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風雨に遭ってこの地に漂着、帰国の海路安全を願って薬師如来像を刻んだ。これを安置した のが寺の起源とされている。 「今昔物語」にも登場し、江戸時代には土佐藩主山内氏が厚く保護して栄えた。廃仏毀釈で 廃寺寸前まで衰退したが、明治 13 年(1880)に復興された。現在のご本尊は創建伝承の仏 像とは異なり、平安時代後期に作られたもの。しかし四国では数少ない藤原文化の仏像で、 重文指定されている。 この寺は古くから安産にご利益があるとされ信仰されてきた。子安観音さまが安置された 境内の観音堂には、底が抜けたひしゃくが数多く奉納されている。妊婦が安産祈願をすると、 寺から授かるのが、このひしゃくで無事出産するとお礼参りをしてこのひしゃくを奉納する 習わしだという。「底が抜けて(産道)の通りがよくなるように」とのことだとか。 ここでまた鈴井さんと会う。野宿を続けているが、元気そうでほっとする。ガンバッテ! 休憩所でみかんと焼き芋の接待をいただく。

近くして見がたきは 我が心なり 細にして空に通ずるは 我が仏なり 我が仏は思議しがたし わが心は広くしてまた 大なり

本堂

空海『秘蔵宝鑰』

道路標識

山は新緑、散り敷く桜、道には花が咲き乱れまさに百花繚乱。田植えを見ながら心地よく 農道を歩いていると黒い蛇に遭い、思わず“ギャー!”足が震える。 仁淀川沿いの県道 36 号を経て仁淀川大橋を渡る。その任淀川河口を見下ろす医王山の中 腹に清滝寺がある。標高 150mの参道はつづら折れの八丁坂になっており、息を切らして登 りきると山門には明治時代に描かれた竜の天井画があり、しばし見とれた。 い おうさんきょう ち い ん

きよたきでら

第三十五番札所 医王山 鏡 池院 清滝寺 高知県土佐市高岡町丁 568-1 088-852-0136 薬師如来 境内には高さ 15mの薬師如来立像があり、像の基壇には、 「戒壇巡り」が設けられている。 寺号の由来となった滝は弘法大師さまがここで修行を行い、満願の日に金剛杖で地面をつい たら滝のように清水が溢れ出たという故事によるもの。本堂の右奥に小さな滝が清水を落と している。本堂の手前は「入らずの森」といわれ聖域になっている。ここは平安時代の平城 天皇の第三皇子で政変により、仏門に入った高岳親王の墓がある。親王は弘法大師さまの十 大弟子の一人となり真如上人と名乗ったが、貞観 3 年にここを訪れ、自ら建てた逆修の塔と いわれる生存中に建てる墓を建てたという。上人は翌年唐に渡り更に仏理を究めようと天竺 に渡る途中、インドシナで虎に食い殺され亡くなったという。

あなたの 誕生日は 母親の 苦難の

日である 薬師寺 高田好胤

山門

本堂 35

本堂の天井


2 時半過ぎより小雨が降り出し、高石神社を過ぎる頃から本降りになったので雨具をつけ る。距離の長い塚地坂トンネルを避け西側の峠越えの道を行くこととしたので時間が掛か り、全長 645mの赤い宇佐大橋を渡る頃はズボンがすっかり濡れて寒く、足が進まない。 三陽荘についてお湯をいただいたらうれし涙が出た。ゆったりとした広いお部屋で 7350 円とは申し訳ないほどだ。ここは長島茂雄・川崎敬三・管直人始め芸能人の宿泊が多く、全 てに華やかで、純金の大師像が祀られていた。 車に乗っては 自然の命が 伝わらない 歩き遍路をして 初めてわかった わたし 遍路の言葉

高石神社

宇佐大橋

諌尾さん 荒川さんと

竜の浜海水浴場

平成 20 年4月 10 日(木) 曇 10 時間 10 分:31.7km 三陽荘に荷物を預けて荒川さんと青龍寺へ向かう。庫裏の建物の左手の駐車場脇に赤い布 が結んである木を目印と思い、山道を登りだした。途中から道がなくなり 、“戻ろう”と荒 川さんが3度も言うが、なぜか私は“山上に立てばお寺がみえるから登る”と言い張り 20 分ほど山肌を這うようにして登り、やっとの思いで車道に出た。 見上げると目の前に「三十六番奥之院不動堂」の看板があった。思わず“昨日の雨で私が 歩けず遅れていたので、荒川さんにご迷惑を掛けると思い、奥の院まで行くといえなかった けど、本当はここに来たかったの。弘法大師さまが明の浜から独鈷杵を投げられたところ、 1 本は高野山にもう 1 本は高知の松の木に引っ掛かっていたという、ここに独鈷杵が…” 行きたいのを諦めていたのに、不動堂への入口まで引っ張りあげてくださった。焼山寺のと きもそうだった!ご縁を感謝し、合掌した。なんと近くには寺へ向かう細い参道があり、曲 がりくねった急坂には八十八仏と呼ばれる石仏が点在し、麓の庫裏の建物の右手にある青龍 寺に導いてくれた。振り返ってみると直登で一直線に奥の院に登ったようだ。数ヶ月前に 60 代の女性が同じ場所で迷い助けられたと後で聞いた。我儘を聞いてくれた荒川さんに感謝。 とっこさんいしゃないん

しょうりゅうじ

第三十六番札所 独鈷山伊舎那院 青 龍寺 高知県土佐市字佐町竜 601 088-856-3010 波切不動明王 長安にある青龍寺は弘法大師さまが唐で修行中に師事した恵果阿闍利の寺号を頂いたと いう由緒ある名称である。唐での修行を終えた弘法大師さまは、帰国に当たって独鈷杵を東 の空に投げた。それが紫雲に乗って飛行し、横浪半島の東部突端、奥の院のところに落ちた というのだ。そして大師さまは帰国の地に着くのだが、日本へ戻る船に乗っていたときに暴 風雨に襲われ、そこへ不動明王さまが現れて風雨を鎮め、無事に日本へたどり着くことがで と っ こ しょ

きた。後に大師さまは四国を巡っていたときに、この地でゆかりの独鈷杵を発見。神仏の加 護に感謝して不動明王像を刻み、これを本尊として、その名も青龍寺として小さな堂宇を建 てたのだという。こうしたことから青龍寺は荒波を除ける波切不動明王さまとして、漁民を はじめ多くの人々から信仰を集めてきた。 仁王門左手の高台には三重塔。門をくぐると行場にもなっている滝がある。さらに長い石 段を登っていくと正面に古びた唐様式の本堂、大師堂が建つ。あたりはうっそうと茂るビロ ウの木立が山寺らしい雰囲気を感じさせる。納経所は石段のふもと。かたわらには弘法大師 36


さまの師である恵果阿闍利を祀った阿闍利堂もあり、お参りさせていただいた。 外を見るか 中を見るか そこが 人生の 分かれ道です 八十八仏巡り

仁王門

本堂への石段

本堂

遍路の言葉

三陽荘で熱いお茶をいただく。遅れを取り戻すため戻り打ちになる宇佐大橋までバスに乗 った。外海コースの土佐横波黒潮ラインを避け、穏やかなリアス式海岸の内海をゆく。 浦ノ内の峠に「遊心荘」という文旦農家の出店があった。「苺 1 パック 100 円」の張り紙に 釣られて新鮮な甘い苺を食べ、“時期的に遅いので大小込みのものしかないが美味しいです よ”と勧められて文旦も試食したら甘くて旨い。あちこちに発送をお願いして、文旦のお接 待もいただき腎気を充電して出発。浦ノ内西分から国道 56 号へ。岩本寺へは 60km余り、 二日がかりだ。須崎の遍路小屋で一息ついて花桃に見とれ、橋の上からカルガモ親子に声掛 けし、足取りも軽く大峰橋を渡り安和駅近くの岬旅館に着いた。 人間は木とも 石とも鳥たちとも いつも一緒に生き いつも一緒に 息をしている 遍路の言葉

須崎の遍路休憩所

満開の花桃

カルガモ親子

大峰橋

平成 20 年4月 11 日(金) 晴 21℃ 8 時間 30 分:29.2km 今日は荒川さんの奥さまの月命日とかで、可愛くきれいな奥さまとのツーショットを見せ てくださった。私が先に逝ったら、主人はこんな風に愛しみながら遍路してくれるかしらと 一瞬思った。 六十余社遍路小舎を過ぎた影野の山中で突然巨大な建築工事現場に出合った。「四国横断自 動車道阿南中村線工事」と書いてある。ここではより早く着くことが最優先なのか、本当に 地元に必要な道路なのか、といつも考えてしまう。

岬旅館 桜並木(大坂遍路道) 四国横断自動車道阿南中村線工事 青空のもと桜・藤・チューリップ・つつじ・タンポポ・菫・桜草が新緑に映える。焼坂峠 を越え、土佐久礼から上り下りのきつい大坂遍路道を辿る。七子峠の最後の登りは辛かった が、荒川さんが励ましてくれ、近くに茶屋があるという言葉にも釣られ、なんとか頑張れた。 ドライブイン七子茶屋に入ると、三重の夫婦遍路にまたお会いした。四国遍路は 4 回目でご 主人は 72 歳、奥さまも健脚だ。“きつかったですね”と話しかけると“たいしたことはあ 37


りません。4km/hペースで歩いていますよ”と軽く言われる。凄いなぁと感心しながら 卵丼を美味しくいただいた。歩き疲れ国道 56 号に合流する直前にあった物置小屋のたたき で休んでいるうち眠くなり 15 分ほど昼寝をしたら元気がでてきた。三重のご夫婦のように 4km/hペースで頑張れば 5 時までに岩本寺に着けるだろうと気合を入れて足を速めた。 JR 予讃線に沿ってただひたすら歩き続け 4 時 40 分に岩本寺に着けたので、急いで納経を 済ませる。なんと4km/hペースで歩けたのだ! やったぜベイビー!『急がば回れ』これ から疲れたら昼寝をしようと思った。 山道を黙々と歩く 自然に咲く花は 美しく また優しい これが「佛のこころ」か 遍路の言葉

大坂遍路道 ふじいさんごちいん

七子峠の登り

いわもとじ

第三十七番札所 藤井山五智院 岩本寺 高知県高岡郡窪川町茂串町 3-13 0880-22-0376 阿弥陀如来(秘仏・ 60 年に一度・ 2060 年に開帳) “六つのちり五つの社あらわして深き仁井田の神の楽しみ”とご詠歌に「五つの社」とう たわれているように、ここは四国霊場で唯一、五体のご本尊(不動明王さま、阿弥陀如さま、 観世音菩薩さま、薬師如来さま、地蔵菩薩さま)を祀る寺。 鎌倉時代にこの地方に勢力を持っていた越智氏の先祖を祀っていた仁井田五社の別当五 寺が前身である。これらの寺院が明治の廃仏毀釈で廃寺となり、江戸時代に建てられた大師 堂のみが残り、そこに五体のご本尊を納めて復興したのである。 本堂の天井絵は昭和 53 年に全国から公募して集められた絵画 575 枚がはめ込まれている。 伝統的な花鳥風月や梵字、仏像のほか、風景、人物、ヨット、能面、抽象画など寺院の装飾 としては一風変わったものになっている。何しろ天井画にマリリン・モンローが描かれてい る寺は日本全国でも恐らくここだけだろう。しかしこうして天井画に収まったマリリン・モ ンローを下から見てみると不思議に違和感がない。おかしなものである。 境内はさほど広くないが、堂々とした雰囲気の仁王門や木造の円堂である歓喜天堂、大師 堂などの堂宇が並び風格を感じさせる。 知識は 体を飾り 智慧は 心を飾る 薬師寺 高田好胤

山門

仁王門

天井絵のモンロー

本堂

宿坊のお食事はお造り・ぬた・お浸し・酢の物・煮物・手羽先フライ・サラダ・串焼き・ 苺にお接待の文旦と盛りだくさんだ。空いているので広い部屋を使ってもいいといわれたが 落ち着かないので 6 畳間にした。明日の支度をしていたら、デジカメがないのに気づき、慌 てて境内にもどってリュックを置いた長いすのあたりを探したら椅子の下にあった!胸を なでおろした。感謝。ここのご住職は四国遍路路の世界遺産認定運動のリーダーだそうな。 38


平成 20 年4月 12 日(土) 晴 9 時間 30 分: 30.9km 岩本寺は三十六番から 60km、次の三十八番までは四国札所では最長の 90km以上の道 のり。土佐の札所は「修行の道場」と呼ぶが、この岩本寺には立ち去り難いと思うなにかが あり、またご法縁いただきたいお寺である。6 時より本堂で丁寧なお勤めがあり、竹内家・ 北岡家・妹のご供養をお願いした。朝は小物入れと筍のお接待を受け、7 時 10 分に宿坊を後 にした。国道 56 号から市野瀬遍路道を通りまた国道 56 号に入り、アスファルトの道をひた すら歩き続ける。伊与喜から遍路道に入り、歩道も照明もない真っ暗でひんやりと湿った熊 井隧道を恐々通り抜ける。 歩いて わかったことは過去を 追わず 明日を思わず ということ でした 遍路の言葉

遍路標識

黒潮町国道 56 号

熊井隧道

遍路道

5kmほど歩くと鹿島ヶ浦に出た。広い海原と涼やかな風に何度も深呼吸する。再び海岸 線沿いに走る国道 56 号に入り、土佐西南大規模佐賀公園を見ながら、ふたつのトンネルを 抜けて日の出屋さんまでの 30.9kmを歩いた。奥さんの笑顔と美味しい料理に疲れがとれた。

鹿島ヶ浦

鹿島ヶ浦

土佐西南大規模佐賀公園

日の出屋の夕食

平成 20 年4月 13 日(日) 曇 10 時間 10 分:31.1km 日の出屋さんを7時に出て道の駅ビオス大方から遍路道に入る。松林の続く大方海岸はキ ャンプ場が整備され朝早くからサーファーで賑やかだ。ここはウミガメが産卵のため砂浜に 上陸するので、あちこちに乗り入れ禁止の看板がたっていた。蛎瀬橋から国道 42 号を歩き 続けていると、悠々と流れる大河に出合った。長い旅を終え、今まさに海に同化しようと太 く逞しい大河となった四万十川には長さ1kmの大橋が架かっている。 雨が川となり河になって海に注ぎ、雲となってまた雨になる。まさに四重円壇の胎蔵曼陀 羅ではないか・・・と長い橋を渡りながら思った。四万十川沿いの田子作で、青さの入ったう どんを食べた。四万十川で採れた青さの香りが口いっぱいに広がった。

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大方町海岸 ウミガメの浜 四万十大橋 四万十川 田子作の青さうどん 用水路のある小道を歩いていたら、文旦のお接待をいただいた。今日も 31kmを歩かねば ならないので、川のせせらぎを聞きながら陽だまりの土手で昼寝をすることとした。目が覚 めて美味しい文旦を食べていたら、三重の夫婦遍路が脇の道を���いていかれたが言葉を掛け ず見送った。 新伊豆田トンネルは全長2km ほどもあり、黙々と出口を目指して歩き続けたがかなり緊張 した。通り抜けるとドライブイン水車があり一息ついていると、八十二番根香寺の麓に住ん でいるというご夫婦の車遍路さんから、ご自分で作られたという根香寺の絵葉書をいただい た。自分の住んでいる町を誇りに思ってお接待できるなんて素敵だと思った。ドライブイン 水車の近くにある真念庵へ行ったが真念さんや村人の墓があるだけで納経所が見当たらず、 諦めて民宿久百々に向かった。鍵掛のあたりで上原さんに電話したが、そのときまたサング ラスを置き忘れてしまった。 『NHK 趣味悠々 四国八十八ヵ所はじめてのお遍路』の中で「たくさんのありがとうが聞 こえる宿」として紹介された民宿久百々のるみちゃんは、思わずこちらも笑ってしまうほど の明るい笑顔で迎えてくれた。5部屋しかなく建物も古いけれど心からのお接待に“ありが とう”の言葉が飛び交い皆の笑い声がはじけた。るみちゃんから受けたお接待の数々は… ❀何よりも笑顔と楽しい会話。“ご縁ですよ”と出会いの素晴らしさを皆と心から楽しんで くれる。 ❀真念庵の納経所が分からなかったといったら、翌朝朱印をいただけるよう連絡、手配して くれた。 ❀深川から来た 19 歳の伊藤くんが野宿遍路していたが、私に今夜素泊まりできるところは ないかと聞いたので、久百々のママに頼んだらと勧め、私が宿に着いた時、いい子だよと いったことから皆と食事を囲ませてあげたいと、本来は食事なしの伊藤くんにママが夕食 とビール・朝食・おにぎりなどの接待をした。 ❀荒川さんも運よくキャンセルがあり、泊まれた。6 人の泊り客にビールの接待をした。 ❀茶器を焼いている方が、手遊びに焼いては送ってくださるという“お坊さんが合掌してお られる可愛い人形”を皆にくれた。 ❀柱時計の横に仏画が掛けてあった。頭にお姿が浮かび描かれるという方からの贈り物など 皆さんからのお礼の品々を見せていただいた。金の納め札もいただくことができた。 ❀“金剛福寺までお店がないので、私のお節介よ 。”といいながら朝、おにぎりとバナナ・ お菓子を持たせてくれた。 江戸時代・宥弁真稔は『四国遍路道指南』のなかで 奥の院などを廻らず、札所巡り化した遍路の風潮を 嘆き「今は劣根僅かに八十八ヶ所の札所計巡拝する 世の中になってしまった」と嘆いている。 また当時の四国遍路は札所八十八ヶ所・道 488 里・ 河 488 瀬・坂 488 坂が 300 有余里とも記している。 真念庵遍路道

久百々

平成 20 年4月 14 日(月) 晴 21℃ 9 時間 40 分: 39.2km(8.6km) 朝食を終えると、るみちゃんの車に荒川さん・伊藤さんと共に乗せてもらい、忘れ物のサ ングラスを回収してから8km程離れた真念庵で納経を済ませることができた。早朝にもか かわらずにこやかに朱印をしてくださり、お菓子の接待もしてくださった。有り難い。昨日 荒川さんと訪れたのは墓場で真念庵ではなかったと分かった。その墓場は 22 歳で亡くなっ 40


たるみちゃんの兄さんの墓もあるそうですが、墓の夢を見るので怖くて行けないとのこと。 いちのせさん

しんねんあん

番外札所 市野瀬山 真念庵 真念は『四国遍路道指南』を書いた江戸前期の僧で、この時初めて札所に番号が打たれた という。多くの遍路がこの指南書を持って四国を巡ったことから、四国遍路中興の祖と呼ば れる。真念はお遍路がここで一泊し、荷物を置いて三十八番札所・金剛福寺に詣でた後、打 ち戻ってここに立ち寄り、三十九番延光寺に行けるようこの庵を建てたという。まるで壁の ように木々の緑でかこまれた苔むした石仏と石の道しるべ、小さな草庵がひとつあるきりの 風情のある番外霊場だ。石仏が並ぶ端のほうに、なぜかキリシタンの墓所もあった。

仏画

伊藤さん、荒川さんと

真念庵

るみちゃんと

キリシタン墓所

久百々に戻り、荷物を預けて 7 時 40 分に足摺岬に向かった。7kmほど歩いて以布利の 遍路道に入った頃から血圧がさがって気分が悪くなった。横になれば回復するので道端の岩 の上で 30 分寝たが、脱力感がひどくなるばかりで低血圧だけではなさそうだ。荒川さんに 助けてもらいながらバス停のある国道 27 号に出た途端、一台のバイクが私達のそばに来て 止まった。ヘルメットを取り、“まだ一緒に歩いていたのか?”と笑いかけたのは吉野川の 沈水橋で出会って、笠の被り方など遍路作法を教えてくれ、その後荒川さんと 3 人で歩いた 高知の遍路さんだった。ふらふらの私を“バスが来るまで見ててあげる”と言われたので、 荒川さんはひとり足摺岬への道を急いだ。私はほとんど口もきけず座り込んでいたので、宿 に戻るよう心配する彼に、お礼を言ってバスに乗り込み、11 時に金剛福寺に着いた。バスに 乗ってからお名前を伺うことを忘れたことに気づいた…。 ウインドブレーカーを着ていても凍えるように体が冷たく、背中とお腹が引きちぎられた ような尋常ではない痛みで立っていられないので、納経所の方にお願いして日当たりの良い 本堂前の縁台に横になる。寝ているうちに霊障だと気付き、事故死であろう霊に語りかけ、 トイレに行くと下痢とともに霊が出て行ったようで体が少し温かくなった。霊はこの寺に来 て多くの遍路からお経をいただきたかったのだろうか。2 時間ほどすると、荒川さんが来て くれたときは嬉しかった。本堂と大師堂でお参りをしているうちに少しづつ楽になったが、 頭がふらつき精気が萎えているのが判る。

久百々の夕日

足摺岬 さ だ さ ん ほ だ らく い ん

遍路道

こんごう ふ く じ

第三十八番札所 蹉陀山補陀洛院 金剛福寺 高知県土佐清水市足摺岬 214-1 三面千手観世音菩薩(秘仏・正月開帳) 41

088-88-0038


四国の最南端、断崖絶壁の上に白亜の灯台が建つ足摺岬。その岬に臨む高台に金剛福寺は 建つ。足摺岬は四国を代表する観光地なので寺の周りはホテル、食堂、みやげ物店が並び、 賑わいを見せている。しかし、境内に一歩足を踏み入れると、その喧騒が嘘のような静けさ となる。周囲をアコウやビロウの原生林が囲む中に堂塔が点在する。岬の一帯 3 万 6000 坪 という広大な土地が金剛福寺の寺領という。ここは嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅願を賜 った弘法大師さまが開いた寺。現在の仁王門に掲げられた額はそれを写したものだ。補陀洛 は通常は「補陀落」と書く。南方の海上にあるとされる観音の浄土で、この補陀落の地に向 かって祈りをささげるのが、補陀落信仰であり、熊野や日光で盛んであった。熊野では補陀 落渡海といって海のかなたの観音浄土を目指して沖へ小船を漕ぎ出すという行も行われて いた。生きて再び帰ることのできない死出の旅だが、燃え上がる信仰心から荒海へこぎだし た僧は何人もいたことだろう。ここ足摺もそうした補陀落渡海の場であったという。仁王門 の「補陀洛東門」は、補陀落の地へ向かう門の意が込められているのだ。境内には熊野の神 を祀る権現堂も建てられている。 鎌倉時代初期に書かれた「とはずがたり」には、次のような説話がある。その昔、金剛福 寺が住職と小僧二人が住むだけの寺だった頃、当時のこの岬は人里から遠く離れた辺鄙な場 所。訪れる人も少なく、毎日の食事にも困窮する有様だった。ある時、この寺に旅の僧が訪 れる。小僧は乏しい自分の食事をこの旅の僧に分け与えた。そんな小僧を住職は「わずかし かない食糧をあのように分け与えていては、自分たちが、食べるものがなくなってしまう」 と。しかし、そんな住職の小言にもかかわらず、小僧は旅の僧に食べ物を分け与え続けた。 そんなことが続いたある日、旅の僧が礼を言って小僧を海辺へ誘い「我が住処へ案内しよう」 と、観音菩薩さまの姿となって海のかなたへと連れて行った。それを見た住職は驚き足摺し ながら泣き叫んだ。以来この岬は足摺岬と呼ばれるようになった、という。このころ熊野信 仰も盛んであったが、金剛福寺は平安時代後期には観音霊場として都の貴人たちの信仰を集 めるようになり、歴代天皇家の信仰もあつかった。また平安歌人の和泉式部や「とはずがた り」の作者である後深草院二条もこの寺を訪れている。そして藤原氏が土佐の荘園を寄進す るなどしてしだいに寺勢は栄え、最盛期には 16 の堂宇と 22 の社が建つ神仏混交の聖地とな ったという。江戸時代も土佐藩主山内家の保護を受け栄えたが、明治の廃仏毀釈によって衰 え、その後復興された。境内には本堂、愛染堂、護摩堂、多宝塔など歴史を刻む堂宇が建ち 並ぶ。寺から足摺岬に向かう遊歩道は、弘法伝説の足摺七不思議がある。椿が密生する「椿 のトンネル」。2 月が最盛で 4 月ころまで深紅の花をつける。 「大師の爪書き石」 「地獄穴」 「亀 呼び岩」は弘法大師さまが亀を呼んだところ、海中から亀が浮かび上がってきた。その亀の 背中に乗って海上にある不動岩に渡り、海上安全、身体安全の祈願をしたという故事にちな み平成九年に金剛福寺境内に石製の「大師亀」が建立された。 この世があり あの世があり あの世の存在を 信じるわたし 遍路の言葉

山門

大師亀

本堂

大師堂

打戻りになるので帰りだけでも歩きたいと思ったが迷惑をかけそうなので、久百々までの 帰りもバスに乗った。5 時に久百々に着き、るみちゃんに“お兄ちゃんは事故死でしたか” と聞くと“工事現場でお腹を潰され 22 歳で 2 月 22 日に亡くなった。真念庵の下で生まれて 墓は私達が前日行った所へ移したが、墓石が倒れる夢をよく見るので怖くて行けないの”と 42


いわれた。私は観音信仰していた頃、霊に憑依されることが度々あり、亡くなったときの苦 しみを訴えることが多かったので、多分お兄ちゃんだったのかなと思いました。それにして もバイクで走っていた高知の方が遍路道から出てきた私たちとドンピシャで会い、それも 20 日前に 2 時間弱しかご一緒していないのに私たちを覚えていて助けてくれた。荒川さんも 3 時間かかるところを、遍路道を迷って古道に入りこみ、そこを心地よく走って以布利から金 剛福寺まで 2 時間で着いてしまったことは不思議であり、弘法大師さまのお陰と思った。体 は温かくなったが精気をとられたようでだるく、夕食は少し残して明日からを思い 7 時に寝 たところ心配した主人からの電話で眼が覚めた。そういえば定時連絡をすっかり忘れていた。 平成 20 年4月 15 日(火) 晴 22℃ 4 時間:30.7km(9km) 久百々を 6 時 35 分に出発。今日も精気が抜けたのか力が出ない。21 号を打ち戻り下ノ加 江から山に入るので 30.7kmを歩くしかない。10km程歩くと河内神社に出たが辛くなり一 休みして、荒川さんに荷物を持ってもらい芳井まできたところで動けなくなり道路で寝た。 行きかう車は山仕事に行ったトラックが一台だけ。人っ子一人通らない。困り果てていたと ころ、なんと徳島県板野の新藤さんが車で通りかかり、ひとつ座席が空いていたので鶴の屋 旅館まで乗せて行ってくださることとなった。途中で若い人に道を聞いたら旅館まで道案内 をしてくれた。皆に助けられ、「地獄で佛」とはこんなことかと嬉しかった。荒川さんには本 当に迷惑を掛けてしまった。11 時に鶴の屋旅館に着き、すぐ寝たが下痢を 2 回した。下痢止 めを飲んでも効かない。心気の衰えを感じる…正座してお四国へ来たことを今一度心と体に 問い直した。憑依されたということは自分の心に甘えや迷いはなかったか…。荒川さんが 4 時半に宿に着かれた頃は心気が少しずつ養われていた。 頭をからっぽにする 心をからっぽにする そうすると はいってくるすべてが新鮮 で 生き生きしてくる 遍路の言葉

三原村遍路道

三原村林道

車接待の新藤さん

平成 20 年4月 16 日(水) 雨 15℃ 8 時間 30 分:26.3km 朝、起きるとシャンとできた。荒川さんの部屋へいき“元気になったので連れて行ってく ださい”とお願いした。小雨の中を歩く。さつき・カラー・レンゲ・タンポポ・スミレ・藤・ 山吹・椿・八重桜・パンジー・あやめ・こごめ桜・マリーゴールド・金魚草・こでまりそし て萌えたつ新緑!! 元気になれと花々が応援してくれている気がする。体力がどんどん UP。 体温も上がり食欲も出てきて、バナナ・トマト・クッキーなどいただく。延光寺の山門を見 たときは、ここまで来させていただけたと思うと涙がでた。全てに感謝。 しゃっきさん じ さ ん い ん

えんこうじ

第三十九番札所 赤亀山寺山院 延光寺 高知県宿毛市平田町中山 390 0880-66-0225 薬師如来 境内に入ると、右手に梵鐘を背負った亀の石像が目に入る。モデルになった梵鐘には延喜 11 年(911)の銘があり、高知県では最古の梵鐘である。この年にアカウミガメが梵鐘を背 負って竜宮城からやってきたという伝説に由来する。この寺は、神亀元年(724)、聖武天皇 の勅願によって行基菩薩さまが薬師如来さまを安置して寺を開創。延暦 15 年(796)には 弘法大師さまが脇侍として、日光・月光の両菩薩を刻み、諸堂を整備したと伝わる。本堂に 43


安置された仏像は頼めば拝観できる。弘法大師さまがこの地を訪ねたとき、村人たちが水不 足に悩んでいることを知り、錫杖で地面を掘って清水を湧き出させたといわれる。この水は 本堂の脇にある「目洗いの井戸」として残されていて、井戸の水で洗うと眼病がなおるとい われ『宝医水』ともいわれる。 参詣を済ませ、10 分程歩いた頃広島ナンバーの車が“忘れ物ではないですか”と納経帳の 袋を届け引き返してい���れた。荒川さんは失せ物が戻るようだ。焼山寺の山道での小銭入れ、 境内に忘れた水筒、そして納経帳もわざわざ追いかけてくださったのだ。私なぞほとんど失 せっぱなしだ。とはいえ私の分も入っていたので感謝。松田川を渡ると松尾峠に抜ける遍路 道があるが、ここは江戸時代にはここが土佐藩の関所で、西の遍路の入口でもあった。歩き たいと思ったが、昨日で懲りたのか荒川さんは国道 56 号をいくという。神妙に従う。 人は 淋しさの果てに 旅に出る 人は 淋しさの果てに 仏を信じる

山門

遍路の言葉

本堂

目洗いの井戸

梵鐘を背負った亀

『修行の道場』といわれる土佐の国・高知を打ち終わり、いよいよ『菩提の道場』伊予の 国・愛媛だ。心が躍る。雨が激しくなり一本松市場で温かいコーヒーや蜜柑を食べて温まる。

菩提の道場(第四十番観自在寺~第六十五番三角寺)・伊予(愛媛県) 激しい修行の後に、お釈迦さまが菩提樹の下に座って悟りを開かれたので、菩提樹下のお 釈迦さまが座って居られた場所を『菩提道場』と呼んだ。菩提とはサンスクリット語で「目 覚める」から発している。伊予を歩かせていただくうちに悟りが開けるとは到底思えないが、 「とにかく 歩き続けること そうすれば 必ずなにか 見えてくる」と先輩の遍路さんは いう。さあ、ひたすらに歩こう。 へいじょうさん や く し い ん

かんじざいじ

第四十番札所 平 城 山 薬師院 観自在寺 愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城 2253-1 0895-72-0416 薬師如来 ここは一番札所の霊山寺からもっとも遠い札所であり「遍路の裏関所」ともいわれている。 このあたりは平安時代、比叡山延暦寺の末寺である京都東山の青蓮院門跡の荘園だったとこ ろで、「御荘」という地名の由来にもなっている。寺はその当時四十八坊の七堂伽藍を有す る壮大な規模を誇ったようだが、今は鉄筋コンクリートの寺院である。古びた山門は約 200 年前の建物で、「平城山」と書かれた扁額は平城天皇ご真筆と伝えられている。寺伝によれ ば、行基菩薩さまが創設し、弘法大師さまが本尊の薬師如来さまなどを刻んだという。青蓮 院との関係で長く天台宗だったが、江戸初期には大覚寺派の真言宗寺院に改宗している。延 宝三年(1675)火災で焼失。宇和島藩主の伊達宗利が再建し藩主の祈願所となった。本堂右 手には十二支の守り本尊八体石仏がある。 神様や仏様が いないと 誰が言えよう それは見る目を 持たないからだ 遍路の言葉

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観自在寺入口 山門 山門にて ほかに弘法大師さまの御宝印(仏像を刻んだ残りの木材で「南無阿弥陀仏」の六字の印をほ ったもの)や苦しみを忘れるお忘れ地蔵・ぽっくり地蔵などが点在する。弘法堂には独鈷・ 三鈷・五鈷が並べて祀られており、居合わせたご住職より、三種揃ってはじめて加持祈祷を することができること。また弘法大師さまがこれらを明の浜より投げられて三鈷は高野山に、 独鈷は青龍寺に届いたことを教えていただいた。三十六番青龍寺奥之院不動堂へ引っ張るよ うに上げていただいたことを思い出し、八十八番まで結願したら、三鈷の届いた高野山にも 足を延ばそうと思った。 上原さんより心配していたと夜電話をいただく。今日生き返えら していただけたことを報告した。全てに感謝。山代屋さんのお料理は美味しかった。 明日は 来世 昨日は 前世 今日は 現世 五鈷

三鈷

独鈷

遍路の言葉

山代屋の夕食

平成 20 年4月 17 日(木) 曇時々雨 15℃ 9 時間 55 分: 24.5km 朝食時に激しく降っていた雨も出立するころには止み、国道 56 号を行く。内海診療所か ら柏坂遍路道に入る。470mを一気に登り柳水大師、500m歩いて清水大師に参り頂上のつわ な奥に 12 時に着いた。小寒かったが見晴らしが良いのでおにぎりを食べ上原さんへお礼の 電話をかけていたら、見る見るうちにガスが上がって来てあたりは真っ白。異次元の世界に 入ったみたい。“霧の中の元少女~”と叫んでみる。小雨が降りだしたので、遊んでいる場 合じゃないと早足で2kmほど下り茶屋休憩所があったので、そこで昼寝をした。今日もこ こまで誰にも会わない。荒川さんと一緒だから安心して歩けると感謝する。津島遍路小屋近 くの川のほとりで道端に置かれた伊予柑のお接待をいただく。見えない善意に合掌する。三 原村もそうだったが、このあたりも廃屋や荒れた田畑が多く心が痛む。いつから日本は都会 しか住めない国になってしまったのか。そんなことを思いながら歩いていたら 、『棟上げ』 に出合った。村人総出で賑わしく働き、仕出し屋さんがライトバンで折り詰めを運んでくる。 皆ハレのいい顔をしている。私もほっこりと嬉しくなった。 老いることが こんなに 美しいとは 知らなかった わたし 遍路の言葉

遍路道

つわな奥

茶屋休憩所

遍路道

つわな奥で

遍路道で

霧のつわな奥 45


大畑旅館は『文学座』創設に関わり、演出家・劇作家・小説家でもあった獅子文六が執筆 に使った宿という。玄関脇の杖洗いの椿に、はっとするほどのおもてなしの心が在る。川に 面した静かな部屋は、置物も掛け軸も襖も同じくらい古色蒼然としていた。しかし『海軍 』 『てんやわんや』『大番』『娘と私』などをこの部屋で書いたであろう 60~80 年前に思いを 馳せると、古びたお部屋がすべて色鮮やかに甦り、しっとりとした品格のある空間にうっと りと私は漂っていた。幼い頃、忙しい母に構ってもらえず、お庭の隅に座り空想の世界で遊 んだのを想いだす。シーンと張り詰めた時は止まったまま息を潜めている。 “ご飯ですよ~” の声に我に返り、下りていくと食卓に島津遍路小屋の少し手前で会った島根の丘さんも居た。

村上霽月

春泥� 草鞋干��� 遍路宿 大畑旅館

杖洗い

獅子文六逗留の宿

大畑旅館夕食

平成 20 年4月 18 日(金) 曇 15℃ 8 時間 10 分:28.8km 国道 56 号の松尾トンネルを避け、平成 18 年 11 月地元住民の奉仕活動により全面復元さ れたという松尾峠遍路道を行く。4km余りの遍路道は静かで心地よく、咲き競う花々に地 元の方たちの心遣いが伝わり感謝して歩く。再び国道 56 号に出て、馬目木大師に参る。近 くのスーパーで弁当を買っていたら昨夜同宿した丘さんにばったり会い、3 人で歩くことと した。名物のじゃこ天を作っている店があったので自宅に発送した。神社の境内でお昼にし た。お弁当を食べ、お接待のじゃこ天を皆で食べたが美味しかった。この時、荒川さんが丘 さんに、“明日は金沢に帰るので、竹内のことを頼む ”といわれて丘さんは携帯番号を私に 教えてくれた。荒川さんは向こう見ずな私に呆れながらも、放っておけず面倒を見てくださ ったのでしょう。本当に優しい人だと思う。頼まれた丘さんも迷惑でしょうに…。私はいざ という時のことを考えると頼る人ができたことにほっとした。宇和島駅近くの番外の龍光院 に四十一番と間違えて寄り、改めて龍光寺に 14 時 25 分に着いた。 四季おりおりの花が 咲き 朝夕それぞれの 風が吹く 歩き遍路の 醍醐味です 遍路の言葉

遍路道

ぼたん

もくれん

八重桜

タンポポは 踏みにじられても 枯れもしない その根強さを わたしの魂とする 遍路の言葉

あやめ

からし菜 46

チュウリップ

あざみ


わからなく なったら また最初から やりなおすこと これがひとり 歩きの鉄則です 塀の大黒天

遍路の言葉

馬目木大師 いなりさんごこくいん

龍光院

境内の五月

りゅうこうじ

第四十一番札所 稲荷山護国院 龍光寺 愛媛県宇和島市三間町戸雁 173 0895-58-2186 十一面観世音菩薩 三間平野を見下ろす小高い丘の上に建つお堂に向かう石段の上に見えるのは寺の山門な らぬ神社の鳥居。不思議に思いながら石段を登っていくと登りつめたところにあるのは、お 稲荷さんの社殿。龍光寺の本堂は石段の途中の分かれ道を左に進んだところにあり、右に行 くと大師堂が建っている。つまり、神社の社殿に向かう中程に寺があるのだ。この配置が物 語るように、この寺はもともと、稲荷神社。寺伝によれば、大同二年( 807)弘法大師さま が、護国大明神の化身と出会い、その姿を尊像として刻み堂を立てたのが始まりという。以 来五穀豊穣の神として、四国霊場の鎮守の神として、稲荷寺は信仰されていた。 しかし明治の神仏分離により、かつての本堂は稲荷神社となり、仏教色を感じさせるもの は本殿から運び出され、稲荷神社の本地仏である十一面観音さまを安置する本堂や弘法大師 さまを祀る大師堂は新しく建て直されることとなったのだ。本地仏とは、八幡さまやお稲荷 さん、熊野さまなどの神々を、如来さまや菩薩さまといった仏が姿を変えて現れたものとす る考えに基づいており、いってみればお稲荷さんと十一面観音さまを同一の神仏とする考え 方である。全国の稲荷神社の総本社である京都の伏見稲荷大社の草創期には、弘法大師さま が建立した東寺と稲荷神社が、結びついて、伏見稲荷が京の都の守護神になったという。こ の寺の創建ともなんらかの係わり合いがあるのかもしれない。今も地元の人たちはここ龍光 寺を「三間のお稲荷さん」と呼んでいる。 けっして無理をせず さしあたって 一歩目を 歩き出してみる 日々そのくり返しです 本堂

遍路の言葉

大師堂

道標

龍光寺までの国道 57 号は強風にあおられてきつかった。荒川さん、丘さんと佛木寺まで 風に押され横に飛ばされそうになりながら尾根伝いを 2.6km進む。 い っ か さ ん び る し ゃ な い ん

ぶつ も く じ

第四十二番札所 一王果山毘盧舎那院 佛木寺 愛媛県宇和島市三間町則 1683 0895-58-2216 大日如来(秘仏) 宇和島北部の穀倉地帯、三間平野の田園風景が広がる遍路道沿いにある仏木寺。かつては 農業に欠かせない牛の守護神として、昔から地元の信仰を集めてきた。地元の人が親しみを 込めて「牛の大日さん」と呼ぶこの札所はその名のとおり大日如来さまがご本尊である。大 同二年(807)弘法大師さまはこの近くで牛を連れた老人に出会い、歩き疲れていた弘法大 師さまは牛に乗せてもらうと、そのまま牛に導かれてクスノキの巨木の前に着いた。その梢 47


に光るものを見つけ近づいてみると、それは宝珠だった。かつて弘法大師さまが唐での修行 を終え日本へ帰国する際、「縁のある土地に届くように」と東の空に投げたものとそっくり だったのだ。この不思議なめぐり合わせに大師さまは仏縁を感じ、宝珠を仏像の眉間に納め て白毫とした。山号は宝珠を果実に見立てたことから、寺号はクスノキの巨木から仏像を刻 んだことから、大日如来さまの別名である毘盧舎那(毘盧遮那)を院号にしたという。 こうした由来からご本尊の大日如来さまは牛馬の守り本尊として信仰されてきた。山門をく ぐって境内に入ると、四国では珍しい茅葺き屋根の鐘楼があった。元禄年間(1688~1704) の再建といわれ四国札所は屈指の歴史的建造物でもある。 大日如来さまは秘仏、弘法大師像はヒノキの寄木造りで正和 4 年(1315)の胎内銘が入って おり、日本最古のものである。本堂の脇には「家畜堂」や道祖神もある。

大師堂

鐘楼堂

辿��� 尾越� 風� 遍路��

磯崎古郷

本堂

家畜堂

飛ばされないようにしっかり笠を押さえながら、風に逆らって歩くのはエネルギーが要る。 たったとうべやまでの 600mが長く感じられる。丘さんは7km先の民宿みやこまで行くと いう。さすが 26 歳だと思う。とうべやの主人・たっちゃんは 74 歳で一人暮らしなので、幼 馴染の陽気なおばちゃんが手伝いにきているが、 “副食は市販のものを並べるだけ、簡単よ” と笑うが、味もバランスもまあまあで悪くはない。夕食後、たぬきが来るというのでデジカ メを持って、宿泊客の荒川さん、川地さん、4 人連れの遍路さんと私が残菜を手に待ってい ると、ポン太を先頭に 4~5 匹出てきた。狸と友達というたっちゃんによると、みんなで 8 匹くらいいるそうだ。名前を呼ぶやら、餌をやるやら、デジカメを撮るやらみんな狸との交 流におおはしゃぎしている。 「みんな童心にかえって笑顔もかわいいな」と狸は思ったかな。 一生懸命に 生きようとしている 木や草と人間と どこが違うのだろう みんな 同じなのではないか

たっちゃんと狸

遍路の言葉

ポン太

とうべや

平成 20 年4月 19 日(土) 曇 10 時間 25 分:29.3km 今日は峠を含めて 30kmを歩かねばならないので 6 時 15 分に早立ちした。荷物はとうべ やのたっちゃんに四十三番明石寺まで頼んで運んでもらい、身ひとつでペースを上げたので 歯長峠の頂上までは早く着いたがきつかった。一休みして雲間からの眺望を楽しみながら峠 を下り道引大師に 8 時 40 分に着き、はっとした。道引大師は《みちびきたいし》と読む。 後少しでお別れになる荒川さんにはお世話になり、一度ならず命も助けられた。道引大師は、 ここまでの道のりを引っ張ってくれたのは偶然、荒川さんに出会ったのではなく、必然だっ たと教えてくれている。24 日もの間、見ず知らずの男性と飽きもせず楽しく歩いたなんて…。 私の心の中から溢れてくる言葉は …「楽しかった。ありがとう」「今日でお別れ、もう会え 48


ない♪」…涙がこぼれだす。荒川さんは慌てて、私にもここで打ち止めして “秋に一緒に廻 ってもいい。泣くな”といってくれるが、もう一人の私が“イヤダ!どんなことがあっても 大窪寺まで行く”と言い張る。ふたつの気持ちを持ちあぐみながら歩くうちに明石寺へ 9 時 40 分に着いた。 あなたの さりげない笑顔で すべての不安を とりのぞかれて 四国巡礼の旅を つづける 歯長峠

荒川さん

遍路の言葉

歯長峠で げ���こうさんえんじゅいん

しゃがの花

めいせきじ

第四十三番札所 源光山円手院 明石寺 愛媛県西予市宇和町明石 201 084-62-0032 千手観世音菩薩(秘仏・毎年 8 月 9 日開帳) この寺は「めいせき寺」と呼ばれているが、もともとの呼び名は「あげいし寺」。千手観 音さまの化身といわれる女神が、深夜、丘の上のこの寺に巨大な石を運びあげたという伝説 がその由来である。地元の人たちは、今でも「あげいしさん」または「あげしさん」と呼び、 慕っている。六世紀の半ば、欽明天皇の時代、仏教伝来と相前後して建てられた古い寺院と いうことになる。天平六年には役行者から五代目に当たる寿元行者が熊野十二社権現を勧請、 その後荒廃したが、弘法大師さまが弘仁 13 年(822)に再興。建久5年(1194)には源頼朝 が池善尼(平清盛の継母で頼朝の命を助けた女性)の菩提を弔うために堂を建て、山号を源 光山に改めたと伝えられている。頼朝ゆかりの寺ということで、武家の信仰を集め、戦国時 代には宇和島藩主伊達氏の祈願寺として栄えた。 杉木立の中の坂道を登っていくとやがて石段があり、石段を上がると仁王門、さらに奥に は本堂と大師堂。仁王門の脇には大師が修行したという弘法井戸がある。たっちゃんが届け てくれた荷物をもらいに休憩所に行くと、川地さんが一足先に着いていて一緒にコーヒーを 飲んだ。 いっしょに 歩けばいい 泣けばいい 笑えばいい それだけでいい 遍路の言葉

明石寺山門

本堂

道標

高知の大町さんに会ってから金沢に帰るという荒川さんと卯之町駅の近くで、お礼を言い 合いながら軽くハグして別れた。ここから 17km歩かねばならない。あかね屋で助六を買っ たら伊予柑の接待を受けた。鳥坂隧道を避けて鳥坂峠の遍路道をただひとりゆく。傍らに気 配を感じると…「楽しかった。ありがとう」 「今日でお別れ、もう会えない♪」…の思いが甦 り、切なくなる。菅原洋一の歌を口すさんでいたら、遠のいていった。あっ、そうだったの か!あの時の私は荒川さんの奥さんだった?…と気がついた。奥さんは荒川さんを誤解した まま3年間闘病の末、怨みを持って亡くなったという。荒川さんは遺影とともに昨年秋に車 遍路をしたが、八十八番まで終えた途端に歩きたくなり、その場で歩きの遍路用品を整え、 49


今春二国打ちをされていたのだ。たしか命日の日は足が痛まなかったので 、“許してくれた のかな”といわれたので“霊体になれば真実が分かり誤解がとけるので、大丈夫でしょう” といっていた私。多分奥さんは荒川さんに寄り添ってお遍路され、私を通じてお礼をいわれ たのでしょう。考えてみれば、荒川さんと私は、会おうと思えば会える 。「今日でお別れ、 もう会えない♪」筈はない。「楽しかった。ありがとう」の気持ちはあるが、あの時は切な くて切なくて涙がこぼれた。毎日のように遍路さんたちと会い、別れていく。一期一会の四 国路で宿も行程も違っていたのが、荒川さんとは何度も一緒になり、何故か 24 日もの間ご 一緒した。これも必然なのだろう。お四国では一人で歩いているのではない。同行二人とい われる所以は弘法大師さまとの二人旅を指すが、私の縁の霊体たちも共に歩いてくださり私 を助けてくださっているのだと思う。何時間も一人で歩いているのに、寂しくも怖くもない のはそのお陰なのだろうと思う。しばらく歩いていると 10 人ほどの方が、椎茸の菌打ち作 業をしているところに出くわした。お菓子をいただき、日天社にお参りしてまたひとり歩き 続ける。松山自動車道の下をくぐり国道 56 号に入る。 大洲の『臥龍の湯』で足湯の接待を受けた。気持ちがいい~。30 分ほどのんびりした。ホ テルだいいちは施設はきれいだった。同じテーブルで食事した吉良町・千葉・岡山・広島の 男女 4 人組は有名な石原先達の遍路ツアーに 2 回参加した後、歩くペースと気の合う仲間で グループを組んだという。なるほど!そういうのもありか…と感心する。 これからのことは 天にまかせる 今のことは 自分が決める それがいちばん 遍路の言葉

椎茸の菌打ち作業

日天社

臥龍の足湯

平成 20 年4月 20 日(日) 晴 10 時間 30 分:27.2km ホテルだいいちを 6 時 10 分に早立ちする。夜明けの肱川が墨絵のようで美しい。コンビ 二でおにぎりや惣菜を買い、コンビニの前で食べていたら、昨夜の 4 人組に追いつかれ同道 を誘われたがペースについていけそうにないのでお断りしてひとりで歩く。 荒川さんから電話をいただいたので奥さんのことを話したら“そうかねぇ?”といわれて しまった。いいや確かにそうなのだ。 7 時 20 分に永徳寺に着く。「どうぞお上がりください」と書いてあるので、外陣で参らせ ていただく。この寺の横を流れる肱川に大師ゆかりの十ヶ夜橋が架かっている。この地を訪 れた大師さまが橋の下で一夜を明かしたが、あまりの寒さで一夜が十夜にも感じたという伝 承の地。以来遍路は橋の上で金剛杖をつくのがタブーとなった。十ヶ夜橋の下には横になら れた大師像を祀った祠があり、10 本余のお蝋燭が灯っていた。心経をお上げしたら炎が高 く上がった。 そのとき、五十川教授から“熊田教授が亡くなられたのでお経を上げてください“と連絡が あった。改めて先生のご冥福を祈り心を込めて心経をお上げした。 行き悩む 浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋と思ほゆ 50

読み人知らず


夜明けの肱川 十夜ヶ橋 永徳寺 十夜ヶ橋 十夜ヶ橋下 祭壇 国道 56 号と遍路道をひとり歩いていくと、山間から大きな声援が聞こえてくる。内子の 大野球場だった。若いエネルギーと賑わいに焦がれるように、ネット越しに観戦していたら、 子供たちが私を見ているので、どちらが「檻の中」なのかと思わず笑ってしまった。ここで 後からきた川地さんと一緒に遍路道沿いにある「内子座」へ寄った。ちいさな町で立派な歌 舞伎小屋が何百年も守られているのに感動した。見学したかったけれど先を急ぐこととした。

内子の野球場

内子座

内子座のぼり

内子座正面

日差しが強く暑い。3 時半に千人宿記念大師堂の縁先で休んでいると、青山さんと出会った。 遍路 2 日目の宿であるふじや本家旅館で同宿した時、“病みあがりなので、遍路転がしの焼 山寺へは登らないでバスで行く。途中で行けなくなれば帰るかも知れない“といっておられ たが遍路を続けていらしたんだ…。嬉しくなってしまう。 そこへグレイのジャージ姿で自転車に乗った遍路さんが現れた。背負ったリュックの外に も、大きな振り分け荷物を自転車の両脇にくくりつけ、お鍋がむき出しでぶら下げてある。 千人宿記念大師堂の前で口早にお経を上げられたが、どうもお坊さんらしい。聞けば 70 歳 でなんと東京の自宅から野宿を重ね、自転車遍路をしてきたという。長身で眼がなんとも 清々しく優しいイケメンだ。 “3 年前にも自転車でまわり、今回は友達のお寺で許可が下りる まで庭掃除を 2~3 ヶ月させてもらうので、東京にはいつ帰れるかなぁ ”と呵呵大笑して挙 手をすると颯爽と走っていかれた。あんな自転車遍路もいいな…男なら。 青山さんと 3km/h以下でゆっくり歩き、噂の徳岡旅館についた。 *宿を変えたほうが良いとの情報で午前 11 時にキャンセルの連絡をしたら、“年間僅かし か客がない上にキャンセルされては困る”としかられた。この辺りは競合する民宿がな いし、川地さんが”雨露凌げれば…“というので泊まる事としたが…。 今夜は川地さん、青山さん、4 人組、私の外に 2 人の男性の 9 人だった。 *食事は通りに面した開けっ放しのたたきで、この暖かいのに鍋料理と煮物だけ。欠けた 湯飲みにケンチャンがかすかに色のついたお茶を注いでくれる。笑顔で合掌している川 地さんはすごいなと思い返し、私も合掌した。有り難くいただきます。 *頭を打ちそうな急な階段。異臭を放つぽっちゃんトイレ・薪の風呂は仕切り戸がなくも ちろんシャワーなし・古びてブカつく畳に擦り切れた上敷き・男性はカーテンで仕切っ た 8 畳間で雑魚寝。襖は隙間があり私は着替えもできない。逃げ出したいにも山の中。 古く重い布団にタオルをかけて着の身着のままで寝る。 “雨露凌げれば…”と思い返し明 日のために眼を閉じた。 人間関係って 気にすれば するほど 変になって ゆくものです

他人の過ちは 針ほど細くても よく見えるが 自分の過ちは 棒ほど太くても 気がつかないものです

遍路の言葉

遍路の言葉

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徳岡旅館 徳岡旅館前の分かれ道 平成 20 年4月 21 日(月) 晴 6 時間 25 分:22.3km 4 人組のリーダーの女性が“眠れず食事も摂れなかったがこれでも旅館か。インターネッ トに流す”とクレームをつけたので、おかみさんと口論になり、お互いが引かないので、ケ ンチャンや遂には大寶寺の堂守さんに電話して巻き込んでの大喧嘩。川沿いの道路までリー ダーを追いかけ、眼を吊り上げ、長い髪を振り乱して金切り声を上げる様は、見たことがな いけど《山姥》ってこんな風かな?と思う。でも私も怒るとあんな風だったかな?とも思う。 私達は喧嘩のせいでお勘定ができず 30 分以上足止めされたが、色々反省もさせられた。 『女 と小人は養いがたし』…やれやれ。 四十三番札所からこの四十四番大寶寺への道のりは長い。およそ 85km,足摺岬の金剛福 寺へ向かう道りの 95kmには及ばないが、山間部を通りいくつかの峠越えもあることから、 実質的には四国札所最大の難所で、遍路泣かせの道といわれてきた。札の数から言えば、中 間だが距離の上では 3 分の2を過ぎている。徳岡旅館前で道が別れる。川地さんは 380 号を ひわた

行くといわれるが、青山さんと札幌の人と私は大変でも鴇田ルートを行くこととした。 ほめる人もいる けなす人もいる しかし 本当のことを 言ってくれる人は なかなかいない 遍路の言葉

鴇田峠ルート

鴇田峠

遍路道

舗装道路が多く山道は僅かだったが、峠は心地よく休憩のあと 10 分ほど横になった。思 ったより早く 12 時 20 分に大寶寺に着いた。 す ごうさんだいがくいん

た い ほ う じ

第四十四番札所 管生山大覚院 大寶寺 愛媛県上浮穴郡久万高原町字管生 1173 0892-21-0044 十一面観世音菩薩 大寶寺のまえの久万川の川幅いっぱいに鯉幟が泳いでいる。橋を渡り山門らしくない山門 を抜け、うっそうと茂った杉木立の参道を行く。管生山の坂道を上がっていくと、仁王門に 辿り着く。門の左右で睨みを利かせる金剛力士像は室町時代の作といわれる。寺の歴史は古 く、6 世紀後半に遡る。大宝元年(701)には文武天皇の勅願で元号の大宝を寺名にして弘仁 年間(810~824)に弘法大師さまが訪れて秘法を行い、札所に定めた。 仁平 2 年(1152)、火災に見舞われるが 4 年後、後白河法皇が病気平癒祈願のために勅使 をここへ派遣、病が治ったので、法王は妹宮を住持として下向させ、勅願寺とした。このと き伽藍の再建も行われた。最盛期には 48 の僧坊を持つ大寺院となったが、戦国時代の兵火 で伽藍を消失。元禄年間(1688~1704)に松山藩の寄進で再興したが、明治 7 年に火災に遭 い、大正時代に再興された。

親の姿こそが 子供の心を 生み育てる ものである 薬師寺高田好胤

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大寶寺前の久万川 山門 参道 金剛力士像縁起 仁王門から石段を上がっていくと、深閑とした雰囲気の中、本堂や大師堂、鐘楼、観音堂 などが立ち並ぶ。 放浪の俳人・種田山頭火の「朝まゐりは わたし一人の銀杏ちりしく」の句碑もある。 本堂で十一面観音さまに観音経全段をゆっくりお上げした。気がつくと、丘さんが私を見 つけたので声をかけようと待っていてくれたという。大寶寺を打ち終えたので、今から岩屋 寺を打って和佐路に今夜は泊まり、明日は長珍屋までいくとのこと。 “それはもったいな いよ。私は四国八十八ヶ所のお寺のなかで、岩屋寺こそは一番心惹かれるお寺なので門前に 泊まり、一日ゆっくりするつもり”と力説したら、明日一緒にお参りすることとなった。 大寶寺では個人での宿房泊りを最近断っているというので、理由を聞いたら、 “風呂など 1 人でも 30 人でも経費は同じ。団体さんの泊まりがない日は採算が合わないので個人は受け れない”と申し訳なさそうにご住職はいわれる。大伽藍を維持していくのは大変なんだと思 った。今夜は少し遠くのでんごで宿をとった.

仁王門

本堂

ご住職

境内

ぐちゃぐちゃ 頭で考えて いるだけでは いつまで たっても前へは 進めませんよ 遍路の言葉

平成 20 年4月 22 日(火) 晴 21℃ 3 時間 40 分:11km 7 時 5 分にでんごの車で大寶寺まで打ち戻し、ここから 12 号を歩き和佐路に 7 時 40 分に 着いた。思ったより時間が掛かってしまい待たせてしまったことをお詫びした。 丘さんが荷物の一部を和佐路に預けリュックを軽くしたので、私のと取り替えて持ってくれ るという。若いのに心遣いのできる方だ。有り難くお世話になることにした。 大寶寺からさらに 12kmほど山中に入ったところにあるのが岩屋寺で、古くは大寶寺の奥 の院であったという。修行専門の道場で山全体が修行の場であり、その様子は有名な「一遍 聖絵」によっても知ることができる。八丁坂も修行道なので覚悟していたが、思ったより楽 しく温かみのある遍路道だ。昔人も苔むしたこの道標を見ながら修行に励んだのだろうか。 しっかりとした 「土台」がないと どこまで歩こうが こころは 不安ですよ 遍路の言葉

でんごの夕食

八丁坂 かいがんさん

道標

い わ や じ

第四十五番札所 海岸山 岩屋寺 愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468 0892-57-0417 不動���王 伝承によれば、遥か昔この山は法華仙人という女性が修行していたところだった。八十八 ヶ所の遍路が成立する前は石鎚山を中心とした行場のひとつが大寶寺と岩屋寺であったわ けだ。 弘仁 6 年(815)に弘法大師さまが修行の霊地を求めて入山したところ、法華上人と出会 53


った。仙人は大師さまに帰依し、山全体を献じて大往生を遂げた。そこで大師さまは不動明 王さまの木像と石像を刻み、木像は堂を建ててその中に安置し、石像は岩山に封じ込めて岩 山全体を聖地としたのが、この寺の始まりと伝えられている。寺は海抜 600mのところに建 てられ背面には数十mの礫岩峰が屹立している。 八丁坂から仁王門に入り赤不動明王さまがおられたのでお参りすると大きな波動が伝わ せりわりぜんじょう

ってきた。驚いて右手をみると法華仙人と空海が修行したと伝えられる逼割 禅 定 の入口が あった。巨大な岩の割れ目に設けられた入口の木戸は施錠されており、立て札には「納経所 で鍵を借りること・自己責任で上ること」と墨書してある。私は“平成に高知の男性が事故 死したこと、怪我をした人もあること、私も同行してくれる人があれば上りたいと思ってい る”というと、丘さんは魅せられたように“上りたい”といった。午後に上ることにして山 道を 300m程下りると、切り立った岩壁を背にして堂宇が建っており、いかにも修験の場と いった険しい雰囲気だ。本堂など寺の建物は明治 31 年に火災で多くを焼失してしまい、現 在の本堂は昭和 2 年に再建されたものだが、覆いかぶさるような大岩壁が印象的だ。大正 9 年(1790)に再建された大師堂は本堂より一回り大きな堂々とした建物である。大師堂のほ うが大きいのは珍しいが、これは山全体が本尊とされているからである。本堂に覆いかぶさ るような岩壁をよく見ると上部には岩窟がいくつかある。岩窟のうち本堂に近いひとつには 岩に架けられた梯子で上がることができる。法華仙人堂跡だという。垂直に立てられた梯子 を上がっていくと、小さな五輪塔が置かれている。ここからは境内を一望できる。今から 1200 年前、女性である法華仙人はここでなにを夢みて修行の日を重ねられたのだろうか。 「青鞜」 創刊号の発刊の辞で「元始、女性は実に太陽であった」と書いた平塚らいてうと同じくらい 心惹かれる女性だ。本堂のすぐ脇には穴禅定と呼ばれる洞窟もある。弘法大師さまの行場の 跡とされ、大師自らが掘ったという「独鈷の霊水」と呼ばれる湧き水がこんこんと湧いてい る。洞窟では「かなえる不動」と立て札が立ったものもある。ここは、不動明王さまの霊験 によって、あらゆる災厄を封じ込め、悪縁を断ち切るところ。多くの遍路が参拝していく。

法華仙人堂跡から 堂跡から本堂の屋根

修行の洞

丘さん

笑顔の私

266 段の急な石段を下り、しばらく行くと山門。かたわらに弘法大師さまが詠んだ歌が石 碑に刻まれている。「山高き谷の朝霧 海に似て 松吹く風を波にたとえむ」とある。谷間 にたゆたう霧を海に見立て、岩山を島とし、そこに生える松の木を揺らす風は波に見立てて いる。この岩屋寺が奥深い山の中の寺であるにもかかわらず「海岸山」の山号を持つのは、 弘法大師さまのこの歌に由来するのである。さらに 30 分近くもうっそうとした杉木立の中 を歩くと寺の門が見えてくる。門を出てしばらく歩くとみやげ物店や茶店が並んで賑やかな 参道があり、道を渡ると今夜の宿の門田屋さんだ。地図にある岩田食堂は店じまいしていた ので食べもの屋さんがないかと聞くと“店はないから朝の残りごはんとわさびの葉と漬物で お茶漬けを食べなさい”と接待してくれた。 腹ごしらえが済んだので、また参道から納経所まで行き鍵を借りた。木戸を開けると、 ロープを伝って坂道を上がり、直角に道を曲がると今度は 70 度くらいの傾斜がある岩山に かけられた鎖に足をかけながら岩山を登り、さらに梯子を使って 10mほどの高さのとんが った岩山の頂上へ向かう。直径 2m弱しかない岩の頂上には白山権現さまが祀られており、 54


四国遍路~花曼陀羅を歩かせていただいて~03