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座ると余裕はなく後にはなにもない。雪・雨・風の強い日は危険なので上れないという。 丘さんは足がすくんだと後で言っていたが、私は法華仙人や弘法大師さまがここで修行さ れたと思うと感激して愛おしくて岩肌を撫ぜて喜んだ。ここにさえ上れたら死んでもいい とさえ恋焦がれた修行の鎖場に立てたのだ。帰りは慎重に一歩ずつ『南無大師 遍照金剛』 と念じながら下りた。丘さんありがとう!あなたがいてくれたから上らせていただけたの だ。それにしても大きな必然の力が丘さんを連れてきてくれたのだと感謝した。 納経所でいただいた三十六童子さま・十二明王さま・八大童子さまのお札を納めるため 石仏の順番を確認しながら、細い山道をぐるぐると巡った。石仏は風雪に晒されて形が崩 れているものもある。56 箇所めぐりを終えたらもう 5 時近かったので急いで山を駆け下り た。納経所へ鍵をお返しし、お礼を申し上げて、ここで竹内・北岡・妹のご供養をお願い した。また山道を下り、参道を通って門田屋さんに着いたら、おかみさんが心づくしの夕 飯を作って待っていてくれた。今日はこの上もなく豊かな一日であった。

赤不動さま

禅定前の立て札

こ く う

かざ

だうじゃう

逼割禅定入口

さんごうめいぼく

てんじ

けんこん

逼割禅定ロープ けいせき

逼割禅定鎖場

さう

虚空に 道場を厳る。山毫溟墨を点じ、乾坤は経籍の箱なり 空海漢文詩集『性霊集』

逼割禅定鎖場 垂直に架かる梯子

岩山の本堂

太子堂

童子・十二明王・八大童子

平成 20 年4月 23 日(水) 曇りのち雨 21℃ 9 時間 25 分:32.1km 朝 5 時を告げる岩屋寺の鐘の音とともに宿を出て、逼割禅定の赤不動明王さまに向かう。 私がお礼参りしてから発ちたいといったら、赤不動明王さまの波動を感じた丘さんも同道し たいという。 薄明かりの参道を足早に黙々と歩く。赤不動明王さまの前で般若心経を数巻お上げし、お 暇乞いのご挨拶をしたまさにその時、右手の樹間から眩い光が矢のように射しこんできた 。 “お不動さまが「ご苦労!」と応えてくださったよ。もしかしたら日天さま系のお不動さま かなぁ”といいながら、明るくなった山門入口までくると石柱に『大日大聖不動』と刻まれ ていた。やはり日天さまとご縁のあるお不動さまだったのだ。 “今日は雨降りの予報だけれど、私は傘をささない!”と『大日大聖不動明王さま』にあ る種の期待を込めて宣言した。宿に戻るとちょうど 7 時であった。朝食をいただき、またお 遍路させていただけたら必ずお世話になりますから…とお約束をして門田屋さんを後にし た。山道を下り、和佐路で丘さんの残りの荷物を頂いて詰め、私は自分のリュックに持ち替 えたが…重い。助けていただいた。感謝! 四十四番方向へ戻り、松山方面へと向かう。 55


ず い き ぜん

「随喜善」 他人の喜びを 我が喜びとする 薬師寺 高田好胤

夜明けの参道

夜明け前

赤不動明王さま前の日の出

三坂峠の峠御堂トンネルは歩道が線引きだけで段差がないので、入り口に置いてある「反 射たすき」を掛けて歩くが、トラックが来るたびに身がすくむ。三坂遍路道を下り、26km ほど歩き続けたら網掛石に着いた。その昔、大師の命で網に入れて運んでいた大岩が、空を 飛んで転げ落ちてきたという。大岩にくっきりと細かい網目がついている。網掛け石の横に 民家が 1 軒あり、道を隔てて真新しい大師堂がある。このお堂は 2 代目で、始めのお堂は、 網掛け石の隣に住んでおられる橘福夫さんのお父さまが建てられたものという。奥さんはお 堂が傷んできたので数年前、福夫さんが私財を投げうって建て替えたと淡々と話される。失 礼ではあるがご自宅は質素で古いままなのに…。奥さまのことえさんが、足を引き摺りなが ら笑顔で干し柿ときんかんを運んできて“こんなものしかないんだよ”といいながらお接待 してくれた。堅い干し柿も小さなきんかんも口にすると温かなぬくもりとなって私の心を満 たしてくれた。無財の七施の中で房舎施を除いた眼施・言辞施・和顔悦色施・牀座施・身施・ 心施がここにあった。

遍路道

網掛け石

網掛け石お堂

丘さんと橘ことえさん

網掛け石を出てから、雨が降り出し丘さんはリュックが浸みるので合羽を着るといって立 ち止まった。私は大日大聖不動明王さまを信じてびしょぬれにはならないと思い雨支度をし ないで歩き続けた。私は少し濡れただけで3時に長珍屋さんに着いてしまった。丘さんはま だ来ない。ピッチを上げたとはいえ、すぐに追いつかれると思っていたのに丘さんが着いた のは 30 分近く後で、濡れていた。30kmを 8 時間で歩いたことになる。いつもの 1.2 倍の 速さで歩いたことになる。 い おうさんようじゅいん

じょうるりじ

第四十六番札所 医王山養珠院 浄瑠璃寺 愛媛県松山市浄瑠璃町 282 089-963-0279 薬師如来 荷物を宿に預けて向かいにある浄瑠璃寺を打った。浄瑠璃寺のおびんづるさまの足腰を撫 ぜて一日でも長く、網掛け石の橘ことえさんがお楽に過ごされますように…とお願いした。 浄瑠璃寺は和銅元年(708)に行基菩薩さまが薬師如来像を刻んだことを始まりとする古刹 だが、住宅街にこじんまりと佇む様は、そうした重みを感じさせず、親しみやすい雰囲気は 山門がないこともあるのだろう。さほど広くない境内には弘法大師さまがお加持したと伝わ る樹齢 1000 年のイブキビャクシンが葉を茂らせ、遍路の目を引きつけている。弘仁 3 年(812) に弘法大師さまが訪れた時、寺は荒廃していたが、大師さまが堂宇を修復して寺観を整え、 四国霊場に定めたという。 56


現在の本堂は天明 5 年(1785)に地元の庄屋から僧になった尭音が再建したもの。尭音は 第四十五番札所の岩屋寺から松山への道中に橋を架けたことでも知られる人物だ。この寺は、 釈迦如来さまゆかりの仏足石、仏手石、仏手花判、燈菩薩、一顧弁才天、籾大師、などがあ り、「ご利益のよろずや」と呼ばれている。 長珍屋さんの廊下には無財の七施や八正道(正見・正思・正語・正行・正命・正精神・正 念・正足)の説明が貼り出されていた。ここはおかみさん始め従業員の皆さんの笑顔がいい。 評判どおりの心配りの行き届いた民宿であった。またご縁があったら是非お世話になりたい ものだと思った。 知らないで 犯している 罪が いちばん 恐ろしいのです 薬師寺高田好胤

長珍屋

無財の七施

本堂

平成 20 年4月 24 日(木) 曇 16℃ 6 時間 10 分:23.1km しとしとと雨が降っていたので、諦めて玄関で雨具をつけて、いざ出発しようと玄関に出 たら、さっきまで降っていたのに雨が上がっていた。私は丘さんに得意顔をして“お不動さ まが今日もご一緒してくださるから、私たちは雨に降られないよ”といって雨具を脱いでリ ュックに納めた。いまにも降り出しそうな暗い曇天の中を 800mほど歩くと八坂寺に着いた。 く ま の さ ん みょうけんいん

や さ か じ

第四十七番札所 熊野山 妙 見 院 八坂寺 愛媛県松山市浄瑠璃町八坂 773 089-963-0271 阿弥陀如来(秘仏 2034 年開帳) 修験道の開祖である役行者が開いた山岳修験の道場。大宝元年(701)に文武天皇の勅願寺 として伽藍を建立するとき、8 つの坂を切り開いて建てたことからこの名がある。 弘仁 6 年(815)に弘法大師さまが訪れて四国霊場に定めた。山号の熊野山は後に熊野信 仰も加わって熊野権現の聖地ともされたことからつけられた。 創建の頃の境内地は1kmほど離れた大友山の上だったという。戦国時代に兵火に遭って 伽藍の多くを焼失してしまうが、再興して現在の場所に移転してきた。太鼓橋と一体になっ た山門をくぐって境内に入る。本堂は新しい建物だ。 ご本尊の阿弥陀如来像は平安時代中期の僧でのちの浄土宗の考えの基礎を作った恵心僧 都の手によるものとされている。納経所と大師堂、閻魔堂の脇には人一人がやっと通れるく らいの狭いトンネルがあり、地獄と極楽の様子が描かれている。その傍らに熊野権現堂が建 つのは神仏混交だった名残だろう。 境内には坂村真民先生の詩の一句である『念ずれば花開く』の句碑があった。

山門 本堂 念ずれば花開くの碑 八坂寺縁起 この寺から四十八番札所に向かって1kmほど歩くと、文殊院という古刹がある。文殊院 57


は伝承によれば、四国遍路の元祖といわれる衛門三郎の屋敷跡。托鉢に訪れた弘法大師さま に非情な仕打ちをしたため大師さまの怒りに触れ、後悔した右衛門三郎が許しを乞うため大 師さまの居られた草庵を訪ねるが立ち去った後だった。もし大師さまが戻られたら分かるよ うにわが名を札に書いて草庵の柱に打ちつけそのまま追いかけて四国の寺を巡拝して歩い たという。文殊院から 1.6kmほど遍路道をすすむとその草庵がある。札始め大師堂と呼ば れ納札のはじまりといわれている。 鈴を ふりふり お四国の 土に なるべく 文殊院

種田山頭火

大師像 せいりゅうさんあん よういん

札始め大師堂

さいりんじ

第四十八番札所 清 滝 山 安 養院 西林寺 愛媛県松山市高井町 1007 089-975-0319 十一面観世音菩薩 西林寺の創建は天平 13 年(741)。行基菩薩さまが一堂を建て十一面観音さまを刻んで安置 したのが始まりという。創建の地は現在の場所よりもやや西だったというが、大同 2 年(807) に現在地へ移したのが弘法大師さまである。このとき弘法大師さまは近くの農家に飲み水を 求めたが、その頃は日照り続きで付近に水はなかった。農夫は遠くの泉まで出かけて水を汲 んできて弘法大師さまに飲ませた。この農夫の心に報いようと弘法大師さまは一心に祈り、 地面に錫杖を突き立てると、そこから清水が湧き出したという伝承がある。 現在西林寺の面前には小川をはじめ、辺り一帯に流れる清流はこのときの恵み水とされる。 西林寺前の小川に架かる西林寺橋という小さな太鼓橋を渡ると石段を下って仁王門へと向 かう。周囲の土地より低い場所に寺があり、そのため仁王門は無間地獄の入口にたとえられ、 罪深いものが境内に入ると、奈落のそこに落ちていくという伝承がある。そこから「伊予の 関所」の異名がある。 仁王門をくぐると閻魔大王を祀った閻魔堂がありいかにも関所らしい雰囲気がある。本堂は 元禄年間の(1688~1704)火災の後、宝永 4 年(1707)に再建された。大師堂は文化 10 年、 仁王門は天保 4 年(1707)仁王門は天保 14 年(1843)に復興された。 西林寺の南西 200mのところに大師伝説を伝える「杖の淵」があり、名水百選にも選定され ている。この清流にはテイレギ(正しくはオオバタネツケバナ)が自生していて、刺身のつ まなどの料理の付け合せに使われる。門前には、正岡子規の『秋風や 高井のていれぎ 三 津の鯛』の句碑が立ち、寺で売られる手ぬぐいにも『ていれぎや 川より低き 西林寺』と 子規の句が染め抜かれている。住宅地を 1 時間ほど歩く。雨は降りそうで降らない…。 慈はよく 楽をあたへ 悲はよく 苦を抜く 抜苦与楽の基 人に正路を示す

これなり 山門

空海『続性霊集補闕鈔』

本堂 58

杖ノ淵公園


せいりんさんさんぞういん

じょうどじ

第四十九番札所 西林山三蔵院 浄土寺 愛媛県松山市鷹子町 1198 089-975-1730 釈迦如来 浄土寺は地元の人が、空也谷と呼ぶ小さな山の中腹に在り、空也上人の寺といわれている。 大正 11 年再建という仁王門をくぐって境内に進むと、右手に正岡子規の「霜月の空也は骨に 生きにける」と詠んだ句碑が佇む。空也上人とは平安時代の高僧で市井を巡って布教活動に 努め、「市聖」「阿弥陀聖」と呼ばれ、終生、粗末な身なりで念仏を唱えながら、拍子をとっ て踊り、諸国行脚しながら仏道を広めた人。上人が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたら、その 一字一字が仏になったという逸話を表現し、口から六体の弥陀仏が吐き出されている空也上 人像(自身が刻んだ)がある。ちなみにこの像は、上人が晩年に建立した京都・六波羅蜜寺に 伝わる空也上人像と同じ意匠となっている。 お参りを済ませ、納経所で朱印帖をだすと、堂守さんがこぼれるような笑顔で“雨の中、 大変でしたね”といわれる。不思議なことに私達は今日、降られていない。道すがら降り出 しそうに暗い曇天に穴が開いたようにお月さまくらいの白い部分があるのを指さして“私達 はあの部分の下を歩いているから降られないんだよ”と半分冗談で私は丘さんに説明した。 20 年ほど前、日の出不動尊さまに参詣したとき、大雨が降ってきて先達が祈ると天に穴が開 いたように白い部分ができ雨は止んだ。皆が乗車すると土砂降りになったという不思議な体 験をしたことがあったからだ。確かに地面が濡れていたので、岩屋寺の大日大聖不動明王さ まが私たちの道の上は雨を止めてくださったと信じお礼申しあげた。 修理中の大師堂近くで長珍屋さんのお接待のおにぎりをいただく。 手入れされたお庭が掃き清められ、美しい。

山門

本堂

大師堂

生まれ生まれ 生まれ生まれて 生の始めに暗く 死に死に 死に死んで 死の終わりに瞑し 空海『秘蔵宝鑰』

街中を 30 分程進むと繁多寺に着いた。この辺りは札所までの距離が短い。 ひがしやま る り こ う い ん

は ん た じ

第五十番札所 東 山 瑠璃光院 繁多寺 愛媛県松山市畑寺町 32 089-975-0910 薬師如来(秘仏) 天平勝宝年間(740~757)に孝謙天皇の勅願所として行基菩薩さまが薬師如来像を刻ん で開いたとされる古刹。当初は光明寺と称していたが、弘仁年間(810~824)に弘法大師さま が長逗留し、寺号を改め四国霊場の札所に定めたとされる。ちなみに地元の人はこの寺を 畑寺」と呼ぶ。かつて山の上に奥の院があり、山すその畑���この寺があったためという。鎌 倉時代には後宇多天皇の勅命で元寇の敵軍の祈祷が行われ、室町時代には後白河天皇の意向 で、皇室の菩提寺だった京都泉涌寺の僧・快翁が住職としてこの寺に来るなど皇室との結び つきも深い。戦国時代長宗我部氏の兵火に遭うまでは 120 の末寺を抱える巨刹となっていた という。境内は大寺院だった当時の面影を偲ばせるかのように広々としているが、山門は簡 素なたたずまいの高麗門である。ちなみに高麗門は 2 本の親柱(門柱)の上部に左右に腕木を 渡して切妻屋根を乗せ、親柱の背後にそれぞれ控え柱を建て、親柱と控柱の間にも小さな切 妻屋根を設けた形式の門上から見ると屋根がコの字型になっている門だ。この形式は京都御 所の蛤御門や中建売御門などと同じ形式のため、御所の門になぞらえ建てられたともいわれ 59


ている。境内の正面奥の一段高くなったところに本堂、鐘楼、大師堂などの建物が見える。 本堂の左手には鳥居が建ち、その奥に聖天堂があり、江戸幕府四代将軍家綱の念持仏であ った歓喜天さまが祀られている。中世の戦火で荒廃していたこの寺を、天和年間(1681~ 1684)に復興させる際に安置されたという。その後徳川家の帰依を受けて寺は栄え、坊舎は 66 にも及んだという。一般に歓喜天さまは夫婦和合や子孫繁栄のシンボルだが、この寺で は商売繁盛のご利益で知られている。鐘撞き堂の天井絵は珍しく美しかった。 また興味を引くのは、寂本の前書きに「もとより本堂の本尊薬師如来、行基菩薩の作なり。 護摩堂の本尊不動は伝教大師の作なり。堂の左に鎮守熊野権現あり、後に求聞持堂あり」と 記述しており、ここにも熊野修験の影響があり、伝教大師・最澄の名があるから、天台系の 聖護院の修験ということになり、第四十三番の明石寺と同系統となる。伊予の豪族河野道弘 の子として生まれ、幼いときに母をなくして、12 歳で修行に出て諸国を巡り、踊り念仏で遊 行の生活を送った一遍上人は、ここに参篭し、亡き父の供養のため「浄土三部経」を繁多寺に 納めている。 限りある 命だからこそ今 を大切に 自分を大切に人 生を大切に 山門

本堂

竜神さま

鐘撞き堂の天井絵

遍路の言葉

遍路道から県道 40 号へでて松山郊外の住宅地を約 40 分進み、突き当たりがもう石手寺だ。 く ま の さ んこくうぞういん

い し て じ

第五十一番札所 熊野山虚空蔵院 石手寺 愛媛県松山市石手 2-9-21 089-977-0870 薬師如来 神亀5年(728)、聖武天皇の勅願で伊予の太守・越智玉澄が堂宇を建立したのが起源とい う。その翌年に行基菩薩さまが薬師如来像を刻み、本尊として開眼。さらに弘仁 4 年(813)、 弘法大師さまがこの地を訪れ第五十一番札所に定めたといわれている。平安時代から室町時 代にかけて寺運は栄え、七堂伽藍に 36 坊を持つという規模にはなったが、戦国時代に長宗 我部氏の兵火に遭って伽藍の大半を焼失。しかし、現在も 6 万 6000 ㎡の広大な敷地を有し、 焼失を免れた文化財の数々を今に伝えている。この寺は当初は安養寺と称していた。それが、 現在の石手寺になったのは、衛門三郎の伝説である。9 世紀初め頃、伊予の浮穴郡荏原(現 在の松山市)に衛門三郎という欲深い長者がいた。ある日托鉢に来た僧の鉢を取り上げて割 った。この托鉢の僧こそ弘法大師さまだったのだ。その後、衛門三郎の 8 人の男児が次々に 亡くなってしまう。悪行を悔い、心を入れ替えた衛門三郎は四国巡拝の旅に出る。弘法大師 さまに会いたいと四国巡拝の旅を幾度も重ね、21 回目の旅の途中で病に倒れる。その時、枕 元に弘法大師さまが立ち、「衛門三郎」と刻んだ石を左手に握らせると三郎は安心して息を引 き取ったという。後にこの地方の豪族河野息利に長男が生まれたが、赤ん坊は手を開かない。 そこで河野家の菩提寺である安養寺で願をかけたところ、手が開き、「衛門三郎」と書 かれた石が出てきたという。これにちなみ、寺名を石手寺と改めたという。 石手寺前の信号から境内に入ろうとするとお堀に「渡らずの橋」と呼ばれる太鼓橋が架か っている。弘法大師さまがそこに経文を刻んだとされていて、遍路がその上を渡ると、足が 腐るといわれている。現在は弘法大師像や地蔵菩薩が橋の上に並べられている。仁王門をく ぐり、広々とした境内から長い屋根のついた参道を通る。ここで世界平和を願って鶴を折る と『人の痛みを知る』と住職手書きの短冊がいただけるというので私も折った。大師堂の前 で心経を 10 巻お上げした。高さ 23mの三重の塔は天保 2 年(1318)に河野氏によって再建さ 60


池内���

仁王門

参道

山門

石手寺� ������ � 遍路��

れたもので、国の重要文化財に指定されている。他に重要文化財指定のものは4つあり、文 保 2 年に再建された本堂、元弘 3 年(1333)に再建された鐘楼と鐘、室町時代初期のものと される護摩堂、そして鎌倉時代末期の建立で安産祈願として親しまれている訶梨帝母天堂。 訶梨帝母天堂の前には小石が山のように積まれているが、妊婦がここの石を持ち帰り、無事 に出産すれば、借りた石と他の石の二つを持って鬼子母神さまにお礼参りするからである。 境内の奥には洞窟があって、四十九体の地蔵菩薩さまと八十八ヶ所各寺のご本尊さまを並べ たミニ霊場となっている。洞窟は大師堂の裏手へと抜けていて、その先にはマントラ塔や、 勢至堂、観音堂などがある。

短冊

本堂

石手寺から1km ほどのところが道後温泉街で一泊する予定だったが半日も空くので先を 急ぐことにして丘さんについてペースをあげたら 4 時半に太山寺に着けた。 りゅううんさん ご じ い ん

たい さ ん じ

第五十二番札所 瀧 雲山護持院 太山寺 愛媛県松山市大山寺町 1730 089-978-0329 十一面観世音菩薩(秘仏) 住宅街のなかにある簡素な「一の門」をくぐり、ほどなく「二の門」である仁王門だ。仁王門は 入母屋造、単層の八脚門で、連子窓を用いていることや軒下の垂木が並行になっていること など、全体の様式は和洋建築であるが、肘木の曲線は唐様を思わせる円弧のような曲線を持 つ鎌倉時代の様式である。仁王門から本堂までは 570mもあり、参道沿いには地蔵菩薩さま や薬師如来さまなどの石仏が立ち並び、四国霊場の中で一番長い。かつては 66 坊を持つ大 寺院だったという。仁王門からしばらく進むと右手に方丈や納経所があり、さらに進むと参 道の突き当たりに修行大師の像。左手に十三仏を従えた大日如来像が遍路を出迎える。ここ から石段を上がると「三の門」である四天王門がある。こちらは楼門形式の堂々とした門だ。 門内には、自国天、増長天、広目天、多聞天の四天王さまを安置している。四天王門をくぐ ると正面に本瓦葺きの重厚な趣の本堂で嘉元三年に再建されたもので、四国八十八ヵ所中、 現存する本堂の中では二番目に古いとされるものだ。優雅な勾配を描く屋根が美しい。建物 正面には 8 本の太い柱がどっしりと構え、柱の上部にはシンプルな印象の組物が、柱と柱の すかしかえるまた

間には彫刻を施した 透 蟇 股が置かれた和様の建築だが、仁王門と同様、組物や肘木のデザ インは唐様である。鎌倉時代初期の様式を見せ、しかも規模が大きい 。(愛媛県内では最大 級の木造建築)ことから国宝に指定されている。本堂は板の間の礼堂、畳敷きの内陣、上段 の内々陣、最奥の須彌壇には聖武天皇の勅願で行基菩薩さまが刻んだとされる十一面観音菩 薩像を中央に、歴代天皇が勅納した六体の十一面観音さまが安置されているが、こちらは秘 仏。堂内のかたわらにはお香水がある。文殊菩薩さまにお供えした供養水で、持ち帰って仏 壇にお供えすると功徳があるとされている。境内には聖徳太子堂、永徳 3 年(1383)に鋳造さ れた梵鐘、大師堂、太山寺の創設者といわれる臼杵の真野長者を祀る長者堂などがある。 伝承によると用明天皇の時代(586~588)真野長者が松山沖で暴風雨に遭ったが、「南無 阿弥陀仏」と唱えると、東方から光がさし暴風雨が鎮まって難を逃れたという。長者はその お礼に、松山瀧雲山の山腹に一堂を建てた。これが、太山寺の始まりとされる。寺の創建に は諸説があり、聖武天皇の勅願によって行基菩薩さまが十一面観音さまを刻んで本尊として 61


安置し、寺を建立したという説もある。9 世紀初めに弘法大師さまがこの寺を訪れ、四国霊 場に定めた。12 世紀には七堂伽藍および 66 坊を持つ大寺院であったという。1000 年もの歳 月を経た今も、名刹としての風格あるたたずまいを見せている。 鐘撞堂に入ると、鐘の下に壁面いっぱいに描かれた閻魔大王・地獄図・極楽図のある部屋 があり壮観だ。

山門

参道

本堂

鐘撞堂

吉野義子

地獄図

地獄絵図 丹念��� 西日来�

閻魔大王

極楽図

仁王門

今日はなんと6ヶ寺を打ち、23.1km歩いた。明日五十三番から五十四番へは2日がかり となる。民宿上松は料金も 1000 円 UP なのに心地よさのない民宿であった。それもあり…か。 平成 20 年4月 25 日(金)

す が さ ん しょうちいん

19℃

11 時間:30.7km

えんみょうじ

第五十三番札所 須賀山正智院 円明寺 愛媛県松山市和気町 1-182 089-978-1129 阿弥陀如来(秘仏) 創建は天平年間(727~749)という古刹である。聖武天皇の勅願で行基菩薩さまが阿弥陀 如来像を刻んで本尊として安置したのが始まりである。 当初は海岸にあり、海岸山円明寺と名乗っていた。その後、弘法大師さまが訪れて霊場に 定めた。寺は七堂伽藍を構えて栄えたが、幾度もの兵火で焼失。復興がかなったのは、寛永 10 年(1633)にこの地の豪族・須賀重久が現在地に再建したことから、山号が須賀山と改めら れたという。 八脚門のこじんまりした仁王門をくぐり、境内へ入ると左に大師堂、右に観音堂、鐘楼が 建つ。観音堂には十一面観世音菩薩像があるが、これは中世に伊予を治めていた河野家の遺 臣たちを弔うもの。慶長 5 年(1600)、河野家の再興のために決起して兵を挙げたが失敗し、 全員討たれたのだという。大師堂の裏手には高さ 40cmほどの十字架のような形をした灯籠 が佇む。寛永年間(1624~1644)に造られたキリシタン灯籠で、マリア観音と思われる像が 彫られている。 本堂には左甚五郎の作といわれる長さ4mの巨大な龍の彫り物がある。 この寺の寺宝で名高いのが八十八ヶ所最古といわれる納札だ。慶安 3 年(1650)伊勢国の材 木商が納めた銅製の札である。大正時代、四国遍路の旅をしていたアメリカ人の文化人類学 者、スタール博士が厨子に打ちつけられていた納め札を見つけたのだという。実寸大の銅板 のコピーをいただけるというのでお願いすると、ご住職がにこやかに手渡してくれた。縦 24 cm、横 9.5cmもの銅板に「慶安三年今月今日(1650)奉納四国仲遍路同行二人 京樋口 平 人家次」とある。八十八枚納めたのだろうか、大きくて重かっただろうに…と思った。 62


山門

八脚門

本堂

銅札

マリア観音像

遍路沿いの鎌大師さまでご真言を数十巻お上げした。真新しい遍路接待小屋でおにぎりを いただく。りんごやみかんの接待を心していただく。毎日多くの人に接待し続けるというこ とは私には難しいと思うと合掌するほかはない。浅海を抜け、海岸に沿った 196 号を歩き続 けていたら、海辺の倉庫からおじさんが甘夏を 2 個持って走り出てきて“頑張れ”と笑顔と ともに手渡してくれた。有り難いと思う。丘さんも合掌している…。 遍照院の仁王さまは瓦の町なので鬼瓦が門を守っておられる。お参りを済ますと出店の老 夫婦が“親子かね?”といいながら飴とせんべいのお接待をしてくださった 。“売り物を接 待していたらなんにもならないけど、それがいいんだよ”といわれる。またお接待の心を教 えていただいた。

鎌大師

鎌大師遍路接待小屋

遍照院

遍照院仁王

本堂

遍路道に入り青木地蔵の脇を通りかかると、長い白髭の野宿遍路さんとラガーマンのよう に恰幅の良い男性が笑いながら声掛けしてくれた。ジャージ姿の男性は昭和 30 年生まれの 日和佐勝之さんといわれ、“3 歳で父が失明し、祖父母に「学校より遍路に行け」といわれ、 5歳で修験道に入り小学校 4 年生でひとり遍路を始めた。一日数十km走り通す修験者で、 表四国遍路は数えきれないほど、裏四国は 12 回廻った。貯金の代わりにお接待に金を使う。 錦札は作ると高いので紙の札にしてその分も接待費に使う。野宿遍路のための車の善根宿を 5 箇所作ったが、あと 15 箇所作る。善根宿や札所の整備や消耗品の補充・掃除をしている。 日射病や台風や道に迷った遍路さんの救助にも向かう。昨年は日射病で遍路さんが 6 人死ん だ。台風を知らない東北の人もいる。滑落などの遭難もあり遍路は危険と隣りあわせなので 無理をしてはいけない。あなたたちも歩くばかりでなく時間を作って札所のトイレを掃除す るといい。”お軸の扱い方や石手寺の大師さまが正面を向いていないのは何故かなど話は尽 きない。また 60 歳になったら妻子への義務も終わるので、ひとりで起業した会社を譲り、 家を出て野宿遍路を一生続けるとなんの衒いもなくいわれる。私はお四国を巡るうちに本物 の『お遍路』に逢いたいと願っていたが、その人が今、目の前にいる!後髪をひかれる想い で、これから今夜お世話になるますや旅館まで7kmはあるのでお別れし、県道 196 号を急 いだ。5kmほど先の星の浦海浜公園で奇岩を撮ろうとデジカメに手が触れた途端 “しまっ た。ツーショットを撮りたかった”と私が叫んだ。と同時に後からクラクションが鳴った。 日和佐さんの車���!手を大きく振ると丁度ロータリーに差し掛かるところだったので車を 廻してくれた。“竹内さんが呼んだんだ”と丘さんがいう。私もあまりにもタイミングがよ いので偶然とは思えなく大喜びでカメラにふたりで収まった。先ほど日和佐さんから 50 回 63


以上遍路した人が持つことができる金色の納め札をいただいたが 、“普通は白の納め札を渡 すが、やはりご縁のある人だったね 。”といって自宅の住所を教えてくださった。霊山の石 鎚山にも何度も登ったといわれるので“私でもに登れる?”と聞いたら“危ないから止めな さい”と言われてしまった。 夜、昨日からの度重なるお接待について考えた。私はこれからの人生で見返りを求めない お接待をどのくらいしていけるだろうか?『無財の七施』のひとつでさえ変わらぬ心で継続 することは簡単ではない。納経所のトイレ掃除さえできない私。答えは私の中にある…が…。 誰にウソをついても かまいません 自分には ウソをつかないで ください 遍路の言葉

日和佐さんと

ますや旅館

ますや夕飯

納札(おさめふだ) ❀納札にはあらかじめ住所・氏名・年齢・願意を書いておき、お参りした時に日付を書いて、札所 の本堂と大師堂の「納札箱」に入れる。 ❀納札には遍路した数によって持てる色が決まっており、金札や錦札には大変な功徳が込められて いると考えられ、遍路修行を重ねた者への尊敬の念が払われる。錦札信仰さえある。 「白色→1~4回・緑色→5~7回・赤色→8~24回・銀色→25~49回・金色→50~99 回・錦色→100回以上」の6種類がある。ちなみに 100 枚で白は 100 円、金は 500 円、錦は 10,000 円。錦札を渡すとき 1,000 円を要求する遍路さんもいるという。 ❀納札はお接待を受けたときに、お礼の気持ちを込めて名刺がわりに渡す仕来たりがある。また 遍路同士の名刺交換としても使われる。

平成 20 年4月 26 日(土) 晴 26℃ 6 時間 20 分:15.8km 延命寺の案内標識を見落としてしまい2kmほど戻る。大きな案内板があるのに、私はい い加減だし方向音痴でよく間違うが、地図を片手にいつも慎重な丘さんが…と驚く。 ち か み さ ん ほうしょういん

えんめいじ

第五十四番札所 近見山宝 鐘 院 延命寺 愛媛県今治市阿方甲 636 0898-22-5696 不動明王 今治市西北、標高 244mの近見山に建つ札所。天平年間(729~749)行基菩薩さまが不動 明王像を刻んで本尊とし、堂を建てて安置したと伝えられる。このとき寺は山頂にあったと いい、その後荒廃した時期もあったが、嵯峨天皇の勅願により弘法大師さまが近見山円明寺 の寺号で再興させた。鎌倉時代に後宇多天皇からの厚い信仰を受け発展するが、天正年間 (1573~1592)の兵火でほぼ全焼してしまった。山麓の現在地へ移され復興したのは享保 12 年(1727)のことである。明治になってから五十三番札所の円明寺と同じ名前だったので混 乱をさけるため、延命寺と改称した。明治維新を迎え、今治城が取り壊された時、その城門 を延命寺が譲り受け寺の山門としたという。 この寺の梵鐘は三代目で音色が良く、近見三郎の愛称で人々に親しまれてきた。初代梵鐘 64


の近見太郎は戦国時代に長宗我部元親軍に攻め込まれた時に略奪されそうになったとき、そ れを拒むように鐘は海中に転がり落ちたのだとか。二代目の近見二郎は現存し、山門に入る 手前、左手にある。宝永元年(1704)、東寺の住職が鋳造して奉納したもの。この二郎も盗 まれて運ばれている時、「いぬる!(帰る) いぬる!」と鳴り出し、恐れおののいた賊は寺に 戻したという。この二郎の鐘の音は毎年大晦日の除夜の鐘のときのみ、聞くことができる。 寄せる波 瀧の流れや 峰の風 自然音楽 遍路は楽し 遍路の言葉

山門

本堂

山門(今治城門)

行基菩薩供養塔

丘陵地の大谷霊園を抜け、予讃線のガードをくぐり別宮大山祇神社拝殿に参ってから、隣接 する南光坊に着いた。 べっ く さ ん こんごういん

なんこうぼう

第五十五番札所 別宮山金剛院 南光坊 愛媛県今治市別宮町 3-1 0898-22-5696 大通智勝如来 今治市の中心部。別宮大山祇神社に隣接して建つ南光坊の本尊は大通智勝仏さま。聞きな れない名前の仏さまだが、これは『法華経』化城喩品に出てくる釈迦の十六番目の弟子で、 札所の寺ではここだけである。また南光坊は四国霊場で唯一「坊」のつく札所である。寺名も 本尊も、四国八十八ヵ所の霊場の中でも異彩を放っているが、瀬戸内海の今治沖に浮かぶ大 三島の大山祇神社と深いつながりがある。大山祇神社は海山の守り神として古くから信仰を 集めているが、昔は海が荒れると参拝できなかった。そこで海を渡らなくても参拝できるよ うに和銅 6 年(713)に四国本土のこの土地に別宮大山祇神社を勧請。その時、大山祇神社 の別当寺院の 8 つの坊も移され、そのうちのひとつが南光坊なのだ。 その後伊予の豪族・河野一族や代々の国司の庇護を受けて発展。天正年間(1578~1592)、 土佐の大名長宗我部元親の兵火で南光坊を含む別当寺院 8 坊を全て焼失してしまうが、唯一、 この南光坊だけが再興された。慶長 5 年(1600)には伊予の領主となった藤堂高虎の祈願所 となり、薬師堂が再建され、以後も歴代藩主から厚く信仰された。 明治初期の神仏分離によって境内を区切り、寺として独立。その後大山祇神社の祭神の本 地仏である大通智勝仏さまを社殿から本堂に移したとされる。昭和 20 年太平洋戦争の折に 堂宇は焼失。空襲で焼け残った「別宮のお大師さん」とよばれる大師堂が本堂の代わりをして きたが、本堂は昭和 56 年に再建された。 本堂に参り、大師堂前に着いたのは 11 時丁度だった。黄色の袈裟を着けられた東堂さま が足を引き摺りながら、托鉢されておられる。今日 4 月 26 日は旧暦 3 月 21 日にあたり弘法 大師さまご入定の日、つまり命日に当るので法要である御影供が 11 時から始まるといわれ る。もし、さっき道に迷っていなかったら 30 分早く着いていたので法要のご縁は無かった かも知れない…。道に迷ったのも必然と喜び、10 人ほどの信者さんとともに外陣に上がり唱 和させていただいた。7 人のお坊さまにより1時間余り、丁寧なお経が上げられ、御影供に ついての法話があった。手拭いをお下がりとしていただき慌ててお布施をティシュに包んで お渡しすると若住職が深ゞと低頭された。私はなんだか自分が恥ずかしくなり、外陣に残り 改めて心経 5 巻、南無大師遍照金剛を 100 回お上げし終えて外にでると、18 歳の野宿遍路の 伊藤さんに再会した。彼は打ち戻しをせず、お四国を一本道で廻れるように歩いているので、 久百々で同宿してから足摺岬を廻って行った。打ち戻した私たちとはもう会えないと思って 65


いたので再会のお礼も込めて、一緒に心経をお上げした。伊藤さんは今夜、人気の宿坊であ る仙遊寺に泊まりたかったが、満室で断られたという。丘さんが同室で泊まれるよう電話し てくれた。嬉しいご縁である。 いちにょ

生仏 一 如 仏凡一如 大乗仏教

南光坊仁王門

別宮大山祇神社拝殿

本堂

大師堂

南光坊の脇の道を進み、市街地から住宅街に抜けていく。約3kmで泰山寺に着いた。 第五十六番札所 地蔵菩薩(秘仏)

きんりんさんちょくおういん

たいさんじ

金輪山 勅 王院

泰山寺

愛媛県今治市小泉 1-9-18

0898-22-5959

そうじゃがわ

今治市を北東に流れ、瀬戸内海へと注ぐ蒼社川。はるか昔は豪雨のたびに氾濫し、田畑や 家を流し、人の命をも奪っていた。そんな暴れ川を農民たちは「人取川」と呼んで恐れていた。 弘仁 2 年、弘法大師さまは農民を指揮して蒼社川に堤防を築き、土砂加持の秘法を行ったと ころ、満願の日に延命地蔵さまが現れた。大師さまはその姿を刻んで本尊とし、堂宇を建立。 創建から 9 年後の天長元年(824)に淳名天皇の勅願所として祈願所となり、七堂伽藍、塔中 十坊をそなえた大寺院になったが、その後は兵火に度々見舞われ、衰退の憂き目に遭う。元 禄 3 年(1690)金輪山の山頂から麓の現在地へ移された。 現在、泰山寺には山門がなく、境内は石積みの塀に囲まれている。地元の人々で築かれた この塀は、一見すると城郭のようだ。本堂は安政元年(1854)の再建であり、納経所、宿 坊、庫裏がならぶ。宿坊の前には昭和 60 年建立の大師堂があり、「大師不忘松」の石碑と松 がある。大師さまはこの寺を建立した際、境内に松の木を植えたとされるが枯れてしまった。 現在の松は三代目だ。なお、寺で授けられる「千枚通護符」は、ご真言を唱えながら水と一緒 に呑み込むと、歯痛封じにご利益があるという。 つまんない ことでも 全力投球で 歩く ことだね 門

本堂

大師堂

遍路の言葉

遍路標識

丘さん、伊藤さん、私と 3 人で田園風景の中を歩く。蒼社川を渡り、若者に引っ張られて 3.1kmの道のりを 35 分で着いてしまった。 ふ とうざんむりょうじゅいん

えい ふ く じ

第五十七番札所 府頭山無量寿院 栄福寺 愛媛県今治市玉川町八幡甲 200 0898-55-2432 阿弥陀如来(秘仏) 今治市南西の山間部、今治の奥座敷といわれる玉川町に建つ札所。小高い丘陵となってい る八幡山(府頭山)の中腹にあり、竹林に囲まれ山寺らしいたたずまいを見せている。弘仁 66


年間(810~824)。嵯峨天皇の勅願で弘法大師さまが開いた。当時このあたりの海は海難事 故が多く、里の人たちは苦しめられていた。この窮状を知った大師さまが瀬戸内海の安全を 祈願すると、満願に海中から阿弥陀如来像が現れたので本尊として、堂宇を建てて霊場に定 めたという。栄福寺は海陸安全や福寿増長の寺として信仰を集めているが、地元の人たちか らは「八幡さん」と呼ばれている。神仏習合だった時代、栄福寺は勝岡八幡宮の別当寺だった のだ。貞観元年(859)奈良の大安寺の僧、行教上人は九州の宇佐八幡に参詣して山城の国(京 都府南東部)の男山に八幡神を勧請しようとしての帰路、暴風雨に遭遇し、この地に流れ着 いた。ここ府頭山が男山に似ていることに気付き、山頂で祈願したところ、本尊からお告げ を受け、寺の境内に社殿を造営。神仏習合の勝岡八幡宮を創建した。ちなみに行教上人が山 城国に創建したのが、京都古社・岩清水八幡宮である。明治初年の神仏分離令によって寺は 分離。山頂から現在地へ移転した。現在の本堂は大正期に建てられたもので、それまで本堂 だった建物は大師堂として健在だ。 生まれ 変わるため 自分で選んだ みち しっかりと 歩きとおしたい 本堂

大師堂

犬塚池

遍路の言葉

遍路道の伊藤さん

田園風景の中を歩く。遍路道から標高 300mの作礼山山頂にある仙遊寺へ向かう上り坂と なる頃から、あたりには心地よい雰囲気が漂う。仙人が遊ぶというお寺に期待が高まる。右 手に東屋と池があり、その先にどっしりした山門が見えた。 さ れいさんせんこういん

せんゆうじ

第五十八番札所 作礼山千光院 仙遊寺 愛媛県今治市玉川町別所甲 483 0898-55-2141 千手観世音菩薩 仙遊寺の境内は静寂と深い緑に包まれ、細く長い参道に流れる空気も清々しい。創設は 7 世紀後半、天智天皇の勅命により、伊予国守・越智守興が堂を建立。天皇の念持仏である千 手観音さまを本尊として安置した。この千手観音さまは海から来た龍女が一刀三礼(一刀刻 むごとに礼拝すること)で彫り上げたものと語り継がれて、そのことから山号が作礼山と名 付けられた。

山門前の東屋

山門前の池

山門

石段

また、この山では阿坊仙人という僧が 40 年にわたって、読経三昧の毎日を過ごしていた が、養老年間(717~724)の頃、ある日突然に雲と遊ぶかのように姿を消したという。この 言い伝えにちなんで、寺号が仙遊寺となった。平安時代になって弘法大師さまがここにやっ てきて、四国霊場に定めた。今治藩主に手厚い庇護を受け栄えた。 67


仁王門をくぐり、急な石段をしばらく登ると、「弘法大師御加持水」と呼ばれる井戸がある。 弘法大師さまが錫杖で掘り当てた水脈と伝えられ、この井戸の水で加持したところ、疫病で 苦しむ村人が健康を取り戻したという。 本堂は正面に2つの破風を設けた重厚な建物で古めかしく見えるが、戦後の再建だ。 夕食の後、お庫裏さんが“今夜は瀬戸大橋のライトアップの日なので夜景がいいですよ”と 勧められるので、愛知から来たという車遍路夫婦、親子連れ、丘さん、伊藤さん、私と 8 人 で夜道を少し上がった駐車場まで上った。目の前に夜景が広がり、大きく瀬戸大橋が浮かん でいる。自分の思いや願い事を吐き出そうと誰かが言い出し、次々と大声で叫んでいる。 それもいい。私はその場を離れて、ひとり天然温泉に入り至福の時を過ごした。いい湯だっ たのでもう一度、眠る前に温泉をいただき、浴衣代わりの作務衣を借りて心地よく眠った。 まず心が輝き それから 瞳も輝き そして人生も 輝くんだよね 遍路の言葉

参道

参道

阿坊仙人像

宿坊

平成 20 年4月 27 日(日) 晴 8 時間 10 分::26.1km 仙遊寺境内からの今治市内や瀬戸内海の眺望は素晴らしく、日の出に心洗われる。寂本も とうしょ

うか

きんじょう そ ば だ

いっけい

『四国徧礼霊場記』の中で、 「遠く滄海を望めば島興波に泛べり。左は今治の 金 城 峙つ。逸景 いづれのところより飛来、ただ画図に対するごとしなり」と書いている。 朝 6 時より勤行があった。名物となっているご住職のお説法は高野山へお出かけのため、 息子さんの副住職がされたがなかなか良かった。気迫のこもった天井の龍と花の絵は 8 年前 に今 88歳の大お庫裏さんが描かれたという。凄い女性がここにもおられる。もしかしたら もしか���たら♪阿坊仙人の子孫かも…。

天井絵

仙遊寺からの眺望

日の出

急坂な山道を下り、巨大なモミの木がある吉祥寺の近くで舗装路にでる。伊予富田駅付近か ら右に廻り JR 予讃線に沿って 156 号を行く。約6km。 こんこうさんさいしょういん

こくぶんじ

第五十九番札所 金光山 最 勝 院 国分寺 愛媛県今治市国分 4-1-33 0898-48-0533 薬師如来(秘仏) 奈良時代、聖武天皇の詔で全国に建立された国分寺のひとつで行基菩薩さまによって天平 13 年(741)に建てられた。唐子山の山麓に位置するこの国分寺のあたり一帯は奈良時代から 平安時代にかけて国府が置かれたところという。伊予の国府に創設されたこの国分寺は三代 目住職の智法大師のとき、弘法大師さまが滞在して五大明王さまの画像一幅を描き、四国霊 場に定めた。弘法大師さまの十大弟子の一人である真如も滞在した。その後国分寺は、藤原 純友の乱、源平合戦などで堂宇を焼失。天正 12 年(1584)には土佐の大名・長宗我部元親 68


の兵火で焼失。長らく再興が叶わず小さな堂宇があるだけの寂しい寺に甘んじていたが、寛 政元年(1789)に四十三代目住職の恵光上人が金堂を再建したのを機に復興を遂げていった。 創建当時の国分寺は現在地から東へ約 100mほど離れたところにあり、約 8 万㎡という広大 な寺域を持つ大寺院であった。発掘調査により金堂の外に七堂伽藍が造られていたことが明 らかになった。現在の国分寺から 300mほど東へいったところに東塔跡の史跡があり 13 個の 大きな花崗岩の基礎石が並んでいて、その七重の塔は高さが約 60mあったとされている。 生まれてから 死ぬまで 人とくらべて 生きている わたくしたち 遍路の言葉

山門

本堂

大師堂

遍路道

国分寺門前のタオル屋さんでハンドタオルの接待を受けた。156 号を 5.7kmほど歩き今 治小松自動車道をくぐり遍路道をゆき、臼井御来迎へ出て善根宿があったので 20 分ほど昼 寝をする。道なりにお掃除の行き届いた日切大師のお堂があり心経を上げると蝋燭の火が高 く上がった。道を隔てた菩提寺の境内にプレハブの善根宿があった。ここでトイレを借りた。 ここから 159 号に入り円海寺の近くを歩いていると、お茶を手にしたご婦人から“親子さ んですか”と声を掛けられた。私と同年の山田淳子さんは、2 ヶ月ほどまえに交通事故で息 子さんを亡くされ、年恰好の似た私達に思わず声掛けしたという 。“遍路して菩提を弔いた いが家内工業なので行けない…”と涙ぐまれるので私は“香園寺さんで心経を上げさせてい ただきます”と息子さんの戒名を伺ってお別れした。肩が重くなって足が進まないので、息 子さんが憑いてきたかと感じ丘さんに冗談で“替わって”といったら、今度は丘さんが重い と言い出し、これで遅い私と歩調が合ったのでこのまま歩くことにした。 周布を右折しパルテイフジを左折し広い舗装道路を行く。中山川の橋の欄干に「千本ぼた ん祭・法安寺まで 500m」と案内があった。今日は六十番へは行かず逆打ちして六十一番香 園寺で打ち止めなので、ぼたんを見ていくことにした。原種ぼたんの名所として NHK で放映 されたという境内は狭く、ぼたんと見物客でいっぱいだ。 あなたが 教えてくれた とおりに 歩いてきたら 迷うことなく 目的地でした 日切大師の菩提寺

舗装道路

遍路の言葉

法安寺

“お遍路さーぁん”と呼びながらご住職が両手に温かい缶コーヒーを持ってきてくれた。 ここは飛鳥時代に創建された四国で 1~2 の古刹だという。 “いいものを見せてあげる”と誘 われて五重の塔跡に立ち、彼方をみて私は仰天した。石鎚山の「烏帽子を被った蔵王権現さ まのお顔」が視界いっぱいに広がっていたからだ。“『NHK の初めての遍路』の見開きの…”と 私が言うと丘さんはリュックから趣味悠々のテキストを取り出し、写真と眼前の景色を見比 べ頷いている。 “「烏帽子を被った蔵王権現さまのお顔」は横峰寺の奥の院である標高 800mの 「星ガ森」からしか見えないと思っていたけど、平地から見えるなんて…”と驚く私に“戦 69


火で堂宇は跡形もなくなり小さな寺となったが、飛鳥時代には、ここ法安寺から石鎚山を遥 拝し、修験者たちは霊山である石鎚を駆け登ったのだ。今日のように晴れてくっきり蔵王権 現さまのお顔が見られる日は少ない。ご縁があるのでしょう 。”と言われる。私は若き弘法 大師さまが修験者として、石鎚に跨り粮を絶って修行したというお山に登りたいと思ってい たが、1982mは無理だと諦めていた…。本物の遍路である日和佐さんも危険だからやめなさ いと言ったし…。しかし、ご住職は“なにかあったら仲間も居るので助けるから登りなさい” と電話番号を書いて励ましてくれる。丘さんが“登りましょう”という。お布施を包むとぼ たんの花が描かれたタオルを手渡し、門まで見送ってくれた。道に出ると屋台のお兄さんが 天津甘栗を、駐車場の手伝いをしていた北川の部落の人たちが最中を 10 個も接待して励ま したくれた。両手いっぱいにお接待のぬくもりを抱えながら、なぜ、ご住職は私が石鎚山に 焦がれながら諦めていたことが分かったのかしら…と思った。

ご住職と

法安寺推定図

縁起

法安寺跡

道を急ぎなんとか 4 時 50 分に香園寺に着けた。納経を済ませ山田さんとの約束の心経を お上げした。戒名を書いた紙も納め、息子さんとお別れした。 せんだんさんきょうおういん

こう お ん じ

第六十一番札所 栴檀山 教 王院 香園寺 愛媛県西条市小松町南川甲 19 0898-72-3861 大日如来(秘仏) 昭和 51 年に建てられた真四角のチョコレート色のコンクリート造りの建物は大聖堂で、 本堂と大師堂を兼ねている。寺伝によると、聖徳太子さまが、父である用明天皇の病気平癒 を祈願して創建したと伝えられている。このとき、黄金の衣を着けた白髪の老人が現れ、本 尊の大日如来さまを安置したと語り継がれている。本尊は秘仏で脇仏として立つのは不動明 王さまと赤ん坊を抱いた子安大師像だ。弘法大師さまが大同年間(806~810)のころ難産 で苦しむ女性に加持を行ったところ、女性は無事に男児を出産。さらに大師さまは唐から持 ち帰った一寸八分(約 5.5cm)の大日如来さまの金像を本尊の胎内に納め、栴檀の香を焚い て護摩修法を行った。栴檀山の山号はこれにちなんだもの。 大正時代に住職が「子安講」を創始。国内外を行脚して、安産、子育て、女人成仏を祈願し 全国に多くの子安講員を抱え「子安の大師さん」と信仰を集めている。大聖堂の脇に子安大師 堂がある。ここにも坂村真民さんの詩『念ずれば花ひらく』の句碑があった。 宿坊の食堂で丘さんと横峰寺から石鎚神社へのルートを調べていたら、隣にいた高羽さん も加わり、石鎚山に登りたいという。彼は昨日横峯寺を打ったので別ルートからロープウェ イに乗って成就社まで行き、山頂で宿泊し、翌日成就社から登る私達と山で会うことにした。 火輪 手に随ひて 方と円なり 種種の変形 意に任せて遷る。 本堂

念ずれば花ひらく

空海『続性霊集補闕鈔』

70

遍路道


平成 20 年4月 28 日(月) 晴 9 時間 30 分:21.0km 5 時 40 分より朝参りがあった。「子安講」の団体のために作られたであろう大聖堂は、椅 子式で楽だったが劇場のようで違和感もあった。7 時半に宿坊を出て新緑の大谷池に沿って 白滝奥之院への山道を上がる。ここは香園寺の奥之院として昭和に作られたので奥之院も大 聖不動明王像などが立つ滝行場もきれいだが重みがないように感じた。 ここを過ぎると急登になり、息を切らしながら遍路転がしの山道を登ってゆくと境内に出 自然の命に た。古来、ここは四国八十八ヵ所最大の難所であったが、現在では上の原から有料の林道が とけこむには 開通し、山頂まで巡拝専用のマイクロバスも運行しているためか難所の札所としては参拝客 四国八十八ヶ所を も多かった。 黙々と歩くことが 一番だね 遍路の言葉

奥之院への道標

白滝奥之院 いしづちさんふく ち い ん

滝行場

遍路道

よこ み ね じ

第六十番札所 石鉄山福智院 横峰寺 愛媛県西条市小松町石槌甲 2253 0897-59-0142 大日如来(秘仏) 石鎚山の北側中腹に建つ札所。標高 750m、深山の澄んだ空気と新緑に包まれた古刹であ る。石鎚山の守り寺として、東の別当・前神寺に対し、西の別当ともいわれている。白雉 2 年(651)修験道の祖といわれる役の行者(小角)が創建し、石仙行者が星ヶ森という場所で 修行したところで、石仙の霊験に感服した桓武天皇が勅願所に定め、三百町の田地を贈っ た・・・・とある。星ヶ森は石鎚山の遙拝所で、石鎚山の頂上に蔵王権現さまの姿を発見。役行 者が蔵王権現さまの姿を石楠花の木に刻み、安置したのが横峰寺の始まりという。その後、 行基菩薩さまが大日如来像を刻み、その胎内に役行者が刻んだ蔵王権現像を納め、本尊とし て祀った。大同 2 年(807)、この寺を訪れた弘法大師さまは 42 歳の厄除け星供の法を修め、 伽藍を建立して第六十番札所としたとされる。横峰寺は神仏習合で石鎚山社の別当寺として の時代を送ったが、明治の廃仏毀釈で「石鎚神社西遥拝所横峰社」となった。長らく寺号を除 かれていたが明治 42 年(1909)横峰寺として再興を果たしたのである。 悩みあるときは ただ黙って 歩くことだね 自然がちゃんと 教えて くれるから 遍路の言葉

境内

本堂

大師堂

山門

山門脇から道標に沿って 600m ほど上がると奥の院の星ヶ森だ。突然樹間に視界が開けた。 石鎚山の烏帽子を被った蔵王権現さまのお顔が見える。法安寺で遥拝したのと同じ角度なの だ。これは偶然ではない…すべて必然の世界で導かれてここに来たのだ…と思う。 風雨に曝された小さな石柱には『星森峠又ノ名ハ金ノ鳥居』とあり、赤茶けた小さな『金の 鳥居』が石鎚山に向けて建てられている。鳥居の右手に石積みの祭壇があった。 古よりどれほどの修験者達がここで座禅したであろうか。じっと丘さんが佇んでいた。 71


道標

案内板

石鎚山を遥拝

星森峠又ノ名ハ金ノ鳥居

此の身は脆きこと 泡沫の如し 吾が命の仮なること 夢幻のごとし 空海『続性霊集補闕鈔』

石鎚山を背に金の鳥居横で

星が森の丘さん

色即是空 空足是空 この世にある一切の物質的存在はそのまま、その当体において空しい存在で あり、執着する何ものもない。また一切の現象は実体がないが、諸条件に支え られているからこそ、そのものがそのものとして現象し存在するという。絶対 否定から絶対肯定への転換を語っている。 …独断や偏見はもとより、迷い、煩悩・執着を実体として固定せず、これらを 粉砕して無限な多様さの中で、真の自由は達せられる。

星ヶ森を出たのは 2 時 40 分だった。ここに 1 時間 40 分もいたことになる。金の鳥居横の 細い山道を下る。モエ坂から虎杖と急な山道は荒れており倒木を跨ぎ、湿った道に気をつけ ながら進むが、人気はもとより道標もなく道に迷ったのではないかと不安になる。加茂川に 出る手前で黒い人影が見えた。ほっとして追ったが姿が見えないので“弘法大師さまがこち らだよと教えてくれたかな”といいながらしばらく下りると 142 号に出た。車道を見てほっ とした。車を止めて着替えしておられる人に聞くと“弘法大師じゃなくて済まないね。山菜 採りをしていた”と笑われ、“石鎚神社への遍路道について、黒川道は閉鎖されており、今 宮道も大変だから止めて国道 12 号を通り石鎚登山口ロープウェイを利用したほうが良い。 ロープウェイ乗り口まで送ってあげる”と親切に言ってくださる。迷ったが丘さんと今宮道 を行くこととした。1kmほど歩くと黒川道、今宮道、国道 12 号のロープウェイ方面と吉 祥寺方面の 4 方向に分かれる三碧橋に出た。そこにさっき別れた山菜採りの男性が待ってお られ、“気になるので乗ってください”といわれる。心遣いに感謝し何度もお礼を言って車 72


を見送った。

遍路山道 モエ坂

遍路道

虎杖

加茂川の巨岩

124 号

河口

しかしここからの 6.4kmは厳しかった。香園寺から横峰寺への標高差 700mを登り、星 ヶ森から河口までの標高差 600mを下りた。ここまでは順調だったが、休むまもなくこれか ら 1200mもの標高差を登り続けなければならなかったのだ。この日は標高差 2500m、距離 として 20.1km歩いたことになる。 また道中、自販機がなくお茶がなくなったことも重なり 、「今宮道の大杉」を過ぎたころ から私は疲れがひどくなった。河口までのほうが道は荒れており、ここは思ったより歩きや すい道であったが、しばらくすると歩けなくなってしまい幻覚なのか一瞬、社が見えたりし たので少し休んだ。“さきに行って私が着かなければ迎えに来て欲しい ”といったが、丘さ んに励まされて気合を入れなおし、なんとか奥前神寺に辿り着くことができた。 外参りを済ませ、ロープウェイの駅を左手にみて 、「成就社→」の案内板をいくつもみな がら2kmの山道を何倍にも感じながら歩き続けた。本当に長く感じられた。 「一歩、一歩」 と自分に言い聞かせながら歩を進め石鎚神社成就社の鳥居をくぐったときは涙がこぼれた。 石鎚山白石旅館には 5 時半に着いた。丘さんに引っ張ってもらったから、私レベルでの山 道にしてはまあまあ速いペースだ。感謝。 修行の道だったと無事を感謝しながら地図をよく見ると[修行の道は厳しい。小松町と横 峰寺は現在星ヶ森―河口―成就社の歩道に「通行禁止」の札を標示している。天候に配慮し て、注意して歩けば通過可能であるが、あくまでも自己責任で対処すること]と明記してあ った。でもこの���意書きに気付かず歩いた結果、想いの強さが限界を超えさせてくれること を改めて体感できたように思った。お風呂を頂き筋肉をほぐすと元気がでてきた。食堂に行 くとなんと高羽さんがニコニコしながら座っていた。頂上の民宿は水不足のため、ヘリコプ ターで水を補給するまでは宿泊できないという。そこで中間点のここに泊まって、明日 3 人 で一緒に登ろうと待っていたのだという。嬉しい!

ご宝号 唱えて歩む暗闇の 彼方に燭光 頬つたう涙 遍路の言葉

今宮道の大杉

奥前神寺 73

成就社と白石旅館


ところで、遍路は基本的に弘法大師さまの聖跡を巡る旅である。ならば石鎚山はどう位置 づけられて居るのだろうか。頂上からは北の眼下に西条市や周桑平野、瀬戸内海が望める。 晴れた日には山陰の伯耆大山や九州の九重山、高知沖の太平洋までぐるりと望見できる。こ のパノラマから曼荼羅を空想すると中心の頂上には大日如来さまが居られることとなる。 石鎚山の祭神は『古事記』に出てくる石土毘古命だが、奈良時代に役小角がこの神を石土 蔵王権現として崇敬したのが開基とされている。弘法大師空海が 24 歳の時に著した『三教 指帰』には「或るときは金厳に登って雪に遇うて坎壈たり。或るときは石峰に跨って粮を絶 って轗軻たり(あるときは金厳に登り雪に遭って困窮した。あるときは石峰で断食修行の苦 労をした)」とある。金厳とは吉野の金峰山を指し、石峰は伊予の石鎚山を指す。標高 1982 mと西日本一の高峰で、古くから富士山、白山(または御嶽山)、立山、大峰山、大山、釈迦 が岳(または月山)と共に全国七霊山のひとつであり、山岳信仰の道場であった。弘法大師さ まの聖跡を巡るのが原点の遍路なら、石鎚山の存在をもっと重要視すべきではないかと思う。 旅館に気迫のこもった書と迫力のあるお山開き大祭でご神体を頂上まで担ぎ上げる写真が かけてあった。大きなエネルギーが溢れ出している。岡本太郎画伯なみかな? 石鎚� 伊予� ���� 鳥渡� 白形桑甫

中宮成就社

白石旅館の額

お山開き大祭

平成 20 年4月 29 日(火) 晴 21℃ 7 時間 50 分:16.9km 白石旅館に荷物を預け、おにぎりを作って 6 時に出発。私は昨日ダウンしたのに、あの石 鎚霊山の頂上に立つと思うとワクワクして気力が漲ってくる。周りに心配掛けておきながら いつも本当にいい気なものだ…と少し恥ずかしい。静かに歩こうと思う。路程図を見るとお 山は急勾配だ。1km下って3kmの山道を一気に 700mに上るので 233m/kmとなる。今 宮道は 5.1kmの山道を 1200m上がったから 228m/kmだった。昨日に比べれば勾配は同じ でも距離が短いと自分に言い聞かせながら、無事上がらせていただけるよう鳥居で手を合わ せた。しばらく参道を登ると山の北側にでた。道一面の雪渓だ。急斜面なので滑らぬように 慎重に足を運ぶ。滑ったらまっさかさまに谷底へ落ちてしまう。ワォー。

路程図

鳥居

参道 74

雪渓


四国遍路~花曼陀羅を歩かせていただいて~04