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JapaNing

presents


セクション 1

名称未設定

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INTRO

ガタッ、ガタッ、ガタッ、ガタッ、ガタッ、ガタッととリズムを刻みトンネルに出たり、入っ たり、入って行 く向こう1km先は渋谷。そのな井の頭線が通る真横に建つクリーム色の9階建てのマンションに生まれ育っ た。 マンションは左右に別れた2層、計4部屋の最上階、9階の一つ903号室が父、母、姉の いと、ワン子のペンキ ーとぼくが住む、我が家。家の出口を出るとすぐ右には大人2ギリギリ入れるほどで柵状で9階の高さを肌で 感じ下を見下ろせるテラスがある。その正面にはぼくが通ったと呼ばれるが覚えがほとんどない幼稚園が見 え、その手前下を井の頭線が走る。 そのテラスから少し右下を眺めると4台程停まる駐車場、その端に駅、神泉に向かう小さな 道がある。ここが ぼくの通学路、そこから9階の母と愛犬ペンキーが手を振るのを見上げ、確認しながら、ぼくも手を振り返し ていた小学校時代。母とペンキーが見えなくなり、10mくらいその駐車場脇の小さな道をまっすぐ歩くと『危 険』と言われていた通り、 上には高速のような橋がはしり、ありとあらゆる色の車が、リズムをとらずに合 唱する、 旧山手通りにぶつかる。その通りを左手に信号めがけて歩くと、セントラル病院を背にその大通り を渡る信号がる。信号を渡り、右へ100m弱、ちゅうど反対側が9階の母とペン キーに別れを告げ、ぶつかる 『危険な通り』の入り口だ。その曲がり角の建物の一階が喫茶店になっており、その喫茶店より目立ったのが 今でもあるか解らないが3~4の仏石。 そこを左に曲がり神泉に向かう。渋谷まで一駅、やたらと急坂にあり、 ホームが電車より短く、鈍行しか止まらない駅、神泉。 セントラル病院の信号を渡り、曲がらずに坂を直線に下ると、『 危険だから一人では行っ ては駄目!』と母親 に言われていた方向だ。そちら方面をまっすぐに行くと、左側に東急本店が現れる、渋谷だ。東急本店から少 し行くと東急ハンズが、ハンズが僕の覚えている行 っては行けないはずの僕の初めての一人旅、小学生低学年 の時だった。危ない、でもだから唆る好奇心。ある日ビクビクしながら、そしてワクワクもしながらその未知 な方角へ一 人、自転車を飛ばした。 従兄弟の家に行った時、プラモデル政策に夢中になる彼を見て影響を受けたのだろう。旧山手通りを隔てた渋 谷と神泉、俺たちが住む側には無かった少し難しそうな、従兄弟が夢中でやっていたようなプラモデルが欲し かったのだ。ちゅくちゅく小さな買い物で小遣いを使う姉とは違い、貯めて貯めて、ど(こどもにとって)でか い狙っていたものを買う自分。東急ハンズで これだ!っと思うプラモデルが有ったののだろう、それとも初め ての一人旅に記念になる、残る何かが欲しかったのだろうか。嘘をつくのが下手で、『一人で行けたよ!』と でも自慢するように『これ渋谷で買ってきたよ!』ぐらいの勢いで母に見せた、そのプラモ デル。叱られるは ずが、なんだか『すごいわね~』と褒められた覚えが微かにある。その緑色の4クのプラモデルは、今の今で も実家の物入れの俺の箱から何時僕に遊ばれるのか待つようにカタチも色も変えずにある。

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偶に一緒に入る忙しい父とのお風呂の中で歌い続けた『キャンプだほい、キャンプだほ い、キャンプだほい ほいほい~!』。キャンプ・アウトドアー、特に釣り好きな自分、そんなルンルン気分の歌声はきっと風呂の小 さいあの窓から近所に大きく、 そして楽しげに漏れ響いていたのだろう。何度か近くの東京湾へは、はぜ釣 りに連れて行ってくれた忙しい父。釣りの本と道具を用意し、釣りの妄想する時間の方がはるかに長かったあ の頃。 一 番興味を引いた憧れのブラックバスク、 そして日本で初めてその魚が放流された

ノ湖は夢のまた

夢。 行った事も無ければ、 釣ったこと、見た事(本でしか)、ましてや触った事などなかった夢の魚。ある日 の風呂で、その湖へ行く計画が父と約束されたのだ! 何時、どうやってやったのか詳しくは覚えていない、うっすらと覚えているのは自分が宿に電話したのだろう 『しょうじ、でお願いします!』と予約した事だ。そしてここもはっきりとは覚えていないのだが、一人で ノ湖に向かっていた。父は約束を忘れたのか、突然忙しく成ったのか、準備に準備を重ねた道具よりはるかに 強い想いをのせた、重いであろう竿やルアーの箱、そして着替えなど入ったリュックを持ち、どう母親を説得 して家を出たのかなどまったく覚えてはいない。 どうにか一人電車とバス、そして船に乗って、憧れの湖に

り着いた頃にはもう日は暮れていた。宿を探し着

くと始めの言葉は『いらっしゃいませ~』ではなく『お父さんは ??? え!一人で来たの ??? 子供さんだけじゃ ~』。僕の答えは『もう、夜で帰れません!』, あの頃の今よりもっともっと甘えん坊の少年、蔵人がよくもま ーと今更に関心してしまう。親にでも電話してくれたのだろう。覚えているのは客室ではなくその家のおじい さんが早々と大鼾をかいて寝る部屋に通され、食事をしたのかしないのか、覚えているのは鼾がうるさ過ぎカ ルチャーショックをうけた、その旅で一度も挨拶が出来なかった鼾のうるさいおじいさんの事。次の早朝、宿 のおばちゃんが息子がデカイ船の船長だから乗せてやるというのも振り切り、釣りに行った事だけしか思い出 せない。 最大の目的であった魚には出会えずに、あんなに東京の都会、9階の自分の部屋で本と道具を手に、雨が振 り、寒く水が濁っている時は、この色のルアーでゆっくりと底を巻き誘う、などなど、そんな妄想投資など忘 れ、どんな色でどんなルアーを投げ、どう誘い、釣ろうとしたのか、東京にどう戻ったのかさえ全く記憶に無 い。一つだけあるのは、一人でも、がむしゃらなら何でも出来るんだと身体で覚えた少しの自信。 ありとあらゆる方法で釣り上げようとする。色々と試行錯誤し、釣り上げる時もあれば、どう努力しても釣り あげられない時さえある。釣れなくても、釣りに行く準備や妄想、そして自然との触れ合いの中で、心は落ち 着く、普段聞こえもしない鳥の声や、自然の色や匂いまで何時もと違う感覚が自分に入る。釣りたくて、釣り たくて、釣れそうで、落ち着かない時さえある、でも、どこかで癒される、釣り。自然、自分の思い通りに行 くことが少ないというか、ない。自然との触れ合いや釣りは何処か人生を思い出させる。僕は今でも釣りをす る。 この本では24年間、スイスやイタリア、イギリスやアメリカ、スペインやスエーデン、南アフリカやジャマイ カ、モロッコなど色々な人々、土地と国を訪れたり、住んできた一人の日本、東京、目黒の神泉の庄子家生ま れ、育ち、一人の外国人として生きてきた者の一 つの話しである。 6


隣の家の麦茶の味が違うように、何時もと違う環境に身を置く体験、冒険、旅をしたり、 新しい知識を本や 映画、経験者から知ったり、そこには驚きや好奇心、時には怖さやワクワクする感覚を覚える。何時もと変わ らない風景さえも美しく、新鮮に見え、そして、その自分の『外に出る』という体験には必ず発見がある。 小学校の初登校日の学校の正門までの合同下校の時の出来事だ。先頭を行く先生が僕の方に勢いよく近づいて 来たと思うと次の瞬間、音も痛さも圧倒と衝撃で覚えがないが、突然振りかぶったきた先生のビンタ、バチー ン。その突然の出来事に、時も入学ホヤホヤの一 年生もクラスの皆が止まった、辺りは無音、無動き、そし て状況を把握できない僕。そして時に戻ったきっかけが、未だ登校日初日で名前すら知らない、後に何時も一 緒にいる仲になる竹谷直彦が、先生に向かい『僕がやりました』。そう竹谷はふざけて前の女の子を押し列を 乱した張本人だったのだ。そのビンタを食らわせた加藤辰馬先生は竹谷を叱り、僕には無言で列の前に戻って いった。勘違いされやすい、周りを笑わすことの好きで目立ちたがり屋、 スポーツだけできる野球少年、そ う、あのタイプなのだ、僕は。 国語の授業での音読で、その文を読んでどう思うかと尋ねられ自分の意見を言うと、先生は先生用の教科書で 後ろの方に答えが付いている答えを見て僕にこうこう考えなくてはダメだと言われた。そして、その問いと答 えに違和感を感じたが、その心を押し殺し前に進んだ小学時代。そして少しずつ、『自分にはもっと居心地の 良い場所が必ずある』と、外国生活が長かった同世代の従兄弟に遭う度に確信した。従兄弟の彼らからは何処 か皆と違う、『自分』を犇犇と感じ、何がそうさせたのかと、とても興味が湧いた。その時、自分にとっての 外国は全てアメリカ、そして英語そしてギリシャ語(従兄弟の影響で)。他の国があるかも、他の言葉が英語と ギリシャ語以外あるかも知らなかった。ある日見たTVでアメリカの先生と生徒が名前で呼び合い、ハグまで する光景に衝撃を受けた。そして、そんな関係でありたい、そんな体験をしたい、海の向こうにはきっと僕の 居場所があるんだ、と夢描いた。 スポンジの用に吸収できるあの若い頃に、教育という名の下、あたかも自分のものでない かのような自己認 識を、悪気なく懸命に詰め込まれていた僕の日本、教育というか、強育。教科書から出てくる声がとても生き た人間の書いたものとは思えず、僕には届かなかった。残念にも勧められた本も、そんな教科書からの強制に より知りもしないのに拒否してしまったのだ。そして、そこからの『出口』を探そうと、そして自分は『外 に、外国に出る』と決めた、13~4歳頃だった。そして 16歳の時、大学卒業するまで帰ってきては駄目との約 束の元、単独外国に出たのだ。 親も先生も善かれとした事は間違く、今更ながら、その熱意と投資はありがたいのだが、 贅沢にも僕には合 わなかったのだ。そして今、あの若く何も解っていない自分を外に出す、手放すという親の勇気と愛に感謝し きれないほどにありがたく思う。言葉で面と向かって言えば、必ず涙が出て言葉にできないが、改めて自分の 両親とおばあちゃんに感謝しきれない感謝を感じる。

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色々な国や土地、そして色々な価値の人々との出会いの中で、衝撃的な出会いはいくつかあり、それらは今で も僕の中で強く生きている。日本の外には僕の居場所があると感じ、 初めて訪れたイギリスで、言葉も友達 もいない中のサマースクールで一瞬にして僕の能力が認められ、尊敬され、褒められたのだ。それがスポーツ と僕のスマイルだった。そしてそれは僕の知らなかったと言うより、誇りに思うべきでなかった、紛れもない 長所だったのだ、それまで日本で悪い魔法にでもかかっていたのだろうか。。。 その後、調子に乗り、何も考えずに楽しい時を過ごす学生生活の中で出会って行く人々の中で、何故か僕の周 りは全てスペイン人が多くいた。彼ら、彼女らからは開放感、自由で自分達を持っていると感じた。気がつけ ば、僕が一人外国人で周りは全てスペイン人だった。始めは英語で会話していた僕らだが、彼ら、彼女らは直 ぐに僕が外国人だということを忘れスペイン語で会話した。そこに別に違和感を感じぜずに自然にいると、突 然誰かが、蔵人がいるから英語で、っと。そして2分後、再び彼らはスペイン語になる。そして少しずつスペ イン語に興味を持ち、彼らのやりとりに頭を出し只々聞いていた。今から考えると耳を鳴らしていたのだろ う。そしてカタカナでノートに聞いた言葉を毎日、幾度となく書き込み自然と習って行った。スペイン人は、 『初めまして』の際に頰にキスをした、そして少し仲良くなるとハグをし別れ側にもキスをした。そんな毎日 のやりとりは僕の、外国での外国、日本人の心を知らず知らずに癒した。日本では子供の時にだけされたハグ やキス、それらの行動は守られ、愛されているという感覚と現実を感じさせる。 僕はスペイン人の言葉でないハグやキスというシンプルな行為によって、自分は自分でよく、それでいて愛さ れ、誇りを持って堂々と生きるということが日本を出た大きな理由の一つなのだと納得して行った。そんなに 愛され、素直になれるスペインで、僕はまた衝撃的な出会いをしたのだ。それが、ジャマイカ文化と出会だっ た。 友達の兄が営むBig Bambooという小さなレゲークラブ。別にその音楽に興味を持っていたわけでもなく、聞 いたことはあるがそれを理解しようとも思わず過ごしていた。毎日のように友達に会いに通うそのクラブで本 当に毎晩どこからともなく人が集まり、黒や白、 赤や黄色、緑や青それぞれの色、カタチ、趣味の服を着 て、それぞれの思いや価値を超え、身体一杯に踊り、騒いだ、無の状態。そんな日々が1年近く続くある日、 何時も煩いそのクラブで映像を何時も横目に見ていたあるライブ・コンサートビデオの一つが開店前に流され ていて声と音も聞ける、僕を釘付けにした。 彼らはIsrael Vibrationという名の3ピースバンド。メインメンバー3人、全員が両手に

をつき歩き、踊ってい

た。身体のハンディーキャップを持ちながらも堂々と、そして世の中に対してこれではダメだ、衰退してい る、進化が必要だ!と力強く語った。わざとらしくなく、自然に、そしてスタイリシュに生きている(画面上で はあるが)彼らと出会ってしまったのだ。これだ!。こんなに身近に人生の目的があり明らかになった瞬間だっ たのだ。

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そしてこの大きな発見と出会いにスペインで出会い、そこへ没頭していく。自然と知りもしない人々と毎晩踊 っていたマドリード、スペイン、そんな中、出会ったIsrael Vibration,そしてそれは踊る音と同時に歌詞への重 要さを感じ、自分が皆を踊らせ、言葉の力を運ぶ代弁者、DJへと成る。そしてマドリードでラジオのDJとな り、イベントオルガ ナイザー、ジャマイカのレコードインポーターという形へと進化する中で彼ら、ジャマイ カの人々と交流して行くことになる。スペインでは無かったレゲエ マーケットが4∼5年して段々と広がる頃 には僕は頭でかっちのレゲエマンになっていた。 少しマンネリ化してきた自分の動きの中でも、伝え、シェアーしたい人生の大事なメッセージ(堂々と誇りを 持って生きる=自分は自分で良いということ)への想いはとても強く、足踏みをしながら試行錯誤していた。そ してメッセージを強く語ってきてしまい、少し置き去りにしてきた、音を楽しむこと。そして音楽をそれ以上 に取り込み、前に進んだ。そしてジャマイカン ジャズ(スカ)に出会い、数年後、キューバの革命後、隣国ジャ マイカとの人も音も交流の無かったことから生まれた企画Ska Cubanoと出会い、Ska Cubanoのスペイ ン・ エージェントとなる。そんなジャマイカ関連の進化と試行錯誤の中、サポートされて いたスペイン、バスクの 服会社, Loreak Mendianの人々によって自分の伝えたいことをもっと自由に、そしてもっと多くの人に伝える には多くのジャンルの表現家と共同制作するという大切な視野を学ぶことになる。 ある日、僕の知恵とコネを使ってイギリスのTrojanというレコードレーベルと一緒にスペインでCDを作らない かというスポンサー, Loreak Mendianからのオファーがあった。その時 に参加してくれた、カバーページを撮 る写真家、カバーデザインをするグラフィックデザイナーやイラストレーターや絵描き、 PVに関わる映画監 督や音楽家、全てのディレクションをするアートディレクターなどなど、色々な表現家達との交流が生まれ、 彼ら・彼女らに視野を広がせてもらった。僕が代弁したいことは音楽だけに限ったことではないと気付いたの もバスク人との出会いからだった。それが僕の年齢か、時期か、もしくはバスクかは解らない。どちらにして も、気付いたのだ! 色々な表現・アート、色々な分野の人々と共に発表する事で彼女、彼らの『叫び』をより 多くにアクセスする可能性があると確信した。そしてそれはウィンウィンであり、提供者 (アーティストやク リエーター)にも受け取る側(お客さん)にもプラスになるというシンプルなマジックがそこにはあった。 色々な分野のバスクのアーティスト・クリエ ーター達とのそしてこのバスク人から学んだ大事な学びであ る、色々な分野の表現、アートを使って自分の伝えたいことを伝えるということに没頭し、これがライフ・ワ ークになっている。そしてこの本では、 僕の20数年の海外生活の中で僕が一番身近にそして自然に『誇りを 堂々と持ち生きる』ということを感じたバスク人、そしてそれらの人々が生まれ育ったバスク地方という環境 を彼ら、彼女らの表現とアートを用いて語り尽くすことのできないバスクのほんの一部を紹介します。 そしてバスクがそしてこの本で外を知ることで『自分への色々な環境見直し』のきっかけの一つに成ればとて も幸せです。

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僕の感じたバスクの景色と特徴

山々が荒々しくそびえ立ち、雨が多いこの地方は緑が豊富。春には、日本のような情緒ある桜ではないが桜も咲 き、夏には色々な種類の桃が美味い。秋には日本の香りと食感を楽しむ松茸とは違うが高価な松茸も採れる。 3000M級の山もあり、冬には雪も多く降る。山では常に水が流れ、その向こうに海が堂々と構える。そしてその 海は時に鏡のように全てを反射するほどピースで、そしてある時は怒り狂い誰にも止めることのできない嵐、人 間がとてもではないけど近寄れない、激しい海の顔を表す。 雨が多く、工業が多いバスクの土地はどこか灰色というイメージも強い。そして天気に恵まれる時、雨が多いせ いか遥かに有り難みと、その水で育った青々しい緑が目立つ。空は大きく感じられる、鮮やか、時間により青々 とそして真っ赤にも黄色にもオレンジにも輝く。 自分で開拓し、自分の足で自分のペースで歩く山。45分汗びしょになりながら雨の日も雪の日もそして晴天の日 も登り降りして家に戻る。馬や牛の家畜の匂い、そしてそこで住む学問上では決して頭が良くはないが、自然か ら人を学んだシンプルで物知りな人々の生活を身近に、季節ごとに変わる匂いや色、温度そして雰囲気。山の上 から見る、さっきまで電車時間に合わせ、せわせわとしていたあの街が何だか小さく、非現実に見える感覚。 街の反対側を見下ろすと、目と鼻の先は、違う言葉を喋り、昼飯も夕飯も僕らスペイン、バスク側と違うものを 食べ、食べる時間さえ違う、身近で、知らないことだらけで何処か遠い、フランス。しかし、そこはフランス、 バスクであり、バスクというDNAを誇り高く生き、フランスの前に僕らはバスク人だと語るフランス、バスクが 住む。 地平線を眺め、遥か彼方への妄想がそそる海。その海で獲る幸、潜る、泳ぐ、船に乗る、サーフィンする、地平 線の彼方を眺め人それぞれな思いに耽る海。時にはとても穏やかな顔を見せ、そして時には怒り狂ったよように 人を近つかさせない厳しく、荒々しい海。友達ホセマの5~6歳の子供達が夕方、大人に紛れながらも海で大人に ようにサーフィンする、当たり前かのような光景。自然へのリスペクトはもちろん大人に言われ、見て何処か解 ってはいるが怖さより高い好奇心と楽しさ、そしてそれを遠くでそして常に見守る周りの僕ら、大人達。学校や 仕事帰りにふと寄る、見る、ぼーっとする海の身近さ。そしてそれらの始めのステップや知恵を支える先輩、そ してそれらの必要とする道具を扱う店の手頃さ。 老若男女が 真剣に魂を注ぎ通す祭りやその意味、そしてその土地だけにある音楽や言葉の身近さ。世界ではあ まり知られていない、 16世紀、世界で初めて世界一周航海をしたスペイン、バスク、サンセバスチャンの街か ら30分西へ行った小さな港町、ゲタリア出身のフアン・セバスティアン・エルカーノ船長。 同じ頃、世界で初 めて大西洋を航海できた捕鯨船サン・ホアンなど、バスクにはとてもリッチな歴史が身近にある。 また、小さな街で、こどもの時から親友で、大人になって政治思想が大幅に違いそこでは多いにブツカルが、一 緒に一つの飯を食べられる、そのな身近さ。みんな違う中で一括して、共存というか、リスペクトというか、家 族的というか、多様性を重んじる環境、生き方というものに時間をかけて少しずつ、そして深く僕を考えさせた 土地、バスク。そしてそこには『もの、こと、人、への身近さ』、そして何より『自然との身近さの大切』をと ても強く感じるのです。 10


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世界アトラスには載らない、国、 バスク地方(国)= Basque Country (=英語)

日本も入れた世界地図でバスクの位置を表したい!

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日本でいえば四国と大阪府を合わせた程の広さ。人口は約350万人  バスク考古学の父、バランディアラン教授は一九三六年にクロマニヨン人と現代バスク人のちょうど中間的進 化を示している頭蓋骨を、ギプスコア県ウルティアガ洞穴で発掘し、「バスク人は、旧石器時代最後の住人だ ったクロマニヨン人の子孫である」と確信しています。それ以来、バスク人の側を、ケルト人、ギリシャ人、 ローマ人、西ゴート族、ムーア人などが通り過ぎていきましたがバスク人はバスク人として、バスク語とバス クの習慣の中で生き続けてきました。 8世紀ムーア人の侵入の頃、領主や国王がバスクを支配しようとした時、バスク人は 「法」を差し出し、こ れを守ってくれるなら、領主として、王として認めると言いました。領主や王に「法」を守る宣誓を行わせた 場所が、ビルバオから約一時間の町、ゲルニカ。ピカソが描いたことで知られ、フランコ支配下後にスペイン に戻され今もソフィア王妃芸術センターに展示されている、ゲルニカの絵画。そのゲルニカの町の樫の木で宣 誓が行われ、その木が今でもバスクの自由の象徴なのです。 さらに、近代(十九世紀の二つのカルリスク戦争や三十七年にわたってスペインを支配したフランコ体制など も)、平等の名の下に、小さい民族を圧殺するカタチで習慣や言葉を失わせようとしましたが、バスク人は、 何千年、何万年という歴史の間、周囲と同化せず、独自性を守ってき、今もそうしようと努めています。 支配者が独断で自分の思うままに物事を決める専制政治、バスク人は、自分たちがイギリスよりもずっと古く から民主制をとってきたことを誇りにし、何よりも専制政治を嫌っています。 バスク人がバスク人であることを過去にも今にもやめていない。                        島国の中で、長いものに巻かれ続けて何百年も来、そしてそうし続けている私たち、日本人。 バスク人は遠い昔から、山から地平線を眺め、遥か向こうの見えないものへの好奇心を感じ、『外へ、そして 内へ』の色々な想いを掲げ生きてきた。 そして海と水、自然の厳しさを理解したが故に自然の美しさ、そし て有り難みを肌で感じてきたのでしょう。地平線の先には行ったことのない国、聞いたことない言葉や、食べ たこともない飯、聞いたこともない教え、あったこともない人がいる、そんな好奇心、冒険野心と挑戦、そん な外への想いと歴史に残した行動は、内、自分たちへの想いを遥かに強くさせたのではないでしょうか。 日 本でも知られるバスク人の一人、宣教師フランシスコ・ザビエルもそんなバスク人の一人だったのではないで しょうか。             ロマンを感じながらも、とてもピュアーにさえ感じる。廃れ、流行りを知らずに先を生きるモダンさを色々な 面からバスクで感じてしょうがない。    未知への好奇心と挑戦野心を唆るそんな自然環境が未だに残るバスク。バスクから見る地平線の遥か先には僕 の祖国、日本がある。そして、日本の海から見る遥か先にはバスクがある。 16


MEJOR CALIDAD¡¡

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BLAMI OKLEY ONE

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XABI

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バスク人、先駆者

バスクにはフランスとスペインを股がる山と海の大自然の中に逞しく、そして何処かシャイで自分を売り込む ことが下手、未だ多くに知られる事の少ないリッチな歴史と文化を作 ってきた人々が堂々と生きている。海 を見渡すと、海の彼方、見えない、知らないことや土地への思い、好奇心、神秘さを楚楚る。 1522年、史上初の世界一周を実現した,Juan Sebastián Elcano (小さい頃教科書で習ったのはマゼランだった が。)はバスク、サンセバスチャンの街から30kmは離れた海岸線に佇むチャコリー酒やファッション業界で有 名なクリストバル・バレンシアガの生地、小さな3000人弱の ゲタリアの町で生まれ育ったバスク人。チャコ リー畑に囲まれ、時折港に帰ってくるアン チョビ船を見ながら、雨の多く降るこの土地で、霧の少し掛かっ た地平線を眺める海は、 海の彼方への思いや挑戦、故郷への思いを感じる場所であり,今も昔とそう変わらな い風景と言われる。 星や潮を読む知識、シードルといった水と違って腐らない水分確保などの航海技術を持ち、カナダ、ラブラド ールのRed Bayで発見され,UNESCOに登録された世界最古の捕鯨船、San Juan はバスク産。それはバスク人 が大西洋を初めて渡り、世で知られるバイキングよりも前に北アメリカへの航海が出来ていた事を示す。同時 にバスク人が資源確保に他の土地を求めて、北アメリカの原住民と交流するというカタチを取っていたことを 表す。それは領土野心を抱き他の土地を攻めていた開拓者とは大きく異なる。 鯨から取って作った油は、生 活水準の高いヨーロッパ全域のランプの油となり、バスク人が16世紀のヨーロッパの灯りを独占で照らして いた、あまり知られることのない少し切なくも堂々とした歴史だ。 掘れば掘るほど色々と出てくる、噛めば噛むほど味が出るような、バスク。次から次へとではなく、同じ画を 30年も書き足し続ける知り合いの画家のようにとても小さく、そしてとても大きな世界観をバスクで感じる。

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ALBAOLA (バスク・海のファクトリー)

世の中には、人々に語ることのない歴史が多くあり、一度は忘れかけられた歴史や失いかけた文化、それ らを取り戻そうという動きはバスクも例外では無い。バスク語、ウスケラもその一つであり、20年数年前 は考えられなかったバスク語の一般化もその大き一つである。今、バスクの全ての公立小学校ではバスク 語で授業が行われている。 また、バスクを語る中でSAN JUAN船を語ることはバスク人のアイデンティティーとバスクの歴史にとて も重要な一つであり、それをライフ・ワークにしている団体、ALBOLAが存在する。 UNESCOに登録された世界最古の捕鯨船、San Juanを復元しようと心、夢見るバスク人がいる。サンセバ スチャンの真隣にある小さな小さな港町、パサイア、サンペドロ。反対岸までは今も『男はつらいよ』に 出て来るような渡し船で渡る。そこでは指の先まで舐めまくりたくなるほど旨いオマール海老をレストラ ン内の海と直接つながった水槽から取り出してくれる老舗のCasa Cámaraがもう何年もの間、変わらずあ る。珍しくバスクの女性としては背が高く、一見冷たそうだが話しかけると、とても暖かい仲間のビク��� ー・セルナの母がその店を開けている。そのCasa Cámaraから30mくらい先には、「レ・ミゼラブル」の 作者、ヴィクトル・ユーゴーが住んでいた家がCasa Cámaraが向く同じ方向の海を向き、今もある。 山と山の間を入り組むようにして海がその町に入り込む、今も魚市場は盛んな町だ。昔はこの町では船の 修理、造船が盛んだった、そんな場所に一つ残る造船所そして近年、学び、SAN JUAN船の再生する場所 と進化したALBAOLAがある。 代表のシャビ・アゴテは熱いバスクの男だ。彼のライフ・ワークがこのALBAOLAという壮大なプロジェク ト。過去に16世紀に彼らの先祖が航海したように、船、服から食べ物や飲み物、全てにおいて16世紀の航 海方法で、計7人でALBOLAがあるパサイア、スペイン、バスクからカナダ、ラブラドールまで6ヶ月の過 酷な航海を成功させた。今、5年程前から再生しているSAN JUAN船は色々な運営困難をクリアーしなが ら2020年にはその再生したSAN JUAN船で世界航海に出る予定だ。そして日本にも来る日が来るのかもし れない。 サーフィンが50年代終わりにアメリカから伝わり、独自、バスク風にアレンジされ、ヨーロッパのサーフ ィンのメッアとしても知られるバスク。そんな土地に、世界の名だたるシャイパー(サーフボードを削る職 人)達がALBAOLAを訪れ、バスクの船のコンケイブ(凹面=ボードの下の形)を真剣に観察・勉強して帰 る。 近年、 ALBAOLAでは子供から学生を中心に海や船に関するスクールを設け、同設備には寮まで設置し海 外からの生徒もここでバスク船の技術に関して学んでいる。そしてバスクの船の博物館としても一般公 開・運営している。 36


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雨や川、水の恩恵を受け、山に育つ木

雷・木!!

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その木の中のリンゴの木から生まれたシードルがバスクを外に出す

arbole de la manzana real, mejor¡

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haya q expresar mejor como, 1. desde el arbol, 2. arbol de la manzana, 3. para hacer la sidra. hecho por BLAMI o las fotos

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バスクとの出会い マドリードをバスで北上する、コンクリートの都会が少し走るだけで段々砂漠のようにド ライな土地を見せ る。あの東京のような都市、マドリードは砂漠のど真ん中にあるのか~ っとまで気付く。車窓からは岩岩し く、灰色、茶色、土の色が目立つ。バスクの一つの 街、サンセバスチャンまでは約6時間のバスの旅、旅の半 分程でブルゴスという、ちょっ とピリ辛でカタチはチョリソーだが、赤いチョリソーではなく真っ黒なモル シーヤという 豚の血と米などが入った豚肉ソーセージの美味しい場所だ。(余談だがモルシーリャと日 本語で は正式に書くらしい。何時も思うが外国語を日本語化にする理由がどこにあるの か、外国で使えない言葉を 学んで何になるのか非常に違和感を覚える。重要なことは通じ るか通じないかだ。このモルシーリャもマド リードもそうだが、僕はモルシーヤ、そして マドリッドと書き、覚える方が為になると思う。別に日本人に 難しい発音ではないのだか ら。) 豚の血と聞き、スペインの何処にでもある支流のその真っ黒な食べ物と呼ばれるものに始 め違和感を覚えた が、今まで食べたモルシーヤ・ベスト1、2を争うそのブルゴスのモル シーヤ。それはスペインの北と南を結 ぶその高速沿い、ブルゴスのレストラン兼ホテル、 landaがだす。ブルゴズから西に約100km行ったレオンで 寒い冬に食べたモルシーヤもま た違うピリ辛でかなり旨かったが。(残念ながらバスでの旅だと休憩場から離 れてしま い、landaのモルシーヤにありつけない、レンタカーか自家用車で行くしかない。スペイン に居ると サービスという言葉や習慣、客という立場を忘れる事が多いが、landaは一見高 級だが一般的な値段で、サー ビスも何故か優れているのし、ここのモルシーヤは帰国して も未だ懐かしく、恋しく思う一品だ。)そのブル ゴスを離れると、遠くに見えていた山々 が近くなり、緑が段々目立つように成る。そして、あちらこちらの 緑の急な丘には白くド ットが、羊が現れ始め、何処かスイスを思い出す頃には、バスクは近い。 サンセバスチャンに着くころには、ワクワクと、山の向こうに微かに光る人の住む気配が する山の家を見な がらどんだけ田舎なんだという都会っ子の一瞬の不安が混ざり合う。サ ンセバスチャンに着くとかなりあり ふれたバス停が迎えてくれる。(2016年欧州文化都市 に選ばれたサンセバスチャンは2016年始めに新しい近代 的なバス停に変わりを見せた。) バスクとの初めての出会いはバスク人ではなく、バス停に迎えに来てくれた バスクに住む アメリカの仲間、クレッグだった。彼が家までのバスの中で、ピンチョという小皿が何処 に行 っても旨いこと(小皿?)、バスクのチャコリーという酒が高い位置から注いで泡が 残っている間に少量を一気 に飲むバスクの酒が旨いが酔いが早いので気をつけろということ。夜には雰囲気抜群で毎晩列ができるJazz Club、エチャカルテが有ること。 (今でも その場所は健在だが、オーナ3人やマネージャーも代わり、未だ一 人残る昔からのオーナ ーがエネルギー無しにも、細々と寂しげに営業し嘗てのエネルギーは全く無くなって しま っている。) 海があること、フランスまでは目と鼻の先だ、そして『カイショ』がバスク 語の挨拶だと いうことなどを教えてくれた。 僕が初めてバスクを訪れたのは1998年の初夏。社会に出て初めての挫折だった。ヒッピー からネクタイをし たサラリーマン、僕みたいなアジア人、そしてシネガルの移民まで色々 な人々が共に一つの歌の下、我が身 51


を忘れ踊っていたバーBig Bamboo、そしてそのバーの夏FESTを開催していた頃だった。黒や白、赤や黄色、 緑や青それぞれの色、カタチ、趣味の服を着て、それぞれの思いや価値を超え、身体一杯に踊り、騒げ、僕が 愛し憧れた土地、スペインのマドリッド。ビザ取得の難しさ、道では大金を持って訪れる日本人観光客 に間 違われ強盗に幾度となくあい何回となく会った痛くも苦い思い出などが自分を強くさせたが、信用していたボ スからの裏切りには生きた気がしなかった。そんなマドリッドから出たい一心で訪れたのがバスクとの出会 い。 挫折のダメージでストレートに物事が考えられずに2週間あまりたった。同じ挫折をマドリッドで食らい自分 の家を追い出され、僕が借りていたその時代一番安かった小さな屋根 裏部屋(今では一番高い屋根裏部屋)に居 候していた飯作りが上手いアメリカのアミー ゴ、ニールと、片手で持ちかなり余裕のあった残金を手に旅に 出ようと決めた。先ずは友 達頼りで、そしてただただぼっーとして着いたバスク。海の目の前に住むクレッ グはバス クの楽しみ方を僕らに伝授し、心は上がりたいのだが、上がれない、放心状態。着いた次 の日朝7 時から牛追い祭りをTV生中継で見ろと叩き起こされ、『これがバスクだ!』っと 一人エキサイトし職場に出て 行ったクレッグ。ニールと共に家の前に出て海の前でボーーー ーっと。何時間経ったであろう、ふと気がつ くと何処か風景が変わっていた。お日様は人 種も、その人々のその時の思いや価値など知らんぷりに、平等 に僕らを煌煌と照らし、体 でその熱さをジワジワと感じた。その後に飛び込んできた、都会、そして仲間の 裏切りで 鈍った感覚は、音だった。ザブーン・ザブーン・小さい波が来ては引き、引いては来て、そ して又 来ては引き、呼吸している、何時ぶりだろう『命』を感じたのは。 ザブーン、ザブ ーン、ザブーン。気付けば その脚で僕らはバスクの家を探していた。 その夏が終わるとマドリードに帰り、自分の目的であった『世を音楽で良くしたい!』と いうおせっかいで説 教ぽい目標に没頭する中、その夏出会ったバスクの色々なクリエータ ーのサポートもあり、数年間、何度と なくバスクを訪れることになる。バスクへの思いは 次第に大きく成り到頭2006年春、30歳を超し重く成った 尻を起こして大都会マドリード からバスクのカセリオと呼ばれる昔のバスクの山小屋へ移住する決断を下し た。

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XABI との出会いの出会いとボードとサーフィンの出会い 初めて顔を合わせたのは何時、何処かはっきり覚えていない。マドリッドでの活動&発表場が欲しくなり毎週木曜日 にReggae Bus Stopという名前で未だその頃人どりの少なかった地下鉄カヤオ駅近くのBabylon Clubという会場でそ の頃、Loreak Mendianという一風変わった雰囲気を持つ服屋のオーナーで音楽好きのイボンと、Tuffiという名の服 屋を運営し音楽好きのドイツ, ケルン出身、ジョージョーと僕の3人で運営することになった。 イボンはLoreak Mendianという一風変わった雰囲気を漂わす服店で何度かコンサートのフライアーを置く度に話し かけていた仲。そのブランドの歴史を知らなかったが、スペインの北がヘッドクオーターでスペインの色々な場所に 店を出し、僕の知りもしない雰囲気が何処か唆るということだけを理解していた。そのLoreak Mendianのオーナで あり、僕がバスクに移って1年後サーフィンを始めるきっかけになった人物、閃いたら行動に移すのがとても早い、 シャビ・シリキアインがここで紹介するアーティストだ。 常に身近なものと新しいものを混ぜ、彼なりの味を出すグラフィクデザイナー、シャビ。もともと飛行機のデザイン を勉強していた彼、80年代終わりから90年代初期にかけてサンセバスチャンの街でSIROPEというアート団体をシャ ビ、ペズ、ジョンの3人を中心に活動していた。SIROPEのメイン活動はETXEKALTE JAZZ DANZ KLUBというクラ ブで音楽とTシャツを刷り販売すること。そんな頃、 今は他界してしまったグラフィックデザイナーのジョンがシャ ビの花模様を壁に落書きするのを気に入り、シャビを後押しシャビはグラフィックデザイナーとなった。同時に、楽 しく、大好評であったパーティーの勢いで1995年Loreak Mendianというバスク語で山に咲く花という意味のアパレ ル・ブランドをビクター・セルナと開業した。 今ではスペインだけではなくヨーロッパ全域に店を構えるLoreak Mendian. 一号店はETXEKALTE JAZZ DANZ KLUBを出て右に20m少し坂道を登ったサンセバスチャン湾が見える山の麓の階段横でオープンした。階段脇は7階 建て程のアパートが3建程建ち、その一つの一階が大きな窓を海に向け、入ると左にホセマリというハウス好きなレ コード屋、その周りは色々なアートが置かれ、残りは服屋、Loreak Mendianだった。その階段脇はちょうど三角に 割れ、人々が戯れ、街で一番いけているゾーンとなっていた。今2017年はその店も、そのコーナーも残念ながら存 在しない、あの時代の誰もが知るサンセバスチャンの歴史に時を刻んだ場所、人、雰囲気であった。 そんな仕掛け人、シャビ。サンセバスチャンに移り住み1年した頃、サーフィンを始めたいが何もないと常に言っ て、街から45分かけた山小屋に車も自転車も無く住み、毎日弁当を抱えて街の事務所に来る僕にある日シャビが電 話で、『蔵人、お前にボードが見つかったぞ!』。綺麗好きなシャビが持って来たボードは見たこともない長さのボ ロボロの青い、僕の想像していたボードではなかった。道で拾って、色々街のサーファーに持ち主を聞いたが見当た らない、だから一緒に直したらお前がこれに乗れ!っと。仲間のペルーが木のワイン箱を持ち合わせ、フィンを作 り防水加工し数日後、シャビが天国と呼ぶフランス・バスク、ゲタリーへ。レジェンドサーファー、ミキ・ドラがそ の海の前にキャンピングカーで最期を過ごしたことでも有名なデカ波ポイントだ。そして浸水も知らなければ何も知 らない僕に着いてこい!と。どんどん遠ざかるシャビの後ろを必死で漕いだ、そしてシャビは何処か、日が暮れそう になるまでの2時間を死ぬ気で陸に帰ろう戦ったのが僕の過酷な初サーフィンだった。そんな忘れもしないサーフィ ンとの出会いをさせてくれたシャビ。その見かけが好きではなかった青いロングボードはそれから僕のバスク人生で 色々な素敵な思い出を僕に体験させてくれるとても大切な相棒となる。 54


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憧れアランブルーとの出会い Jabi draw PioPio all the album あの日、陸に上がると生きていて良かった∼∼しか頭にはない、そしてサンセバスチャンまでの帰り道はひたす ら、シャビを無視した。 そんな悪夢のようなサーフィンとの出会いも、身近に海があるということ、負けず嫌い、体を動かすのが好きな 自分は続けた。その青いボードに乗って。未だ未だサーファーとは呼べないがサーフィンの面白さ、自然との対 話を楽しみ始めた2年程したある日、何時ものようにシャビから『コーヒーにでも来ないか、色々な友達とかも いるし、紹介したいたから』との電話。BAR LAS VEGASへ行くとシャビの従姉妹でLoreak Mendianで働き後に 僕ともシェアーハウスする、マリアナを始め、物知りアーティスト、ペルーや音楽家ペズなど何時もの5∼6人 のメンバーに何人かは初めましてのシャビの仲間。その一人の細く、そんなに印象深い男とやたらと僕は気が合 ったというか、僕はそう感じた。自分はあのウリア山の天辺に車も自転車もなくワイルドに暮らしている自慢話 から始まり、それに終わる、かなりしょうもない話しをした覚えがある。その時覚えていない名前のその男は、 何故か僕の話に興味心身。 そんな自分にとって少し爽快感のある出会いと仲間の何時もの雰囲気でその日は終わった。次の日、別の友人の ラシッドの家で何時もように馬鹿話しと夢物語している中、近くにあった仲間のアルフォンが造る綺麗に仕上が った���ングボード雑誌、Glideを手に、ペラペラと見流す。このページ左にある、その画が僕の関心を呼び、その 画に釘付けになる。ロングボードをゆったりとタバコを吸いながら乗るベレー帽をかぶったスタイリシュナ、バ スク人サーファー。偶々、途中から来てその場に居合わせたシャビの従姉妹、マリアナが突然『それを書いた絵 描きと昨日めちゃくちゃ仲良く話してたじゃん、蔵人。それハビ・あランブルの作品だよ』っと。     『え!あの昨日の彼がこの作者!』人は見かけで判断できない、本当に、特にバスク人は。。。 そう、この作品の作者、ハビエル・アランブル。周りからはとてもシャイな絵描きであり、シャビ曰く(未だ一 緒にサーフィンしたことがないが)バスク1、2であろう、スタイリシュなロングボーダーなのだ。 そのな驚きと、人肩書きの紹介もせずに一時を気持ちよく過ごせた仲間の仲間に喜びを感じながらも2日後、更 な流驚きが僕を仰天させる、ハビエルとの出会い。数日後、シャビが何時も以上にエキサイトし電話越しに『蔵 人!お前のボードの主が解ったぞ!!』って、始めはもう2年以上近くも使っていて返せかよ∼なんて考えが頭 を特急のように流れた。そしてその次のシャビの言葉が『あの、お前の好きな画家のハビエルが(街は非常に小 さい、いい

も悪い

も直ぐに皆の耳に入る)、新しいボードをゲットし、海辺に次の人ように置いて行ったん

だって∼!それを俺が見つけて。。。ハビエルにはその時のこと今の今まで話していなくてね、写真見せて確認 したよ!』 そう、僕の今でもサンセバスチャンの仲間に預かってもらっている、僕のサーフィン人生の始まりであるあの青 いロングボードが僕のバスクで一番尊敬し、好きな画家、ハビエル・アランブルからの宛て先なしのプレゼント なんだ。そんな驚く喜びばかりのハビエルと僕との間には更に驚く関係があったのだ、それが次のページで語る, テレサ AKA PIO PIOとマドリード時代の仲間イボン・イラスキンが奏でるSINGLEというバンドと関係する。 58


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PIO PIO & IBONとの出会いから始まる、僕のバスク人との交流 
 PIO PIOを語るには切って切れない人物、イボン。クラブを一緒に経営する中であり、僕が動く辞書と呼ぶ物 知り イボンとは、マドリード、アロンソ・マルティーニにある僕が好きであった紅茶によく二人で出かけ語 った。音楽 の話が中心で、お互いの故郷や女の子の話しなど、かなりオープンに充実に時を過ごすことがで きた仲。自分がdj するときには必ず仲間のテレサ、後に僕だけが呼ぶであろう芸名、PIOPIO(本当の芸名は彼 女の本名、Teresa Iturrioz)と馬鹿踊りしながらフロアーをそして自分を盛り上げてくる頼りも楽しくもなる存 在。 イボンもテレサもスペインの北、マドリードに住んでいた頃には知りもしない、サンセバスチャンという街の 出身 だと言っていた。彼らは(後に少しずつ知っていくことになるのだが)LE MANSというポップ・バンドで活 動して いたが、出あった時は二人とも、僕があまり足を運ばないカイエ・ペズ(ペズ・通り=魚通り)という 段々と後に 若い連中で盛り上がりを見せる地域でLoreak Mendianの店を経営していた。コンサートのフライ アーを置いてもら う時に必ず立ち寄り立ち話しをする中から始まった。その後、クラブの経営に関わるイボ ンを中心に二人は音楽活 動を取り戻すかのように始め直す、そして数年後、Singleという芸名で再活動し始め る。そしてある日、レコード を出すのだけど、蔵人の名字、SHOJIを曲のタイトルにしても良いかの相談。 (Trojan Spanish Sound Boxという コンピレーションCDをイボンとは作っていた。) その頃にはかなり仲も良くなっていて、自分の名前を出すのに問題はないと答える。そう、その頃には僕はイ ボン の前で人生での大恥の一つをかいてしまっていた。何時ものようにイボンとの紅茶帰りに、僕が『冗談 でしょ、バ カじゃない』というような感覚でその頃使っていた軽い言葉『ホモセクシュアル(=同性愛)』、そ の言葉と口調 はイボンの前でも何度となくしていた。そしてその言葉をその日発すると、イボンが突然『蔵 人、俺がホモセクシ ャルだって知ってた?パートナーもいるのも?』って何時ものイボンの口調で冷静に。自 分への情けなく恥ずかし い気持ちとイボンがずーと僕に言わずに何年も耐えていたことを悟り、涙が一瞬にし て流れ落ち、『今まで気つか ないで気付けてしまった自分が情けない、ご免』と。 シングル・レコードタイトルは正に『MR.SHOJI』。そしてSinlgeの全てのカバーイラストは毎回とても気に 入って いた。そしてその頃の自分のマドリード生活時代には知るよしもない、そう、そのイラストレーター があの、ハビ エル・アランブルだったのだ!因みに、『MR.SHOJI』のカバーイラストはテレサの似顔絵にフ ー・マンチューの ような一時期僕が生やしていた髭が描かれ、初めて見た時から今の今まで好きになれな い。その音はイボンがチャ ールズ・ミンゲスのCumbia Jazzからサンプリングし、僕、Mr. Shojiとのテレサの 仲を『私たちにはあるテーマが あるの...』とテレサなりに、大人の女が自分達の仲を語っている。 同時に、僕が小さいデジカメで連写をし写すものや人の動きを楽しんでいた自分勝手な写真をイボンある日ア クシ デント的に見てそれをとても好みMr.Shojiのビデオにしようと言い出していた。やったこともなければ知 りもしな い分野、『だからピュアーで、自分が出てて良いんだ!』と僕を乗らせその曲のビデオも作った。提 出日1週間を迎えたちょうどその頃、知りもしない状態で写真データーが全て消え、初めての編集仕事に苦し た日々は何処へ。 彼らのレーベルにも迷惑かかるということで再度改めて始めから製作し、自分では納得いかないまま世に出る ことになるのだが。。。最終的にその曲が2014年30年を迎えた今尚残るスペイン音楽雑誌の2009ベスト1ヒ ットになるのだ。 という自慢も、実際その曲で僕は何もしていないし、そのカバーデザインも好きではない のだが。。。

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PEZとの出会いから始まる、チャンス

僕が初めてバスクを訪れた時、都会での仲間の裏切りなどから来た挫折で意識朦朧としていた。バスクの波・ 自然が僕に生きる元気を再び与えてくれた、そのな夏にぺスと出会った。 仲間のクレッグがいけているジャズクラブへ行こうと誘ったある木曜の夜。店に入ると、バーカウンター脇の 地下 に降りる。赤く何処かいやらしくもSexyな光がその急な階段を差し、重低音が響く、クラブの雰囲気を 更にミステ リアスに演出していた。客はまばらだが満員時は70人近くで東京のラッシュアワー状態になり身 動きが取れないほ どの小さな空間だ。その空間の3分の一程を使い、ある二人が聞いたこともない音を、見た こともない機材もろも ろで奏でていた。マドリードから来たTV Peopleというユニットだった。ぼーっと彼ら の演出に圧倒されながら も、演出が終わると、ステージ脇にガラス張りに囲われたDJブースからDJが。演出 者とガラス越しに喋りながら DJをする、ある人。音も雰囲気も今まで味わったことのない異文化、旅感覚が そうさせたのか、そのクラブと人々 がそうさせたのか、その日以来、その夏のバスク滞在中、毎日通うこと になるクラブ、ETXEKALTE JAZZ DANZ KLUB(エチャカルテ)だ。 通う毎日、毎日必ずあのDJが自分でプレーするか、ゲストを紹介しているようだ。ある日、レコードを持っ て旅を していた仲間のニールと共に彼に話しかける。図々しくも、『Djしたいのだけど』と。名前も、自分が どんな音楽 かけるかも知りもしない彼は『OK!no problem、明日にレコード持って来い!』と。彼の名前はハ ビ・ペズとそ の時初めて知った。 その日から何度となく、心ルンルンで若い自分はレコードの重さも感じることなく通った。1週間ほど経った のだ ろうか、ペズが『来週、お前らだけでプレーしてくれ!』との誘いが。そしてその日、何時ものようにプ レイし楽 しだ終わりに、マドリードでは貰えなかったほどの金額のギャラを『ありがとう』と言われ、渡さ れた。本質、こ れが初めてプロとして扱われた時で、そのチャンスと扱いをしてくれたのが音楽家、ハビ・ペ ズだったのだ。 ハビ・ペズ、本名、ビセンテ・カルデロン。90年代の終わりからスペイン・バスクはもちろんスペインHip Hopそ してエレクトリック界では誰も知る存在。アート団体Siropeのメンバーであり、レーベルNovophonic の創業者、音 楽家だ。 初めてのペズとの出会いから数十年、今の今でも彼はライブや映画のサントラ、音楽 一本で暮らし、 2017年には17歳になる三つ子のテレサ、ナナ、ルシアを育てている、バスク近代音楽家の重 要人物、そして僕のと ても信用する仲間だ。 ペズの側にいると本当に音楽は生きているということを感じる。ペズが気持ちダウンしている時に作った音や 歌 詞、そして上がっている時に作った作品、すべて違い、彼が感じたことが自然と曖昧にも受け入る。そし て必ずそ れらにはどこか何故か『ペズ感』を漂わせる。サンプリングを多く取り入れた時期、オーケスト ラ、総出で活動し た時期、soulに歌い始めた時期、彼は彼なりの正直な気持ちを、勇気よく、音楽で心を裸 に出している。 日本との関係は彼のやっていた音楽祭、Electrical JazzzでU.F.O.を呼んだり、元ピチカトファイブの小西さん に才 能を認められ、ピチカトファイブの『Trailer Music』という曲のremixをしている。日本にもCinema Caravanがプ ロヂュースする

子海岸映画祭2016に初来日をしている。 62


BLAMI DANZARI SOLO

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M.B.S. video link

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BasQuing / JapaNingとは?

BasQuingはバスクの自然と人を中心に表現とアートでバスクを日本にメデャアとイベントを用いて紹介する 2009年に生まれた企画です。 長い海外生活の中で、今、僕の日本の仲間、故郷の人々が何を考え、何を楽しみ、何に悲 しみ、何を悩んで いるのか、とても気に成った。それらをどんな音楽で表現し、何を語 り、どんな写真を撮り、何を楽しみ、 どう仕事をして、どんな未来への夢や不安を抱えて いるのだろう。。。そんな思いが外に居ると自然に起き る。表現やアートがその土地、そ の時の人々の思いを反映し、その土地、その時を知ることの出来る社会(人 の心の)の健康バロメーターの一つだということは間違いない。 山と海からなる大自然、その大自然から人々が作りだす様々な文化や習慣や歴史、そして 考え方がバスクに はある。
 8000m級の山を女性で世界初登頂したEdurne Pasabanやスノーボードハーフパイプ世界 1にもなり長野オリン ピックにも出場したIker Fernandezを始めとするリッチな山文化。 その山で繰り広げられ,2011年に33年振り にバスクに帰って来たツールドフランス。過去 そのツールドフランスを制覇したミゲル・インドゥラインや ジョセバ・ベロキ、ORBEAや 木の自転車AXALKOもバスク産であり、バスクには自転車を愛する人々が多く 居る。自然 の幸を試行錯誤し作った世界が注目する食文化。1960年代にアメリカから紹介され、バス ク風に なったヨーロッパのメッカ、サーフィン。そして、捕鯨船San Juanや自分を生きる のが上手い人々が住むバ スク。 近年、バスクも近代化が進み、多くの先進国で見られる平和ボケも間違いなくある。そん な中、未だ、古い 歴史や近年のバスクの叫びを表現してきた彼ら/彼女らが残した足跡を継 いでいるバスク。バスクには未だ未 だ、我々日本人が忘れかけているシンプルさのような大切なものの考え方、そして強くて優しい人々が、今の 近代生活から少し取り残されたと いうより、そこの生活環境が昔からの生き方を残させ、守った蚊のよう な、マジックがあ る。そしてそれがなんだか自然環境の身近さというキーワードの中に隠されているのでは ないでしょうか。そこには、間違いなく、海の向こうの地平線、陸繋がりの手と鼻の先の 隣国、フランスと いった地理的条件、山と海の厳しくも、それゆえにも美しい大自然、身 近にあるバスク語、習慣や歴史、老 若男女などの身近さの大切をバスクで感じるのです。 そこにはそこに住む人々が作ってきたそこの力があ り、それがその場所や人を魅力にしているのです。

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そんな土地に住む人々が作る、表現すること、ものは魅力的。それを届けられればバスクへ来る、日本を出る きっかけの一つになると信じた。それは、ある日のコーヒーで、何時 もは読まない新聞に目を通すとそこに はスペインの日本人観光客統計数約29万人弱との情 報から生まれた。こんなにスペインに来ているのに、何 故バスクに来ないのか、と。そし てその何故を追求すると、日本人の90%が日本語以外の外国を喋らなく外 国語のバスク情 報だけが存在し、バスクの日本語の情報がないというほど少なかった。そして日本人観光 客 はヨーロッパが求めるOFF SEASONに訪れる、礼儀正しい客、など新たな統計を見つ ける。僕を成長させ、 人生で大切なことの一つを気つかせてくれた『外に出る』という体 験(僕の場合は外国生活)、そして表現とア ートの力をどうにか愛おしい日本の人々にシ ャアしたい、そんな思いで始まった BasQuing。 表現とアート の力を『外に出る』力に (観光力に)、そして一人一人の見えない力に!それがアイデアだ。 日本のメディアで バ スクを紹介し、今までの経験とknow howであるイベントをすれば、少し説教がましいこ んなことにも興 味を持ってもらえると信じた。 伝もコネもない日本に何度か一時帰国し、様々な雑誌を漁るようにして出会ったpaper skyという雑誌。日本 に数十年住み、編集の仕事のプロで僕より日本語が上手い、編集長 Lucasなら僕の異国バスク、そして故郷、 日本の思いを解ってくれると思い、何度か彼の 元を訪れ一緒にバスク特賞をやろうっと熱弁した。初めて彼 と会ってからバスク特集が出 来るまで、1年以上が経った。その間、取材に関するバスクでの色々なサポータ ー、仲 間、チームを作り、あたかも自分の雑誌を作る準備する中、企画名に苦しむ僕にある日、 事務所を訪 れた仲間のアーティストであり物知りのMIKELに相談。2週間後、MIKELがバ スクを生きている進行形の意味 BasQuingはどうだ、と、BasQuingはそうして生まれた。今ではサンセバスチャン国際映画祭のフライアーを 造るバスクのグラフィックデザイ ナーJorge aka Primoが無名の時にBasQuingロゴを作ってくれた。そしてそ の後、 ecocolo,blue, 翼の大国、popeyeなどでバスクのローカル情報を日本メデャを通して日本 に発信して いく。 2011年3月11日、ちょうど首を長くしバスクに招待できたPaper Skyの取材最中であっ た。同行中のルーカ ス、そしてバスクで初対面となったルーカスがバスク特集にぴったり だと連れて来た音楽家Caravanとまいち ゃん(岸麻衣子)を取材後、夕飯を食べにアパー トに迎えに行った時のことだった、日本でとんでもないことが 起きてしまったことを知っ たのは。彼らはネットや友達から様々な情報を入れ、途方に暮れ、仲間の安否を 気使い、 大いに泣いた。僕はその実態を把握できることもせずに、いつか来ると解っていた自然の 教えがと うとう来てしまったのだと察知した。皮肉にも、次の日のバスクの新聞Diario Vascoの表紙は燃えたかる形を 残さない宮崎の写真、そしてその裏表紙に今この時にバス ク取材をする我々、日本人チームの写真だった。 そしてPaper Skyバスク特集は2013年4 月に予定通り発表になる。 Paper Sky発表と同時にバスクの伝統踊りとサーフィンでボードの上を舞う姿を組み合わ せたショートフィル ム、Modernista Basque Surfingを制作したバスクの仲間と来日する 計画を建てていた。横浜のGreen Room Festivalそして、ネットで『上映会場・シネマ』と検索し、出会ったのその名もCinema Amigo(知る前から何 だか親近感があった)、などで発表する予定の来日ツアーだった。

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BasQuing Japan Tour 2011 line&style

FALTA LAS FOTO DE 雷

人が山から海から自然で、 ラインを作る、を描く、に乗る

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2011年4月20日、バスクの絵描き、グラフィックデザイナー、フィルムメーカー、サーフ ァーなど計5名のバ スク人アーティストと共に来日した。 日本ツアー出発前日まで僕が選んだツアーメンバーは(そのうち2人は父親)放射能や地 震への不安が多く悩ん でいた。そしてその前日、一年近くも色々と準備してきた日本ツアー を断念する覚悟を決め、ラストミーティ ングをした。しかし『こんな時だからこそ、日本 へ皆で来てくれ、行こう!』という思いに皆全員賛成したの だ。どこか見えにない力が僕 らメンバーを団結させ、貧乏ツアーが始まった。 僕は事務所下の何時も通う八百屋で、何時もの七面鳥サンドウィチを6個。パンは硬く、 それだけではとても 旨くもないパンが、その八百屋のおばちゃんとおじちゃん、マリアン とヘスースの手にかかれば何故かその 硬くまずいはずのパンさえも無くてはならないあの何 故か旨いサンドイッチに変身する。そんなサンドイッ チと、フルーツ、そして水を買い込 みサンセバスチャンの駅で、ツアーメンバー、シャビ、ブラミー、もう一 人のシャビと合流 した。 サンセバスチャンから電車でエンダイア、フランスへ。そこに住む仲間のミッケルが出発前 の気合い入れと嫉 妬心で来てくれた。そこからパリまでは夜行列車だ、そして残り2人、 アーノルドとクロビスはビアリッツで 途中乗りするとのこと、心配だ。合流している3人は ハシャギモード、俺だけ連絡が取れないアーノルドとク ロビスが心配する中、ビアリッ駅 に到着、窓越しに二人を探すが見当たらないまま、電車は出発する。ま だ、電話が通じな い。そして誰かが、パリで会えるだろう~と僕の心配を余所にこそっという中數十分が経 った嫌な汗と心配が自分を覆っている中、恋し焦がれた2人が 両手一杯にサーフボード や荷物を抱え、ドアー をガラッと空け、大きなスマイルで現れた!皆それぞれの席につ き、僕は一時の一息し、皆にあのヘスーとマ リアのマジックサンドイッチを手渡し、皆で 本当にツアーが始まった。 パリからモスク、ボッカの試し飲みしか何もないグレーなモスク空港内で10時間過ごし、 成田に着いた。そ してそこから電車で僕らが埋もれるほどの荷物を持ち、安いし、ローカ ル感を感じようと鈍行電車で横浜 に。着く頃にはヘトヘトだが、ホテルに荷を降ろしてす ぐさま、近くの回転寿司を見つけ、ツアー予算も二 の次に乾杯!っと来日した2013年4月 の終わり。 そしてこのツアーで、魅力が無いと勘違いしていた日本で、僕にとって救世主との出会いが 生まれた。そう、 あの知る前から親近感のあったCinema Amigoの創業者の一人、写真家, 志津野雷である。損得、仕事関係を 超えて共に価値観を認めたものに対して対話し、喧 嘩し、楽しみ、学べる、仲間、アミーゴ、雷。彼を通じ て出会った彼の仲間、アミーゴ 達、この世で一人でもそんな仲間が出来たのであれば人生幸せなのではない か!と熟く思う。 バスク人が日本人我々と交流しているBasQuing、バスクも日本もお互いから学び、刺激される大切なものが 多いに有る。そうして、BasQuingの平行プロジェクトである日本を バスクや外に紹介するJapaNingが自然の 流れで生まれていくのです。 73


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MEJOR CALIDAD¡¡

BLAMIとの出会い 僕のバスク人生で何時もどこかで必ず繋がっている存在。電話やメールより、

って話を進めなくて は進まな

い本当に自分を持ったアーティスト、BLAMI. アルテ・ポーヴェラ、モダン・アート、彼はア ートの枠をどう 呼ばれるかには興味が一切ない。アートを作っているというとても高い意識と技を彼 は楽しんでいる。作品と しての出来きや完璧さに重視しない、正に造っている過程と造り方に興味が あり、そこに全てをつぎ込む。

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Blamiとの始めてのリアルな出会いは、2011年のBasQuing日本ツアーだった。バスクメンバーが東北地 方 太平洋沖地震で来日を心配する中、Blamiは行くき満々。周りはあのBlamiを日本に連れて行くなんて 可能 なのか。。。と心配する中、僕は彼の本性は未だ知らなかったし、今でも周りが言う程のBlamiではない。

MEJOR CALIDAD¡¡

そんな中、Blamiとは初めてやる大きなプロジェクトが日本ツアー。僕は君はアーティストだから今の日本 を体験し、何か日本へメッセージをかけるアートを日本で発表してくれ!という素人風な僕の意見を『そ ん な!俺は俺の感じたものを作るだけだ、日本が今どうとかこうとか俺にはわからないし!』と何度か来 日前に 口論し合う仲。一番扱いにくいと考えていたそのBlamiがそのツアーで一番チーム思いであり、そし て日本に対して『バスクから来た、お前らと一緒にいるぞ!』と日本に応援をくれた存在になるのだ。

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LUC 3 手と鉛筆

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LUC ROLLAND との出会い

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MEJOR CALIDAD¡¡

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MEJOR CALIDAD¡¡


点がラインになり、ラインの中に点(人)がいる。  自然の中に人がいる、住む、ピーズに共存する。   そして自然から学ぶ!

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自分の人生を造る! 一瞬でも残す!

Taro san snowsurf - line

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SnowSurfer, Taro Tamai san コメント@ WEBや Cover page欄に 1。山と海 2。バスクの印象 3。自然

JapaNingに続く! 日本の丁寧な仕事= craft work

4。今とこれから

MIND から craft workのように生きる、社会を作

5。 snowsurf art board 

る、国を、世界を!そしてそれは自然に戻る!とい うか自然とありがたみを持つ、共存するということ に繋がるのではないか!

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『水と油』 表面上、あたかも国を忘れ、外国文化や習慣に合わせて20数年外国で暮らしていた僕は移民。移民と言っても 様々で、 政治や宗教、経済によって嫌でも国を離れる羽目に成った難民。僕のように自由にそしてある意味 贅沢にも心の窮屈を感じ国を出た、自由な移民。違いは有るが、外者(ソトモノ)という点では変わらない。幾 ら新しい環境や習慣に慣れても、故郷への思い、故郷の風習や価値観は『水と油』が交わらないように犇犇と 毎日の外での生活の中にあるのだ。 それは、国を離れなくても、家、地元、そして何時もの環境から離れた 時に、誰にでも起こりえる事なのだ。 日本を出たいと親を数年掛かりで説得し、大学出るまで日本には帰っては駄目という親との約束の元、決断し 日本を出た24年前。 その時、日本に魅力を全く感じなかった、今考えると日本と言っても知りもしない日本 だったのだが。日本の東京、東京の目黒、目黒の神泉、神泉の庄子という狭い世界だったのだ。 近年(1974年頃)までスペインは独占者フランコにより鎖国状態にあり、スペイン内での教養の無ささが目立っ た。しかしスペイン、バスクではフランスとの国境という地理も助けたのか、バスクというIDと歴史の元なの か、バスクには過去にも今にも文化人、教養者が多く居る。また、僕が一番好きなスペイン、ラテン文化の特 徴の一つである開放感がスペインらしくあった。何かと外でワイワイ仲間と戯れる、初めて遭った人にもキス (頬に) やハグをし『初めましての壁』を壊してくれる文化が残っていた。一度友達になると深く長い、そして 何処か子供のようなピューアさがある、また少しシャイで日本人っぽい。そしてバスク人はしっかりと自分達 バスクの誇りを自然と日常の中に忘れていない。彼らはウスケラと呼ぶ、歴史に記録を残さない、紀元前から ある、西ヨーロッパ最古とも呼ばれ るバスク語を喋る。バスク語も、聞けば何処か日本語の音を思い出させ るのにも親近感が湧く。 昔から観光地であったからか、フランスとの国境か、歴史上、他に支配される過去を持たないからか、バスク にはセンスやスタイル、自分を最大に見せ生きる人が多いように思った。自分の中でサンセバスチャンは一つ の『サンセバスチャン風』というカタゴリーに当てははまる。サンセバスチャンという土地で60年代に生まれ 育ち音楽活動しているJavi Pezの90年代に作られた音楽はhip hopであり、electricで、soulでもあり、そしてバ スクというよりサンセバスチャン、彼なりのジャンルがある。僕のレコード仕切りの中のカタゴリーにはJavi Pezがある。そんな彼は90年代ピチカート・ファイヴの小西康晴に気に入られ、 ピチカート・ファイヴremix 曲も手がけている日本では無名な音楽家である。 ミニ都市と自然がバランス良く混じり合うサンセバスチャンの街は、70年代の日本の大都会、渋谷の隣、何処 か都会で、何処か自然が残り(東大が隣にあり、そのキャンパスには池や森まであった)、何か足りない、神泉 という駅に生まれ育った自分には何処か異国で、何処か身近に感じる、初めて訪れる者をどうしてか虜にさせ るマジックを持った街だ。

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バスクの自然、全ての環境がバスクの人々を作ったのは言うまでもない。そしてそこに住む人々が工夫し、手 間と時間を掛けて生んだ文化の色々、そして外から良いものを取り入れ独自へリミックスするやり方は何処か 日本のリミックス文化を思い出させる。 そのリッミックス文化の代表がバスクの食文化。美食の街と呼ば れ、食レベルが高い。女達が強い バスクでは男達の逃げ場の一つとして生まれた美食クラブ文化。美食クラ ブでは外から得 た色々な食の知識や技をクラブで皆とシャアーし、皆に振舞う事で、街全体の食レンベル が 上がったと言われている。 このリミックス文化から、大切にすると、守るという似ているようで違う、 Loveとhateのような薄い壁のよ うなものをバスクで感じる時がある。 90年代、バスクはバスクを守ると掲げたテロリストが世界のメディア で多く取り上げられた。鯨を支流に生きていた歴史からも解るようバスクは外を取り入れる、多様性と共存出 来る人種である。他や(彼ら/彼女ら にとって)新しいもの・こと・ひとを取り入れることが出来るには先ず自 分ら、自分らの誇りを知り、生き、心のゆとりとでもいうものがなくてはそうできないのではないかもしれな い。それが自然に出来るか、それとも取り戻さないといけないものか、バスクの生活の中で真剣に考えさせら れた問い、大切にすると、守るということ。

NO es foto real

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1990年からの電話:(BasQuingの始まり)

『外に出る』それは『全てが当たり前ではないんだ』というメーッセージを背後に音楽プ ロモーターそして Ska Cubanoというバンドの初エージェントととして働ける地位まで来ていたマドリードの生活。マネジャー との大きな価値の違いもあり何処か正直しっくり来 ていなかった。日本には金以外、何も堂々と持って帰っ てこれるものはなかった。知らず 知らずの内に目標でもなかった安定を求めていたスペイン生活。音楽だけ に没頭しある種 の頭デッカチに成り過ぎていた自分。 そんなある時の一時帰国中、生まれて初めての憧れで あった、もんじゃ焼きを食べ終わ り、ほろ酔いながら店を出る時『~さんが、~さんが』と泣きながら言葉に 成っていない 一本の電話が。電話の声は1990年に外国に一緒に出た仲間の一人、七尾ちゃんだった。 『落ち 着いて~!良く聞こえないから、外に出てかけ直すよ』と言って、支払いを済ませ ながら、大げさにまた、な んな���~と思いながらも心配になり直に掛け直す、『カズさん が。。。カズさんが..。。。。。。。。亡くな った』と泣きわめく。一瞬にして時間が止 まり、酔いも一気に覚める、頭は真っ白に。一緒に居た人達とど う別れたのか、何処で別 れたのか、どう家に着いたのかも一切覚えていない。 次の日、新潟のカズが親、陶器家の後を継ぐと覚悟を決め、腹をくくった地へ向かった。 長いことちゃんと 時間を過ごしていなかったことを悔やみながら、顔をみたい、側に居た いという一心、そしてこれは現実で はないという希望、そして真実を知りに。一時帰国す る度にカズは『蔵人さんおいでよ~!』と誘い、何年も の間、来ずに来てしまった。遠く 離れたあの湯沢が、生まれて初めて乗る新幹線でとっても近く、とっても 悔しかった。同 時にカズが異ないと思うと、そこが何処か、とてつもなく遠くに感じた。彼が眠る場所へ 近 づくにつれ、行きたくない、見たくない、逃げたかった。思い出のカズは15~ 16の時出 会った時、馬鹿騒ぎ した毎日、元カノを紹介してもらい渋谷の公園で寝るのも忘れて一晩 中、ただただ彼女の唇を奪い、初めて 恋い に落ちた時、最後に電話で話した時とちっとも 変わらない。体重も、髪も、服もあまり変わっていな い、変わったのは俺は少し心が窶れ たようだ。そんな色々な思いがとてつもないスピードで頭を旅しなが ら、とてつもなく重 く感じる脚を前に出し、その降りたくないタクシーを降りた。俺は今こういう時期で、 又、あの時のように明るく、ピュアーで、ポジティプ、怖いものなしに成るのだとカズに 言い聞かせなが ら、自分はもう息をしないカズに近寄った。 何時も俺より先を生きていたカズ。お洒落も、タバコも、女も。タバコの付け方、女の子 とのつい付き合い 方も別れ方も、何処か先を往き、何処か憧れ的存在でもあった。そこに 違和感や態とらしさを全く感じなか った。カズも俺の何処か解らないが俺への憧れでもあ るかのように、しばしばその思いをシャイにそして俺 に解り易く、そして優しく見せた。 馬鹿騒ぎの毎日、酒が入ると泣く俺の看病をし、時に酒が入りワイルド に成るカズを俺は慰め、庇った。そんなカズとの16歳で交わした決断『外国に行く』そしてそれは、『故 郷、日本に錦を飾る!』という無言の約束でもあった。 カズは数年後、日本に帰らされる羽目になった。そし て俺は一人で二人の思いを受け継いだのだ、 カズは数年後、日本に帰らされる羽目になった。そして俺は一 人で二人の思いを受け継いだのだ、もちろん俺が一人で勝手に受け継いだ思いだが。 105


近年ちゃんと遭っていない時でも一時帰国する度に、電話越しに何時も俺の『行ってきます~』の声に、た だただ口数少なくも何時ものように『頑張れよー藏人さん!!』って言ってくれていたカズ。 カズが亡くなっ た直後スペインに戻り、 SKA CUBANOのエージェントを辞め、再度、堂々と帰国できるライフークへの試 行錯誤が懸命にも再スタートすることになる。そしてプロジェクトBasQuingが生まれることになる。

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BLAMI    la letra ONGIETORRI

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BLAMI    la letra ONGIETORRI

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OUTRO 一人の外国人・外者

自分がマドリードにいた頃、スペインは10数年前まで鎖国状態であり、国民青年の殆どが 外国人や外の 文化との触れ合いがなく、自分、アジア人や日本人は全て中国人。そこでの 暮らしは何処かで隠しカメ ラ(神ではなく)で誰かが見ているのではないかと思い、日本 を恥じない行動を心がけてきた。そして彼ら からの知りもしない日本人への偏見をより良 くしていきたいと常に思っていた。そんな意味で何時でも 何処でも緊張感を感じ、誰が選 んだ訳でもないのに、日本の代表の一人だと心にし生きていた。 現地人 のようにスペイン語が書けることもなく、労働ビザもない、しかし、意識の進化を 気つかせてくれたス ペインの仲間と暮らしたいからと、大学卒業後300以上の履歴を出 し、たった3件だけがインタビューを してくれる中、やっとの思いで獲得したイベント会 社での仕事。一年後、年に一度の大きな祭りのプロ デュースを労働ビザ獲得約束の元、チ ームの一員として頼まれるが、集客結果が悪く、6ヶ月もの給料ど ころか、ビザなど出し てくれなくなる終いに。 マドリードではその時代、道ですれ違えば目立つ僕、外国人、普通より目を丸くし見られ るのが普通だ った。時には、振り返って俺の来き先を見る好奇心多い人も多く居た。偶 に、僕らアジア人を普通の人 のように振舞う老人や、目で挨拶を交わしてくれる外国人に 遭うだけで幸福を感じた時代だった。そし て僕にとって同じ国だった地方、バスクに着く と、見知らずの俺に『Kaixoカイショ!』と挨拶をしてくれ た。 今、日本に住み逆の立場で外人、外国人を受け入れるローカル側になり心構え、そして偏 見は間違えな くある。ボトムラインはその人、一人一人を見れる心の顕微鏡を持ち一人一 人に接しなければいけない ということではないだろう。何処に居てもそうだが、思いもよ らずに良くも対応して時もあれば、思い もよらずに悪い対応される時もある。どちらに対 応されても不思議に僕は最近、日本に生まれ、日本の 感性があり、日本人で良かったな~ とつくづく再確認出来ることが多い。そしてこれは愛国芯という言葉 だけには収まらな く、角度を変えて言うならば『誇り』そして時には『恥を知る』ということに対して の理 解が少しは出来たということではないかと思う。同時に、日本に住んでみて我々の国民の 進化では なく、衰退を感じ、それに対しても置き去りにし、磨いていない心に責任感を感 じてしまう。 スペインでは90年代、お金をぎっしり入れ高級街でショッピング観光に来る日本人に間違 われ、幾度と なく強盗にあった。時には数人に強盗にあい、気絶をし、病院で起きるなど 悔しくも痛い思いをし、心 も体も吃をついた。やっとのことで手に入れた2年間の労働ビ ザ更新の為、一度偶々パスポートを持ち歩 いている時に強盗に合い、気絶し、激痛を感じ ながら起き上がるとパスポートを含めた全てが盗まれて しまった。 翌日、パスポートを再 発行してもらう為に大使館に行くと、そこで信じられない光景に出く

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わした。頭や腕から 血を流し、苦しそうに順番を待つ3人程の日本人観光客 悔しそうにもそして途方に 暮れて 座っていた。 自分の事を忘れた僕は咄嗟に『どうしたんですか!?』 と聞くと一人一人 別々に『ぼ こぼこにされ、盗まれました』、『強盗に会いました』、『同じです』と。あ まりの驚きと無力を感じ て順番を待つのも忘れ、大使館の厚いガラス張りに向こうに座る 同じ日本人・領事に『こんな事諸っち ゅうあるのですか?』と聞くと、『最近は略毎日で すね』と淡々と答えが帰って来た。俺のやるせない怒 りはその厚いガラスを今でも素手で 壊すかのように『あなた方は道での生活が解らないかもしれんが、 マドリードで道を歩く のは僕ら日本人にとって危険です。貴方方はこの状況にどう対応し、 日本大使館 として 何 をしているのですか、!』と。 そして今考えても情けないがこれらの体験により、自分は知りもしないモロッコ人全てへ の人種差別す る人間へと変わって行ってしまった。彼らが同じ道を通るだけで睨みつけ、 威嚇した。そんな生活が何 年か続くと、変なところに集中が行き、自分のやるべき、そし てやりたい事への集中力は欠けた。同時 に差別する事は自分をとても疲れさせ、そして気 づきもしない内にとても自分が嫌になっていた。彼ら を嫌い、彼らから逃げるように生き たが、そうすればそうする程、彼らとの接触もあった。どうにか克 服したいと、モロッコ 人友達も作ってみたが息苦しい。同じソト者、外国人じゃないか、仲良く生きよ うと自分 なりの努力はしたが、 10年もの月日が過ぎてしまった頃、心ではとても遠くマドリッドか ら たったの数時間で着く近い彼らの国、モロッコに初めて訪れる決心をした。 バスクからマドリードへ、マドリード空港のタンジェー行きのゲートはまさかのモロッコ 人一色。旅経 つ前に僕の挑戦を知っている仲間は冗談で『蔵人、お前はモロッコに自殺し に行くのか!?』と。。。ゲ ート前でキョロキョロと挙動不審な一人の外国人、俺。息が しずらい、というのも散歩感覚で来ている ので行く場所、泊まる場所など殆ど未定な旅。 最大の目的はモロッコ人と接し、怖さを克服する事。威 嚇の目と心で、常に四方八方を気 にし落ち着く暇もなく飛行機に乗り、気付けば、そこはタンジェー!荷 物も卸し飛行機か ら出ようと準備する人々を見て嫌な汗が。。。 今までなら声も掛けずに威嚇するであ ろう前に座っていたモロッコ伯父さんに清水の舞台 から飛び降りた気分で、 少し余裕を演じてスペイン 語で『タンジェーに帰られるのです か?良い場所でしょう~!』と。彼は優しくも鋭い目で『君はモロッコ に旅か?へ~、 で、タンジェーには?友達にでも遭いに来たのか?』。僕はユトリを見せる暇も心もなく 自 分を落ち着ける回答を願い『いや~、計画なくタンジェーで一人旅ですよ~。何処か安 くて泊まれる場所 とか知りませんかね?』と始めよりかなり弱々しく。助けを求めるよう な口調に成っていたのだろう。彼 の答えは『一人か!!タンジェーに!!気をつけろ!危 ないからな!』って。きっと少し黄色いはずの日本人の俺 の顔は緑色に変わっていたのだ ろう。答えにも助けにも成っていないよ。変色した顔の俺はテンパリ状 態でどうパスポー トコントロールを通過したのかも覚えていない。 僕の一つの望みはその時、観光客を見つけ、彼らと行動を共にすることに変わり、飛行場 から出る。居 るだろうはずの観光客が見当たらない。飛行場の左端に『いた~~~~~~ ~~!』と真っ先に観光客に走りよ り、少しユトリを見せスペイン語で『HOLA!』。振り 返る彼らは見かけで解るバスク人、しかもバスク 112


では僕から声を掛ける事は殆どないハイ トゥー達(独立芯がとても強く、その多くは『バスクを守る』と 掲げバイオレスに行動す る人々で、その格好や髪型、ピヤスの付け方で遠くからでも直に解る連中)、そ んな4人 組だ。彼らは異国、モロッコの地で始めてであろう外国人との出会いが俺、中国人らし く、ス ペイン語で話しかけてくる変な外国人である。少し戸惑いを見せ、僕を見ながら、 何やら突然にして仲 間会議が始まった。 それが終わると俺に降り帰り、予想を遥かに超える、大声で『ルマゴリ~!!』と、突 然 大きな笑顔で、『一緒に写真を撮ってくれよ~!』と肩をくみ撮影される。そう!その 頃、バイトでルマ ゴリというバスク一の野生で飼育された鶏のコマーシャルにバスクで出 ていたのだ!少し気分が良く成る の束の間、彼らはタンジェールではないそこから半日掛 けて別の場所へ行くとの事。 彼らに惜しむ惜しむも、引きつっていたであろう顔で別れを言い、もう一か八かで迷わず 一つのTAXI目 がけて歩き出し、順番を待つ人々そっちのけで、そのTAXIに乗り込んだ!入 ると、片目の運転手が英語で 『相乗りだぞ!何処まで?』、驚く暇もないまま、『中心街 まで』と言う頃にはサバイバル芯が何処から ともなく沸きあがり強気。何処か、何時かを 思い出した!そうだ、あれは俺が初めてジャマイカに一人で 行った時、長~い一本道で出 会った誘拐未遂だ!そうだ、何年も前に日本を一人 で旅立った日の、成田空 港だ!日本か ら出たいという一心だけで日本を出たあの時、見送る家族や友達に手を振り旅立つワクワ ク な自分、そして成田のあの平らなエスカレターが動いて行き、皆が見えなくなった、た ったその一瞬 『一人に成っちゃった!』と『やば!』と生きた気がしなかった。今思い出 すだけでお腹にスーっと緊張感 が走る。 怖いというより、『崖っぷち』しかも臆病なのに自分でその状況を作っている。タンジェ ールのTAXIの 中は東京のラッシュアワー状態に、後ろ5、6人に前は運転手のモハメッド を含み、僕の3人。荷物をが っちりと自分に引き寄せ、何が起きても対応できるようにし た。その片目運転手(後に僕のガイドとして 中途半端にもやってくれた)モハメッドが初 めての本場モロッコで交わす現地人との出会いだった。 持ってきた一つの宿情報頼りとモハメッドの案内で着いた貸家はフランス人の持ち物だが 今はフランス に居て、モロッコ人女性ファティマが管理しているらしい。家の中に着き、 寝場所を案内されると一瞬 のピースが。そして直に、外が、人が恋しいというか新しい場 所を知りたくて外に出たがる俺は台所で なにやら作業しているファティマに地域の地図を 貰い、それを広げ、頭に把握する。ファティマが夜の マーケットが近くにあると教えてくれ た、同時に彼女は夜には自分の家族が来るけど問題は無いかと訪 ねてきたので、問題は無 いと答える。(俺一人の家が、夜には彼女の家族全員が寝泊まる羽目に。その内 一人は正 に危なそうな、顔に大きなナイフの傷跡が生々しく残る自称、兄貴もその晩来て、寝て行 っ た。そんな中、一人で借りたはずのその家で自称オペレーション・セロという罠まで自 分の部屋に仕掛 ける夜に成るのだが。。。) 家にはフランス人オーナーの犬が飼われていて、犬好きな自分には閃きが! 犬と散歩に行 こう~!地元感を だそう~と犬連れて良いかとファティマに聞くと、良いとの事。外に出 る前に、犬に縄をして、さあ、夜 113


のタンジェーの街���! アジア人というだけでかなり目立つというのに、犬、そしてその犬に綱つけている 人は辺 りに一人も見当たらない、まずペット犬は居なかった。道ばたの人々が自分に指をさし、 『おい! 中国人と犬!。。。その犬食べるのか!?』と爆笑状態、予想を遥かに超える目 立ちよう。。。まったくの 逆効果!もう、その頃には気が狂ったように、自分も諦め、そ してその土地の人々とのそういったコミニ ケーションを楽しみ、旨い店や安い店、見て損 しない場所、終いにはミントティーをテラスでゆったり と飲みながら観光客を探し、仕事 にしようとしているあの片目のモハメッドを見つけて、『あんたじ ゃ、怪し過ぎて客が恐 がり逃げるから俺が代理に客探し、連れてくるから先っき払い過ぎた金を返して くれ』な どと交渉し、彼とタッグを組む羽目にまでなる自分が居た。 怖かったはずの土地で、恐がり嫌 だとおもっていた、知っているつもりの人々と時と場所 を一緒に過ごしていた。世界は狭いと言うが、 知っていたつもりを肌で体験することで、 世界がとても大きく、広く感じた。 今、帰国しその24年という月日を見返すと、始めは外を知りたいから始まった。そして外 を知る事で日 本、そして日本人であるというアイデンティティーを再認識する中、日本へ のありがたみと、日本を出 る前に感じたような危機を覚える。日本に住む仲間に

う度 に、日本、一国としての進化への興味のな

ささ、そんな社会でも不安や不満があるがそれ らを曖昧にするかのように用意された、与え続けるその 場その時しのぎ、誤魔化しのきく 社会の仕組み。好意的とでも言うべき隠された人として生きる当たり 前な大事な事事、人 生へのヒント。戦争を知らない我々世代でも目に見えるカタチで置き去りにしてき た意識 の進化が必要であり、人としての責任ではないか、日々感じる、日本。 そう感じたのも、海外生活の中で出会ったジャマイカ人、セネガル人そしてキューバやモ ロッコ人。何 もないと呼ばれるはずの人々が自分の為、人の為、コミュニティーの為、 国、そして世界の為に時には 痛いリアリティーを言い訴え続けていた。意識革命に立ち会 う人々に出会い、ただただ圧倒された。車もなければ、金もない、いわゆる貧乏な人々が 持つ、知識と 希望、夢や目的、全て持っている先進国の我々よりも大きな、大きなスマイ ルと輝く目を持っていた。 音楽と人を通して『日本そして社会への危機』を訴えて来た。そして、それが説教がまし く、頭デッカ チに長い事なってしまった。もちろん性格的な、おせっかいや、目立ちたが りやなどもあるが、頭の隅 には必ず、『国に錦を飾りたい』=『為になりたい』という願 望があった。 同意するアーテ ィストの代弁としてのエージェントととし訴えた。同時に、衣食住、健康 や人権に至ま で全て当たり前じゃないんだ、と自らを『外国人』として生きることで自分 の意見、生き方に説得力を つけるという自分表現をして来た。その24年の体験こそが何よ り世の中の不条理を強く訴ったえ、国に 錦を飾る、堂々と生きられると強く感じたからだ。

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帰国後数年掛かってしまったが、ここにその一つのケジメをつける意味、そしてさらけ出 すことで学び があり、次のステージに行く為に、この本というカタチで表現しました。そ してこの本で日本をツアー し、人々と交流する事で日本の今を感じたいと願いっていま す。 既に色々な時代の先駆者、先輩方がなされているこの意識革命には及びはしませんが、ぼ くが外国に住 む日本人として24年もの間、体験してきた経験は、ユニークであり、ぼくに しか語れない事ごとだと思 います。また、世の中でいう成功者でもなければ、有名人でも ない自分は、小学生の時にぼくが感動し 外国に憧れたアメリカの先生と生徒のように身近 にいれる相手になれるのではないかとおもっていま す。 小学校のクラスの時のように、馬鹿も天才も、そして平凡も居てなりうる社会で良いので はないでしょ うか。その小学校のように、そして更に進化した、観察、(人それぞれの個 性へと)導く行動が出来る人生 の先輩方がチーム一丸となり役割分担し、未来、そして今 世代へ立派に生きて行ければと望んでいま す。 Home とAway, AwayとHome,仲間との交流の旅が文化や言葉、そして国を超えて始まっ ています。一人 が二人になり、仲間になる。それらのアミーゴがコミュニティーになり、 そして社会になる。その社会 が街になり、そして国、そして世界になっていく。地道では あるが、不可能でない、遠くて近く、近い ようで遠い。願い、語りそして聞き、表現し続 けることに意味があり、その後が見えるのだと思いま す。 山あり、谷あり、自信という自 分を信じれなくなる時さえ沢山ある。そんな時に出会う言葉や、写 真、映画や人、そして 仲間がが居るから続けられる。迷いに迷い、そして人生に一つの正解という答え がないの を知り、そう信じながら。。。 どう、我々がこの柔らかく、気付くのが難しい奴隷化されたか、そしてこれからどうやっ てそれを解放 して行くか。意識というものに目覚めた人達や仲間、そして歩き始めた自分 を含めた人々にとって、ど ういうメディアや本、ものとか道具、場所とか人、情報や技、 知識を参考にしていけば良いか。そして それらをシャアーし、自分も含めた人それぞれに会った道を生きて行ければ最高ではないかと、孤独にも 仲間とも日々考え、行動し生きています。 海外で長年、外(国)人として生きて来た経験により、人権、家族、飯、家、健康、友達、国や社会な どなど無い時に気付く、ある、有り難み。 素晴らしいこと、もの、人や自然、そこに生かされる命は本 当に身近にある、そしてそのありがたみは今でも気がつくことが難しい。

庄子蔵人 2015年11月23日 自分の道は、自分の速さで、自分のやり方で! 115


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credits / thank you Page 1∼2 ;

Digen by Primo ; http://www.estudioprimo.com

Page 3∼4 ;

Illustrated by Kurando Shoji

Page 10∼11 ;

Photography by Jon Cazanave ; http://joncazenave.com/web/

Page 12∼13 ;

Photography by Iker Basterretxea ; http://ikerbasterretxea.com

Page 15 ;

Illustrated by Kurando Shoji

Page 17∼18 ;

Taken from * MODERNISTA BASQUE SURFING* BY XABI ZIRIKIAIN & IKER

Page 19∼20 ;

Photography by Jon Cazanave ; http://joncazenave.com/web/

Page 21∼22 ;

Photography by Jon Cazanave ; http://joncazenave.com/web/

Page 23∼24 ;

Photography by César Ancellehansen http://www.cesarancellehansen.com

Page 25∼26 ;

Photography by César Ancellehansen http://www.cesarancellehansen.com

Page 27∼28 ;

Photography by César Ancellehansen http://www.cesarancellehansen.com

Page 29∼30 ;

Photography by César Ancellehansen http://www.cesarancellehansen.com

Page 33 ;

Disgen by Ja http://www.ja-studio.com/es/ by courtesy of Loreak Mendian

Page 35 ;

Photography by courtesy of Albaola

Page 37∼38 ;

Photography by courtesy of Albaola

Page 39∼40 ;

Photography by courtesy of Albaola

Page 41∼42 ;

Painted by Diego Matxinbarrena http://diegomatxinbarrena.blogspot.jp

Page 43∼44 ;

Photography by courtesy of NATIONAL GEOGRAPHIC

Page 45 ;

Photography by Rai Shizuno http://www.raishizuno.jp

Page 46 ; Page 47∼48 ;

Illustrated by

Page 49∼50 ;

Painted by ROSKOW http://www.roskow.com

Page 53 ;

Disgen by Xabier Zirikiain

Page 55∼56 ;

Painted by Javier Aranburu http://www.javieraramburu.es

Page 57 ;

Painted by Javier Aranburu http://www.javieraramburu.es

Page 59 ;

Painted by Javier Aranburu http://www.javieraramburu.es

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Page 61 ;

Painted by

Page 63∼64 ;

Disgen by BLAMI https://www.flickr.com/photos/blaminaiz/

Page 65∼66 ;

Painted by Javier Aranburu http://www.javieraramburu.es

Page 67∼68 ;

Taken from * MODERNISTA BASQUE SURFING* BY XABI ZIRIKIAIN & IKER https://vimeo.com/12408246

Page 69 ;

Painted by Javier Aranburu http://www.javieraramburu.es

Page 72 ;

Photography by Rai Shizuno http://www.raishizuno.jp

Page 74 ;

Photography by Rai Shizuno http://www.raishizuno.jp

Page 75∼76 ;

Photography by César Ancellehansen http://www.cesarancellehansen.com

Page 77∼78 ;

Photography by César Ancellehansen http://www.cesarancellehansen.com

Page 79∼80 ;

Photography by César Ancellehansen http://www.cesarancellehansen.com

Page 81∼82 ;

Disgen by BLAMI https://www.flickr.com/photos/blaminaiz/

Page 83∼86 ;

by courtesy of Luc Rolland SURF ART luc_rolland@orange.fr

Page 87∼88 ;

Photography by César Ancellehansen http://www.cesarancellehansen.com

Page 89∼90 ; Page 91 ;

by courtesy of Taro Tamai http://www.gentemstick.com

by courtesy of Taro Tamai http://www.gentemstick.com

Page 93∼94 ;

Photography by Rai Shizuno http://www.raishizuno.jp

Page 95∼102 ;

Photography by http://yosigo.es/portfolio/

Page 103∼104 ; Photography by Jon Cazanave ; http://joncazenave.com/web/ Page 105∼106 ; Page 107 ;

Photography by Rai Shizuno http://www.raishizuno.jp

Page 109 ; Page 111∼112 ; Page 113∼117 ; Photography by http://yosigo.es/portfolio/ Page 121∼124 ; Photography by http://yosigo.es/portfolio/ Page 125∼130 ; Photography by Luis Beltza http://www.beltzarecords.com Page 133∼134 ; Photography by Jon Cazanave ; http://joncazenave.com/web/ Page 135∼136 ;

Disgen by BLAMI https://www.flickr.com/photos/blaminaiz/

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credits / thank you Special Thank you to ; Mikel Murrugaren (original BasQuing name maker & creator : Animalario del profesor Revillod IBON ERRASKIN ( aka walking dictionary, who has been there with and for me from the start Teresa ( aka PioPio whom we never understood quite well through our langage but yes from our feeling and the universal language, the music) Juantxo ( aka Juantxo who helped me for my lonely struggle of cold winter with no word but with action.)

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Newest basquing & japaning book (変身4)