谷川俊太郎・鈴木輝昭「詩と音楽」

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今年のワークショップ の目玉企画が、谷川俊 太郎さんと鈴木輝昭さ んの対談。谷川さんに

よる自作朗読と、鈴木作品を知りつくした浜崎香子さんの指揮による合唱を挟みながらの 1時間半は、和やかな中にも言葉と音楽について深く考えさせられるひとときとなりました。 抜粋してお届けします。 (編集部)

谷川俊太郎・鈴木輝昭

特別講座

「詩と音楽」

進行

会場には“谷川ファン”も多数詰めかけた

浜崎 谷川さんは21歳のとき『二十億光年の孤独』でデビュ ーされました。現 代を代表 する、日本で最もたくさんの読者 がいらっしゃる詩人だと思います。合唱をする者にとっては、 いちばん数多くの作曲家が曲をつけている詩人でもあります。

そして鈴木輝昭さん。合唱作品はもちろん、現代音楽をた くさん作曲されていて、1週間ほど前にもチェロのソロ曲の新 作発表があったということです。360曲ぐらいある合唱曲の中 で、谷川さんの詩による作品が…

鈴木 その話になるだろうと思って数えてみたんですけど、ピー スで約70曲です。組曲だと、それを4で割ったぐらいの数ですね。

谷川 おかげで生活が成り立ってます(笑)。

浜崎 谷川さんの詩を読むと「なんで私のことを知ってるの?」 「これは私も見たことがある」と感じます。私が詩に引き込ま れていくというよりは、いつの間にか言葉が私の中に入ってき て、私がしゃべっているような気持ちになるんです。こういう詩 はどうやって、どこから、いつ生まれて来るんでしょうか。

また、鈴木さんの曲は本当に音が多くて、難しいんですけ ど、何を思ってこんな大変な曲を(笑)作られるんでしょうか。 まずはそんな創作の現場について、お二人に話をしていただ

こうと思います。

鈴木 格好をつけていてもしょうがないので、具体的なお話 をしましょう。その現場は私の、東京都小金井市にある自宅 です。1週間のうちの半分以上は家にこもっております。仕事 をするのは一応防音してあって一晩中音が出せる部屋で、密 室状態ですね。

「そんな部屋にこもってないで、散歩をしたり、雄大な山々 を見たり、森や湖に行ったりするといい曲が作れるんじゃな いの?」なんてよく言われますけど、もしかすると自然は大敵 かもしれない。そこに身を投じてしまうと、それ以上のものは 必要なくなってしまう。充足してしまうんですね。

イメージがいくら湧いても、具体的に形にしていかないとど うにもなりません。だからストイックな状況を作るように仕向け る。部屋は2階にあるんですが、その階段を断頭台のような (笑)重ーい足どりで昇っていって、ピアノの前をうろうろうろう ろしながら、もうしょうがない、逃げ場はない、という状況でそ こに座る。そういう作業です。

浜崎 だからいつも遅いんですね。

鈴木 ごめんなさい(苦笑)。

谷川 ということは、いつも締切があるということですか、曲 をお書きになるときには。

鈴木 はい、あります。

谷川 締切なしで、自発的に湧いてくることはないんですか。

鈴木 うーん…そちらから突っ込まれるとは思ってもみません でした(笑)。

谷川  いや、ぼくも締切仕事ばっかりしてますから。ときどき 人ががっかりするんですよ。詩人っていうのは何か湧き上が るものに 突き動かされて詩が出てくるんだと思い込んでるみ たいで、「ぼくは締切がなきゃ書きません」と言うと、すごくイヤ な顔をされます(笑)。それで聞いてみたんですけど、どうも

私と同じ状況らしい。安心しました。

鈴木  同じことを私もよく言われます。「今頼まれてるお仕事 が終わったら何を書きますか?」「本当は何を書きたいです か?」って。でも、依頼されるというのは、創作をする力になる と思うんですね。

谷川 そう、絶対に「他者」が必要です。

鈴木 そこに生活も含めてある種の責任がつきまとう。そう いうものが、半分以上の力になっているように思います。それ がなくても、たぶん湧いてくるものはあると思うけれど、もしか すると1年経っても2年経っても形にならないかもしれない。

谷川 そして、締切があると、また書きたいものが湧いてくる んですよね。たぶん言葉と音楽は似てると思うんですよ。人 間って群生動物だから、一人っきりじゃ出て来ない。猿とお んなじですね(笑)。

鈴木 そこに待っていてくれる人がいる、それを早く音にしたが っている人がいる。苦しいですけど、それが後押ししてくれる。

谷川 それが生きがいですよ。作る上でね。

鈴木 作曲にはある種の制約がつきまといます。楽器だけの 作品でも、編成とか時間とかね。そして言葉というのも確かに 作曲上の制約ではあると思うんですが、これはとても幸福な 不自由と言ったらいいでしょうか。せっかく人間は言葉を持っ ているし、言葉があれば発音というものもある。発音も楽器 の一部だとぼくは思っていますから。

谷川 当然そうですね。

鈴木 そういったすべてのものが取り巻く中から自分を見出 していくプロセスが、とても大事だと思いますね。ただ、具体 的な作業になると、日本語の語呂みたいなものとリズムの駆 け引きをして、フレーズの中にそれを入れていく作業を少しず つ積み重ねます。設計図を引くみたいなものですね。

だから、ぽんと来てぽんと出て、というようなことは、少なく ともぼくはできないです。かなり時間をかけて綿密に練る。実 際に音を書き始めるまでの作業が相当長いです。

谷川 詩の場合は、意識から出てくる言葉と、意識下から出 てくる言葉を、便宜的に分けるんですね。脳科学の通俗的な 用語でいうと右脳と左脳ということになるんですけど、われわ れが普通しゃべったり散文で書いたりしている言葉はだいた い左脳で、理性的、知的な言葉ですよね。一方、右脳は、言 語になる以前のもやもやから働いている。

そういう言葉にならないもやもやしたものがポコッと言葉に なって出てくる、というのが詩の根本にあるのが基本的には 望ましい。ヘルマン・ヘッセというドイツの作家が「夢遊病的」 って言うんですが、確かに「あれっ、なんでこんな3行が書け たんだろう?」みたいなことがときどきあるわけですね。だけど 実際は、締切が迫ってくると、左脳の方で理詰めで書いてし まったりします。そうするとだいたいおもしろくない。

「こうなんですよ」と伝えてるんだけども、これって本当なんだ ろうか、と思うことがたまにあるんですね。

私の師匠は三善晃先生ですが、三善先生は「一挙全体的 に」という言葉をよく使ってらっしゃるんです。一挙全体的にす べてが出てくるものが、理論的にもインスピレーション的にも優 れているものだと。

谷川 モーツァルトは交響曲が1曲全部頭の中にあって、それ を速記しただけだと聞いたことがあるけど、そういうことです か?

鈴木 うーん、それはあまりにも特異な例すぎて…モーツァ ルトが天才だって言われるのはそこなんですよね。たぶん歴 史に残っているすべての作曲家は天才なんでしょうけど、モー ツァルトは、書くときには初めから清書でフルスコアなんです。

浜崎 谷川さんのポコッと出てくる感じって、モーツァルトっぽ いですよね。

谷川 いやいや、交響曲1曲分は絶対出てきませんよ。せい ぜい3行(笑)。俳句の国民です から、短いものはポコッと出てくる んです。だけど、長大な叙事詩、 ダンテの『神曲』みたいなものは 出てくるわけがない。

鈴木 でもさっき谷川さんがおっ しゃった潜在的なものは、生きて いる上でずーっとサブリミナルに 流れているもので、音楽もそうだ と思うんですね。たぶん無からと いうことはあり得ない。自分の体 験の中から出てくるんです。「作曲は体験の再体験だ」と言う 人もいて、ぼくはその言葉が好きではないですけど、やっぱり そういうものの蓄積があってこそなんじゃないかな、と思いま す。

浜崎 意識で考えられた言葉じゃないからこそ、日本人に共 通していて、誰が読んでも「これは私の言葉」とか、「私のこと を言っている」という気になってしまうんでしょうか。

谷川 そうだと思いますね。われわれ詩人には、理性で、意 識の上で書くんじゃなくて、自分の意識下にできるだけ深く入 っていくと、そこに共通の地下水みたいなものがあるはずだ という幻想があるんですよ。そこで、日本語を使っている人全 部の意識の一番深いところに触れることがあるんじゃないか。

さっきあなたが「これは私のことを書いてる」「私も確かにこ う感じたことがある」という印象を語られたけど、それは意識 の本当に下の方の、地下水的なものに、そのとき触れること ができたからだと思います。

鈴木 それを具体的に言葉にすると、力を、それも支配的な 力じゃなくて、みんなに共感を与える力を持つんですね。

谷川 いや、実はそこからが大変なんですよ。右脳からポコ ッと3行出たってそれだけじゃダメです。そこからは、左脳が噛

んでくるわけですね。要するに、推敲の過程。

ぼくは一編の詩を、だいたいひと月ぐらいはいじってますね。

コンピュータ開けて、ああでもない、こうでもないって。「は」が 「が」になったり、「。」が「、」になったり、そういう細かいことも 含めて推敲する過程では、明らかに意識と無意識が協働し て判断していると思うんです。これじゃ一般の人には通じない からこういう言い方はやめた方がいいという意識的・左脳的 な判断もあるし、推敲しているうちにポコッとまた新しい言葉 が出てきて、そっちの方がいいっていう場合もあるんですよね。

常に意識下と意識とのせめぎ合いみたいなもので言葉が生 まれてくる。

ただ、詩っていうのはもともと韻文でしょ。言語の中でいち ばん音楽に近いわけです。日本の七五調には明らかに音楽 的な特性があって、標語なんか七五調で書いてあるからすっ きり腑に落ちてしまうところがある。現代詩がそれをどんなに 否定してきても、詩というものはそういう韻文性を、いまだにど こか残していてね。韻文性は、どちらかという と意識下に訴えるところが多いと思 いますね。

浜崎 『じゅうにつき』 はとっても不思議な詩 です。どの月にもいろ んな 言葉が出てきて、 広がっていったり、どこか に行っちゃったり。これは 経験のあることなんですか? ないです。基本的にフィク ションですね、詩は。でもフィクションで書 いていっても、どこかに作者ってものが絶対に出るんですよ。 そこがおもしろいところ。

じゅうにつき(朗読と演奏)

『じゅうにつき』を歌う斐川町立斐川西中学校合唱部(ピアノは鈴木あずささん)

鈴木 この詩は、6月から始まって5月で終わる1年12か月を、 とくに区切りなく書いてらっしゃいますね。私は作曲にあたっ

て、6月から5月まで音楽的に一挙に構成するのはちょっと不 可能に近いと思ったんです。それで、6・7・8月がⅠ、その後 の9・10・11月がⅡというように、3か月ずつ4楽章に区切らせ ていただきました。

今さらですが、作曲家がこういうことをすることに対して、谷 川さんはどのようにお考えですか?

谷川 それはまったく自由です。語句を変える場合もあります よね。それはこっちの了承をとってですけど、それで曲として、 つまり音楽としていいものになるんだったら、ぼくは大歓迎です。

基本的に、言葉に音楽がつくと、世界が深まるんです。活 字で読むよりも、深まって広がる。読んで心の中で深まったり 広まったりしている人はいると思うけれど、聴き手や歌い手が みんな揃って深まったり広がったりというのは、合唱の強みな んですよね。

鈴木 本当にそう思いますね。

浜崎  普通、詩を読むっていうのは2 ~3回ですよね。でも、 合唱にすると、この詩を1,000回も2,000回も繰り返し繰り返し 歌ったり読んだりして、詩に気持ちを寄せて、自分の世界を 広げて、イメージを作っていく。祈るように何回も何回も。そう やって感じていくのが、合唱をしている良さというか、楽しさと いうか、すごさというか。

谷川 詩にとって、そんなに幸せなことはないですよね。だっ て、おばあさんになっても覚えてるでしょ、きっと。

鈴木 この間、NHKコンクールの審査をしている最中に、ぼ くが感じる谷川詩の印象をアナウンサーが代読してくれたん ですね。そのときに申し上げたのは、まず、さっき話題の中で 出た、まさに自分の体験のような温かみがあるということ。そ してもう一つ、谷川詩には音としての美しさをすごく感じるん ですよね。今まさにご自身が読んでくださいましたが、谷川さ んの言葉の発音がすごく美しいのは、たぶんぼくだけじゃな く作曲家がみんな感じていることだと思います。

谷川 それは文字で読んだ場合にその音のつながりが美し いという意味か、それとも私が自作を朗読したときの声が美 しいということなのか、どちらなんでしょうか。

鈴木 もちろん両方でございます(笑)。でも昔の、それこそ 古代ギリシャの吟遊詩人の頃は、詩人と音楽家って分かれて なかったですよね。最近の谷川さんの活動を拝見している と、そういうものに対する感興がご自身の中でふくらんでいる んでしょうか。

谷川  いや、自作朗読は若い頃からぽつぽつとやっていた んですが、1966~67年にアメリカにちょっと留学みたいなこと をしたときに、向こうの詩人たちの自作朗読の会にいくつか 出たんですね。日本で考えていた詩の朗読とはまったく違う 場で、聴衆は喜んで笑ってるし、詩人は本当に楽しそうにそ の場を作ってる。それで、声のメディアと文字のメディアが同じ ぐらい大事だと気付いて、わりと真剣に音読というものを考え るようになったんです。

鈴木 ものを書くという自己と、演奏する、朗読をするという

りも、職人だと考えたいんです。舞台に上がっているときも、 詩人として自作朗読というよりも、本当は芸人だと考えたいん ですよ。息子にそう言うと、それは芸人に失礼だと。芸人は 子どものころから修業して、日本の伝統芸能なんか大変なも のなのに、ってたしなめられるんですけどね(笑)。

書くときには職人的な意識、読むときにも芸人的な意識、と いう共通点はあるんですが、それは簡単に言うと、ウケたい んですよ(笑)。読者にも、聴衆にも、ウケたい。

鈴木 その経験から、詩人として何かしら還元されているこ とがありますか。

谷川 もちろん。さっき他者からの刺激が書くときの力になっ ていると言ったのと同じです。活字で発表しても、ほとんど反 応がないわけですよ。せいぜい愛読者カードがぺらっと来た り、友達から「お前、昨日の詩は良かったぜ」と言われるくら い。朗読をすると、今日みたいにしーんとして聴いてくださっ たり、あるいは出てっちゃったりするじゃないですか。認知症 の老人の会でも読んだことがあるんですけど、最前列の老人 が「いい加減に止めろ!」とか言う(笑)。そういうのが生き生 きしていて、すごくおもしろい。絶対に活字では味わえない場 ですね。

鈴木  私も自作の指導とか、おまけで指揮をしてくれとか言 われると、気分はいいですね。

谷川 でしょ?

浜崎 皆さん、どんどん頼みましょう!(笑)

鈴木  結局、それがたぶんいい形で作曲そのものに還って くるんだろうと思うんですよ。作曲は一人で机に、あるいはピ アノに向かって音符を書く、非常に閉じた個の世界ですが、 それこそ人と関わりを持って、教えを請うたりすることによっ て、次に書くものにリアリティが増してくる。それを繰り返すこ とが勉強でもあるし、演奏を聴かせていただいたり、指導の 現場を拝見したりしていると、非常に学ぶものが多いんです ね。そこに、谷川さんとの共通項を感じます。

鈴木 ぼくが最初に書いた合唱曲は立原道造の『優しき歌』 ですけど、立原さんの詩って、それほど難しい言葉は使われ ていないのに、書かれている詩の内容、何が言いたいのか は、案外わからない。美しい言葉なんだけど、ゆらめいてい て。だから、音楽にしようとするときにどうも引っかかりがない んです。

谷川 ほう。

鈴木 彼は吟遊詩人のように、その詩を読む言葉、音声その ものが音楽なんだよ、というところまで昇華したものを目指して いた。そうすると、音楽はもう要らなくなっちゃう。

谷川 立原道造はいわゆる14行のソネット形式で書いてますよ ね。ぼくも2番目の詩は『62のソネット』という題で、全部14行で書 いてるんですけど、それはやはり立原の影響があると思います。

詩の音楽性って、言語を発声した場合の音としての音楽性 と同時に、単語と単語の関係の音楽性っていうのがあるんで すね。『62のソネット』も意 味は曖昧模糊としてるんだけど、こ れをいいと言ってくれる人は、たぶん語と語の意味的な連関 よりむしろ音楽的な連関が快いというふうに、内的な調べみ たいなものを聴き取ってくれてるんじゃないかと思うんですね。

立原のソネットも、たぶんそういう性質を持ってるんですよ。意 味的には曖昧模糊としてるんだけど、調べとしてなんか快い。 意味だけじゃない言語の性質を、すごくうまく使っているんだ と思います。

鈴木 音楽作品にするときに、谷川さんの詩は音として美し いのに加えて、ドラマがあり、明確に方向性があります。たと えば今聴いていただいた『じゅうにつき』は、4楽章を通奏す ると、ひとつのテーマが循環していて、それで全体を統一して いるんですね。「ろくがつは/ふるい/にんぎょう」という最初 の3行ですべてのモティーフができたというか、決まったんです よ。詩に触発されて、自分の知らない自分がそこですうーっ と引きずり出されてきたんです。

浜崎  作曲家はいつも詩人に憧れて、詩をたくさん読んで、 ああ、と思うところから作曲が始まりますよね。

谷川 いや、ぼくは常々「言葉は音楽に恋をしている」「詩は 歌に恋をしている」っていう立場なんですよ。音楽が一番偉い と思ってるの(笑)。芸術の形式の中で、少な くとも音楽は詩よりも上だと思う。

なぜ上なのかというと、

には意味がないからです。

意味がないもので感動す るっていうのは、人間の 一番デリケートなところ に触れるっていうことだ とぼくは思う。詩で一生 懸命音楽に近づこうと 思っても、どうしても意味 が邪魔してしまうところがあ るんですね。だからぼくは音 楽家が羨ましいんです。

鈴木  でも、果たして本当に「音楽には 意味がない」んでしょうか。「この詩はどういう意味ですか?と 質問されて困る」というお話をうかがったことがありますが、実 は同じようなことを音楽家もよく問われるんですよ。「このフレ ーズはどういう意味ですか?」とかね。器楽曲でもあります。 こっちはそれを提供している立場ですけど、演奏家にしても 聴衆にしても、受ける立場からすると、何らかの形でそれを 言葉の意味に置き換えたいところがあるんですね。

ぼくはそういうことがあまり好きではなかったから、ずっと拒 絶して「音がすべてを語っている」と言ってきましたが、最近ち ょっと変わってきました。それを問いかけてくることで、より深 くコミュニケートしたいのではないだろうか、と感じるようにな ってきたんですね。説明するのが最初は面倒臭かったけど、 自分がやっていることをもう一回再検証すると、そこでまた新 たな向き合い方が生まれてくる。だから、もうちょっと建設的に 受けとめようかな、と思ってるんです。

いずれにせよ、音楽も「意味を求められている」んじゃない でしょうか。まして現代音楽になると、強く求めてこられますね。

谷川 それはつまり、今の時代、人間は「意味の方が無意味 より偉い」と思っているからですよ。ぼくは、「無意味の方が意 味より偉い」っていう立場なんです。

宇宙の始まりって、ビッグバンだと言われてますよね。そのと きにエネルギーが一瞬にして物質に変わって、長い時間が経

って、地球という惑星が誕生して、有機物が誕生し て、いろんな植物や動物が出てきて、やっと最後に人間が出 てきた。意味って、人間が出てきて、言語というものがなぜか 発生した瞬間に生まれたわけですよ。ビッグバンのときは、世 界に意味はなかったと思うんです。

だから、意味は若輩なんです。 偉いのは無意味。無意味がすべ てを生んだ。つまり無意味という ものの肌触り、質感、言語にする のが非常に難しい存在そのもの が世界の中心にあるという考え方 なので、ぼくが無意味って言うとき には、これは褒め言葉なんです。

鈴木 そうなるともう、無意味と いうものはある種の摂理にきわめ て近い、存在そのものということ ですね。

谷川 そうです。その実在感を、言葉に阻まれて人間が感じ なくなっているのが現代だとぼくは思ってるんですね。音楽は 存在のわけのわからない肌触り、テクスチュアに触れる。だか らその感動は、言語の意味から受ける感動より深いとぼくに は思えちゃうんです。

自分の作品はある程度まで、それこそ左脳できちんと解説 できる必要があると思いますよ。でもいくら見事に解説しても、 解説できずに残るものが絶対にある。それがたぶん、音楽の 一番の実在の意味であり、詩の意味だと思いますね。その 意味はもう言語化できない。だけど感じる。

そこに音楽批評の難しさもあります。言葉で音楽を批評す るのはとっても難しいのに、なんかうまく解説しちゃってますよ ね。それをみんな鵜呑みにして、これはこんな意味なんだ、と 思っている。でも、音楽の本当の素晴らしさは、その言葉を 越えたところにあって、各人の魂が感じるしかないんです。 浜崎 鈴木さんも「どうしてこの音を選ばれたんですか?」っ て聞くと「耳で」っておっしゃるでしょ。それってもしかして、無 意味っていうことじゃないですか?

鈴木 ええ。谷川さんのお話とつながっている感じがして、 すごくうれしいです。でも、じゃあその「耳」って何なのか。そ れは個としての耳、今生きている自分の耳なんだけれども、そ んなところじゃダメですよね。もっともっと深いところで感じな いと。

師匠の三善先生からは、音楽の倫理ということについて教 えを受けました。その時代時代のスタイルや潮流があって、そ れを外れている、あるいはそれをさらに壊していくものじゃな いと評価されないということはあるけれど、それを続けると無 間地獄に陥って、結局何も残らなかった、なんてことになる。 そうではなくて、自己の深いところに降りていく。個の内側を 越えた、もっと深い脈絡をいつも感じて音を聴いていく。作曲 はまさに「聴く」という作業なんですよ。それこそ、谷川さんの 言葉でいう「みみをすます」ですね。

うしても自分の幼少年期の体験に結び付けてイメージします よね。ぼくは女の子だと思ったんですよ。親も兄弟もみんな 死んじゃって、好きな女の子とたった2人で戦場に行く、そう いう妄想の遊びをしていたんです。

おまけに、ぼくの大好きだった女の子の恋敵に「あべ」って いうのがいましてね。「ぼくのきらいなあべ」が出てきたときに、 これしかない、やっつけてやろう、って(笑)。

谷川 そういうふうに読んでいただいてぜんぜん構いませんよ。 鈴木  でも曲を演奏してくださった指揮者は「これは男の子 だ」と。10年ぐらい勝手な論争をしていたんです。ぼくが「どっ ちでもいいじゃないか、ぼくは女の子だと思ったんだから、こ の曲は女の子なんだよ」と言っても、なかなか納得してくださ らなくて。ところが、ついこの間出た谷川さんの分厚い本。

浜崎 「ぼくはこうやって詩を書いてきた」(ナナロク社)。

鈴木 読んで、私はショックを受けました。負けた、と。谷川さ んが「これは少年のゲイなんだよ」ってはっきりおっしゃってた。

谷川 実体験が元になっていますからね。

鈴木 谷川さんの実体験とぼくの実体験がちょっとだけずれ たということですね(笑)。

谷川 男の子って、ある時期ゲイ的になるところがあるんです よ。全部が全部じゃないらしくて、その本で対談した山田馨 さん(編集者)はぜんぜんその経験がなかったから、きょとん としてましたけど。でも、日本にはお稚児さんの長い伝統が あるじゃないですか。

鈴木 ぼくは中高通して男子校でしたから、わかります。あま り大きな声でわかりますとは言いたくないですけど(笑)、好き な子、いましたよ。好きになられたこともあります。

谷川 そうでしょ。そして自然に消滅しちゃうんですよ。女の 人もあるでしょ?

浜崎 ああ、女の子から「好きです」って手紙をもらったこと があります。

谷川 だから、わりと自然な感情を書いてるんですよ。

きみ(朗読) はだか(朗読と演奏)

島根大学混声合唱団とカシオピア・カンタンテによる『はだか』

鈴木 次に『きみ』という作品の話をしていいですか?ここで 書かれている「きみ」とは誰なのか。ぼくも読者ですから、ど

谷川 ぼくは、合唱が終わるときのディミヌエンド、すーっと静 かになっていくところに最初に感動したのが、1966年にベル リンのホールで聴いたソヴィエトの赤軍合唱団なんですよ。今 の演奏も、終わり方にすごく感動しました。もちろん途中だっ て感動してるんだけど、合唱が終わるときって、ソロが終わる ときとも管弦楽が終わるときとも違うんですよね。やっぱり人間 の声、いくつかの声がすーっと消えていくのには、シンボリッ

クな何かがあるんですね、きっと。

鈴木 大クライマックスよりも、非常に高度なディミヌエンドの 方が、音楽的には高級だと言われますね。

浜崎 谷川さんは朝日新聞の「こころ」欄に月の詩を連載し ておられて、私はいつもすごく楽しみにしているんです。3月11 日の震災以来、いつ4月の詩が載るのか心待ちにしていたん ですが、毎朝、新聞を開いては、「ああ、なかった」「ああ、今 日もなかった、俊ちゃーん!」(笑)って言いながら閉じていた んです。

そしたらなんと今日の新聞に、5月の詩として『言葉』という 作品が載っていました。今日ですよ!なんてご縁なんでしょう。

谷川  4 月はね、お休みしたんです。ひとつ書いたんですけ ど、それは被災者の方の気持ちにそぐわないんじゃないかと いうことで。でも、やっぱり東日本大震災を受けて、何か出さ なきゃいけない。ぜんぜん関係ない詩だと、逃げたように思 われるんですね。それで、苦労していくつか書きました。その 中で、いちばんましじゃないかな、というものです。

言葉(朗読)

何もかも失って 言葉まで失ったが 言葉は壊れなかった 流されなかった ひとりひとりの心の底で

言葉は発芽する

瓦礫の下の大地から 昔ながらの訛り 走り書きの文字 途切れがちな意味

言い古された言葉が 苦しみゆえに蘇る 哀しみゆえに深まる

新たな意味へと 沈黙に裏打ちされて

も言葉も必要なんですけど、「もうそればかり言っていたくな い。もっと建設的に前に向かって歩き出したくて演奏会に来 ました」とおっしゃってました。

幸いにも私たちはここで共に合唱をして、集うことの素晴ら しさをひしひしと感じているんですけど、資源の少ない日本の 財産は、やっぱり人だと思うんです。人が国の未来を作り、世 界に貢献していく。合唱をやっている若者たちもそうです。こ の人間を財産として、老若手を携えて生きていきたいな、と。 同時に日本人であることで果たすべき役割というものもある と思います。そういうことを大切に生きていきたいな、と考え ています。

谷川 「言葉を失った」って言う人がすごく多かったんです ね。メディアで発言する方々に。そう言いながら、けっこうみ んな言葉がある。ぼくはそこに引っ掛かってしまった。

あれだけの大きな出来事があって、すぐには発言できない、 というのがぼくは一番強かったですね。自分の中でいろんな 言葉がせめぎ合うんです。それを一つの方向にまとめて言え ないし、書けない。すごく多かったんですよ、それについて書 けっていうのが。詩を書けとか、チャリティで朗読会をやりた いとか。全部「ちょっとそれはできない」って逃げちゃってたわ けですけどね。

これは日本だけの問題じゃなくて、世界的な今の文化の転 換点を示唆するような出来事だし、そういうものとして捉えな いといけないんじゃないか。われわれの文明の、非常に根本 的なところを疑わないとまずい、という気持ちがあって、そん な大きなテーマをそう簡単に言葉にはできないですね。励ま しの言葉って言われても、自分は被災していないし、身近な 人がそこで亡くなったりケガしたりということもないものだから、 ぼくは発言する権利がない、発言するのは間違ってるんじゃ ないかといまだに思うのね。だから被災された方々に対して は、言葉ではなくて義援金という形で協力すると自分で決め て、ずっとそうしてきているんです。

今はジャーナリズムだけじゃなくて全部、とにかく言葉で言 わなきゃいけない。これは敗戦後のアメリカの民主主義教育 の成果なんです。昔は、簡単に言葉にしない方がいいってい う一種の倫理観があったんだけど。民主主義と日本の伝統 にはいまだにどこか違和感がある気がする。ぼくは、沈黙す ることは必ずしも逃避ではなくて、ひとつの倫理的な態度の 表明だと考えているところがあってね。

(5月2日 朝日新聞より)

浜崎 最後に、今生きている私たちや、これからの日本、子 どもたちに向けて、お二人から言葉をいただいて締めくくりま しょう。

鈴木 私も今回の被災地(仙台)の出身なんですけど、つい 1週間ほど前に私が主催した演奏会を、被災地から聴きに来 てくださった方がいました。場所によってはいまだに地獄絵の ようなありさまだし、復興はもちろん大事で、そのための活動

だから「被災地の子どもたちに何かメッセージを」と言われ ると、ぼくは詩を書いている人間だから、これから書く詩の中 にメッセージを受け取ってほしいし、もしぼくが今まで書いて きた詩の中に励ましや癒しになるものがあったら、それを受 け取ってほしいな、という気持ちですね。

浜崎 私たちも、これからまた谷川さんの言葉の中に、鈴木 さんの音楽の中に、生きるということ、そしてこの先のことを たくさん受け取って、私たちの言葉や音楽にして歩いていけ るような気がしてきました。

これからもお二人はたくさん発信してくださると思いますの で、キャッチしていきたいと思います。ありがとうございました。

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