に取り

成し、すべて穏便に処置するらしいとのことなので、斉昭にも安堵されたいとの伝言を命ぜられ、徒目付井手徳太郎

等を同伴してこの日の朝、水戸城内に到着した。そして白書院で斉昭に謁見して、慶篤の伝言を言上した。これに対

し斉昭は、桜田の暴挙は浮浪人の所業といっても、水戸藩士であることは世間一般の承知するところであるので、井

伊家の忿が当家に帰することは言を待たぬから、三日以来は門外に敵あるものと油断せぬのが第一であること。防禁

は他に妙策なく、家中の文武を奨励し、学校の世話に精力を尽くし、我が警備とすべき文武の士を育成することが最

も肝要であること。また、あまり彦根の探索に注意が過ぎると、彼の藩の事情に明るくなるにしたがって、我が警備

を怠ることになるから、あまりこのことに頓着すべきでない、と慶篤に伝言するように命じた。森は同日の夕刻に水

戸を発して、八日小石川邸に到着し、慶篤に復命した。また、斉昭はこれと同様のことを重臣に内諭し、諸生等の出


第四節 事変後の処理

29

第四節 事変後の処理

 櫻田の変報は、城付小野周員が城中から発した書により小石川邸に急報された。水戸藩では、勅書返納の期限を過ぎ、

藩内は騒擾を極め、猶予を幕府に請う一方、壮士の亡命について警戒を強化していた折であった。これより先に、亡

命の壮士十七人が、早朝に除籍願を提出していたが、誰もこのようなことになるとは考えていなかった。ついで、細

(1)

川家から大関、森等が彼の邸に自首してきたとの報告を受け、家老等は直ちに「於公辺御大法之通御取扱御座候様被 致度」と幕府に上申した。

 そして、慶篤は直ちに家老に命じて床机廻ニ組打手のもの半隊を上府させ、かつ、軽挙を戒めた。これはこの時、

(2)

家老が水戸に発した書状に「此先如何様成ル騒乱にも可相成哉も難計、井伊家存亡にも相拘り候儀故、容易に進退ハ

(3)

不致事とハ被存候得共、主人被致切害候上にハ必死之覚悟相極め、心得違此方様御相手にも存間敷ものにも無之処」

とあるように、井伊家の復讐に備えるためであった。さらに、慶篤は奥右筆の森亥之吉を水戸に派遣して事情を斉昭 に報告させ、手書を水戸家老等に下し、人心を鎮静させた。

 また、幕府は水戸家老を召喚して、藩邸の出入りを厳格にさせ、井伊家にも同様の通達を行った。さらに、町奉行

脇 ・ 坂の両家へ自首した者の引渡

目 ・ 付等に命じて水戸藩邸を監視させ、その他、会津 庄 ・内 小 ・ 田原 桑 ・名 郡 ・山 佐 ・ 倉の諸藩に命じて水戸藩士の大 挙上府に備えさせた。  一方井伊家は幕府の内諭により大老の死を秘し、四日には家老の岡本半介が細川

しを幕府に嘆願した。ここに井伊家の忿恨が窺われる。しかし、これは元より大法の許さないことであったので、幕


文化八年十二月従五位下但馬守に叙任され、天保八年二月大塩平八郎の乱鎮定に活躍した。安政五年十月家茂将軍宣下の用掛を勤めた。

 大番頭等を経て、安政二年二月講武所総裁を兼帯し、五年十月大目付に転じた。この間安政の大獄にも五手掛として処断にあたった。

 用掛を命ぜられ、その他和宮東下御用役等を勤めた。同年六月十二月諸大夫に列せられ山城守と称した。

・ 防掛を兼ねた。同五年六月養君御  嘉永四年正月西丸書院番士より転じ、安政元年十月西丸目付となり、三年十二月本丸目付へ転じ、勝手掛 海

(6) (5)

(7)

28 第一章 桜田門外の変


第三節 事変後の諸有志の運動並びにその結末

27

森山、杉山、森、岡部、を死罪に、佐藤を中追放に処し、ついで二十八日、闘死または自刃、あるいは預中に死亡し

桜田事変の処断は右のように終結したが、なお各地に潜居していた二、三の浪士も或いは自刃し、或いは逮捕され

た佐野、斎藤、山口、鯉淵、廣岡、稲田、黒澤、有村(次左衛門)の塩漬け死体を捨てた。  

処断された。広木は一挙の後、難を逃れて北越に赴き、その後各地を転々として形勢を窺っていたが、義盟の士の処

また、袋田村に潜居していた関は、東禅寺事件後、幕府の連累探索が厳重になったため(第二節第四節参照) 、こ

刑を知り、己も覚悟を決めて、翌文久二年三月三日、即ち桜田一挙の三周忌を以って、相州鎌倉の上行寺で自刃した。  

こを去り、文久元年十月二十三日、越後から出羽の米沢に向かう途中、越後国湯沢の温泉場で水戸藩の補吏に捕らえ

られ、水戸に送られて赤沼の獄に繋がれ、次いで江戸伝馬町の獄に移され、文久二年(一八六二)五月十一日、処刑

された。この他、挙義に参加した浪士のうち、海後と増子は難を逃れ、生を全うし、増子は明治十四年(一八八一)、 海後は同三十六年(一九〇三)に没した。 註

 『水戸藩史料』上編坤 八四五頁 吉川弘文館 一九七〇復刻  同右 八四三頁   文化四年十一月将軍に謁し、同年十二月従五位下左京亮に叙任される。天保十一年正月家督を継ぎ和泉守と称し、西尾城を預かり六万石を領した。  

 弘化二年三月老中となり、安政二年八月辞任。同五年六月再び井伊大老に登用された。  天保十二年奈良奉行となり、安政五年町奉行となる。安政の大獄の処理に当たり、吟味にあたった勘定奉行その他からなる五手掛の間に意見の

 

(3) (2) (1)

 に当たり、断罪が終わった際、功によって金品を賜った。

 相違を生じたので安政六年二月井伊大老は吟味掛を更迭し、寛大な処置を主張する者の職を免じたが、この時頼方は勘定奉行を兼帯してそのこと

(4)


26 第一章 桜田門外の変

 また、野村等一行は関等と分かれてから再び大坂に至り、大和から東海道を下り、しばらく江戸に滞在した後、常

(4)

北の袋田村に至り、桜岡源次衛門の家に潜居した。この後、関も東帰して袋田村に至りここで先に分かれた同志等は

(3)

一方幕府は事変の翌日、左の人物たちを穿鑿掛に命じた。

再会を果した。   (5)

町 奉 行 池田播磨守頼方   老  中 松平和泉守乗全  

(6)

  若 年 寄 遠藤但馬守胤統  勘定奉行 山口丹波守直信 (7)

  寺社奉行 松平伯耆守宗秀  目  付 駒井山城守朝治   大 目 付 久貝因幡守正典

こ の 他、 評 定 所 留 守 役 吉 田 昇 太 郎 小 ・ 股稲太郎等を用掛に命じ、七日には細川越中守に預中であった大関、森、杉山、

森山、黒澤等を評定所で訊問し、八日には黒澤、大関、蓮田等に預け替えを命じ、その後次々に訊問があった。当初、

幕府はこれらの訊問に着手すると、事の原因を推して、斉昭の内命ではないかと疑っていた。この穿鑿掛は井伊大老

の党類、反水戸派で構成されていたのである。そして、訊問では執拗にこの点を追求し、手を変え品を変え、誘導訊

問を行ったが、自訴した浪士等がこれに屈することはなかった。このため斉昭に罪を着せようとする当初の策略は達

せられなかったのである。ついで閏三月二十一日、伏見から護送された金子、佐���等の訊問が行われ、再びこれにつ いて追求したが、やはり屈することはなかった。

 翌文久元年(一八六一)二月、岡部三十郎が江戸で捕らわれ、中川修理大夫に預けられた。そしてこの年の五月

二十八日、東禅寺事件があり、この影響により同七月二十六日、幕府は遂に桜田事変の獄を断じ、金子、大関、蓮田、


第三節 事変後の諸有志の運動並びにその結末

25

しかし、京畿の形勢は全く予期に反し、金子はすでに捕らわれの身となり、高橋は自刃したとの風説を耳にした。し

かし、その事実さえも明らかではなく、さらに薩藩義盟の消息も知ることができなかった。有村の死後、薩藩の有志

は直ちに出兵して京都を守衛することを切論したが、藩主茂久の実父であり、後見の地位にあった島津久光は硬く持

重の説を取り動かず、軽挙を戒め形勢を観望した。これによって薩摩の有志はついに京都に会することはなかった。

 これによって、野村等一行は予想に反し他に投ずる策もなく、大坂は偵察が極めて厳しかったため嫌疑を避けるた

め有馬温泉に赴き世勢を窺った。そして、閏三月十四日再び大坂に至り世態を観察した。この時偶然に野村が先に義

金の調達を依頼していた森山滋、石井重衛門と再会した。森山は義金を調達すると単身もいかがと思い、小生瀬村の

石井重衛門を同伴させ、大坂に来て野村等を探していたのである。そして、新たにこの二人を加えて一行は四国に向 かった。

 こうして野村等一行は四国を巡歴し時機を窺い、閏三月二十六日播磨の姫路に至り、ここから二手に分かれ、野村、

木村、岡部、石井は東帰して後事をなし、関、森山は西南諸藩の同盟を尋ねることとなった。四月四日関等は鳥取に至り、

前年の訪問により縁のあった安達清一郎を訪ねた。しかし、安達等は幕府の嫌疑を恐れ、これを断ったため、志を得

ることはできなかった。この後鳥取を去り、小倉に渡り、五月一日筑前の黒崎に至った。この時、関は参府途中の島

津茂久が松崎で桜田の変報を聞き、引き返したとの風説を耳にし、薩藩に期待した。そして、五月十三日薩摩との国

境に近い肥後の水俣に到着したが、薩摩は国境の関門を厳鎖し、他邦人の入国を禁じていた。このため、関は薩藩有

志の堀仲左衛門 高 ・ 崎猪太郎に書状を送ったが、この書は二人は不在であるとして返付された。これにより他になす 術なく、意を得ずして東帰することになった。


24 第一章 桜田門外の変

京坂の偵察が日に日に厳しくなるにつれて、高橋はついに黒澤、大貫等と分離して事をなすことを決心した。二十二

日の夜高橋はその子荘左衛門、川崎、黒澤、大貫、小室等と生国魂神社の馬場先の一旗亭で会合し善後策を協議した。

この後、高橋はその子荘左衛門と川崎を伴って嶋男也の家に帰り、黒澤、大貫、小室は同所に滞留した。しかし、こ

の挙動は早くも偵吏の探知するところとなり、二十三日捕手が嶋男也の居を囲んだ。このため、多一郎と荘左衛門は

ここを去って茶屋に入った。捕手数十人はこれを追ったがその威貌に恐れ迫ることはできなかった。しかし、多一郎

はこれによって覚悟を決め、ここから天王寺中の小川欣司兵衛の宅に至り、事に次第を告げ、ここで席を借り自刃す

ることを小川に求めた。小川はこれを承諾したため、愛諸は遺物を小川に託してついに自刃した。そして、荘左衛門

も父の死を見届けた後に自刃した。また、川崎は高橋父子が囲を脱して天王寺に走り去るとこれに随おうとして後を

追ったが、途中で捕手に遮断されたため自刃した。そして、山崎は大坂で、大貫は泉州堺で捕らわれ二人とも獄中で

死亡した。その他、桜東雄、内藤文七郎、嶋男也、中嶋錫胤等は以後皆連累のため補に就き、江戸に護送された。黒 澤と小室は何とか逃れ水戸に帰ることを得た。

 また、野村彝之介、木村権之衛門、関鉄之介、岡部三十郎は三月二十六日大坂に至った。野村、関等は桜田の一挙

後しばらく江戸に留まって後事を処理し三月五日に江戸を発した。この時野村は森山滋を常北の袋田村に赴かせ、後

に大坂に来会することを約した。これは、野村が郡奉行の時、北郡を管轄しており、袋田村はその部内であり、ここ

に豪農の櫻岡源次衛門なる人物がいたが、義挙のためこの豪農から義金を調達していた。そして、さらに義金を必要

としたため、これを調達するために森山を袋田村に赴かせたのである。そして、一行は中山道から伊那街道を経て三

河に入り、東海道から関に至り、そこから東海道を離れ伊賀を抜け、大和に入り、そして大坂に達したのであった。


第三節 事変後の諸有志の運動並びにその結末

23

所において訊問を受けた後、閏三月五日に東送され、二十四日江戸に到着し、金子は稲葉伊予守に、佐藤は田村磐次

一方、この時薩摩藩主島津茂久は参府のため三月十三日に鹿児島を発し、二十日筑後の松崎駅に到着していた。そ

郎に預けられた。  

して、この時大坂から護送されてきた有村と会し、初めて桜田の事変を知り、この後病と称して帰藩した。有村は

二十三日鹿児島に到着し、これによって薩藩の有志は直ちに人数を発して京都を守衛し、義挙に応じようとした。し

かし、藩議はこれを許さなかっただけでなく断固たる裁決を下し、有村に自裁を命じた。これは、この時幕府の捕

手が有村を追跡し国境に迫っていたため、やむをえないことであったのである。有村は元より覚悟を決めていたので、 後図を同志に託して二十三日の夜自刃した。

 また、高橋多一郎は桜田の一挙に先立って、その子荘左衛門及び黒澤覚蔵、小室治作、大貫多介等を伴って中山道

を西上して三月五日に伏見に到着し、翌日大阪に入った。これより先に、高橋は去年の四月に山崎莢禮、川崎建幹を

西上させ、商人に変装させて大阪に住まわさせ、さらに、内藤文七郎を在坂させており、この時に及んで彼等と事を

謀り、さらに、桜東雄、嶋男也等に薩藩有志の消息を探らせた。しかし、薩藩の事情は未だに解らなかった。それか

ら幾ばくもなく桜田の変報が京坂に達すると、高橋は密かに山崎と内藤を上京させ、中嶋錫胤に薩藩の事情を探らせ、

また、小西徳兵衛に挙義斬奸の主意を上聞させた。そして、内藤は京都で中嶋と高橋の潜匿先について相談していた時、

薩藩邸蔵役の大山彦八と徳田嘉兵衛から金子、有村等が伏見の薩邸に護送され、まさに幕府へ引き渡され様としてい

ることを耳にした。内藤は大いに驚き、直ちに帰坂してこれを高橋に報告し、潜匿場所を変えるように申し出た。し

かし、高橋は四方に通じて義挙を謀るためには大坂を去ると不利になるとの理由でこれを退けたのであった。しかし、


22 第一章 桜田門外の変

第三節 事変後の諸有志の運動並びにその結末

 前述のように、一挙後、金子は佐藤、有村と共に東海道を西上し、九日、伊勢四日市に到着した。しかし、その夜

薩藩の捕吏が旅宿を襲い、有村をはじめ金子 佐 ・ 藤を捕縛した。これは薩摩の重役が幕吏の桜田の連累探索が急であ

ることを聞き、これを危ぶみ、幕吏に捕らわれる前に鹿児島に護送しようとしたためであった。有村の東海道西上は、

彼が日下部の旧僕に託した亡命書から探知され、そして、たまたま有村と同行していたために金子、佐藤もこれに捕

(1)

(2)

らわれたのである。有村は金子、佐藤の両人を解放することを吏に求めたが受け入れられず、金子等には「軽率之者

共全く子細モ不存無止ニ此始末ニ及候」と説明し、さらに「同志ノ伏見ニ来会スルアラバ為スベキ由モアラン」と説

得し、両人もこれに同意して、十一日の夜、伏見の薩邸に護送された。しかし、京都の形成は全く予想に反し、薩摩

の同志は一人も出京していなかった。これより先に有村は、まず山口三斎に江戸の事情を藩地に急報させ、さらに田

中直之進を帰藩させて義兵の東上を促していた。しかし、薩摩の藩議は持重に傾いており、藩庁はこれを許さなかっ

た。そして、大久保利通等の有志が切にこれを嘆願して、ようやく変報を待ってから出京することになった。しかし、 この決定が下されたのは三月十日前後のことであった。

 薩摩の藩吏はすぐに有村を大阪に護送して、藩地へ送ろうとした。有村は金子と共に藩地へ帰ることを望んだが、

それは受け入れられなかった。これによって金子は覚悟を決め、有村に一書を託し、薩摩が後事を担当して奉勅回天

の業を成すこと、そしてそれを薩摩の同志に達することを依頼した。そして、有村はこれを必ず達することを約して、

十二日、大阪に下った。そして、金子と佐藤は十五日薩藩邸から伏見奉行に引き渡された。この後、金子と佐藤は同


第二節 大老要撃の計画と実行

21

 の間に隠然たる勢力があった。戊午の密勅が降下すると、終止返納不可の立場をとった。 『水戸藩史料』上編坤 八〇七頁 吉川弘文館 一九七〇復刻   

 同右 八一一頁  同右 八一四頁

 同右 八一〇頁

 同右 八一三頁   同右 八一四頁

(26) (25) (24) (23) (22) (21)


註  『水戸藩史料』上編坤 七六三〜七六四頁 吉川弘文館 一九七〇復刻

 

同右

 天保二年家督を継ぎ、大番頭

若 ・ 年寄を経て弘化元年大寄合頭に進み、安政五年致仕した。内外多事に際して再び挙げられて執政となり、激派

『水戸藩史料』上編坤 七七二頁 吉川弘文館 一九七〇復刻    七九四頁  同右 七九三 ~  同右 七九四頁

 安政三年進仕して弘道館訓道に挙げられ史館勤を兼ねた。妻は金子孫二郎の女。

 同右 七八二頁

 同右 同頁  同右 七七七頁 

 同右 七七六頁

 同右 七七四頁 『水戸藩史料』上編坤 七七五頁 吉川弘文館 一九七〇復刻  

 同右 七七二頁

 同右 七七三頁

 同右 七七二頁  同右 七七三頁

七七三頁  

 常陸茨城郡鳥羽田の農家に生まれ、安政五年ごろ監察方の属吏となった。勅書返納の事で竹内百太郎の内意を受けて京畿に至り、情勢を探り、 志士と結び、帰って金子孫次郎に報じた。    『水戸藩史料』上編坤 七六七頁 吉川弘文館 一九七〇復刻 

 天保十年進仕して安政二年目付、六年吟味役となる。降勅以来有志の間を奔走し、勝野豊作等と行動を共にした。

(3) (2) (1)

(20) (19) (18) (17) (16) (15) (14) (13) (12) (11) (10) (9) (8) (7) (6) (5) (4)

20 第一章 桜田門外の変


第二節 大老要撃の計画と実行

19

連呼してその場を去った。この挙は短時間で決し、「たばこ二服ばかりの間」であったと言う。そしてこの時、稲田

は奮闘の結果その場で死に、有村、廣岡は井伊の首級を持ってその場を去ったが、重傷のため廣岡は辰ノ口において

自殺し、有村は途中で井伊の首を風呂敷で包み、同所の遠藤但馬守の辻番所においてその包みを膝元において切腹し

た。また、山口、鯉淵も重傷を負い八代州海岸で自殺した。森、大関、森山、杉山は細川越中守邸に自首し、斎藤、

佐野、黒澤、蓮田は老中脇坂邸に自首して、「斬奸趣意書」を提出し素志を表明した。しかし、佐野は重傷のため同

日脇坂邸で死亡し、斎藤、黒澤、蓮田は細川越中守に預けられた。そして八日、黒澤、大関は松平稠松に、蓮田は本

多主膳正に、森は稲葉伊予守に、杉山は堀丹後守に、森山は田村磐次郎にそれそれ御預替えとなった。しかし、斎藤

は重傷のため、この日細川邸で死亡した。その他、広木、海後、増子は各所に潜匿した。予定では進退が自由の者は

一挙後京都に集合する予定であったが、事変後は幕府の監視が厳しかったため、身を潜めて形勢を窺い、京都の消息 を待たねば成らなかった。

 一方、佐藤と畑は一挙成功を見届けた後、直ちに品川の鮫州に向かいこれを金子に報告した。金子はこれに大いに

喜び、畑にこれを水戸藩邸に報告させ、佐藤鉄三郎、有村雄助と共に東海道から京都に向かった。また、この時薩摩

の日下部伊三次の旧僕である服部秋之介も状況を目撃し報告に来ていた。この時に有村は亡命の届書を彼に託したの であった。

 また、関と岡部は現場を引き上げた後、野村、木村とともにしばらく江戸に留まって後事を処理した後、五日に中 山道から西上した。


して、愛宕山上に水戸脱藩の関鉄之介、岡部三十郎、斎藤監物、佐野竹之介、黒澤忠三郎、大関和七郎、蓮田市五郎、

森五六郎、山口辰之介、広岡子之次郎、稲田重蔵、森山繁之介、杉山弥一郎、鯉淵要人、広木松之介、海後磋磯之介、

増子金八と薩摩の有村次左衛門の計十八名(桜田事変関係者については別紙付録参照)が勢ぞろいして、部伍を定め

逐次桜田外を目指して出発した。この挙は関が総指揮者で、岡部が検視の任務に当たり、斎藤は一挙成功の後「斬奸

趣意書」を閣老に提出し素志を表明する手筈であった。そして五つ時頃、先の十八人と金子等への報告の任であった

佐藤と畑は桜田門外に到着した。この日は早朝から雪が降りしきっていたが、この時になって降雪はますます激しく

なり、遠近も定かではなく、このため往来の人も稀であったと言う。そして、五つ時半頃ついに井伊が登城した。従

者は五十人ほどであったと言う。壮士等はこれを凝視し、井伊の前衛が左折し桜田門に向かおうとした時、合図の短

銃が発砲され、これと同時に井伊の前衛に切り込んだ。井伊の従者は降雪により合羽を身に付けていたため、進退の

自由を奪われ、抜刀もし難くひどく狼狽した。また、不意を討たれ皆前衛の方に気を奪われた。壮士はこれに乗じて

駕籠に突進し、外から刀を突き刺���て扉を壊し井伊を引き出しその頭を断った。海後の説話によれば、 「戸を開きて

て佐藤寛の筆記には「五六人無二無三ニ駕籠ヲ目掛ケテ突キ入タリ」とあり、畑の書には「駕籠を目掛佐野斎藤をは

見れハ、かた息にておりせしを御首討取りぬ」だったようで、外からの攻撃のためすでに瀕死の状態であった。そし

23

24

26

人で井伊の首を取ったと思われる。そして、有村次左衛門が井伊の首級を刀尖に貫き、同志は「しめた、しめた」と

も後れじと馳せ寄り一刀突入れし」とある。これらの書から推察するに、佐野、斎藤、稲田、有村、廣岡、海後の六

り。是と同時有村廣岡も馳せ来りて他の側より突を入れ、瞬く間に駕籠の戸を打明ケ彼の首級を打取りたり」「己れ

じめ突込候様子」とある。さらに海後の説話には「稲田重蔵にもならんか半合羽著たる者突進して駕籠を突き貫きた

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18 第一章 桜田門外の変


第二節 大老要撃の計画と実行

17

野村は初め金子 高 ・ 橋等が水戸を去った後、尚留まって後事を処理し物情を窺っていたが、二月二十四日の勅書発城

の期に及び同夜に憤擾あるに及んで、元家老の大場一真斎に挙義の密策を告げ、後事を託して道を野州に取り、迂回 してこの日出府したのであった。

 三月二日、金子孫二郎は薩邸に行き有村雄助と会見して、明朝品川の鮫州において一挙の結果を聞いた後、直ちに

上京することを決定した。また、畑弥平はこれより先に金子 高 ・ 橋の内意を受けて内藤文七郎と共に上京し、薩藩の

徳田嘉兵衛、その他森外記、中島錫胤、桜東雄等と会い京都の情勢を探り、内藤文七郎は大阪で高橋の西上を待つこ

とになり、畑は二月十七日京都を発し、二十七日に出府していた。そして木村権之衛門と会見し事が切迫しているの

を聞いて、この日薩邸に金子を訪ねた。ここで畑は義盟に加わることを望んだが、金子は明日の状況を視察した後す

この日の夕刻、金子と有村兄弟を除く義盟の士は品川の一旗亭に集合して決別の宴を開いた。この前に佐藤は品川

ぐにこれを報告するようにと命じた。また、同日野村も薩邸を訪れている。  

の中宿の稲場屋に至り、そこから相模屋にむかおうとしていた。この時稲田が一日の会議の後、金子は事の成否を聞

き有村と直ちに京都に上ることにした。これに一人は同行することになり、その一人は佐藤に決まったとの金子から

の伝言を伝えた。そして佐藤はこれを承諾した。これによってようやく要撃における人事が決定した。そして一同は

酒宴を張り円座して訣飲した。出府以来同志の一同が宴を張るのはこの時が最初で最後であった。

 そしてついに三月三日となった。義盟の壮士は、かねてからの予定の通り芝の愛宕山に集合するため品川駅を発し、

三々五々前後に分けて立出した。野村彝之介、木村権之衛門は金子孫二郎と薩邸で面会し京都での再会を期して別れ

た。また、この日の早朝、義盟の壮士十七人は一挙のため累が主家に及ばぬよう除籍願書を水戸藩邸に提出した。そ


なものであった。

 一 武鑑ヲ携ヘ諸家ノ道具鑑定ノ體ヲ為スベシ  一 四五人宛組合互二応援スベシ  一 初メニ先共ニ討掛リ駕籠脇ノ狼狽スル機ヲ見テ元悪ヲ討取ルベシ  一 元悪ハ十分討留メタリトモ必ズ首級ヲ揚グベシ 21

いくことになった。こうして佐藤は関の元へ行ったが不在であった。しばらく待って関が帰ってきたので、佐藤は「山

 こうしてこの日の夕暮れになったが、この会議に参加する予定であった関は姿を現さなかったので、佐藤が呼びに

 一 負傷スル者ハ自殺又ハ閣老ニ至て自訴ス。其餘ハ皆京都ニ兆行スベシ

( )

日を期に定め、さらに場所を桜田外に定めた。そして、金子はこれに際し規約五条を告げた。その内容は、次のよう

これに大いに賛成して、終に義は決した。明後日の上巳の嘉節である、大老が必ず登城するだろうと思われる三月三

て元悪を路上にて不意打ちすることは難しいだろうか。このまま空しく日時を遷延すべきではないと述べた。金子も

あり、当初の予定よりもかなり少なかったので、在邸の同志を加えようとの意見も出た。これに対し稲田は憤然とし

山口辰之介、広岡子之次郎、森五六郎、蓮田市五郎、鯉淵要人、杉山弥一郎、森山繁之介、海後磋磯之介等十数名で

徳、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、有村雄助、であった。この時出府していたのは、佐野竹之介、黒澤忠三郎、大関和七郎、

20

屋に集合するようにと速やかに各潜居に通知することを約束して帰った。またこの日、野村彝之介が江戸に到着した。

森山も来たので、この二人に今日の会議のことを告げた。そしてこの二人は、明日二日薄暮に同盟一同品川の相模

崎樓ニ行クベシ」と言って関を送り出した。この後佐藤はここに留まり、深夜になって関が帰ってきた。さらに広木、

22

16 第一章 桜田門外の変


第二節 大老要撃の計画と実行

15

上を待ち、金子は江戸で要撃を指揮し、関は江戸に出て諸事を周旋し、野村は水戸において後事を経理し最後に出府

し、一挙成功後は皆西上して薩藩の義兵と会し、水戸の後事は下野隼次郎等が担当し、京都の消息を待ってから相応 じることになっていたのであった。

 こうして義盟の有志は二月十八日を初期として各々南上した。或いは長岡駅の解散から直ちに発し、或いは潜居か

ら発した者もいた。しかし、当時の幕府の偵察は非常に厳しく廿九日に到着した者もいたほどで、期に遅れた者もな

くはなかった。これらの士は皆京都の一報を待ってから義挙に応じることを期したのであった。こうして義盟の有志

等は往々江戸に潜伏し、金子の指揮に従って進退を一にして目的を達することを期した。

 金子は江戸到着後二十六日から三田の薩藩邸に潜み、有村雄助と義挙の計画について相談していた。この時すでに

薩藩の有志は皆帰藩しており、江戸に留まっていたのは有村兄弟だけであった。この会談で雄助は要撃参加を望んだ。

しかし、金子は「斬奸の挙は水戸の壮士だけで足りる。しかし、奉勅回天の業は甚だ重大なことであり貴藩の協力を 望む。よって余も子と共に西上する」と言って説得したのであった。

 このように義が決すると、金子は登城の式日である二月二十八日を以って事を挙げようと謀った。しかし、当時の

幕府の偵察は非常に厳しいものであったので、予定していた五十人の人員は集まらず、仕方なく延期することになっ

た。そして要撃の対象を井伊一人に絞ることになった。しかし、これより先に正月二十七日木村と有村等が協議した

 三月一日、金子は事を決するため同志数輩を日本橋の一旗亭に集めた。ここに集合したのは木村権之衛門、斎藤一

われる。

個條覚書には「櫻田外ト相極申候事」とあるので、少なくとも木村と有村はこのような事態を予想していたものと思

19


奸誅伐之義者兼ねて紅葉山へ人数忍バせ置候二付火の手を揚ケ候得バ幕役登城相成候間人数を伏置相果す其策不成候

( )

得バ登城先を討との両策に決す」と要撃の具体的方法が示されており、さらにその要撃人物について「井伊讃州安藤

12

14

( )

受けた薩藩有志は京都守衛が急務であることを論じ、水戸との義盟を果たすことを力説したが、薩藩要路は江戸の変

置候との事。東海寺其外二滞在異人を共に討との決策」と斬夷の方法についても具体的に示されている。この報告を

三奸を主とす」と三名の名前が挙げられている。また、「横浜商館大風雨に乗じ放火致し置の賦にて人数を疾に出し

13

ることは叶わなかったのである。

( )

報を待ってから人数を出すとの議に決した。これによって当初の目的であった「東西相應じて一挙に幕政を匡正」す

15

( )

した。また、金子はこの日の評定所御用には漏れたが、時機が迫るを以って、同夜その子勇二郎及び稲田重蔵 佐 ・藤

上国を目指して出発した。そして、同日関も評定所御用を命ぜられると旅装を整えて日中に蟄居屋敷を出て単身南上

て、朝倉景行の居に潜匿し、二十日の夜、その子庄左衛門、黒澤覚蔵、大貫多介、庄司吉五郎、小室冶作等を伴って、

争闘を繰り広げた。これは二月十八日のことであった。同日高橋多一郎は評定所御用を命ぜられると、直ちに家を出

決 し、 同 時 に 高 橋 関 ・ 等を捕らえようとした。このため、長岡勢は高橋等を救い出そうとして城下に進み、消魂橋で

されようとしており、事情は切迫していた。そして、二月になると事情はますます切迫した。藩庁は長岡勢の処分を

「昨夕隠飛之説も御座候」と、勅書が幕府に返納  このように薩藩有志は期日の猶予を望んだが、水戸においては、

16

高 ・橋 関 ・ 等は十八日を以って出発とし、これと同時に長岡勢も同所を解散して進退を決した。そ

して、この部署方略はすでに予定していたところであった。すなわち、高橋は期に先立って上国に赴き薩藩義兵の東

 このように金子

鉄三郎を伴って「罪不顧萬死悴勇二郎召連出発仕候」との一書を支配頭に提出し江戸に向かった。

17

14 第一章 桜田門外の変


「二月上旬を以って期と為 ・ 橋等は、挙義の方略を決定した。その大要は、  この薩藩との議約が成立すると金子 高

し、我有志中より忠勇精鋭の士五十人を選抜し、諌争を名として出府せしめ薩藩の兵は速に東上して京師を守衛すべ

(4)

し。一挙成功の上は直ちに首級を京師に達し同時に勅を奉して条約を撤回し大義を明にして列藩に布告すべし。我亦

東海東山両道に若干人を出し臨機運籌東西相應じ以て大勢を一變し革新の業を建つべし」というものであった。さら に薩藩有志に交渉すべき条件と水戸有志の潜匿に関する密約個条を定めた。

 一月二十三日、木村はこの決議を薩藩有志と交渉するため再び出府した。そしてこの時、佐野竹之介と黒澤忠三郎

が志士の先発として木村に同行した。そして、一月二十七日、木村は薩藩邸に至り、有村雄介等と方略を協議し、佐

野 黒 ・ 澤の二士を託した。しかし、これより先に有村等は急を藩地に報じ出兵を促したが、まだ答書が到着していな

かったため、日時を猶予することを望み、また、田中直之進を帰藩させ、重ねて藩兵の上京を促した。この木村と有

(5)

村等との協議は、木村が水戸の同志へ報告した個条覚書によって見ることができる。この覚書でも「三千人ハ国元へ

(6)

罷越申候上二て直様守護萬々御受合可申事」と薩兵による京都守護は確約したが、日時については「(田中の帰藩の

(7)

(8)

ため)朔日発十八日之日数ハ是非御都合被下候様相願申候との事」「可相成ハ田の帰りまで御待被下候ハバ大慶に御

(9)

座候」と猶予を望んだのであった。これに対し水戸側は「一刻も早き方泄不申候事」と挙義の速決を望んだ。この他、 「有両人ハ直様にも御加勢申候事」と有村兄弟の挙義参加を約束した。

 さて、田中直之進が帰藩したのは二月二十一日のことで、帰藩すると直ちに江戸での協議と挙義の方略を報告した。 ( )

この報告では、日時についてはこの時、すでに金子 高 ・ 橋等の方略に定められていた「来月十日前後」を過ぎていた

10

ため、「斬奸期日ハ来月廿日前後」と訂正されている。この他はほぼ先の方略 協・ 議と同様である。またこの報告には「斬

11

第二節 大老要撃の計画と実行

13


12 第一章 桜田門外の変

第二節 大老要撃の計画と実行

 勅書返納の命はついに決起断行をやむをえないものにした。水戸の有志はまず壮士を長岡駅に屯集させ勅書返納を

妨げ、また、江戸に通牒して薩藩有志との義盟により宿議を断行しようと謀った。要撃の当初の計画は「我が有志

(1)

五十人を二手に分ち一手を以て大老を斃し、一手を以て横浜を焼佛ひ、同時に薩藩有志をして速に京師を守衛せしめ

(2)

東西相応じて一挙に幕政を匡正し以て大勢を晩回せん」というものであった。この時に当たり、中心となったのは金

内 ・ 藤文七郎と共に密かに出府した。これは金子 高 ・ 橋の

子孫二郎、高橋多一郎、関鉄之介等であり、野村彝之介、木村権之衛門等が運動の任に当たり内外に周旋した。 (3)

 万延元年(一八六〇)正月四日、木村権之衛門は畑弥平

意向によるもので、薩藩と交渉して挙義を約し、かつ、畑 内 ・ 藤 の 二 人 を 上 京 さ せ、 勅 書 返 納 の 朝 命 を 探 る こ と が 目

的であった。木村は江戸到着後、薩藩邸に至り、有村雄助 田 ・ 中直之進等と会見して、水戸の事情を告げ、義盟によ り共に事を挙げることを求めた。

 当時薩摩藩邸には有村兄弟等数人が居残るのみで、専ら対応に当たっていた高崎猪太郎は前年十一月鹿児島に帰っ

ていた。水戸藩でも、これに先立って十月、有志はことごとく帰藩していた。このため江戸において両藩士が連絡を

取り合うことは殆ど無くなっていたため、木村の薩藩との交渉の成否は微妙なものがあった。しかるに有村等はこれ

に大いに賛成し、直ちに山口三斎を藩地に遣わして急報し、義兵を上京させることを約束した。この議が決したのは

正月十七 八 ・ 日頃のことである。木村はこれに大いに満足し、同志と評議を重ねて再び出府することを約束し、十九 日に水戸に帰った。また同日、山口三斎は鹿児島に向かい出発した。


第一節 桜田門外の変に至るまでの経緯

11

 延元年一月家督を継ぎ、翌月十八日評定所召喚となり、禄を奪われ、閉居処分を受けた。

 天保十三年文武出精により称され、嘉永六年床机廻���選ばれ、安政四年家督を継いで小十人組に班した。安政六年八月高橋多一郎等と出府し、  高崎五六等と会合して除奸計画に加わった。  

(3)


得るため朝廷に圧力を加え、安政六年二月にこれを得た。しかし、なお文意の変更を求め、十二月あらためてその沙

汰書を受けた。このため幕府は十五日、慶篤に朝旨を伝え、勅諚を三日以内に幕府に納めよと厳命した。このため水

戸藩では二十日、城中に大評定を開きこれについて議したところ、鎮派の主張が大勢を占め、二十二日、ついに藩議

しかし、激派の面々はこの決定に憤激し、その頭目の高橋多一郎 金 ・ 子孫二郎 関 ・ 鉄之介等は実力で返納を阻止す

は勅諚を朝廷に返納することに決定し、二十四日これを藩内に布告した。  

る た め、 江 戸 水 ・ 戸間の往来の要地長岡に同志とともに屯集し、長岡勢と称されるようになって形勢は険悪となった。

このため水戸藩は再三返納の猶予を幕府に申請したが、幕府は断固としてこれを許さなかった。しかし、このような

幕府の督促はかえって激派を刺激し、長岡勢はさらに気勢をあげた。このため藩庁は若年寄などを派遣して長岡勢

に退散を説得させ、斉昭は謹慎中にもかかわらず、翌安政七年二月十五日、返納妨害は君命に背くとの諭書を発した。

長岡勢の自発的解散は、一つには藩庁からの圧迫が日増しに強くなってきたためであるが、今一つには高橋 金 ・子

このような状況に接した長岡勢は、二月二十日自発的に長岡を退去することになったのである。  

関 ・ 等によって極秘に進められてきた井伊大老暗殺計画がいよいよ実行段階に突入していたからである。

・ 右筆頭取 大 ・ 目付 側 ・ 用 人 等 の 要 職 を 任 じ て 天 保 の 藩 政 改 革 を 補 佐 し て 力 が あ っ た。 勅 書 問 題 が 起 こ る と 勅 旨 奉 行 に 奔  文武に優れ、軍奉行 奥

 走して小普請組におとされた。 三年学問出精により賞され、十三年弘道館舎長に挙げられた。安政四年格式馬廻組列 軍 ・ 用掛見習となった。万  天保九年床机廻に選ばれ、十二、

(1)

(2)

10 第一章 桜田門外の変


第一節 桜田門外の変に至るまでの経緯

9

井伊大老は二十九日、当然のように水戸藩に命じて勅諚の列藩への伝達を禁じた。この時以来水戸藩内の尊攘派は、

った。そして幕府には同文のものが二日後の十日に渡された。  

さしあたり幕命に従うべしとする会沢正志斎等の鎮派と、勅命のみを奉ずべしとする激派とに分裂し、両者の間で抗

争が続いた。しかるに井伊大老は九月、先の約束に基づいて老中間部詮勝を上京させ朝廷に外交事情を弁明させると

このような井伊大老の専断に対して、大老を除いて時局を安定させようとする志士も少なくなかった。薩摩藩有志

ともに、反対派の一掃に乗り出し、上京した詮勝を指揮していわゆる安政の大獄を開始した。  

の中には亡き島津斉彬の勤王の遺志を継承し、水戸 長 ・州 越 ・ 前などの諸藩と提携して除奸運動を企てる者もいたの

である。同年九月在京中の西郷吉兵衛(隆盛)は詮勝の入京を目前にして、東西呼応して義兵を挙げ、詮勝を撃退し

(3)

金 ・ 子孫二郎 野 ・ 村彝之介等がこれを実

(1)

彦根城を攻略することを江戸の同志に説き、同藩の有馬新七は諸藩の有志と挙兵除奸の計画を進め、しばしば江戸 京都間を潜行したが、この時はその志を得ることは出来なかった。

(2)

 水戸藩では同年十月攘夷派の中であくまで密勅の伝達を目指す高橋多一郎

現するため義盟を西南諸藩に求めることを計画し、住谷寅之介 大 ・ 胡聿蔵 矢 ・ 野長九郎 関 ・ 鉄之介等を派遣、彼等は

諸藩を遊説して翌安政六年(一八五九)一月から二月にかけて帰藩した。この遊説はまったく効果を得ることが出来

なかったものの、江戸においては安政五年の十二月から薩摩藩の岩下方平等がすでに井伊大老暗殺の計略を抱いて、

折から江戸滞在中の高橋 金 ・ 子と密かに連絡を取り合っていた。ついで翌安政六年三月二十二日薩摩藩士高崎猪太郎

が潜行して高橋等に挙兵すべきことを説いた。しかしこの時は水戸側が自重論をとったため具体化はしなかった。

一方幕府は密勅降下後、安政の大獄を開始するとともに、これと平行して水戸藩に勅諚を返納させるための勅命を  


8 第一章 桜田門外の変

第一章 桜田門外の変

第一節 桜田門外の変に至るまでの経緯

好通商条約調印を断行した。そして、さらに同年七月五日、無勅許で条約調印を行った責任を追及して不時登城した

)との日米修  安政五年(一八五八)六月十九日、大老井伊直弼は朝廷の勅許を得ずにハリス( Harris, Townsend

徳 川 斉 昭( 前 水 戸 藩 主 ) 徳 ・ 川慶篤(水戸藩主) 徳 ・ 川慶恕(名古屋藩主) 松 ・ 平 慶 永( 福 井 藩 主 ) 一 ・ 橋慶喜等を処

罰した。一方、幕府の無断調印に激怒した孝明天皇は同年六月二十九日、事情説明のため三家 大 ・ 老の内一人の上京

を命じたものの、幕府は老中間部詮勝を派遣すると返答したため朝幕関係は険悪となった。こうした折、水戸 福 ・井

鹿 ・ 児島藩の有志等は、鹿児島藩士日下部伊三次を上京させ、青蓮院宮 近 ・ 衛忠煕 三 ・ 条実万等に幕政改革のため勅

諚が水戸藩に降るよう入説した。また在京の梁川星巌 梅 ・ 田雲浜 頼 ・ 三樹三郎等も懸命の運動を続けた。この京都工

作が奏功して八月八日早朝、水戸藩に勅諚が降った。これがいわゆる戊午の密勅である。この密勅には、幕府の無断

調印と尾水越三家の処罰を責め、大老 老 ・ 中等は三家 三 ・卿 家 ・門 列 ・ 藩と群議評定し、国内治平 公 ・ 武合体の実を

あげ、徳川家を扶助して内を整え、外夷の侮りを受けぬようにせよ、と記されていた。この密勅は武家伝奏万里小路

正房から密かに水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門の手を経て、その子幸吉に渡され、幸吉はこれを十六日深夜水戸藩邸

へ届けた。なお密勅には、同列の方々及び三卿 家 ・ 門以上には隠居に至るまでこの趣旨を伝達せよとの別紙副書があ


はじめに

7

 なお、このことを考察するにあたって、ここでは『水戸藩史料』上編坤と『水戸藩史料』 下編に依拠するが、東

禅寺事件については若干内容に乏しいため、『続通信全覧』の「東禅寺英假公使館兇徒襲撃一件」を補って考察する

この他、桜田門外の変については、吉田常吉氏の「桜田事変とその波紋」(『茨城県史研究』第九号)もある

ことにする。 註  

(1)


6 水戸藩の尊攘運動についての一考察

子について、さらに『続通信全覧 暴行門 殺傷』所収の「東禅寺英假公使館兇徒襲撃一件」を用いて、事件後のオ

ールコックの対応とそれに対する幕府の対応について詳しく考察している。この他、沓澤宣賢氏は「東禅寺事件にみ

るシーボルトの外交的活動について」(箭内健次編『鎖国日本と国際交流』下巻)で、事件後の経緯とその間におけ

るシーボルトの活動を考察し、さらにシーボルトがドイツの新聞に寄せた東禅寺事件の記事の内容を考察して、事件

そのものの様子や、その記事の成立事情について詳しく考察している。そして坂下門外の変については、『宇都宮市史』

事 ・ 件は、すべて水戸藩の攘夷派が起したものであるのにもかかわらず、これまで桜田門外

近世通史編で下野の志士達の視点から詳しい考察がなされている。   し か し、 こ れ ら の 事 変

の変と坂下門外の変は、性質が似ているためかその連続性と連鎖性についてある程度考察されているが、その間に起

こった東禅寺事件はその性質の違いのため、単に外国人殺傷事件として取り扱われ、桜田門外の変と坂下門外の変と

は切り離されてとらえられがちであるように思われる。また、これらの事変 事 ・ 件はその出来事があまりにも大きす

ぎ る た め、 個 々 の 事 変 事 ・ 件として取り上げられる場合が多く、逆にこのことがこれらの事変 事 ・ 件を単発的なもの

事 ・ 件は単体の出来事として考察することもさることながら、これを総合的に考察することもまた幕

として際立て、単なる性質の違いからその連続性と連鎖性が切り離されてしまっているように思われる。  これらの事変

末という特殊な時期を考える上で重要なアプローチであるように思われる。そこでここでは、これらの事変 事 ・ 件に

ついて個々のものとして十分考察するとともに、その前後関係についても十分考察することによって、これらの事変

事 ・ 件の連続性と連鎖性、さらに共通性について明らかにするとともに、これらの事変 事 ・ 件の総合的な意義につい て考察を加えてえてみたいと思う。


はじめに

5

はじめに

)の来航と、その翌年の安政元年(一八五五)の開国によって、日本は国際  ペリー( Perry, Matthew Calbraith

情勢の荒波にのみこまれ、世界の中の日本になった。しかし、この開国は武力に強制されたものであったために、こ

れ に 反 発 し て 国 家 の 独 立 を 守 ろ う と す る 攘 夷 の 意 識 は 次 第 に 高 ま っ て い っ た。 こ の よ う な 風 潮 の 中 で、 万 延 元 年

(一八六〇)から文久二年(一八六二)にかけて水戸藩の攘夷派が起した、桜田門外の変、 東禅寺事件、 坂下門外の変は、

そして桜田門外の変については『水戸市史 中巻(四)』で、東禅寺事件と坂下門外の変については『水戸市史中

(1)

幕末を象徴するかのような攘夷事件として今日よく知られるところである。  

巻(五)』で主に水戸藩関係の史料を用いて、これらの事変 事 ・ 件の様子やその間における幕府と水戸藩の一連の動

』の他、東禅寺事件については、神谷和 きについて詳細な考察がなされている。この『水戸市史 中巻(四) (・五)

正氏が「西尾藩の高輪東禅寺出兵ー英国公使館警護資料二点」(会報『三河地域史研究』二十二号)で旧西尾藩士が

事件の様子を記録したもので、その家系に伝えられる史料を用いて事件の様子について、さらに西尾市資料館所蔵の

「文久元年辛酉五月廿八日夜討入 同年八月廿四日高輪東禅寺一件ニ付御褒美書写」とある一冊を用いて、事件後に

幕府から警護に尽力した藩士に対して贈られた褒賞の様子について詳しく考察している。さらに吉野敏氏は「幕末外

交文書による東禅寺事件始末記」(『古文幻想』六)で、当時外国奉行支配同心格通弁御用として東禅寺に勤めていた

福地源一郎の『懐往事談』や、実際に浪士等の襲撃の的になったオールコックの『大君の都』などを用いて事件の様


水戸藩の尊攘運動についての一考察 〜桜田門外の変から坂下門外の変に至る動向を中心に〜


2 目 次

第五節 事件後の外国公使等の対応とそれに対する幕府の対応………………………………………………五五

 

長州藩との連盟計画…………………………………………………………………………………………六一

第三章  坂下門外の変 ………………………………………………………………………………………………六一 第一節

第二節 下野志士との連携……………………………………………………………………………………………六六  

第三節 坂下門外の変とその結末……………………………………………………………………………………七二  

結びにかえて ……………………………………………………………………………………………………………七六


目 次

1

目 次

はじめに ……………………………………………………………………………………………………………………五

第一章  桜田門外の変 …………………………………………………………………………………………………八

第一節 桜田門外の変に至るまでの経緯……………………………………………………………………………八

第二節 大老要撃の計画と実行……………………………………………………………………………………一二

第三節 事変後の諸有志の運動並びにその結末…………………………………………………………………二二

第四節 事変後の処理………………………………………………………………………………………………二九

第五節 事変後の物情………………………………………………………………………………………………三六

第二章 東禅寺事件 …………………………………………………………………………………………………四〇

第一節 玉造勢の発生とその処分…………………………………………………………………………………四〇

第二節 東禅寺事件発生に至るまでの物情………………………………………………………………………四四

第三節 東禅寺討入 …………………………………………………………………………………………………四七

第四節 事件後の処置………………………………………………………………………………………………五一  


位の経済大国にまで成長した。しかし、今日では中国の台頭により

位に転落し、その他の新興国の勢いにも押さ 3

二〇一三年八月

だろうか。   

工藤 宏昭

された言葉ではあるが、この時代を再考することによって、現代日本の復活の要因を探る要素となり得るのではない

れ気味になり、残念ながら日本国の存在感は薄らいでしまっている。しかしながら、「歴史は繰り返す」とは言い古

2


まえがき

 私が始めて日本史に興味を持ったのは、小学校

年生の時である。それ以来、将来は歴史の研究者になりたいと思

国から非常に遅れをとっていた。しかしながら、国内の動乱を経て急速な近代化に成功し、一九九〇年代には世界第

える。今現在の日本は残念���がらグローバル化の波に遅れをとっているように感じるが、幕末の日本も欧米列強の各

 今日のコンピューター、インターネットの普及に伴う急速なグローバル化は、幕末という時代と非常に重なって見

を加え、幕末の動乱を研究したものである。

三家の一つである水戸藩に注視し、幕末の幕開けともいえる桜田門外の変〜東禅寺事件〜坂下門外の変を中心に考察

 本書のテーマについて言えば、大きく言えば幕末の尊王攘夷運動を考察したものである。その中でも、徳川幕府御

れば幸いである。

の書を確認することによって初心に戻ることである。この書がきっかけとなりさらに自分を見つめ直す機会が得られ

本書を再編するに当たっての目標は、これから社会復帰をして行く中で、また何かの困難に立ち向かう時、再度こ  

を取り戻し、卒業論文を再編集したものである。 

傷病を患い休養から回復していくなかで、様々な場所を訪れ自分の本質を確認していくなかで、再び歴史研究の興味

 卒業後は一般の会社に就職し、それとともに歴史研究への関心を忘却のかなたに追いやっていた。しかしながら、

い、中学、高校と勉学に勤しみ、また周囲のサポートも受け、念願であった大学での研究をする得る機会を得た。

6


水戸藩の尊攘運動についての一考察 〜桜田門外の変から坂下門外の変に至る動向を中心に〜

工藤宏昭



水戸藩の尊攘運動に関する一考察