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北斜面の岩場に一の鎖が見えた。試しの鎖と書いてあるのを横目に見ながら進む。ここに は 3 つの鉄鎖が取り付けられている。一の鎖は長さ約 27m、二の鎖は約 40m、三の鎖は約 62m、手を離せば命はない。登りたい気もするが怖くて言い出せない…。 石鎚山の山頂が見えてきた。二の鎖のところで女性が途中から上るのを断念して下りてき た。丘さんが鎖に足をかけて上り始めた。上から“大丈夫ですよ”という。思い切って私も 続く。高羽さんがすぐ後ろから上ってくる。ふたりの若者に励まされて鎖を上り切り、崖の 上に立ったときは爽快であった。自信をつけて三の鎖にも挑戦したが、半ばを過ぎたところ から、次の鎖まで足を掛けるのが届かなくて必死だった。上から丘さんが、下から高羽さん が足の位置を教えてくれたので這い上がれたときは感激ものだった。なにしろここは行場な のだ。私ひとりでは登りきることは難しかったと思う。よく頑張りました!

石鎚山頂

三の鎖の丘さん

三の鎖の私

頂上の尾根の中ほど、弥山に石鎚山の頂上社がある。そこから 200mほど突き出たところ が天狗岳だが、私たちは登るのを弥山までとしてパノラマを満喫した。空海が断食をしなが らこの尾根を渡り歩いたのだと思うと上らせていただけた幸せに心より感謝した。 第六十番の横峰寺も石鎚山を奥の院とし、前神寺が東の別当、横峰寺が西の別当として拮 抗した時代もあったという。 山の天気はすぐに変わる。ガスが出てきたので下りることにした。途中で修験者の一群に 出会った。聞けば年に一度のお山登りの日という。ほら貝を高羽さんが吹かせてもらった。 なかなか音を出すのが難しそうだ。これですべての合図をするのだそうな。すごいな。 遍路姿でお山を登っていたのが、珍しかったのか、声がけしてきた男性は遍路の魅力につ いて色々質問してくる。定年後日本百名山を制覇しようと、ひとつずつ登っていることなど 話されるうちに有岡さんとおっしゃるその方は、高羽さんの母校の校長先生だったことが分 かり、隣村に住んでおられることも分かった。それがご縁でロープウェイを降りてから六十 二番宝寿寺の近くの打ち戻しのところまで車で送ってもらうことになった。

弥山

山頂からの展望

丘さん、高羽さんと私 75

頂上社


丘さん、高羽さんと私

天狗岳

高羽さんと

修験者

宝寿寺の近くで高羽さんと有岡さんにお別れし、丘さんと私は前神寺まで一緒に打つことと した。ロープウェイの中でデジカメががカード不良を表示して撮影できなくなってしまった。

第六十二番札所

てんようさんかんのんいん

ほう じ ゅ じ

天養山観音院

宝寿寺 愛媛県西条市小松町新屋敷甲 428

0898-72-2210

十一面観世音菩薩(秘仏) お お な むちのみこと

創建は天平年間(729~749)大己 貴 尊 の神託を受けた聖武天皇が諸国に一宮を造立し、 伊予国にも一宮神社が建立されたが、その別当として創建されたのが始まりという。当初は 金剛宝寺と称していた。その後、弘法大師さまがこの地へ立ち寄り、光明皇后をかたどった 十一面観世音菩薩さまを刻んで本尊とし寺号を宝寿寺と改め、四国霊場と定めたという。 その後、近くを流れる中山川の氾濫により荒廃。天養元年(1144)に大々的な修復工事が 行われた。山号の天養山はこの年号にちなんだものだ。天正 13 年(1585)、豊臣秀吉の四国 攻めの兵火で焼失。江戸時代初期に再興し、小松藩の抱え寺として栄えたが、明治の廃仏毀 釈で再び荒廃。香園寺と合併して明治 10 年(1877)に再興したが、大正 12 年(1923)国鉄 予讃線が境内を通ることとなり、現在地へ移転した。 チシャノキの巨木のある門は現在使われておらず、脇の路地へ入ったところから境内に入 る。右手前に大師堂とあたらしい本堂が建つ。正面奥のなだらかな板橋の先に建つのが旧本 堂。その昔、伊予国司の越智氏の夫人が難産で苦しんでいた。そこで弘法大師さまが境内の 玉の井の水を加持して与えたところ、夫人は男児を出産。境内には安産観音像も立てられて いる。

山門

本堂

大師堂

境内

国道 11 号を東へ。約 1.4km歩くと六十三番吉祥寺さんだ。このあたりは国道 11 号に沿 ってわずか 10km余りのうちに六十一番から六十四番までの札所が連なって並んでいる。 76


第六十三番札所

みっきょうさんたいぞういん

きちしょうじ

密 教 山 胎蔵院

吉祥寺

愛媛県西条市氷見甲乙 1048

0897-57-8863

毘沙門天(秘仏・ 60 年に一度、2037 年開帳) 国道 11 号沿いに建つ山門柱に「四国唯一体 毘沙門天王鎮座」の文字が刻まれているよう に四国霊場で唯一、毘沙門天さまを本尊としている。毘沙門天さまは七福神の中に数えられ、 知恵と勇気を与えてくれる神さまとされるが、この寺のご本尊は「米持ち大権現」と呼ばれて 農民から信仰を集めてきた。 弘仁年間(810~824)、この辺りを巡っていた弘法大師さまは光る檜を見つけて霊木と感じ びしゃもんてん

きょう じ

ぜ ん に し どうじ

本尊毘沙門天さまと 脇 侍の吉祥天さまと善膩師童子さまを刻んで安置したと伝えられる。 吉祥寺は元は現在地より南の坂元山にあり、21 坊を持つ寺院だったが、天正 13 年(1585)に 豊臣秀吉の四国攻めで全山が焼失。万治2年(1659)に末寺の檜木寺と合併し、現在地に移 って再興した。寺宝には秘仏のマリア観音像がある。白磁の像で高さは 30cmほど。慈愛に 満ちた表情をしているといわれるが、元は土佐の戦国大名長宗我部元親が、イスパニア(ス ペイン)船の船長から託されたものだという。それを西条高尾城の金子元宅がこの寺に預け たと伝えらけるものだ。 本堂の向かいに高さ 1mほどの成就石と呼ばれる石がある。本堂前から目隠しして、この 石に向かって歩いていき、金剛杖を石の下の穴に通すことができれば願い事が叶うといわれ ている。成就石の隣には「くぐり吉祥天女」がある。吉祥天さまは貧困を取り除いて大富豪を 導くとして信仰される仏さまで、この像の下をくぐると金運上昇や、裕福になるなどご利益 があるとされている。

山門

第六十四番札所

本堂

大師堂

いしづちさんこんじきいん

まえがみじ

石鉄山金色院

前神寺

なせば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり 上杉鷹山

愛媛県西条市洲之内甲 1426

成就石

0897-56-2745

阿弥陀如来 国道 11 号から桜並木の参道を経て境内へ向かうと辺りは杉木立に囲まれて深閑とした雰 囲気となる。小さな川に架かる極楽寺橋を渡ると右手に手水舎や鐘楼があり、左手には本坊、 正面に見えるこじんまりしたお堂が大師堂。大師堂の前で右に曲がり、金比羅堂や十三仏を 過ぎて石段を上がると、ぽっかり広がった広場の奥に本堂が建てられている。 前神寺の南には標高 1982mの石鎚山が聳えている。役行者によって開かれた山岳信仰の修 験の山で、前神寺はこの別当として山の中腹にあった寺。役行者が感得した蔵王権現さまを 祀っていた。六十番札所の横峰寺が石鎚山の西の遥拝所、ここ前神寺は東の遥拝所といった ことになる。この山岳修験の地で、弘法大師さまも修行し、八十八ヵ所の霊地として開かれ 77


ていく。病気平癒を祈願した桓武天皇をはじめ皇室の信仰も厚く、神仏混交の霊場として長 く栄えたのであった。 そんな霊場を明治の廃仏毀釈はずたずたにした。寺は一時廃絶し、明治 11 年(1878)に この場所に大師堂と鐘楼を移したが、寺号に「神」の文字が使えず、「前上寺」と称していた。 現在の前神寺の号は明治 42 年(1909)にようやく復活した。本堂前の広場から鳥居をくぐっ て石段を上がると石鎚山大権現堂があり、蔵王権現が祀られている。ここから見下ろすと、 本堂の屋根が権現造りとなっているのが分かる。権現造りとは本殿、相の間、拝殿と 3 つの 建物をつないだもので、現在では神社建築とされている。この寺の建築は権現造りの建物、 しかも本尊の阿弥陀如来さまより、高みに権現堂の蔵王権現さまを配している。そんな境内 の様子は寺の複雑な信仰の姿を物語っているようでもある。 毎年 7 月 1 日は石鎚山のお山開きで、それから 10 日間は全国から 6 万人以上の信者が登 拝するという。石鎚山七合目近くにある奥の院である奥前神寺まで、阿弥陀三尊を本地仏と する三体の権現さまが担ぎ上げられる。標高 1450mにあるここが、前神寺の本札所であった という。

本堂

大師堂

前�神����佛 ����� ����罪� �������

�詠歌

総門

石鎚大権現社

丘さんとここでお別れすることとした。気がついてみると 21 日から 29 日まで 8 日間、お 世話になりっぱなしだった。岩屋寺も前宮の遍路道も石鎚山も一人では行くことはできなか ったと思うとご縁の有り難さを心から感謝せずには居られない。 11 号線沿いにある BH 玉の家に 5 時に着いた。自転車を借りて JR 予讃線近くの駅前商店街 にあるカメラ屋さんに行きデジカメを調べてもらう。新しいカードを入れるとデジカメは使 えるようになった。めでたし。 平成 20 年4月 30 日(水) 晴 25℃ 10 時間 10 分:31.5km BH 玉の家を 5 時 50 分にでる。国道 11 号をひたすら歩き、トラックステーションで昼食を いただく。長距離トラックの運転手さんの宿泊と食事が賄われているところだ。メラミン食 器に、いかにも栄養士が立てたというバランス食をいただくとなんとなく古巣に帰ったよう でほっとした。 市場でネーブルを買って発送してから寄ったファミリーマート土居店にサングラスを忘 れてしまい、電話すると宅急便で先の民宿へ送ってくれるという。ひとり歩きには温かい対 応が心に沁みる。8kmの道を戻らずに済んだ。 “ありがとうございました”と手を合わせた。 11 号に沿った遍路道をしみじみと歩く。広大な自然と共にある道、海辺の道、木立の中の 細道、修験者の踏み固めた山道、閑静な住宅街に人々の営みを伝える道、遍路マークに導か れて歩き続ける…。 「遍路は道にあり」という言葉が少し体に馴染んできたような気がする。 78


トラックステーション

遍路道

遍路山道

豊岡町住宅地

人生一度ぐらいは なんの結果も考えず ひたすら あるいてごらん きっとなにかが つかめると思います 遍路の言葉

JR 伊予寒川駅をすぎたところを山に向かって登る。YH 新長谷寺は静寂さの中にお観音さ まが優美にお立ちになっておられるような趣のあるお寺でユースホステルもしておられる。 225 段の石段を上がると境内に出る。今夜の宿泊は夫婦遍路と私の 3 人だけだ。大広間で ぽつんと夕食を食べていたら、大お庫裏さんが“食後の果物はいかが?”とネーブルを持っ て現れ、“わぁ、本当や。若いわ! 実は娘が 58 歳の檀家さんと同じくらいやというので お顔を見に来たの”といわれる。お世辞半分でも悪い気はしないものだ。ご法縁をいただい ていた関の新長谷寺と同じ寺名なので、夕食後本堂で観音経をお上げした。 とよおかさん

しんはせでら

豊岡山

新長谷寺 愛媛県四国中央市寒川町 3214

0896-25-0202

十一面観世音菩薩 今から約 1200 年以上も昔の和銅 7 年(714)、西国第八番の長谷寺(奈良県桜井市)の本尊を 造刻するにあたり、試(こころみ)に造られた6尺2分の十一面観世音菩薩像がこの寺の本尊 である。その慈眼は慈母の如く威容は雲を起し雨呼ばんとする妙相で、見る人は自ずから礼拝 する有様であったという。その尊像を浪華の浦より小舟に乗せて流したところ、寒川江之元の 黒岩海岸に漂着し、この事が宮中に伝えられると一大伽藍が和銅 17 年(724)に造立されたのが 始まりである。その後、山津波や山火事にあいながらも、奇跡的に難をのがれ今日に至ってい る。地元では、初瀬の観音さままたはぬれ手の観音さまと慕われている。 平成 20 年 5 月1日(木) 曇のち晴 24℃ 7 時間 25 分:23.2km 新長谷寺を 6 時に出て外参りしてから 225 段の石段を下る。山門のところで朝参りの帰り だという古鳥守さんという人から “三角寺の近くで生まれたが、なかなかあそこまでお参 りに行けないので、これから行かれるのなら納札をお願いします”といわれる。お名前を書 いていただいてお預かりし、1000 円ものお接待を受けた。

生は昨日の如し そうびんたちま

霜 鬢 忽 ちに催す 強壮は今朝 病死は明夕なり ぞくせいれいしゅうたすくかしょう

山門

本堂

日の出

長い石段の上から 79

空海『続性霊集補闕鈔』


松山自動車道に沿って歩いていたら、昨夜同宿の静岡から来た村木夫妻と会い、同道する ことにした。民宿談義になり、良いところより良くないところが思い出としては残るといい、 ワースト1は水鏡壮で幽霊が出そうだった。ワースト2は徳岡旅館でお手伝いのケンちゃん は 3 年前から住み着いてお小遣いをもらっているという。おかみさんは泊まった日も宅急便 の配達の人に 30 分も怒鳴り散らしていたという。それが彼女の日常なのだと変に納得した。 6.5kmほど歩き三角寺山への登山道を登る途中で伊藤さんと高羽さんに再会した。丘さ んの携帯番号を教えて欲しいという。間違えて入力したらしいとのこと。若者と別れ、熟年 3 人でゆっくり急勾配の坂道を登った。 ゆれいさんじそんいん

さんかくじ

第六十五番札所 由霊山慈損院 三角寺 愛媛県四国中央市金田町三角寺甲 75

0896-56-3065

十一面観世音菩薩(秘仏) 伊予霊場最後の札所。標高 450mの三角寺山の中腹に建つこの寺は、参道入り口からさら に 70 段余りの石段を登る。石段を登りきると、梵鐘が吊り下げられて鐘楼門になっている 仁王門。鐘をついてから境内へ歩を進める。天平年間(729~749)に聖武天皇の勅願によ り行基菩薩さま���創建したという。弘仁 6 年(815)当時は慈尊院と呼ばれていたこの寺に弘 法大師さまが訪れ、本尊の十一面観音さまを刻んで安置した。不動明王さまも刻み、三角形 の護摩壇を築いて 21 日間の護摩法要を行い、四国霊場の札所に定めた。これにちなんで三 みすみ

角寺という。大師堂と本坊の間に「三角の池」という史跡があるが、これは大師さまが護摩修 法を行った護摩壇の跡といわれている。平安時代初期に嵯峨天皇から手厚い庇護を受け七堂 伽藍を擁する大寺院になった。天正 9 年(1581)に長宗我部軍の兵火で堂宇を焼失した。現存 する本堂は嘉永 3 年(1850)以降に再建されたものである。子安観音・厄除け観音として信仰 を集めてきたという。本堂前で古鳥さんのお札を納め心経を上げた。 寛政 7 年、本堂の前の樹齢 300~400 年といわれる山桜を見て江戸時代の俳人・小林一茶 が詠んだ句、「是でこそ登りかひ(甲斐)ある山桜」の句碑がある。

本堂

ひ�き�うきし�

山門

畢竟帰処

相田���談

参道入口

遍路道 ひうちなだ

寺の裏手からは“紙の町”川之江市と伊予三島市街、 燧 灘 が眼下に一望できる。その反 対側は土佐への方角で、三角寺の奥の院仙龍寺は土佐へ抜ける「太政官道」の道筋にあり、 今も石畳が残っている。三角寺から 8kmほど山中で、ここで伊予からの街道は讃岐と土佐 へ分岐する。すなわち、三差路であり、三角点である。 番外の椿堂(常福寺)まで楽しくおしゃべりしながら心地よい遍路道をゆく。ここで友人 80


宅に向かう村木夫妻と別れた。“頑張ってね”とリッツを一箱くれた。 椿で堂納経すると“歩き遍路さんの朱印代はお接待です”といわれる。改めて心経を上げ、 賽銭もまた納めた。赤不動明王さまの前のベンチで昼食をとり、ついでにお昼寝を 10 分ほ どした。境内には夫婦和合の思わずふきだしてしまうほどの素朴で楽しい仏さまがあった。

心の器の 大きさは 恥ずかしいほど 毎日 かわります 椿堂(常福寺)

不動明王さま

境内

大歩危小歩危

遍路の言葉

県境3コースは七田から 855m 長さの境目トンネルを行くこととした。トンネルを過ぎる と岡田屋さんまであと一息だ。14 時 45 分とこんなに早く民宿に着いたのは始めてで、盆栽 の手入れをしていたご主人と話しこんだ。 “名物のおかみさんは 8 年前になくなり、サラリーマンを辞めて 7 年間一人で頑張ってきた が、1 年前息子夫婦が後を継いでくれた。69 歳だけど現役バリバリよ!“と笑う。また“あ なたはお四国病という不治の病に罹ったから治らない。また、廻ることになるよ”というの で“主人の許可が得られないわ”といったら“離婚してでもおいで”という。 夕食はにぎやかだった。ご主人と息子さん夫婦が付きっ切りで接待してくれ、雲辺寺まで の道案内や高野山の町石道は感激するので是非いくようにと勧め、民宿の紹介もしてくれた。 マメのできない靴の紹介まで楽しく教えてくれる。壁いっぱいの写真や遍路さんたちのアル バムも楽しく見せていただいた。 平成 20 年 5 月 2 日(金) 曇 25℃ 7 時間 20 分:24.8km 内庭に面した外壁に架けられた遍路伝言板が結構楽しい。私も一言旅のお礼を書いた。ご 主人とお嫁さんは道に出て送ってくれ 、“離婚して来年もおいでよ~。中日ドラゴンズの手 拭いを首に巻いてね~”といいながら手を振る。ここから 9.4km、雲辺寺口バス停から寺 までは約 7kmの急坂を登るのだが、コース全体に峠越えが連続するハードな道である。今 年 1 月に雲辺寺で雪道のためそば道を踏み外し、滑落事故があったという。標高 900mの雲 辺寺山を目指し道標を確認しながら、一歩一歩歩を進める。 運命などと いうものは なんのことはない ただあなたの 注意力の

岡田屋伝言板

ご主人と

遍路道

道標

副産物です 遍路の言葉

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涅槃の道場(第六十六番運寺~第八十八番大窪寺)・讃岐(香川県) 四国八十八ヶ所の霊場を巡る遍路は、四重円壇の胎蔵曼荼羅になぞらえたものだという。 この曼荼羅の円壇に、早く入り込み、自己の清浄心を悟り、自分の心の大日如来さまをはっ きり認識しなさいと『大日経』の教えはいう。曼荼羅とは大宇宙の本体としての大日如来さ まの徳をいろいろの尊像として表現したものだ。すなわち大悲胎蔵の曼荼羅で、そこに入り 込み巡拝すればよいのだと説く。発心の道場に始まり、修行の道場を経て、菩提の道場とい われる伊予の札所を打ち終えた今、後は涅槃の道場とも言われる讃岐である。 しかし、その道場の始めである雲辺寺は四国八十八ヶ所の札所としては一番高い山中にあ る難所の寺なのだ。空海ゆかりの聖地を繋ぐ一本のルートは涅槃の道場で終息するのか、は たまた発心の道場へと繋がっていくのか。必然の流れに沿って思いを込めて歩こう。 きょごうさんせんじゅいん

うん ぺ ん じ

第六十六番札所 巨鼈山千住院 雲辺寺 徳島県三好市池田町白地 763-2 0883-74-1707 千手観世音菩薩(秘仏) 香川県と徳島県境に位置する、標高 927mの雲辺寺山の山頂の徳島県側にあるが、巡拝の みちとしては讃岐の最初の札所となっている。岡田屋のご主人から雲辺寺までは一本道だが 六十六番を出てから六十八番までの歩き遍路の道は分かりにくいといって手書きの地図を いただいた。700mの標高差を一気に上がる「遍路ころがし」を休まず上がり切ったら 8 時 10 分だった。ここは、車道が整備されているので 9 合目くらいまでは車で行くことができるし、 香川県側から雲辺寺ロープウェイを利用すると山頂まで 7 分で着く。そのせいか参拝客が多 い気がする。正面に伸びる道はちょうど県境にあたり、道の中央に徳島県と香川県の境を示 す線が書かれている。道の傍らには「お迎え大師」の像。ここで二手に別れ、正面に進むと毘 沙門天展望館へと続いている。 標高 1000mの高みからは三豊平野と瀬戸内海のパノラマ風景や瀬戸大橋も望める。本堂 や大師堂へは左の道を進む。創建は古く、延暦 8 年(789)に遡る。伝承では弘法大師さま が 16 歳の時、自らの誕生の地である善通寺の堂宇建立のため建築材を求めてこの山に登っ たところ、霊気を感じて山中に一堂を建立したのが始まりという。大同 2 年(807)に嵯峨 天皇の勅願を受けて再び大師さまはこの山に登った。そして千手観世音菩薩さまを刻んで本 尊とし、札所に定めたという。 戦国時代の土佐の大名・長宗我部元親は眼下に広がる讃岐の里の景色を眺め、四国統一の 野心を燃やした。その様子を見た住職は「裏山問答」をして、思いとどまるよう諌めたという。 四国の多くの寺に火を放った元親もこの寺だけは火をかけなかった。元親は天正 13 年(1585) に念願の四国制覇を果たしたが、豊臣秀吉に攻められて破れ土佐に退いた。その後は秀吉に 従い、各地を転戦したという。 鐘楼から少しいくと水堂。弘法大師さまが掘ったという霊泉が湧いている。山の上に湧き 水があるということが、昔の人にとってはひとつの奇跡だったはずだ。その水でのどを潤し てから、仮本堂(本堂は修復中)、護摩堂と参拝して行く。護摩堂前の「おたのみます」の腰掛 に座り、祈ると願いが叶うという。

山門

仮本堂

水門(霊水) 82

境内からの展望


境内の五百羅漢は大師さまが唐に留学した折、初めて見た赤岸鎮福建省の五百羅漢院を模 したものという。 羅漢さまは釈迦の弟子で、仏法の修行を極めた最も仏に近い存在の人々のことで、人間らし いさまざまな喜怒哀楽の表情をみせて、楽器を弾いたり、書を広げたり、鉢を手にしたりし ている。これはだれでも仏になれることを伝えている。背中を押されるようで振り返ると等 身大の羅漢群像が見送ってくれていた。五百羅漢から道標に従って下山路へ。 雲辺寺�� 鳴�溺�来� 雲雀��

斎藤知白

境内からの展望

五百羅漢群像

遍路道

雑木林の山道を下る。眺望の良いところで一休みする。うぐいすが道案内するかのように 遍路道の先で鳴いてくれるほかは無音の山道をひとりゆく。 新緑の樹間に三葉つつじが映える。思わず“きれいね、ありがとう”と声掛けする。香川 県には川がないので溜池が多く造ってある。大きくみえた鍋岩池はまだ小さいほうだという。 「へんろみち」の立札には、雲辺寺と大興寺を結ぶ道に丁石と呼ばれる船形の地蔵尊が 1 丁 (約百九m)ごとに願いを込めて立てられていたが、今は道路の改修などで数が減ったという。 生きることの切なさ、哀しさを感じながら、赤いへんろの道標に従って黙々と歩く。 大興寺の裏門に出た。いったん表門に回って境内へと向かう。 春夏秋冬 自然の中に 御仏の 厳かに顕り 歩きてぞ識る 神恵院ご詠歌

へんろみち

道標 こ ま つ お さ ん ふどうこういん

岩鍋池 だいこうじ

遍路道

第六十七番札所 小松尾山不動光院 大興寺 香川県三豊郡山本町辻小松原 4209 0875-63-2341 薬師如来(秘仏・ 61 年に一度の開帳) 弘仁 13 年(822)、嵯峨天皇の勅願で弘法大師さまが熊野三所権現鎮護の霊場として開い たのが始まりとされる。薬師如来さまを本尊として刻み、堂宇を建立して安置。その後は真 言宗と天台宗の二大宗派によって管理され、最盛期には境内に真言 24 坊、天台 12 坊が並び、 二つの異なる宗派が共存する修行の道場として多くの修験者たちが集う霊場となっていた。 そうして栄えた寺も戦国時代の兵火で焼失。江戸時代初期に再興され、地元の人たちから「 小松尾さん」と親しまれている。どっしりした山門の仁王門には四国で最大級の像高 3.14m といわれる運慶作の金剛力士像が安置されている。近くによるとすごい迫力でオーラが迫っ てくる。また弘法大師さまお手植えのカヤの木は胸高の幹周りは4mも在り、その近くにあ るクスノキと共に樹齢 1200 年以上といわれる。カヤの木にそっと体を沿わせ樹林気功をし た。 境内の石段を上がり切ったところにあるのが本堂。向かって左が大師堂。右に天台大師堂 83


があり、二つの宗派の修行の場所だった歴史を物語るが、今は真言宗の寺である。本堂内で 考えても は「七日燈明」という願掛けで、赤いろうそくに願い事を書いて奉納すると七日間ろうそくを 悩んでも 灯して祈願していただけるという。 しかたがない 明日のことは 明日という日が決め てくれる 遍路の言葉

山門

境内

カヤの木

本堂

67 □ 68 の方向が間違ってい 「門をでて小川を渡るとすぐ左へ行き、銭形くんの石碑に注意。 □ る…」と岡田屋さんの手書きの地図には書いてある。「間違えやすい道標があったり、変形交 差点では方向を間違える人がいる。」と注釈がついているので、確認しながら安心して歩く ことができる。見どころの紹介やら近隣の民宿の案内は不都合が起きたときの連絡先として 書いてある。スーパーや名物のやきもちやうどん屋さんまで欲しい情報を B5 の紙いっぱい に押し込んである。岡田屋さんのあったかいお人柄そのものだ。ありがとう。またお四国に ご縁を戴いたらドラゴンズの手拭いを首にかけて、お世話になるからね。 財田川の手前に立派な鳥居が見えた。琴弾八幡宮は大宝 3 年(703)創建の古い神社だ。 伝承では、ふきすさぶ嵐の日、海上に漂う一隻の舟を発見した日証上人が船から琴の音が流 れてきたので浜辺に引き寄せてみると、中に宇佐八幡神さまの姿があったというのだ。上人 は八幡神さまを乗せた舟を山頂まで引き上げ、社殿を造って祀り、別当寺として神宮寺も開 いた。大同年間(806~810)に弘法大師さまがこの地を訪れ、琴弾八幡宮の本持仏である阿 弥陀如来さまを刻んで本尊とした。そして琴弾八幡宮を六十八番札所に、別当寺を観音寺と 改称して六十九番札所に定めた。 明治の神仏分離で琴弾八幡宮は四国霊場から外れ、琴弾八幡宮の本地仏は観音寺に移され た。当時の観音寺には東西 2 つの金堂があり、八幡宮本持仏は西金堂に移された。これが現 在の六十八番神恵院となる。そしてかつての東金堂は六十九番観音寺本堂となったのである。

志の到らざる事は 無常を思はざるに依るなり 念々に死去す、畢竟暫くも止らず 暫くも存ぜる間 時光を虚しくすごす事なかれ 道元『正法眼蔵随聞記』

琴弾八幡宮大鳥居 しっぽうさん

鳥居と本殿

しん ね い ん

第六十八番札所 七宝山 神恵院 香川県観音寺市八幡町 1-2-7 0875-25-3871 阿弥陀如来 財田川の河口付近、瀬戸内海の海を見下ろす高台に広がる琴弾公園の一角に六十八番と六 十九番の札所が同じ境内に建っており、これは一山二ヶ寺という。1つの境内に 2 つの札所 があるのは、四国霊場でもここだけで仁王門にも2つの寺名が記されている。境内の石段を あがると六十九番の本堂、クスノキの左に愛染堂、六十九番の大師堂。その奥に六十八番神 恵院の大師堂、細い道の奥にコンクリート造りの本堂があるが入り口の奇抜さに違和感を覚 えた。旧の本堂は今は薬師堂になっている。 84


しっぽうさん

かんのんじ

第六十九番札所 七宝山 観音寺 香川県観音寺市八幡町 1-2-7 0875-25-3871 聖観世音菩薩(秘仏) 観音寺は第六十八番札所と同じ境内に建つ。大宝 3 年(703)日証上人によって琴弾八幡 宮の別当寺として建立されたのが始まり。大同年間( 806~810)、唐から帰国した弘法大師 さまがこの地を訪れ七代目の住職になった。大師さまは聖観音菩薩像を刻んで本尊とし琴弾 山の中腹に堂宇を建て七種の宝物を埋め、山号を七宝山と改名。奈良の興福寺に倣って七堂 伽藍も建立した。寺名も観音寺と改名し、第六十九番札所に定めた。以後、桓武、平城、亀 山と歴代天皇の勅願所となるなど栄えた。境内には樹齢 1000 年と伝えられるクスノキの大 木があり、���の北側に国の重要文化財である本堂(金堂)がある。シンプルな寄棟建築であり ながら室町建築らしい優美な建物で、特に屋根の曲線が美しい。本堂以外にも数多くの寺宝 を持つ寺で、宝物殿に納められているが年 2 回しかみることができない。 笛の音も 松吹く風も 琴弾くも 歌ふも舞ふも 法のこゑごゑ 神恵院本堂・大師堂入口

神恵院ご詠歌

神恵院本堂

観音寺本堂

平成 20 年 5 月 3 日(祭) 晴 25℃ 8 時間 30 分:31.5km 白梅本館を 6 時に出て観音寺の市街地を抜け、朝霧のたちこめる財田川に沿って歩く。川 岸の色とりどりのポピーや曼受紗華の真っ赤な群生や白鷺が私を目覚めさせる。 暫く行くと「かなくま餅」の看板が見え、近づいてみるとなんと朝 6 時から店を開けてい て客も数人入っているので驚いた。昼弁当用にお餅、おはぎ、おこわをいただく。うどんは 10 時から出すという。“この店は本山寺へ向かうお遍路さんのための茶店だったので、朝早 いのですよ。温かいうちにどうぞ”といいながらおはぎとお餅を接待してくれた。にこやか に親子 3 代、親戚と一緒に早朝から立ち働く姿が清々しい。92 歳のお祖母さんが赤飯を、お 祖父さんが餅つきを、ご主人がうどんを打ち、奥さんとその姉妹・息子たちで厨房と店をま わしている。店内の壁にはサインいりの色紙がいっぱい飾られていた。 久しぶりに温和で、謙虚で、働き者の日本人の姿を見つけ、嬉しくなって奥さまとデジカ メに収まった。元気をいただいた。人間こうでなくちゃ!ここに生き方の見本がある。 財田川の長い橋を渡り、右手に見える本山寺五重の塔を目指し、幸せな気持ちで歩く。5.7 kmの道のりを短く感じた。

なにやかで 歩ける遍路の 身の上 感謝 遍路の言葉

旅館白梅本館 第七十番札所

財田川の曼受紗華

し っ ぽ う さ ん じ ほういん

もとやまじ

七宝山持宝院

本山寺

かなくま餅の奥さんと

香川県三豊郡豊中町本山甲 1445 85

0875-62-2007


馬頭観世音菩薩(秘仏) 明治 43 年再建の本山寺の五重塔が見えてくる。創建は大同 2 年(807)年、平城天皇の勅 願により、弘法大師さまが一夜にして建立したという伝説が語り継がれている。 天正年間(1573~1592)には土佐の大名・長宗我部元親に襲われたが焼失は免れた。そし て現存する建造物のひとつが円柱の八脚門の仁王門で国の重要文化財に指定されている。境 内の正面には寄棟造り、本瓦葺きの本堂が建っている。正安 2 年(1300)に建てられたもの で昭和 30 年の解体修理を経た重厚な姿は、鎌倉時代の貴重な文化財として国宝になってい る。天文 16 年(1574)建立の鎮守堂もみておきたい。本尊脇侍の阿弥陀如来さまは「太刀受け の弥陀」とも呼ばれ、こんな言い伝えがある。長宗我部元親がこの寺へ攻め入ってきた時、 当時の住職は兵士たちの軍勢をくい止めようと、果敢にも体を張って押し留めた。だが、住 職は兵士に腕を斬られてしまう。ところが兵士たちの前に姿を現したのは阿弥陀如来像。な んと右肘から血が流れていたのだ。兵士たちは恐れをなして逃げ出していったため、焼き討 ちを免れることができたという。ちなみに馬頭観世音菩薩さまを本尊とするのは八十八ヵ所 ではこの寺のみ、馬が草を無心に食べるように、人間の持つ怒りや欲、悪心、悩みを食べて くれるといわれている。本堂右手に立つ馬像と午女のツーショット。 人間の半分以上は 自分と同じ悩みを かかえている と思ってまず 間違いありません 遍路の言葉

山門

境内

本堂

馬と午女

枯木地蔵堂から国道 11 号に出て北上し、宮脇書店の手前から県道 221 号を行く約 13km の道のりだ。弥谷への参道に入る八丁目で遍路休憩所があり、傍らに足湯が作ってあった。 嬉しい。酷使している足に感謝しながら足湯に浸かる幸せ…かなくま餅のえびおこわとおは ぎをいただく。おいしい(*^。^*)こんなに贅沢させていただいて…と全てに感謝。 けん ご ざ ん せんじゅいん

いや た に じ

第七十一番札所 剣五山千手院 弥谷寺 香川県三豊郡三野町大字大見乙 70 0875-72-3446 千手観世音菩薩(秘仏) 香川県西部にある標高 382mの弥谷山。古くから死者の霊が宿るところとされた霊山で、 中腹に建つのが弥谷寺だ。山麓の人々はそこにお参りする前に、まずお墓に行き「弥谷に参 るぞ」といって後ろ向きに背負う真似をするのだそうだ。こうして死霊を山に送り届けると いう。仁王門をくぐれば谷間の参道で、茶屋がありそこにお参りを終えた高羽さんと松木さ んがトコロテンを食べていた。この茶店では、出身地を聞いて、トコロテンのたれの味を替 えてくれる。再会を祝して私もトコロテンを戴き、1 時間も彼等の夢や希望を聞いて話し込 み、別れた。二人の夢が叶うことを信じて…。

この痛み かけて歩むは 遍路道 この疲れこそ 有り難きかな 遍路の言葉

弥谷寺門柱

麓の足湯

参道 86

山門


茶店から賽の河原が数百mも続き、石の地蔵が点々と並んでいる。そこから急な 108 段の 鉄製階段を登り詰めた平地には、役の行者の石像があり、その左上方には岩窟を利用した大 ま

師堂がある。その奥まったところの獅子窟は、弘法太師さまが真魚と名乗っていた幼少の頃、 ここで修行の日を送り、学問に励んだところといわれている。辺りは緑に包まれ、山寺らし い雰囲気に包まれている。 創建は天平年間(729~749)。聖武天皇の勅願により行基菩薩さまが開創したと伝えられる。 大師さまは後にこの山を訪れ、密教の秘法を修行。また千手観音菩薩さまを刻んで安置し、 5 本の剣と唐から持ち帰った仏具を納めて札所にしたという。現在の堂宇は江戸時代中期に 丸亀藩主京極氏が再び興したものである。山上の寺でありながら境内には多くの堂宇が立ち 並ぶ。崖際に建つ多宝塔、古ぼけた十王堂、観音堂、石段を上がっていくと護摩堂や鎮守堂。 岩壁に刻まれた「比丘尼谷の磨崖仏」は印象的だ。岩肌に阿弥陀三尊が刻まれ、その先に岩 壁に覆われるようにして本堂が建っている。

本堂

境内からの展望

108 段の鉄製階段 比丘尼谷の磨崖仏

遍路道

真理というものは、もともと言葉で表現するのに適さないが、 言葉がないと表現できない。 真理は形を超えたものであるけれど、人は形を通じて悟ることができる。 密教は奥深くて、文章を通じて理解するのはきわめて難しい。 だから図面を借りて、まだ悟っていない人に開示するのである。 空海 曼荼羅(本質を図示、図解するもの)

雑木林の中の山道をくだる。舗装路に出たら高速道路の下をくぐり、国道 11 号から道標 に従って七十二番へ着いたのは 3 時だった。門前に多くの人がテントなどを設営しているが、 どうも葬儀があるらしい。聞けば曼荼羅寺のご住職が昨日の朝 5 時に亡くなられて通夜式の 準備中とのこと。 が は い し さ ん えんめいいん

ま ん だ ら じ

第七十二番札所 我拝師山延命院 曼荼羅寺 香川県善通寺市吉原町 1380-1 0877-63-0072 大日如来(秘仏・春と秋の彼岸にのみ開帳) 善通寺市は弘法大師生誕の地とされるところ。大師さまが幼い頃に修行した五岳山と呼ば れる山がある。香式山、筆の山、中山、火上山、我拝師山の五山で、そのひとつ、標高 481 mの我拝師山の北麓にあるのが曼荼羅寺で、古い納経帳には「弘法大師氏寺」と書いてある。 ここは八十八ヵ所で最古の寺。推古天皇に連なる一族でもある佐伯家の氏寺として建立され た。創建当初は世坂寺と呼ばれていたが、大同2年( 807)唐から帰国した弘法大師さまが 現在の寺号の曼荼羅寺に改め、唐から持ち帰った金剛界、胎蔵界の両界曼荼羅を写して安置。 そして、新たに堂宇を建立し、自ら刻んだ薬師如来像を安置して、亡き母・玉依御前の菩提 寺としたと伝えられている。 87


仁王門をくぐると、こじんまりした境内に、本堂、護摩堂、大師堂、観音堂、客殿、庫裏 などの堂宇が並ぶ。観音堂には藤原期に作られた檜一本造りの聖観世音菩薩立像を祀る。弘 法大師さまお手植えの不老の松 (笠松)が平成 14 年に枯死したので、その幹で、座禅を組ん だ弘法大師像「笠松大師」を刻み客殿前の小さなお堂に安置されている。 平安時代末期の歌人・西行法師は、崇徳天皇の霊を祀る八十一番札所白峯寺を詣でた際、 この寺の近くに草庵を結んで仮住まいをした。曼荼羅寺にもしばしば足を運んだという。 境内には西行法師が昼寝をしたという「昼寝石」や、旅人が桜の枝に笠をかけ忘れた出来事 を詠んだ「笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめが下かな」の笠懸桜の 碑が残る。 「めぐりあわんことの契りぞたのもしき きびしき山の誓見るにも」という歌は、大師七 歳の時、この山で修行中に、釈迦如来が雲に乗ってこられるのに出会ったという伝えを詠ん だものといわれる。 いちばんいけないことは 自分の心を 「そくばく」すること 「おもいこませよう」と することです 遍路の言葉

通夜式の山門

本堂

境内モニュメント

今夜の宿泊先の門先屋に荷物を預けて七十四番に向かう。2.2kmの道のりだ。田園風景 の中、標高 87mの小高い甲山が見えてくる。そのふもとに甲山寺がある。 い おうさん た ほ う い ん

こう や ま じ

第七十四番札所 医王山多宝院 甲山寺 香川県善通寺市弘田町 1765-1 0877-63-074 薬師如来(秘仏) 遍路道から真新しい裏門に入り境内を通って改めて仁王門から入りなおす。すぐ目の前に は本堂、境内の奥には毘沙門堂があり、岩窟の中に須彌壇が設けられ毘沙門天が祀られてい る。大師さまが善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建てようと霊地を探していたところ、甲山の 中腹で白髪の老人が現れ、「ここが捜し求めていた霊地なり。この地に寺を建てよ」と告げら れたので、早速石を削って毘沙門天像を刻み山の岩窟に安置したと伝えられる。 おそらく老翁は毘沙門天さまの化身だったはずで、北の守りを引き受けようとして出現し たのであろう。9 世紀の初め、灌漑用のため池である満濃池が決壊した。修復工事の指導者 く こ う みょう

として、唐で仏教のほか工巧 明 (現在の土木工学)をも学んだ弘法大師さまは、工事完成祈 願をして薬師如来像を彫り、人々を指揮し、わずか 3 ヶ月で修復工事を終えたという。大師 さまは満濃池修復工事完成の報奨金を朝廷から賜ると、その一部で甲山に堂宇を建立し、工 事の無事を祈願して刻んだ薬師如来像を本尊として安置したという。

裏門 平成 20 年 5 月4日(祭)

山門 25℃

本堂 大師堂(願掛け不動尊) 6 時間 40 分 12.8km 88


昨夜、捨身ヶ嶽禅定の日の出を見たいといったら、4 時半に宿を出るように言われた。そ っと縁側のガラス戸を開けたが、真っ暗だ。歩き出すと闇に慣れてきたのか山道がほの明る く見え、ピンと張り詰めた冷気が身を引き締める。 500mほど歩き出釈迦寺を過ぎると舗装 路が急登になり、喘ぎながら我拝師山頂にある捨身ヶ嶽禅定に着いたのは 5 時 10 分だった。 我拝師山は古くは倭斯濃山といい、真魚と名乗っていた弘法大師さま七歳の折、山の頂に 足を踏み入れ、“仏門に入って多くの人を救いたい。この願いが叶うならお釈迦さまよ、現 れたまえ。願いが叶わぬなら命を捨ててこの身を諸仏に捧げる”こう念じて断崖から飛び下 りた。すると、落下する真魚の下で紫雲がたなびき、釈迦如来さまと天女が現れ、天女が真 魚を抱きとめて『一生成仏』の宣を告げた…と伝えられている行場である。曇空でご来光は 拝めなかったが、朝もやに山々が霞み、カラスの声がひとしきりした後は静寂の世界。瀬戸 内海と小さな町並みが足下に在る。ひとりで観る捨身ヶ嶽禅定の夜明けは、得も言われない ほど美しく心が洗われ、暫く動くことができなかった。ネーブルをいただく。格別うまい!

捨身ヶ嶽山門

捨身ヶ嶽(奥の院)

夜明けの捨身ヶ嶽

捨身ヶ嶽から我拝師山を望む

捨身ヶ嶽(奥の院)鐘堂

捨身ヶ嶽

我拝師山からの展望

奥の院の建物の下が捨身ヶ嶽禅定入口だ。ご一緒できる人がないかと朝参りに上がってき た男性 3 人にそれぞれ声掛けしたが、いずれも行かないという。ひとりで上がろうと自分に 言い聞かせる。いざという時のために、入り口に身元が分かる品々を置き、空身でロープ、 ふたつの鎖場、岩場を登った。捨身誓願の聖地に据わり、七歳にして衆生済度のために捨身 を願った真魚…を想う。すっかり辺りは明るくなり、小鳥や鶯の声に我に帰り、下をみて切 り立った崖に足がすくんだ。頂上から順にデジカメを撮った。こんな所を登るなんて 、“私 もお転婆だなぁ”と我ながら呆れた。慎重に一歩一歩、称名を唱えながら岩場を降りた。 仏さまの体を 吹き抜けてきた風が 私の体を 吹き抜けててゆく そのたび わたしの心が 清められる

我師山山頂 捨身誓願の聖地 岩場 捨身ヶ嶽禅定入口 遍路の言葉 中ほどまで下るとがんに効くという「柳の水」があり、手にすくって一口戴く。冷たくて 89


甘くておいしい。体の中が洗われていく・・・ 登るときは暗くて見えなかった道端の石碑「この年で 登れしお山 捨身ヶ嶽 これも大 師のおかげなるかな 佐藤歌子 70 歳」に思わず合掌した。少し下ると 18 歳の野宿遍路の 伊藤さんにまた、出会った。今から我拝師山山頂まで登るという。Good Luck! がはいしさんぐもんじいん

しゅつ し ゃ か じ

第七十三番札所 我拝師山求聞持院 出 釈迦寺 香川県善通寺市吉原町 1091-1 0877-63-0073 釈迦如来 幼かりし弘法大師さまが捨て身で祈願した地とされ、お釈迦さまが姿を現したと伝えられ ることから出釈迦寺の名がある。願いが叶えられた大師さまは釈迦如来像を刻んで本尊とし、 山上に寺を建立。倭斯濃山���名を改め、我拝師山として創建したと伝えられる。その後、大 師さまが再びこの地を訪れた時、求聞持院としたという。鐘楼門になった山門をくぐると参 道は右にまわり正面に本堂があり、右にどっしりとした大師堂がある。江戸時代に山頂から 現在の山麓に移転して来たという。左手の階段を上がると、 481mの我拝師山の山並みを望 む遥拝所がある。今降りてきた我拝師山のほうを仰ぎ見ると、山上に奥の院である捨身ヶ嶽 禅定が見える。真魚が身を投げたと伝えられる断崖である。下からみても険しくそそり立ち、 まさに修行の道である。そこに登らせていただけたと感謝し、改めて合掌した。 門先屋に 7 時半に戻った。朝食をひとりいただく私に 80 歳の大女将は、新四国の夫婦遍 路の錦札を同じ愛知県の人だから…と渡し、朝食の外に“名物のシーフードカレーも食べて 元気に歩け”とつきっきりで接待してくれた。ここは口達者で活動的な大女将、ひょうきん な若女将と無口なご主人の取り合わせが絶妙である。それぞれが賢くて味わい深いハーモニ ーを奏でている。大女将とデジカメに収まり、一寝入りしてから 9 時 15 分に宿を出た。 山川は 長くして 萬世也 人は短くして 百年也 この年で登れし… 出釈迦寺本堂

求聞持大師像

空海『性霊集

門先屋の大女将と

七十二番曼荼羅寺の門前を通って県道 48 号を行き仙遊寺から右折する。住宅地を抜けて いくと善通寺東院と西院の間の道に出る。なんとなく右手の道を歩き出したら、ミニ四国八 十八ヶ所だったので 40 分かけて来し方を思い出しながらひとまわりし善通寺にお参りした。 ご がくやまたんじょういん

ぜんつうじ

第七十五番札所 五岳山 誕 生 院 善通寺 香川県善通寺市善通寺町 3-3-1 0877-62-0111 薬師如来 ここは弘法大師誕生の地で生家である佐伯氏の屋敷があったところだ。真魚(弘法大師の さ え き あたい た きみなおみち

くにのみやつこ

幼名)の父・佐伯 直 田公善通は讃岐の 国 造 に連なる家柄で多度郡(現在の多度津から善 たまより ご ぜ ん

あ とのおおたり

通寺周辺)の郡司を務めていた。一方、母の玉依御前の実家筋の阿刀大足氏は、桓武天皇の 皇子伊予親王の侍講(専属教師)をつとめた当時の日本でトップクラスの学者であった。幼き 日の真魚は叔父の阿刀大足から学問を学んだ。青年時代には四国の山野を歩き修行の日々を 過ごす。延暦 23 年(804) 31 歳で唐に渡り、恵果阿闍利と出会って密教の大法を授けられ、 帰国後は京都高雄山寺で修行。弘仁 2 年(819)に高野山を開き、同 14 年(823)には平安京鎮 護の寺として東寺を朝廷から給預され堂宇を建立して密教による国家鎮護の道場とした。 この修行の聖地・高野山と根本道場・東寺という真言密教2つの聖地に対し、善通寺は生 90


誕の聖地ということになる。寺伝によれば善通寺の創建は弘仁 4 年(813)唐から帰国した 弘法大師さまが、先祖の菩提を供養するため、唐の都長安の青龍寺を模して建てたとされて いる。 我拝師山がある五岳を山号とし、父・善通の名を寺号としたとされている。真言宗善通寺 派の総本山であり、高野山・東寺と合わせて空海の三大霊場とされている名刹だ。 いくつかの門があるが、私は中門から入った。境内は「真魚まつり」が催されており、紅 白の幕を張った舞台で舞いが奉納されていた。

清崎敏郎

接待� 設����� 善通寺 ミニ四国八十八ヵ所

中門

五重の塔

真魚まつり

このあたり一帯が東院で五重塔は、創建以来何度か火災に遭ってそのたびに再建を繰り返 したといい、現在の塔は仁孝天皇の命によって弘化2年(1845)から 50 年あまりの歳月を かけて再建されたものだ。高さ 45mは四国の塔としては最大だという。 唐破風を持つ屋根が格式を感じさせる南大門から正面に見える金堂が善通寺の本堂。入母 屋屋根の下層に裳階をつけた重層入母屋造りの建物で貞亮 2 年(1685)の建築。基壇の石組み には創建当時の礎石が使われているという。堂内には四国では数少ない金色の丈六仏 (高さ 4.8mの仏像)だ。金堂の前には舟の形をした巨石の手水鉢。「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士の 大石内蔵助が奉納したものだ。 東院には他に釈迦堂(常行堂)、法然上人逆修塔、足利尊氏利生塔、佐伯氏祖廟などがあ る。東院を中門から出ると、東院と西院を結ぶ参道沿いにはいくつもの寓話が並んでいる。 西院仁王門からは回廊が正面の御影堂(大師堂)まで続く。 左手には御影の池、弘法大師さまが唐へ向かう前にはこの池で自らの姿を映して自画像を 描き、母の玉依御前に贈ったといわれるところだ。のちに土御門天皇(在位 1198~1210)が 見られた時、その大師画像が瞬きしたので、瞬目大師ともいわれている。 御影堂は佐伯氏屋敷の建物があったところとされている。つまり弘法大師さまはここで生 まれたのだ。御影堂には戒壇巡りがあり、そこでコンピューターによって再現された弘法大 師の肉声を聞くことができる。 戒壇巡りを終えると廊下を伝って弘法大師産湯の井戸へ。その先の宝物殿には大師さまが 書かれた経文に玉依御前が仏像を描き加えたという一字一仏法華経序品(国宝)がある。

本堂 南大門 仁王門 大師堂 善通寺東院から JR 土讃線の善通寺駅へ向かい、琴平駅まで電車に乗る。今日は次男の研 人・節子さん夫妻と琴平駅で待ち合わせなのだ!善通寺から6km余りの道のりは歩けば 91


約束の時間に遅れそうだし電車では早すぎるが、琴平宮は番外なので、歩く必要はないか ら久しぶりに電車に乗ることとした。13 時 12 分の電車で着いた二人を見つけたら、少し胸 がキュンとした。家を出たのは 40 日も前のことだもの……琴平宮の参道にある将大うどん という店に入る。うん、美味しい!讃岐うどんを堪能してから長い長い石段を上り始める。 山門の守りは寺では仁王さまだが、ここでは弓と刀を携えた衛侍が守りについている。き れいな人形で強そうにはみえないが…

金刀比羅駅の研人・節子さん こ

山門の衛侍

鳥居前の研人・節子さん

ひ ら ぐ う

萩原麦草

長い石段で

研人・節子さん

境内からの展望

子遍路� 乗��金比羅 舟���

金刀比羅宮 香川県仲多度郡琴平町 892-1. 大物主大神 象頭山中腹に鎮座する神社。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに 琴平宮とも書かれ、明治より前は金毘羅大権現と呼ばれた。全国の金毘羅神社(金刀比羅神 社・琴平神社)の総本社である。金毘羅とはサンスクリット語のクンピーラ Kumbhira の漢 訳語で、インドのガンジス川にすむ鰐を神格化した水神を意味し、これを本社の神と結び付 け信仰したのである。海の守り神として信仰されており、現在も漁師、船員など海事関係者 の崇敬を集め、海上自衛隊の掃海殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬 殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから 参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。ここは長く続く参道 の石段が有名で、奥社まで登ると 1368 段にもなる。参道の両側には店が所狭しと立ち並び、 すごい人出だ。駕籠で上がる人、犬連れもちらほらいる。ウインドーショッピングを楽しみ、 覚悟していたせいもあってか、思ったよりも楽に早く上がれた。二人に会えたので嬉しく、 身も心も軽くなったせいかもしれない。頂上からは琴平の町がかすんで見えた。研人さんの ネックレスが切れて、落としたので探したが見つからなかった。

本殿前のふたり

本殿前も人でいっぱいだったので、帰りは裏参道を降りたら静かで、よく手入れされた木々 の緑にシャガの群生、新緑のもみじ、丸く刈り込んださつきが色を添えてきれいだった。琴 平宮を出て駅に向かって歩いていたら、うどんを製造し、その場で食べさせてくれるところ があったので入って又食べた。安い割には美味しかった。JR 土讃線の琴平駅からまた善通寺 駅まで電車に乗り、歩いて善通寺門前の魚勘旅館に 5 時前に着いた。二人は善光寺さんとミ ニ四国八十八ヶ所巡りに出かけた。各札所で其々のご真言をあげて納札をしたので 7 時まで 92


かかった。なんと私より早く上満してしまったことになる。大部屋で 3 人・川の字で寝た。 嬉しい幸せな一日だった❤ ほんとうに 大切なのは あなたの 心の中にある 見えない宝物の 数々です 境内

裏参道のシャガ

裏参道の庭

遍路の言葉

つつじと

平成 20 年 5 月 5 日(祭) 雨後曇 23℃ 7 時間 28.4km 魚勘を 6 時 40 分に出て善通寺駅の近くまで一緒に歩き、二人と別れた。今から『あんぱ んまん号』に乗りにいくのだという♫ 楽しそうだ。 麦秋の遍路道を行く。金倉寺のどっしりした仁王門が見えてきた頃に小雨があがった。 けいそくさんほうどういん

こんぞううじ

第七十六番札所 鶏足山宝幢院 金倉寺 香川県善通寺市金蔵寺町 1169 0877-62-0845 薬師如来 正面の本堂へ石畳が続く。本堂も大師堂も比較的新しい建物である。珍しい様式の鐘撞堂 は初めて見たけれど趣があっていい。ここは地元の豪族・和気道善が宝亀 5 年(774)に開 いたもので、当初は道善の名から道善寺と称していた。それから 40 年ほど経って、この寺 に男児が誕生し広雄と名付けられた。その子は幼い頃から、経典を読む並外れた才能を示し、 後に円珍と名乗り、比叡山で修行し唐へわたる。帰国後、生まれたこの寺に戻り堂宇を建立、 薬師如来像を刻んで安置した。その後円珍は、比叡山延暦寺の五代目の座主となり、大津に 園城寺(三井寺)を建立した。円珍すなわち智証大師は弘法大師さまの姪の子として知られる 人物である。寺はその後、醍醐天皇の勅願寺となり、寺号を金倉寺と改めた。寺ではこうし たいきさつから、大師堂には二人の大師さまが並んで祀られている。天台宗と真言宗並存の 寺である。仁王門から本堂へ向かう右手には「乃木将軍妻返しの松」があある。乃木将軍とは 日露戦争で旅順攻略を指揮し、明治天皇の崩御の報に殉死をした乃木希典のことである。乃 木将軍は明治 31 年(1898)四国の第十一師団長としてこの地に赴任し、この寺を 2 年半の 間、仮住まいとしていた。そこへ静子夫人が訪ねてきたが、将軍は会うことを潔しとしなか った。静子夫人が夫に会えず、思案にくれて佇んでいたのがこの松の木の前だという。回廊 で結んだところに訶梨帝母天堂、智証大師堂と弘法大師堂が並んで建てられている。

山門

ご神木 そう た さ ん みょうおういん

鐘撞堂

乃木将軍妻返しの松

本堂

どうりゅうじ

第七十七番札所 桑多山 明 王 院 道隆寺 香川県仲多度郡多度津町北鴨 1-3-30 0877-32-3577 薬師如来(秘仏・ 50 年に 1 回開帳) 堂々とした構えの仁王門をくぐると、参道には 250 体余りのブロンズの観音像が並ぶ。こ 93


の寺のある一帯は、奈良時代の昔は桑畑が広がり、絹を生産していたので、桑多山の山号が ついた。縁起によると天平勝宝年間( 749~757)、桑畑に怪しい光が出現。怪光に向かって 果敢に矢を放ったのは、この地を治めていた豪族の和気道隆(七十六番金倉寺を創建した和 気道善の弟)。ところが、道隆は誤って乳母を弓で射て死なせてしまう。悲しんだ道隆は、 乳母を弔うために桑の木で薬師如来像を刻み、小さなお堂を建てたのがこの寺の始まりだ。 道隆の子で、弘法大師さまの弟子にあたる朝祐法師という僧が七堂伽藍を建て、寺号を道隆 寺に改称した。天延 4 年(976)の大地震や、戦国時代の兵火による焼失を乗り越えて再興。 現在の本堂は天正 14 年(1586)30 代目の住職によって再建されたものである。 本堂の右手に建つのは寛永 7 年(1630)建立の大師堂で、堂前には弘法大師と「遍路の開祖」 衛門三郎の像がある。本堂裏手には潜徳院殿堂。「め」の文字を書いた祈願札が堂内に納めら れている。ここは江戸時代の丸亀藩の御典医で、眼科の達人と評された 京極左馬造公(法名 潜徳院)を祀るところ。京極左馬造公は幼い頃盲目だったが薬師如来さまの慈悲により光を 得て、医学を学んで御典医を担ったる。遺言でここ道隆寺に祀られたが、これが本尊の薬師 如来さまと結びつき「目なおし薬師さま」と信仰されたという。 私の四国遍路の目的のひとつは 、「有縁の諸精霊」とともに遍路し祈ることである。今ま で日に一度は、感ずるままに法名・松月院釋教念さま(義祖父)、幸楽院釋真意さま(義父)、 俗名・・・(義母)、智受院釋常光さま(実父)、智光院釋尼慈照さま(実母)、和空妙睦大姉さ ま(妹)、有縁の諸精霊さまとお呼びし、共に心経を上げてきた。・・・は家のお仏壇の前では 出てくる義母の法名がお四国では浮かんでこないので、仕方なく俗名でお呼びしていた。ど うも一諸には歩いていないようだ。ところがここ七十七番札所ではすらすらと普照院釋尼貞 鏡さまと口をついて出てきたのだ 。“ああ、義母が振り向いてくれた! ”と思った。義母は 平成 12 年 2 月に鬼籍に入ってから 8 年になる。その間、お彼岸やお盆近くなると、娘から 義母の好物であったリポビタンAとマコロンが送られてきたり、お供えのリクエストの連絡 が入る。それも見事に私が供えていないものをリクエストするのだ。直接私に伝えてこない ところが義母らしいところだとにんまりしてしまう。四国遍路を終えた年のお盆に里帰りし た娘が“そういえば、おばあちゃんの夢を見なくなったしリクエストも来なくなった”とい う。共にお遍路してから義母は“気に入らないね”といいつつ私のいい加減なお給仕を戴い ているのだろう。ありがとう。これで一緒のお墓に入れるね。 他人の顔���を気にす るくらいなら 鏡に映る 自分の顔色を 気にしてください 麦畑

遍路の言葉

山門

本堂

遍路道

和歌山の瀧田さんが仁王門の手前で声を掛けてきた。交通量が多い幹線道路・ 7kmを瀧 田さんに引っ張られて 2 時間弱で歩いた。彼は 51 歳。 “思い立って遍路することを公表した ら、地元では遍路に対しての偏見が強く、死出の旅に出るのかということになり、盛大な壮 行会をしてもらって出発した。ところが、焼山寺の遍路転がしで足の爪を剥がしてリタイヤ した。医者に歩けるようになるまで 10 日は掛かると言われたので、壮行会をしてくれた仲 間に見つからぬように、ひっそりと家に隠れていたが、ついに見つかってしまった。今度は 割り勘で前と同じ仲間が集まり壮行会をしてもらった。4 月 2 日に再出発したが、今度は公 共交通も使いながら八十八番まで頑張る”とユーモアたっぷりに話される。面白いので足の 痛みを我慢して頑張ったけど、もう限界。先に行ってもらうこととした。楽しい遍路さんだ。 94


四国遍路~花曼陀羅を歩かせていただいて~05