国際演劇年鑑2020 ― 世界の舞台芸術を知る (Theatre Yearbook 2020 ― Theatre Abroad)

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EUROPE

れがゆっくりと回 転しながら、 ときには病 院をときには家 庭を示 唆する。 このような何の変 哲もなさそうな舞 台で問われるのは、私たちの社 会 や家 族の秩 序が無 意 識に前 提としているアイデンティティの力学であ る。医 者(ジュリエット・スティーブンソン[ Juliet Stevenson ])が自分 の患 者である十 代の女の子の死に際して、 カトリック司 祭の訪 問を 許さなかったことが社 会 的 問 題となり、 この「 女 医 」が病 院での地 位 を失う事 件が発 端となる。 いま「 女 医 」と書いたがそれは便 宜 上ステ ィーブンソンが女 優だからで、実はこの劇には誰が男で誰が女であ り、誰が白人で誰が黒 人か、誰が主 人で誰が使用人か、 といった私 たちが通 常 疑っていない判 別を撹 乱する仕 掛けがいくつもある。 まず キャストリストにはアルファベット順に役 者の名 前が並べてあるだけな ので、誰がどんな名 前の役を演じているのか、 それを見てもわからない。 132

私も舞 台を観ていてなかなか分からなかったのだが、黒 人の牧 師と 言われているのに役 者は明らかにスコティッシュ・アクセントの白人で あるし、東 洋 人 風の名 前で呼ばれている医 者は民 族もジェンダーも 不 明だ( 実 際には黒 人 女 性の俳 優らしい)。主 人 公の医 者がメディ アによって非 難されるのは、彼 女がユダヤ教 徒の出自にこだわるあま り、患 者にカトリックの秘 蹟を受けさせなかったこと、司祭に人 種 偏 見 をもって接したという疑いからなのだが、 これらから浮かび上がってくる のは、私たち観 客も含めて、現 代の価 値 判 断の元となっている社 会 正 義やポリティカル・コレクトネスの概 念が、 いかに固 定されたアイデン ティティに左 右され、 それが結 果として言 葉の暴力を生んでいるかとい う問 題である。多 文 化 主 義が複 数のアイデンティティを包 摂すること は是 認すべきとして、 その先にある平 等な共 同 体をどう構 想すべきか、 静かだが深い問いかけに溢れた舞台である。 最 後に25年 前の作 品の再 演だが、おそらく現 在のヨーロッパの政


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