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田園風景の中の道をしばらく進み古い町並みの中に観音寺の楼門が見える。1.8kmだ。 こうようさんせんじゅいん

かんのんじ

第十六番札所 光耀山千手院 観音寺 徳島県徳島市国府町観音寺 49-2 088-642-2375 千手観世音菩薩 奈良時代に国府が置かれ阿波国の政治・文化の中心として栄えたところで十五番と同じく 天平 13 年に聖務天皇の勅願寺として創建されたが、戦火に遭い万治 2 年(1659)に再建さ れた。本堂と太子堂の間には子供の夜泣きを鎮めてくれる「夜泣き地蔵」がある。弘法大師さ まが千手千眼観世音菩薩像と脇侍の不動明王・毘沙門天像を刻んで安置したという。 本堂には炎に包まれた女性の絵がある。この寺で濡れた着物を焚き火で乾かしていた女遍 路の着物に火がつき大火傷を負ったという。実はこの女性は姑と折り合いが悪く、姑を柱に 縛り、火のついた薪で殴るなどしたことがあるといい、火傷をしたのは弘法大師さまの戒め であると反省を込めてこの絵を奉納したといわれる。大昔から嫁姑の確執があったのだと妙 に感心してしまう。 まだ 30 代と思われる半身不随の奥さまをご主人と小学生の子ども2人がかばいながら、 一生懸命お参りされているのに遭い、胸がいっぱいになり心の中で病気平癒をお祈りした。 上原さんご夫妻はここで宿に帰るといわれたが、荒川さんと私は井戸寺までいくつもりで お別れした。しばらく歩きかけたが4時半を廻っているので急がねば納経所が閉まると思っ たら、急に疲れてしまい名西旅館に迎えの電話を入れて来ていただくこととした。ここで松 本屋に泊まる荒川さんと2度目のお別れをした。 お風呂をいただいていると上原さんが十六茶を持って訪ねてくれたという。早速かどや旅 館に出かけて上がり込み、焼酎をいただいて楽しく過ごさせていただいた。優しく頼り甲斐 のあるご主人の典良さんと繊細で手芸がお得意の奥さまの利子さんはなかなかのお似合い カップル。“娘さんと利子さんが組んで典良さんが一人になり、喧嘩にもならない ”といわ れるので“だって、旦那は他人だものね”というと大爆笑になり、すっかり長居してしまっ た。良いご縁をいただいた。

利郁典

本堂

仏足跡

�四国� 結����� 友�飲�

山門

上原さんご夫妻

平成 20 年 3 月 30 日(日) 雨:11℃ 8 時間 5 分:25.5km 朝、上原さんのタクシーに同乗させていただき観音寺に着いたが、私が登山用の真新しい 手袋を忘れたことに気付き、宿にお願いして届けていただくこととした。この宿には温かい おもてなしがあった。湿気を取るため、靴に新聞紙を丸めて入れたり、山歩きする人はもっ と食べなさいとおかわりの勧め上手なおかみさんと気さくな息子夫婦。気働きのある心地よ い宿であった。観音寺の堂守さんが、納経所の窓から身を乗り出して話しかけてこられる。 私は道路まで出て車を待とうとするのだが、ご朱印しながらも私に話される。5人のグルー プが来たので、その場を離れたがご朱印の手が空くと“奥さぁん”とまた堂守さんに呼ばれ る。ふと、金子やさんの名前を私が口にすると“あの宿は4時までに入らないと入れてもら えないよ”といわれる。そのとき手袋を宿のご主人さんが届けてくださったので、確認する と“雨降りでも入れてもらえなかったと聞いた”といわれる。私は昨日井戸寺の途中まで歩 いたので、そこまで宿のご主人に送ってもらい上原ご夫妻に相談するために追いついた。 “荒川さんが今日は、金子やさんまで足を延ばすといわれていたが、三ヶ寺打って、32.7 15


kmを歩いては、4時までには入れないと思うので、連絡してあげたほうかいいのかな…” と相談するとあの近辺には他に宿がないし、天気も下り坂なので連絡したほうが良いという ことになった。荒川さんに蔵本駅で1時間半待ってもらい落ち合うこととした。観音寺門前 の集落を東へ向かい、大御和神社の先を左折、国道を渡って徳島線府中(こう)駅の近くの踏 切を渡る。2.8km、45 分の道のりだ。 る り さ ん しんぷくいん

第十七番札所 瑠璃山真福院 井戸寺 徳島県徳島市国府町井戸字北屋敷 80-1 88-642-1324 七仏薬師如来(秘仏) 巨大な朱塗りの仁王門は徳島藩主の蜂須賀氏の別邸に使われていた長屋門を改装して移 築したもので、四国札所の中でも類をみないほどの広い間口である。仁王像も2mの巨体で あり、国の重要文化財に指定されている。この寺は天武天皇が白鳳(674)に建立した妙照 寺が前身で、かつては塔頭十二坊を数えたほどの大寺でした。後年弘法大師さまが訪れた時、 この地の水の悪さを嘆いていたため、大師さまが錫杖で地面をついて清水を湧き立たせたと いう故事からこの寺号が改められたといわれる。 弘法大師作といわれる錫杖を持った十一面観音さまは平安時代のもので秘仏。本尊の七仏 薬師如来さまは聖徳太子さま作。脇時の日光・月光菩薩さまは行基菩薩さま作と伝えられて いる。本堂の脇、日限大師堂の中にある井戸は今も清冽な水を湧き出させており霊水をいた だくことができる。ここでは井戸を覗いて自分の姿が映れば、日を限っての願い事は必ず叶 うといわれている。小雨の中、上原さんご夫妻と急いでお参りする。 仏さまには こちらから 近づいていこう どんなに喜ばれる ことだろう 遍路の言葉

山門・利子さんと

本堂

境内

蔵本駅から 2 ツ目の徳島駅で、上原ご夫妻はいったん新宮市の自宅へ帰られるという。公 務員をしておられる典良さんは明日、定年退職の辞令を受けるため、遍路を中断し区切り打 ちする計画なのだとか。利子さんがよれよれのくせに無鉄砲なことをする私を心配して、荒 川さんにエスコートするよう別れ際に頼んでくださり、そのお陰で荒川さんには助けていた だいて遍路を続けることとなるのだが、その時はお互いに知る由もなかったのである。 本降りになった市街地をふたりで歩いているとタクシー会社に『遍路接待』の張り紙があ ったので、トイレを借りに入ると豆を挽いてコーヒーを入れてくださった。ジョークとコー ヒーと温かい心でもてなしていただき、身も心も温まった。また本降りの国道を延々と歩く。 リュックの口を閉め忘れ荷物を崩れたまま背負っていたためか腰も腿も足も痛い。地蔵橋 駅近くの日愛うどんで腹ごしらえをして、指の間にも血豆ができ破れたので荒川さんにテー プを頂きテーピングする。 道に迷い車の女性に道を尋ねたら友人に電話で聞いてくれたうえ、わざわざ確認のため恩 山寺まで行き、引き返してして私達に“間違いないですよ”と伝えてくれた。こんな丁寧な 道案内をしていただけるなんて…少しでも見習いたいと感謝しつつ恩山寺へ急ぐ。 第十八番札所 薬師如来15

ぼ よ う さ ん ほうじゅいん

おん さ ん じ

母養山宝樹院

恩山寺 徳島県小松島市田野町字恩山寺谷 40 16

08853-3-1218


雨の恩山寺はしっとりと密やかで他に訪れる人もない。寺の山裾には千羽が岳という海蝕 岩や、「源義経上陸の地」の碑が建てられている。すなわち寺の裾野は海だったはずで文治 元年(1185)平家追討の義経は摂津の国渡辺津(現在の大阪浪速区)から船出して、恩山寺 の尼子浦に着いたといわれている。境内からも海を眺められるが、300mほど上がった頂上 の展望台は素晴らしい眺望で淡路島までくっきり見えるというが今日は雨に煙ったままだ。 ここがかつては女人禁制、修験の道場だったことを思えば、山頂において護摩修法を行っ たのではないだろうか。 この寺号は弘法大師さまの母への思いを表したものである。弘法大師さまがこの寺で修行 たまより ご ぜ ん

中、母の玉依御前がはるばる讃岐より訪ねてきた。しかしこの寺は女人禁制のため、17 日 間にわたる女人解禁の秘法を修め、御前を境内に招きいれ孝行を尽くしたという。玉依御前 はここで剃髪し出家した。その髪は剃髪所の納められている。大師さまのかたわらに玉依御 前を祀った御母公堂がある。 恩山寺前のバス停からなだらかな坂を上がっていくと、朱塗りの太鼓橋の脇にビランジュの 巨木がある。記念に大師さまがお手植えされたといい、天然記念物に指定されているという。

山門

参道

門前

お京塚

門前民宿ちばの手前で竹林の中の未舗装の道へ。この道は屋島の合戦に向かう源義経が兵 を進めた道といわれている。舗装路にでたところで“おーい、おーい”の呼び声に民家まで 戻ると小雨の庭に傘もささずに出て“家の横の細道を通ったほうが近道ですよ”と教えてく れた。毎日遍路に声掛けしておられるのだろうか。奇特な方にまたお会いできた。 お京塚の前を通り民宿鮒の里に荷物を置き、立江寺に着いたのは 16 時 40 分であった。 きょうちさんま に い ん

た つ え じ

第十九番札所 橋池山摩尼院 立江寺 徳島県小松島市立江寺町字若松 13 08853-7-1019 延命地蔵菩薩 立江寺は阿波の関所寺と呼ばれている。関所寺は四国八十八ヵ所に4つあり、よこしまな 心を持った人や、心がけの悪い人は門前の橋を渡ろうとすると、白鷺が舞い降りるそうだ。 これを見たものは四国八十八ヵ所を回る資格がないのはもちろんのこと、厳しい制裁が加え られるので、悪業を清めて出直さなければならないといわれている。阿波の関所のほか、土 佐の第二十七番の神峯寺、伊予は第六十番の横峰寺、讃岐が第六十六番の雲辺寺になってい る。自己反省をする場なのであろう。 この寺には夫殺しのお京の話が伝わっている。お京は不義密通の男と謀って夫を殺した後、 遍路なら取調べも緩やかなはず、と四国遍路に出た。この寺で髪の毛が鉦の緒に巻きついて 取れなくなり、ついには髪の毛と頭皮をむしり取られてしまったという。お京は寺の近くに 庵を結んで仏道に精進して生涯を終えた。それが十八番恩山寺からここへ来る道すがらに在 ったお京塚で境内には黒髪堂があり、お京の黒髪が納められている。 この寺はもともと聖武天皇の勅願所として現在地より西に建立されたが、戦国時代に消失。 江戸時代に徳島藩主蜂須賀氏により再興された。本堂は昭和45年の火災後に再建された。 妃の光明皇后の安産祈願のために刻んだといわれる延命子安地蔵菩薩さまがある。 静かな境内は一日の終わりをひたすら待っているようで、慌てて納経を済ませたら 16 時 17


55 分。合羽を通して寒さが体の芯まで染み透り震えさせる。墨絵のように雨に溶け込んだ 今の立江寺もいい。が、陽光の中に明るく聳える伽藍や大師像は無限の安らぎと力を与えて くれそうでまた拝させていただきたいとも思った。 いつの日か また ご法縁 いただけ ますように 遍路の言葉

本堂

境内

大師堂

山荘造りの鮒の里は、いびきや話し声が筒抜けで開放的すぎるが、囲炉裏を囲んでの食事は優 しい奥さんがつききりで、こだわりの無農薬の米や野菜で作られており、特に焼椎茸は美味しか った。ご主人はこまめに合羽や靴を乾かし翌日の山越えを丁寧に教えてくれた。北海道から亡き 母と共に遍路しているという男性は体調を崩し、3 泊目だという。足の調子がよくないという女 性連れはここでいったん計画を断念し出なおすという。ご主人が途中まで車で送り届けるといわ れる。親切なお宿だと思う。ここでも金子やに泊めてもらえなかった遍路さんを夜、ご主人が迎 えに行ったと聞き、宿を変えてよかったと改めて荒川さんと乾杯した。 平成 20 年 3 月 31 日(月) 曇時々小雨:4~5℃ 9 時間 05 分:24.3km 小雨の中、6 時 45 分に宿を出る。アスファルトの道を 1 時間程歩いた頃、ティシュ入れのお接 待を受けた。 “あなたたちは、今朝一番の接待だよ。今まで 1 万 3000 個以上渡したが、管直人さ んは 5300 個位だった。鶴林寺までは遠いのでガンバレ!”と励ましてくださった。 萱原で小さな峠を越え、沼江大師を過ぎてローソンを左に曲がり、勝浦川沿いの道を進んで生 名へ。金子やから蜜柑畑の道を山に入っていくと急斜面の山道になり、何度か車道を横切りなが ら山上の鶴林寺へ。最後の急勾配は焼山寺の道よりきつい。 血圧が下がって生あくびをする私を見かねて、お参りセットの入った袋を荒川さんが持ってく れ助かった。遍路ころがしの山道を約 14km、4時間半と私には早いペースだった。納経所で“歩 きですか?”とふくよかな品のいい年配の女性に声掛けされ、“はい”と答えると畏敬の念を込 めた眼で、合掌しながらぽち袋を渡された。そんな風に見つめられるとうろたえてしまう。後で みたら千円札だったので驚いた。お守りにすることにした。 りょうじゅさんほうじゅいん

かく り ん じ

第二十番札所 霊 鷲山宝珠院 鶴林寺 徳島県勝浦郡勝浦町大字生名字鷲ヶ尾 14 08854-2-3020 地蔵菩薩(秘仏) 朝、お山ではあられが降ったという。寒さで手先が痺れる。ここ鶴林寺は標高 570mの山 の上にあり、四国霊場のなかでもひときわ険しい難所のひとつ。樹齢 800 年といわれる杉木 立に囲まれて建つ仁王門には運慶の作と伝えられる金剛力士像が仏の世界を守っている。仁 王門と本堂の前には、まるで神社の狛犬のように2羽の鶴の像が、置かれている。これはこ えん ぶ だんごん

の地を訪ねた弘法大師さまが、金色に輝く 6cm 余りの閻浮檀金(閻浮木の林の中を流れる河 の底からとれる美しい砂金のこと。最高の金とされる)の地蔵菩薩さまを、雌雄2羽の白鶴 が翼を翻して守護しながら、老杉の梢に舞い降りるのを見た。大師はその金像を地上に迎え、 自ら約 60cm の地蔵菩薩を刻み、その胎内に金色の地蔵菩薩さまを収めたという。鶴の舞い 降りた杉も本堂の左裏手に現存している。 桓���天皇の勅願によって弘法大師さまがこの寺を開いて以来、ここは塔頭七院を持つ広大 18


な寺院でした。奥の院となっている慈眼寺は標高 1000m近い山上近くにあり、禅定窟とか灌 頂ヶ瀧などの行場を持っている。ここで修法のための護摩壇が築かれ、修験の火が紀伊水道 を往来する船からは目印としてよく見えていたといわれる。この鶴林寺に対峙するのが、太 龍寺山の修験の火であり、紀伊水道を渡ろうとする船人たちには、右方の鶴林寺の火を胎蔵 界曼荼羅に左方の太龍寺の火を金剛界曼荼羅に見立て航行の安全を誓ったのでしょう。 元禄 14 年(1701)、伊勢の福井籐兵衛が船で紀州の加太を発して阿波の小松島港へ向か っていた時、にわかに海が荒れ、難破寸前になった。この時、船中にいた僧が“鶴林寺 の地蔵尊に祈念せよ”という。一同が異口同音に地蔵尊の宝号を唱えるとたちまち海は鎮ま ったという。僧にお礼を言おうとすると姿が見えず、鶴林寺の地蔵尊の化身だったと皆は涙 を流して報謝し、それから地蔵尊は波切地蔵さまとも呼ばれるようになり、海に働く人々か ら崇敬されるようになったという。

山門

本堂

遍路道

那賀川

急な下山道を30分余り降り続け、再び舗装路にでる。小学校跡の先で那賀川を渡ると、 太龍寺への上り道。途中の遍路休憩所で冷たくなったおにぎりと朝食の塩鮭と蜜柑、八朔を 震えながら食べた。若杉からの道は急登で 7 時間歩き続けた私にはきつく、回り道をして太 龍寺ロープウェイを利用したほうがよかったかなと後悔の念がよぎる。荒川さんに荷物を助 けていただいた。疲れは同じなのに申し訳ないと思いつつ、登り切るしかないので甘えるこ ととした。樹間に山門が見えたときは、弘法大師さまの修験の地を歩かせていただけた達成 感と深い感謝とで、熱いものがこみ上げてきた。 自利は トレーニング 自他は サービス 薬師寺 高田好胤

遍路道 第二十一番札所 虚空蔵菩薩

遍路休憩所 しゃしんさんじょうじゅういん

たいりゅうじ

舎心山 常 住 院

太龍寺

徳島県阿南市加茂町龍山2

884-62-2021

「こ く う ぞ う ぐ も ん じ ほ う 」

太龍寺の太龍嶽は若き日の弘法大師さまが、「虚空蔵求聞持法」という真言宗密教の秘法 を得るために 100 日間もの厳しい山岳修行をした地。見事な庭園、掃除が行き届き、落ち葉 一枚ない。ここは空気までも凛と張り詰め、清々しさが漂う。山門から 118 段もの石段を喘 ぎながら登ると杉木立に囲まれた本堂があった。嘉永5年(1852)徳島藩主蜂須賀斉裕氏に より再建されたもの。堂内には弘法大師さまが刻んだとされるご本尊の虚空蔵菩薩さまが祀 られている。本堂の脇には今も虚空蔵求聞持法の荒行が行われる求聞持堂が建つ。多宝塔の 彫刻が見事。その奥に大師堂があるが、やはり彫刻が素晴らしい。大師堂の裏手に弘法大師 御廟を設けて拝殿と奥殿からなっている。これは高野山の奥の院と同じ配置である。太龍寺 の本堂と多宝塔、大師堂の配置は高野山壇上伽藍の金堂、大塔、御影堂の配置を連想させる。 19


こうしたこともあって「西の高野山」とも呼ばれているこの寺は延暦年間(782~806)に桓 武天皇の勅願によって開かれた寺である。荒廃と再興を繰り返して江戸時代に徳島藩主蜂須 賀家の保護を受け栄えた。 弘法大師さまが修行した太龍嶽(舎心ヶ嶽)は寺の南と北に舎心岩があり北は梯子と鎖で、 南へは板橋(修行の時は飛び渡る)を渡って岩山に立つと、紀伊水道が見渡せ、切り立った断 崖の上に弘法大師さまの坐像がある。そこで龍灯杉という山中第一の名木にぶら下げて海の 守護神である龍神のために献灯供養がなされていたという。 納経所で行き方を聞いたがここからは行けないとのこと。心残りだ。

山門

本堂

神龍の額

龍の天井絵

太龍寺の駐車場から急斜面を 4km下り龍山荘に着いた。9時間 5 分で山道を 24km歩き 続けた足に感謝。今夜の泊まり客は荒川さん、牛山さん、青森さん、私の4人だけ。太龍寺 ロープウェイができてから団体遍路のルートが変わってしまい少なくなったとのこと。 今日は体力の限界を思い知らされたので、思い切って最低限の持ち物に減らすこととした。 女性は3kgと案内書に書いてあるが難しい。納経帳、お軸、写経、地図、薬、雨具、着替 え…もう限界だ。挫折するよりはましだ、必ず上満すると自分に言い聞かせ、替えズボン・ 懐中電灯・化粧品・案内書・便利グッズなど 100gに満たないものでも小荷物にして自宅へ 送った。 またひとつ 山を越えて そして ひとまわり 大きな人間に なれたわたし

太鼓橋

道路標識

遍路の言葉

遍路マーク

龍山荘

平成 20 年4月 1 日(火) 晴 14℃ 9 時間 35 分:28.7km 6 時 40 分と早めに荒川さんと宿を出る。阿瀬比から大根峠で青森さんと牛山さんに追いつ かれてしまう。ここから平等寺まで誰とも出会わない。一人だったら…道に迷ったら…と不 安になるほどの淋しく鬱蒼とした山道をゆく。 は く す い さ ん い おういん

びょうどうじ

第二十二番札所 白水山医王院 平等寺 徳島県阿南市新野町秋山 177 0884-36-3522 薬師如来 手を清めようと手洗い場に目をやると真っ赤な椿が活けてあった。境内のあちこちに女性 の気配りが感じられる。はたして納経所の堂守さんは気品のある素敵な方でお声掛けしたか ったが、朱印が混んでいたので控えた。どうしたらあんな風になれるかなと憧れの目で見詰 めてしまう。本堂へは、女厄坂・男厄坂の石段を上がるが、その石段下の左にあるのが、白 水泉の霊水。弘法大師さまがこの地で厄除け祈願を行った時に薬師如来さまの霊験を感じて、 20


錫杖で地面を掘ったところ霊泉が湧いたので、この水で沐浴をした後、泉の水を用いて祈祷 を行った。そして 100 日の修行の後、薬師如来像を刻んで本尊としたという。薬師如来さま は慈悲の仏。本堂で読経する時に唱える祈願文は「種々重罪、五逆消滅、自他平等、即身成 仏」で、平等寺の名はそこに由来しているのでしょう。 寺号の由来ともなっている霊泉は、小さな花頭窓の中に頭をいれると水が湧いており、万 病に効くといわれているので一口いただく。ここのお薬師さまは健脚に霊験あらたかであり、 本堂には足の不自由な人達が治ったため、不要になった松葉杖などが奉納されていた。 「ハイ」と いうことばは 日本の一番美しい ことばだ 女性の一番美しい へんじだ

山門

手洗いの椿

本堂

白水泉の霊水

遍路の言葉

月夜御水庵を経て弥谷観音(如意輪観音)さまに参る。ここは二十二番の奥の院で平成 16 年に山上から移築されて真新しい。お参りさせていただきお札が 2 枚置いてあったので荒川 さんと 2 人でいただく。細い遍路道を桜を愛でながら歩く。山路の星越茶屋は何度も電話す るが、応答がないので廃業したか、お休みされているのだろうと思い、海路のほうに店があ るのではないかということで国道 55 号を横切り 25 号線へ入る。しかしここでも民家が点在 するだけで人影はなく、やっと見つけたおばあさんに聞いたら“食堂なんてないねえ。コン ビニはなんだね?”と聞かれてしまった。由岐の駅・田井ノ浜の駅も無人で民家さえない。 2 時を過ぎたので田井ノ浜の海岸休憩所でただひとつの食料である「黒にんにく」を半分ず つ食べて又ひたすら歩く。3kmほど行くと木岐の町中となり、小さな駄菓子屋風の店を見 つけた。残り少ない「パン」を大喜びで買っていると、店に居合わせた蒲鉾屋さんが車から 2 枚の板蒲を持ってきて、店のパンも 1 個づつお接待してくれた。胸が熱くなって“嬉しい ね。美味しいね。”といいながら侵食されて奇岩や洞のある美しい由岐の浜辺でいただいた。 どこでも、いつでも欲しいものを手に入れることができる生活を当たり前として過ごして いる私達。ひもじいという感覚を思い出しながら、お接待を通じて『布施行』をさりげなく、 温かく行うお四国の人々を前にして、自己中心で生きている私は恥ずかしいなあと思う。 遅れを取り戻そうと、弘法大師さまを念じ時速 4km(いつもは 3km)で歩きたいとお 願いすると本当に 15 分で1km進み、その調子で 14km を歩くことができたので 16 時 45 分に薬王寺に着き、なんとか納経に間に合うことができた。私がペースを上げだした頃、荒 川さんの足のマメが痛み出したが、遅らせると余計歩けなくなると引っ張っていくこととし たが、薬王寺の 500mほど手前からは胸が苦しくなったといわれ、私も生きた心地がしなか った。門前に着いたときは心からほっとした。昨日は私が荒川さんに助けていただき、今日 は私が少しお返しできたかと思う。弘法大師さまにお礼申しあげた。 どの道を歩く ではなく 誰と歩くかが 一番の 問題なんです 遍路の言葉

弥谷観音

木岐の町 21

由岐の浜

由岐の浜護岸


い おうざんむりょう じ ゅ じ

やくおうじ

第二十三番札所 医王山無料寿寺 薬王寺 徳島県海部郡美波町奥河内寺前 285-1 884-77-0023 薬師如来 境内は桜が満開で多宝塔に映える。ウミガメの産卵で有名な日和佐海岸に建つ薬王寺は奈 良時代に聖武天皇の勅願寺として開かれた古刹。平安時代に平城天皇の命により弘法大師さ まが厄除けの根本祈願寺として以来、嵯峨天皇、淳和天皇、鳥羽天皇ら歴代天皇が厄除け祈 願所として勅使を送った。山門の小さな水路にかかる橋は厄除け橋。参道を進むと女厄除坂 33 段の石段。上がったところが絵馬堂で、ここからさらに 42 段の石段である男厄除坂が続 く。厄年の男女はそれぞれの厄坂を上がる時一段毎に小銭を置き厄落としの祈願を込めて上 がるのが慣わしという。願いの数だけ置かれた一円玉が石段を銀色に変える。本堂の奥の瑜 祇塔へ上る石段は男女共有の 61 段の還暦坂となっている。この塔は瑜祇経の教説を造型化 したもので、経文には世の中に存在する全てのものはことごとくが二つの相対したものから 成っているが、これがひとつの働きをすることを象徴した、いわば金胎不二を表すのだとか。 本堂に安置されている薬師如来さまは、新仏・旧仏 2 体あって、背中合わせにある。旧仏の ほうは文治 4 年(1188)の火災の時、自ら飛び去って奥の院である玉厨子山に留まって毎夜、 光を放っていた。その後伽藍が復興した時、新仏が作られたが、新仏供養の時に旧仏の方も 飛び帰って、新仏と背中合わせに座したのだという。本堂の近くに建つ魚藍観音さまの脇に は厄除けの雲版など境内には厄除けの霊場が点在する。この寺で徳島県の札所「発心の道 場」は打ち終わる。薬王寺会館に入ると荒川・青森・竹内の名前があった。昨日の青森さん だと分かり嬉しくなる。彼は糖尿病と前立腺癌・肺癌持ちという群馬の人で、ホルモン療法 とラジウム浴を奇数月に受けていて、その合間をぬって四国遍路をしているという。

病気になった おかげで また ひとつの 得られた人生 遍路の言葉

山門

境内満開の桜

本堂

女厄坂

境内からの眺望

男厄坂

山門の大草鞋

阿佐海岸

平成 20 年4月 2 日(水) 晴 17℃ 10 時間 10 分 :32.8km 本堂で朝 6 時からお勤めがあった。2 段の大護摩壇があり、上段で護摩を焚く火が高くあ がり荘厳であった。肺大師のところに肺に効くという「瑠璃光水」があったので、いただい て青森さんに渡した。3 人で 7 時に出立したが足の速い青森さんは先に行かれた。小松大師 に参り、牟岐駅を越えたところの牟岐警察接待所に寄り地区当番さんから、コーヒー・蒸し たさつまいもなどの接待を受ける。鯖大師ではご本尊の馬頭観音さまにお参りした。太いげ じげじ眉のご住職は“舗装道路でなくできるだけ遍路道をゆっくりゆけ”といわれた。ここ で青森さんに又会い、向かいの食堂に入ると牛山さんが居られた。牛山さんは鯖大師でいっ たん打ち止めして自宅に帰り 5 月にまた歩くという。ここでお別れしたが、荒川さんの杖と 22


間違えて持っていかれてしまった。あとで宅配便で送りあいすることとなったが連絡先を聞 いておいてよかったと安堵した。 国道 55 号線はトンネルが多くトラックが轟々と走り抜けていき、アスファルト道なので 味気ないが海岸の景色がとてもいい。ひたすら歩いていると那佐でごみ拾いしながら散歩し ておられた熟年の紳士が“うちでお茶でも飲んでいきませんか”と声をかけてくださり、三 重さんの庭にある白いテーブルでコーヒーとお菓子の接待を受けた。東京で商社勤めを終え、 旅行で訪れたこの地が気に入り土地を買って白い瀟洒な家を建てて移り住んだという。品の 良い奥さまは陶芸や菜園を、ご主人は船を持って釣り三昧(ブリやカンパチ)の生活をして おられるという。子供さんは大阪と東京におられるそうだ。穏やかで心満たされた日々を重 ねておられるのだろう。おふたりから熟年夫婦の豊かさが漂う。素敵な老後だと思う。 はるる亭の湯は 24 時間入れる温泉(湯を運んでくる)で肌がつるつるになり温まる。夜 2 回と朝風呂もいただいた。美しくなった気がした(*^_^*)食事も板前のご主人が腕を振る ってくださり、とこぶしの煮付け、かんぱちの焼き物、たび海老の煮付け、そうめん、和え 物、潮汁、豆腐サラダ、フルーツと盛りだくさんで美味しかった。 人生がむしゃらに 走るときもあり のんびりと 歩くときも あっていい 遍路の言葉

三重氏、荒川さんと

三重夫人と

はるる亭・青森さん、荒川さん

平成 20 年4月3日(木) 晴 ℃ 10 時間 30 分:28.0km 甲浦港には多くの船が係留してあり干魚の臭いがした。番外の明徳寺(東洋大師)ではご ご住職が読経中だったので、コーヒーの接待を受けながら終わるのを待ってご朱印をいただ いた。待ち時間への軽い苛立ちが見えたのか“ゆっくり廻りなさい”といわれてしまった。 達磨大師さまに似た濃いお顔が優しい。右手の小屋は野宿遍路のための部屋になっていた。 野根川の桜並木の堤がのどかで美しい。遍路道に入り東屋でおにぎりをいただく 。“ごろ ごろ海岸”から見えるのは海と空、波打ち際のごろごろ石と泡立つ波ばかり。海上人の庵で 谷川の水を汲む。このあたりは雨量 63mm/h以上または継続で 280mm以上の時、道路は 封鎖される。穏やかな今日の日に感謝して歩き続ける。 二十三番薬王寺から二十四番最御岬寺までの 74.2kmを 3 日かけてただひたすらに歩く。 「室戸岬まで○km」…道路標識が 1kmづつ減っていくのが励みだ。 佛海庵を経て民宿徳増に着いたのは 4 時半だった。青森さんはここから 11.4km先のロッ ジ室戸岬まで足を延ばす予定と聞いたが今どの辺りにおられるかしら。私はこれが限界。足 のマメが痛む。体が軋む。

甲浦港

東洋大師

野根川の桜並木 23

ごろごろ海岸


とにかく 歩き続けること そうすれば 必ずなにか 見えてくる 遍路の言葉

佛海庵

徳増

徳増からの夕日

平成 20 年4月4日(金) 晴 ℃ 6 時間 20分・ 27km 7 時に徳増を出て 10km。延々と海と空の続くアスファルトの海岸道路をゆく。荒川さん は左足、私は右足にマメができたのでロッジ室戸岬の前で手入れをする。昨日のうちに青森 さんは病を抱えてここまで歩かれたのだと思うと精神力と体力の強さに感心する。 天狗岩を過ぎると巨大な青年大師像がみえた 。「室戸岬へようこそ」と出迎えてくださっ み

ているようだ。少し行くと弘法大師さまが修行のために起居した洞窟・御厨人窟があった。 洞窟の中は胎蔵界とされる修行の場。内部は広く、奥行きは 20mほど、天井までは 5mほど あり、奥に祭壇が設けられている。たくさんの蝋燭の火が揺らぐご宝前で若い遍路僧が一心 に経を読誦しておられた。 洞窟は左右にふたつあって、いずれもその真っ暗な中から洞窟入り口の向こうを見ると、 目に入るのはかなたの地平線だけ。空と海、それだけしか見えない。この洞窟での修行から 弘法大師さまは「空海」の名を得られたのだという。 納経所でお菓子と蜜柑の接待を受けた。セサミヘアーの堂守さんは、どこか吉永小百合に 似た温かみのある方だ。遍路を機にヘアダイを止めることにした私は、この遍路旅を終える ころ、堂守さんのようにセサミヘアーになると思うと、皆の驚く顔が楽しみになってくる。 それにしても女性ひとりで次々と納経帳に筆を走らせて朱印を押印されるお姿に見とれ てしまう。ここは納経所だけで庫裏などなさそうだがどこから通っておられるのだろうか。 御厨人窟の先から熱帯植物が群生する遍路道を登るのが正規の参拝ルートである。アスフ ァルトで痛めた足には、久し振りに土のふんわり感が優しく足を労わってくれるが、急登に ほっつみさきじ

息が切れる。頑張れ!最御崎寺まであと一息だ。 法性の 室戸といへど わが住めば 有為の波風 よせぬ日ぞなき 天狗岩

青年大師像 そ

きゃう

しん

仁王

したが

へん

し ん けがはら

御蔵洞

新勅撰和歌集

きゃう に ご

夫れ 境 心に 随 って変ず 心 垢 しければ 境 濁る し ん

きゃう

う つ

心は境を逐って移る きゃうしづか

し ん ほがら

境閉なるときは心朗かなり し ん き ょ う み ょ う か い て ど う ど う と く はるか

そ ん す

心境冥会して道徳玄に存す 御蔵洞堂守さんと

空海漢文詩集『性霊集』

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遍路道


修行の道場(第二十四番最御崎寺~第三十九番延光寺)・土佐(高知県) 『彼ノ音ニ聞土州飛石・ハネ石ト云所ニ掛カル。此ノ道ハ難所ニテ三里カ間ニハ宿モ無シ。 陸ヨリ南ヘ七八里サシ出タル室戸ノ崎ヘ行道ナリ…』と約 340 年ほど前に智積院の学僧・澄 禅(1613~80)が『四国辺路日記』に書いている。第二十三番の薬王寺から第二十四番の最 御崎寺間では約 83km、3 日がかりの道程だ。まさに修行の道場といわれる所以だ。昔、野 根から室戸岬に至る約 35kmの海岸線は、断崖がそのまま海に落ち込むといった凄ましさで、 修行者たちは波打ち際を岩伝いに危険を冒して歩いていったのだろう。国道が通っている現 在の比ではない。「遍路は路に有る」という。さあ、歩き続けるのだ。 む ろ と さ ん みょうじょういん

ほつみさきじ

第二十四番札所 室戸山 明 星 院 最御崎寺 高知県室戸市室戸岬町 4058-1 0887-23-0024 虚空蔵菩薩 海岸近くの丘の上には、弘法大師さまの霊験にまつわるエピソードを伝える見所が多くあ る。青年大師像や「御厨人窟」を始め、密教の儀式を行った「灌頂ヶ浜」、海岸にありながら 真水が湧き眼病に霊験あらたかな「目洗いの池」、小石を投げ入れると子宝に恵まれる「子授 け岩」、嵐の日に大師さまが岩をひねって母君を避難させたという「ひねり岩」「一夜建立の岩 屋」などを通って行くと壮大な仁王門だ。 アコウ、ウバメガシ、ヤッコソウなどの亜熱帯の樹木に囲まれて、鐘楼、大師堂、多宝塔、 歓喜天堂、護摩堂、本堂などの堂宇が建ち並ぶ。大師堂の脇には「鐘石」があり、たたくとカ ンカンと金属音が響く。この音は極楽浄土まで響く鐘の音だという。室戸は弘法大師さまが 激しい修行の末、ここで虚空蔵求聞持法を成就。悟りを開いた霊場として知られている。 遍路以前の辺路信仰の、修行の主たるものは「洞窟に籠もる」 「行道」 「海の彼方の常世にい る祖先の霊に、聖なる火を捧げる」ということだった。最御崎寺は海の彼方に向けて聖なる ほ

火を焚く行場「火っ岬」に建てられたという。 自ら刻んだといわれるご本尊は求聞持法と縁の深い虚空蔵菩薩で、これを本尊とする札所 は第十二番の焼山寺と第二十一番の太龍寺とここの三ヵ所だけで、明治の初年までは女人禁 制で厳しい修行の寺だった。 弘法大師さまはここでの修行後、唐に渡り更に修行を重ねて帰国し、大同2年(807)に 再び室戸岬を訪れ、嵯峨天皇の勅願によって最御崎寺を建立した。以来この寺は天皇の勅願 所として栄え、南北朝時代には土佐国を鎮護する土佐国分寺にもなった。江戸時代には土佐 藩主山内氏の手厚い保護を受けて七堂伽藍を整えた。 しかし、明治の神仏分離によって一時は見る影もなく荒れ果てたが、大正 3 年に復興。現在 の本堂は大正 13 年の再建だ。 仁王門を出たところで、野宿遍路の鈴井さんに再会する。お互いにもう会えないと思って いたので嬉しい!3 人で積もる話をしながらしばらく一緒に歩き、お昼時だたったのであち こち店定めをしながら、(といっても 2~3 軒しか店はないのだが)結局、海洋丸というお店 で干し鯖定食をいただいた。ご主人が漁をして調理してくれたもので干し鯖が美味しかった。 結果なんか 問題では ありません 今大切なことは 無欲で歩く ということです 山門

本堂

遍路の言葉

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鈴井さん、荒川さんと


鈴井さんが眼を痛めるので紫外線対策をしたほうが良いというので、室津の町でサングラ スとマメの手当て用グッズを探した。メガネ屋さんで奥さんの手作りの紙人形とメガネ拭き の接待をしていただき、そのうえ値引きもしてくれ 1,000 円ですてきなサングラスをいただ いた。やはり眼が眩しくなくて疲れない。教えてくれてありがとう。買ってよかったと思う。 ほうじゅさんしんごんいん

しんしょうじ

第二十五番札所 宝珠山真言院 津照寺 高知県室戸市室津 2644 0887-23-0025 延命地蔵菩薩 室戸岬から海岸沿いの道を6km ほど進んだ室戸市の中心部、室津港を見下ろす高台にあ る寺である。ふもとに建つ朱塗りの四脚門をくぐると右手に大師堂と納経所があり、正面に は長い石段が続く。石段の途中には竜宮造りの鐘楼門が建てられ、正面につけられているの か じ と り じぞう

が船楫のマーク。そしてご本尊の延命地蔵菩薩さまは「楫取り地蔵」とも呼ばれている。 内助の功による出世物語で知られる土佐藩主・山内一豊の不思議な話が伝承されている。 山内一豊が室戸沖を航行中に暴風雨に襲われ、遭難しかけた。そこへ一人の僧が突然現れ、 船の舵をとり、見事に船を操って港へと導いた。しかしその僧は港に着いた途端、姿を消し てしまった。不思議に思いながらこの寺に参詣したところ、本尊の地蔵菩薩さまが海水でび しょぬれになっていたというのだ。 さらに登ると目指す本堂だ。高台に立つ本堂からは室津の港や海が一望のもとに見える。 この小高い丘の上の寺は海上からもよく見えたため、寺は室戸の「仏の灯台」と呼ばれ、文 字通り、津(港)を照らす寺として船乗りたちの目印となり、厚く信仰されてきたという。 仏様は 信じる人も 信じない人も 見守って くださる 遍路の言葉

山門

本堂

大師堂

厄除け坂

買い物をしたので時間を取られたうえに足が痛むので急ぐこともできず、今日は金剛頂寺 の宿坊泊まりなので、納経は諦めて明日の朝に延ばすことにした。 海岸沿いの国道 55 号線を歩き、元川にかかる元橋を渡り、民宿うらしまを右折。坂道を 上がると、途中から歩き遍路専用の登山道となる。5 時 20 分に着いたので納経所は閉まって いると諦めていたが、団体客があったので、 “まだいいですよ”と快くご朱印をしてくれた。 有り難い。これで明日は早立ちができる。偶然ではなく必然のこととしてお手配いただけた と気付き、感謝の合掌をする。ここで竹内家・北岡家・和空妙睦大姉の供養をお願いした。 りゅう ず さ ん こうみょういん

こんごうちょうじ

第二十六番札所 龍 頭山 光 明 院 金剛頂寺 高知県室戸市元乙 523 0887-23-0026 薬師如来(秘仏) 室戸岬の最御崎寺を「東寺」と呼んだのに対してこの寺は「西寺」とご詠歌でうたわれて いる。曼荼羅のように東が胎蔵界、西が金剛界を表し、このふたつの寺の修験の火が焚かれ、 沖行く船はその曼荼羅の火によって、安全が保たれたのでしょう。これは第二十番と二十一 番のお鶴と太龍の曼荼羅と同じと思われる。 ここも弘法大師さまが若き日に修行をしたという場所であり、行当岬は古くは行道岬の文 字が当てられていた。行道は修行の道である。『弘法大師行化記』によると、室戸埼にきた 26


弘法大師さまを、天狗があの手この手で邪魔をしたという。大師堂には、大師さまと天狗が 問答したという銅板レリーフもある。金剛頂寺は大同二年(807)、詔勅により弘法大師さま が創建したといわれる。本尊の薬師如来さまは大師作。彫り上がるや、尊像自らが本堂の扉 を開けて鎮座したという。以来 1200 年の間、秘仏とされて誰も見たことがありません。後 年、淳和天皇も勅願寺とし、平安時代には室戸市の大部分を寺領とするなど栄えた。中世に は長宗我部氏、江戸時代には土佐藩主の山内氏らの保護を受け隆盛を見せたが、明治の廃仏 毀釈などで次第に衰退することとなる。明治 32 年には火災で堂宇を失った。現在の建物は その後再建されたものである。 男女の厄除けの数に合わせた石段を上がると、巨大なわらじが奉納された山門があり、さ らに登ると右手に鐘楼、左手に大師堂正面に続く階段を上がると本堂がある。 大師堂の脇には「一粒万倍の釜」がある。弘法大師さまが 3 合 3 勺の米を炊いたところ、 それが、一万倍に増えたという伝説がある釜だ。また事前に連絡しておけば、霊宝館に所蔵 されている平安時代の仏像や弘法大師さまのものとされる密教の法具を拝観できる。 評判どおりのきれいな宿坊(わたしたちは新館が満員とのことで旧館ではあったが)と堂 守さん自らがお給仕にまわり、あれこれと気遣いくださる夕食の美味しいこと 。“今までで 最高だね”と私たちもはしゃぎながら、いただいた。今日の宿泊客は大分から来たという団 体客が 20 人くらいで、あとは一人遍路、車の夫婦遍路、先達など合わせて 6 人と賑やかだ。 団体のバスでこられた西福寺のお庫裏さんがニコニコしながら“ひとり遍路のご婦人だけ へのご接待ですよ”と手作りの藍いろの地に小花を散らした手提げ袋と猫のブローチを接待 にとくれた。この手提げ袋に猫ちゃんをつけて地図や食べ物・メモ用紙・デジカメなど小物 を入れ、胸の前にぶら下げて使わせていただくことにした。 また同じテーブルに 100 回以上遍路されたというプロの大先達が居られて、遍路の心得や 札所についてのエピソードや経験されたことをあれこれと教えてくださった。そのうえ金の 納め札もくださった。嬉しい!今日の出会いに感謝。 人生には 偶然という 要素は まったく 存在しません 薬師寺 高田好胤

山門

本堂

駐車場横の童子像

平成 20 年4月5日(土) 晴 ℃ 10 時間 25 分・32.5km 6 時よりお参りと説法があった。6時 50 分に境内を西に抜け山道を下る。道の駅キラメ ッセ室戸を右へ。国道 55 線を歩き、2 時 10 分に民宿きんしょうに着いた。ここに荷物を預 け、東谷入口から登山道をお山へと向かう。 神峯寺はその険しさから「土佐の関所」といわれている。いまから標高 430mの山上にあ る神峯寺まで上がってもそこに宿坊がなく山麓の民宿きんしょうまで下山することを考え ると、急がねばならない。荒川さんと私は川地さんに引っ張られ、かなりきつい急坂を 1 時 ま っ た て

間 40 分ほどで登り、神峯寺に着いた。本には「とりわけ厳しいのが《真っ縦》と呼ばれる 急坂だ。一歩一歩が難行苦行を思わせる遍路泣かせの道で、傾斜 45 度に及ぶ急勾配が 1.3 kmも続く。」と書いてあったので覚悟していたが、逆に身ひとつで上がると、こんなに��� 早く心地よく歩けるのだと実感した。きっと心に着ている衣を脱ぎ捨てると同じように軽や かに心地よい人生が送れるのだとも思った。しかし、ほっとすると足が痛み出した。また血 27


マメが大きくなってしまったようだ。 ちくりんさん じ ぞ う い ん

こうの み ね じ

第二十七番札所 竹林山地蔵院 神 峯寺 高知県安芸郡安田町唐浜 2594 0887-38-5495 十一面観音菩薩 山門までたどり着くと、右側にある鳥居は神峯寺よりさらに北に登ったところにある神 峯神社のものだという。神仏習合の典型的な寺で、神社の内殿に観音堂があったというの だ。ようやく見えてきた仁王門の先の 150 段の石段を登りきると本堂があり、キリッと張 りつめた透明な空気が漂う。弘法大師さまの霊験あらたかな「神峯の水」を一口いただく。 甘くて冷たくて美味しい。体のすみずみまでしみわたる。昔、病に伏した女性が、この水 を飲ませてもらって一命を取りとめたという伝説の水だが、急坂を登ってあえぐ身には、 まさに命の水といった印象だ。 寺の歴史は神話の時代にさかのぼり、神后皇后が三韓征伐の戦勝祈願をしたのが始まり という。つまりここは、仏教伝来のはるか以前に建てられた神社だったのだ。その聖域に 行基菩薩さまが十一面観音さまを安置し、以来ここは神仏混交の霊場となった。明治の廃 仏毀釈でいったんは荒廃したが、その後復興。仁王門の脇に建つ神峯神社の鳥居がそんな 歴史を物語っている。 本堂にお参りし大師堂の前に立つと心が澄んでくるのが分かる。静かにゆっくり心経を お上げした。境内には佛足石のお堂もあった。 足のマメが痛く下りは荒川さんと一服して降りることとした。元気印の川地さんは先に 宿にもどるという。 境内で足を冷やして休んでから、下りようとして仁王門に立って参道を見ると、登ったと きには気がつかなかった勾配の厳しさに「真っ縦」の言葉を思い出した。ここからの眺望 は、時を忘れさせるほどだ。 足の痛さを忘れるため、大声で演歌を歌いながらゆっくり歩いていたら、宿のご主人が 車で迎えに来てくれた。宿の近くだったので、車に乗らずそのまま歩いて宿に着くと川地 さんがお風呂を済ませて、遅い私達を待っていてくれた。お詫びして一緒に夕飯をいただ いた。今夜の泊まりは私たち 3 人だけだったが、買ってきたフライを並べただけの夕食に 少しがっかりした。良い日があるからそうでない日もあると分かっていても、心底分かっ ていない私。昨日の宿坊が良すぎたので 2 軒を足して割れば平均かな?と思うことにした。

川地さん、荒川さん

仁王門

本堂

大師堂

もう少し ゆっくりと 歩いてみようよ まだまだ先は あまりにも 長いのですから 遍路の言葉

佛足石のお堂

仁王門 28

参道

遍路道


平成 20 年4月6日(日) 曇のち晴 21℃ 9 時間 20 分:24.5km 6 時半に民宿きんしょうを出て、道の駅大山でトマトを買って食べる。野菜不足の体には 完熟トマトが甘く美味しい。海岸沿いの舗装された国道 55 号線のアスファルトは足を痛め つける。「365 歩のマーチ」「酒は涙か溜息か」「北の春」「こぼれ紅」「浪花恋歌」を歌い、苦 しくなると『なぁむたぁいし、へんじょうこんごう』と称名に変わる。防波堤歩道公園や八 流山サイクリングロードは海岸に沿って桜、松林が美しい。栗山英子さんの接待所は広く、 等身大の人形たちが温かく迎えてくれた。コーヒー、ビスケット、みかんをいただき元気が でてきた。 しばらく歩くと犬を連れた 3 人家族が声を掛けてくれ 200 円のお接待をいただく。 他にも高野山から帰ったという婦人の励ましや接待小屋のご主人が泊まりなさいと勧めて くれたり…足を引き摺りながら善意に後押しされて、始めて 4 時前に宿に着くことができた。 道端に咲く タンポポの 根のように強く タンポポの 花のように 美しく生きたい 遍路の言葉

防波堤歩道

堤歩道公園

栗山英子さんの遍路接待小屋

サイクリングロード桜

お龍(坂本竜馬妻)と君江(菅野寛兵衛妻)姉妹像

サイクリングロート松林

住吉荘

平成 20 年4月7日(月) 雨のち晴 ℃ 8 時間 10 分:27.5km 住吉荘は大分の諌尾さんと私達の 3 人だけだったが奥さんの温かさと心づくしの食事がよ かった。サイクリングロードには桜をはじめにいろいろの花が咲きみだれ、松林や砂浜を縫 って道が続き、温泉プール・野外劇場・公園・洒落たトイレなどがあり整備されていた。10 kmの雨道を諌尾さんと 3 人で歩き 9 時半に大日寺に着いた。 ほっかいさんこうしょういん

だいにちじ

第二十八番札所 法界山 高 照 院 大日寺 高知県香南市野市町母代寺 476-1 0887-56-0638 大日如来(秘仏) 野市の市街地から少し離れており、周囲はうっそうと茂った樹木に囲まれて、ちょっと山 寺めいた雰囲気がある。境内は初春のサンシュユやしだれ桜など季節の花が美しい。 ご本尊の大日如来さまは行基菩薩さまの作とされるもので、高さ 4 尺 8 寸 2 分(約 145cm) は、四国に伝わる行基作の仏像では最大級のものといわれる。奥の院の薬師如来さまは「弘 法大師の爪彫り薬師」として知られている。大師さまがクスノキの大木に直接爪で彫り付け たという薬師如来さまで、明治の頃までは立ち木のまま、祀られていたという。その後、台 風でこのクスノキが倒れてしまったので現在は、霊木の如来を彫った部分を小さな薬師堂に 安置している。 この薬師如来さまは昔から「首から上の病に霊験あらたか」といわれており、頭痛や眼病、 歯痛などや身内の脳梗塞、最近は花粉症の平癒を祈る人も多いとか。ご利益を授かった人々 がお礼参りに納めた穴の開いた小石が無数あった。 29


咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる 遍路の言葉

山門

本堂

納経所入口

佐古簡易局でお金を下ろしたらお茶・飴・ティシュの接待を受けた。どんなところにも郵 便局があるのは有り難いと思う。郵政民営化が過疎地に生活の不便をもたらせないことを願 うばかりだ。遍路道沿いに真新しい大師堂があり雨を避けて荒川さんと小休止した。12 時に 松本遍路小屋に着いた頃は身体がすっかり冷えていたので、食堂に入り温かい食事を摂った。 ま に さ ん ほうぞういん

こくぶんじ

第二十九番札所 魔尼山宝蔵院 国分寺 高知県南国市国分 546 088-862-0055 千手観世音菩薩 天平 13 年聖武天皇の国分寺建立の詔によって建てられた国分寺のひとつ。平安時代『土 佐日記』を著した歌人・紀貫之が土佐の国司として赴任していた時は、屋敷をこの寺の近く に構え、住職と親交を温めていたという。きっと素敵な会話が交わされていたのでしょう… と遠い昔に思いを馳せる。 広い境内の東側には、天平時代の土塁の名残と思われる高さ 2m、幅 3mほどの土塁が残 る。また塔の心礎石と思われる石も発見されており、境内全域が「土佐国分寺跡」の文化財 として国の史跡に指定されている。明暦元年(1655)に建てられた楼門形式の壮大な仁王門 よせむねこけらぶ

をくぐり、ヒノキの並木が森閑とした雰囲気を漂わせる参道を進むと、正面に寄棟柿葺きの 金堂がある。戦国時代に土佐を統一した長宗我部元親によって建てられた規模は大きいが簡 素な建物である。寄棟の屋根の手前の部分がせり出して向拝という独特の形式になっている のは江戸時代に土佐藩主山内氏によって改修され、向拝の蛙股には山内氏の家紋である土佐 柏が彫刻されている。大師堂の前で遍路さんが尺八を奉納しておられた。2 時前というのに 曇天で色が失せたような境内に、尺八の音が朗々と響き渡る。一幅の墨絵のようだ。 大師堂の左手に建つ小さなお堂には「酒断ち地蔵」が祀られている。酒をやめたい、やめ させたいと願う人々が絶え間なく訪れるという。♪酒は飲んでも飲まれちゃならぬ、それが 男というものさ♪という懐かしい青春時代の歌を思い出した。歌手は竹越美代子さん。 過去を背負って いない者は おりません みんな過去を 背負っているのです 山門

薬師寺 高田好胤

参道

境内

3 時すぎから晴れ上がり暑くなった。土佐神社の参道は杉の巨木が続く並木道でこの突き 当たりに本殿、幣殿、その手前に大きく左右に突き出た翼拝殿そして手前に大きく突き出し た拝殿がある。変わった造りの建物は参道入り口の楼門とともに国の重要文化財に指定され ている。善楽寺へは神社社殿の手前で右に曲がる。明治になる前は現在の土佐神社が札所で 神社別当のこの寺は納経所だった。ひどく痛む右足を引き摺りながら 2 時間余りかけて善楽 30


寺にやっと辿り着いた。ここで荒川さんの親友で車遍路をしている金沢の高田さんと待ち合 わせ、車でホテルまで送ってくださると聞きほっとしたら、足が痺れるほど痛んできた。 ど ど さ ん とうみょういん

ぜんらくでら

第三十番札所 百々山 東 明 院 善楽寺 高知県高知市一宮 2501 088-846-4141 阿弥陀如来 明日は 4 月 8 日でお釈迦さまの誕生日である。境内は『花祭り』の準備のテントが張られ お堂のすべてに見事な生け花が活けてあった。 この寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、本尊の阿弥陀如来像と弘法大師像は二十九番の国 分寺ヘ預けられたが、その後阿弥陀如来像だけが安楽寺に移され、安楽寺が新たに三十番札 所となった。一方昭和9年、国分寺に預けられていた大師像を戻して善楽寺が復興する。善 楽寺は元々三十番札所の納経所だったから、三十番札所が案楽寺と善楽寺の 2 ヶ所になって しまった。この状態は長く続き「遍路迷わせの三十番」と呼ばれていたが、平成 6 年によう やく善楽寺が三十番札所、安楽寺が三十番奥の院ということで落ち着いた。 善楽寺の本堂は昭和 58 年に建てられた。向側の梅の木のは梅見地蔵があり、目、口、脳 など首から上の病に霊験あらたかといわれている。JR 高知駅から西に 1kmほどのところに、 奥の院となった安楽寺がある。 足が痛むので高田さんの車でホテル土佐路・たかすまで送ってもらい、ここでやはり荒川 さんの女友達である大村さんと合流して、高田屋という居酒屋へ繰り出し 4 人で楽しいひと 時を過ごした。

思いもかけない 人との出会い 思いもかけない 人の手を握り 一期一会の喜び 遍路の言葉

本堂

高田さんと

花祭りの準備

居酒屋高田屋前

土佐路たかす

平成 20 年4月8日(火) 晴 ℃ 8 時間 03 分:19km たかすに荷物を預け善楽寺まで高田さんに車で戻っていただき、昨日の続きから歩き始め た。たかすで荷物を受け取り、五台山に向かう。 標高 145mの五台山は山全体が公園になっており高知を代表する桜の名所。市内のどこか ら見ても峰が五つに見える美しい山である。 展望台や休憩所・売店などや牧野植物園もある。ここは世界的な植物学者である牧野富太 郎博士の出身地であり、限りなく植物を愛した牧野富太郎博士の偉業を見て、改めて感動し た。繊細なタッチで正確に描写された『花のスケッチ集』や絵葉書を購入した。 ここで高田さんに再会した。荒川さんと 3 人でコーヒーを飲んでまたお別れした。 自然の花は 雨風に耐えて 咲き 色も香りも 優れている へんろ道 遍路道

遍路の言葉

植物園建設記事 牧野富太郎先生ご夫妻 31

牧野富太郎博士


ご だ い さ ん こんじきいん

ちくりんじ

第三十一番札所 五台山金色院 竹林寺 高知県高知市五台山 3577 088-882-3085 文殊菩薩(秘仏) 山号の五台山は文殊菩薩が現れたという中国仏教の霊山のひとつで、その五台山に似た山 容の霊地として、神亀元年(724)、聖武天皇の勅願によって行基菩薩さまが文殊菩薩を安置 して開創した。 本堂と大師堂は寛永 21 年に、二代土佐藩主・山内忠義氏によって建てられた室町様式の 建物で、十二代藩主・山内豊資氏の筆による「文殊閣」の額が文殊堂に掲げられている。 ご本尊の文殊菩薩さまはクスノキの 1 本造りで木彫りとしては日本で最も古い時代のも のである。 宝物殿には文殊菩薩さまの四侍者である善財童子や藤原時代の十一面観音さまや薬師如 来さまなど十七体の重要文化財の仏像が展示されている。善財童子は文殊菩薩さまの指南に より、さまざまな分野の達人ともいうべき 53 人を訪ねて善知識を聞き、悟りを開いたとい う。童子が教えを請うたのは、仏・菩薩から資産家、医師、漁師、遊女までで「自分以外の すべての人が皆、わが師なり」を実践し、道を開いていったのである。童子が訪ねた善知識 の数が「東海道五十三次」の宿場数のもととなったといわれる。境内には室町時代の禅僧夢 想国師の築庭という国指定名勝の庭園もある。 竹林寺は「よさこい節」で歌われている、かんざしを買った純信というお坊さんがいた寺 としても知られている。江戸時代の末頃、鋳掛け屋の娘・お馬が寺で奉仕作業をするうち、 僧侶の純信に心を寄せるようになった。一方の純信は身の回りの世話をしてくれるお馬に、 お礼にかんざしを買ったが、その姿を見られて噂が広まり、二人は琴平に駆け落ちし、お馬 は旅籠女中、純信は寺子屋で教師として働いていたが、やがて見つかり高知城下でさらし者 にされ、追放刑を受けたという。純信がかんざしを買ったはりやま橋は、この寺から 6km 先にある。これは江戸末期にあった実話である。 明治期になると、あらぬ噂を立てられるのを嫌って自分で睾丸を取り除いて戒律を守り、 人々の願い事を叶えるため、即身成仏したという凄ましい僧侶もいた。大師堂裏の船岡堂が その石室である。 土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい♪ よさこい♪ 境内 山門 本堂 新緑の境内 私は折角購入したサングラスをなくしてしまった。その話を聞いて大村さんが買ってきて くださるという。一度サングラスに慣れた眼には日差しがまぶしく辛いので、好意に甘える ことにした。 山道を下って下田川沿いの道を東へ。瑞山橋を渡り、長く暗い石土トンネルを通って道な りに進む。大村さんから 1050 円で買えたと連絡があり、247 号線の石土神社までサングラス と差し入れのドーナッツを届けてくださった。ふっくらとした日本美人で気配りをされる温 かい方。すっかりお世話になってしまった。 桜が散り敷く道を蛙の合唱に送られて足取りも軽く進む。禅師峰寺の入口のところに峰寺 不動明王さまが祀られてあった。岩を背にすっくと立っておられるお姿は力強く 、“悪しき ものはなんびとも通さないぞ”という気迫が伝わってくる。思わず立ち止まり心経を上げさ せていただいた。 32


安心して 歩いてください 出口のない トンネル など 絶対に ありませんから 遍路の言葉

石土トンネル はちようさんぐもんじいん

ぜんじ ぶ

峰寺不動明王さま

禅師峰寺略縁起

第三十二番札所 八葉山求聞持院 禅師峰寺 高知県南国市十市 3084 088-865-8430 十一面観世音菩薩 太平洋を眺める峯山の山上にあり「峰寺」の通称で親しまれている。高台の境内からは眼 下に土佐湾、遠く桂浜や浦戸大橋が眺められる。縁起によれば、弘法大師さまは「この山の 姿が観音の浄土である補陀洛山にあると伝わる八葉の蓮華座(仏さまの台座)に似ていると して観音霊場にした。 駐車場の傍らに巨大な十一面観音菩薩像が立ち、参詣者を迎えてくれる。石段を上がって いくと国の重文の仁王門がある。鎌倉時代の仏師・定明の作といわれる重文の金剛力士像は 収蔵庫に保管されている。境内には奇岩怪石が目立ち、不動明王さまや水子地蔵さま、弘法 大師像が点在する。本尊の十一面観音さまは、弘法大師さまが土佐の海を行く船の航行安全 を祈願して刻んだ「船魂観音」で参勤交代のため土佐を発つ歴代の藩主も参詣し、船旅の安 全の祈願をしたという。峰寺の修法の火を常に絶やさなかったので、灯台の役割を果たした のでしょう。 石段を下っているとまた鈴井さんに会った。昨日はテントのポールが折れて町で修理して きて、今から禅師峰寺に参り、今夜は渡船場の公園か善根宿に泊まるという。楽しそうだ。 野宿はいいな。でも体に気をつけてね。 ビニールハウスが目立つ田園風景の中を行き、三里で住宅地を抜ける。種橋渡船場から 1 時間に 1 本運航している県営渡船を利用し対岸の梶ヶ浦まで 5 分で渡ることができる。5 時 過ぎということもあって船には通勤のバイク・自転車も含め 25 人ほどが乗っていた。遍路 は 3 人のみだ。海風が心地よく、見晴らしも素敵だ。なによりも無料なのが嬉しい。 歩き遍路さん いいやつも わるいやつも みんなみんな大切な わたしの仏さま 遍路の言葉

仁王門

禅師峰寺の石段

本堂

種崎渡船所

梶ヶ浦渡船場から雪渓寺まで 1.4km30 分。5 時を過ぎていたのでお参りだけ済ませ、朱印 は明日頂くこととする。雪渓寺門前の高知屋さんが今夜の宿だ。お風呂を頂き 6 時 30 分に 夕食をいただく。にんにく・玉葱・かつおぶしなどの入ったかつおのたたきのたれは、高知 屋オリジナルという。美味しかった。宿も改築されたばかりで新しく、温かいもてなしや洗 濯のお接待も受けた。 珍しく 30 代の女性遍路さんがふたりも同宿された。ひとりは焼山寺で野宿の遍路さんか ら言伝を頼まれたがお会いできなかった新潟の方で、もうひとりは九州の方で 3 回目の遍路 33


をしておられるという。うら若い女性が一人遍路旅をされるきっかけはなにかと少し気にか かる。夜、会計事務所の太田先生から電話をいただいた。優しく懐かしい声で 、“遍路のき っかけはなにかあったの”と私も聞かれてしまった。(~o~) 平成 20 年4月 9 日(水) こうふくさん

小雨

15℃

8 時間 30 分:29km

せっけいじ

第三十三番札所 高福山 雪渓寺 高知県高知市長浜 857-3 088-837-2233 薬師如来 9 時を待って納経をしていただく。この寺は延暦年間(782~806)に弘法大師さまによっ て開かれ、当時は高福寺といって真言宗の寺院であったが、鎌倉時代には仏師の運慶とその 息子の湛慶が訪れたという伝承があり、一時期慶運寺と名乗ったこともある。その後寺は荒 廃。寺勢を取り戻すのは戦国時代で、それにはこんな伝説がある。天正年間(1573~1592)、 荒れ果てたこの寺には老僧の幽霊が出没していた。この寺を訪れた月峰上人は、迷っていた 霊を成仏させてやった。当時この辺りを治めていた戦国武将の長宗我部元親はこの話を伝え 聞き、月峰上人を住職として寺を復興させ、ここを菩提寺とした。四国らしからぬ雪渓寺の 寺号は元親の法名「雪渓恕三大禅定門居士」にちなんで改められたもの。真言宗だった寺は この時に元親の信仰していた臨済宗に改宗。八十八ヵ所では珍しい禅寺である。石柱門が建 つだけの山門から境内にはいると、鐘楼、その奥に大師堂、観音堂が建ち、正面に本堂があ る。大師堂の前には釈迦如来さまの一番弟子で神通力を持つおびんづるさまがある。自分の 体に痛むところがあるときは、おびんづるさまの同じところをなぜると治るという「なで仏」 である。霊宝殿には運慶作という本尊の薬師如来像や脇侍の日光・月光菩薩像、湛慶作の毘 沙門天像など重文指定の仏像が安置されている。明治初期の廃仏毀釈でここも潰れたが重興 させたのは第 17 代大玄と第 18 代玄峰だ。玄峰老師は和歌山県湯の峰温泉で生まれ、22 歳の 折眼病で失明した。世をはかなんで四国遍路の旅に出たが、7 回目の途上で倒れ大玄に拾わ れて出家した。各地で修行を重ね、愛知県犬山市の瑞泉寺を復興させ、名古屋の日泰寺など の住職を務めた後、82 歳で京都の大本山妙心寺の管長になった名僧で、昭和の政財界、思想 界に大きな影響を及ぼした人物である。玄峰の願いは遍路となってお大師さまに見守られ、 四国路で行き倒れになることだったという。17 回の遍路旅の最後は 95 歳の時で昭和 36 年に 96 歳で入寂されたという。犬山の隣町に私は住んでおり、身近に高僧がおられたということ になんとなく晴れがましさを覚えた。 生まれてくる とは 病気になり 災難にも 遭うことなり 門

縁起

本堂

遍路の言葉

高知屋のおかみさんと

丘陵地帯に広がる県道 278 号を歩く。約 9.8km3時間 20 分ほどで三十四番さんへ着いた。 ほんおやますざくいん

た ね ま じ

第三十四番札所 本尾山朱雀院 種間寺 高知県吾川郡春野町秋山 72 088-894-2234 薬師如来(秘仏・旧暦 1 月 20 日開帳) 寺号は弘法大師さまが唐から持ち帰った五穀の種を蒔いたという伝承から名付けられた。 用水路に沿った遍路道を行く。この寺はそんな伝承にふさわしいのどかなたたずまいを見せ ている。この寺の歴史は古い。日本に仏教が伝来した頃、百済(朝鮮半島)の仏師たちが暴 34


四国遍路~花曼陀羅を歩かせていただいて~02