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私のヨガの先生である、アシュタンガヨガ・ニューヨークのエディ・スターンの文章を 紹介したいと思います。ムーンデイにアーサナの練習を休む習慣についての説明の中で 、教義に固執しすぎることの危うさと、しかし同時に教えを受け継ぎ敬意を払うことの 重要さを伝えています。 新月と満月の日にアーサナの練習をしないという慣習については、その理由と意義につ いて様々なことが言われています。しかし実際はとてもシンプルな理由に基づいていま す。ご存知のようにグルジが学んでいたマハラジャス・パタシャラ(南インド・マイソ ールのサンスクリット大学)はムーンデイとその前後の1日、合わせて3日間は休講で した。生徒達はこの間もそれぞれ研究を続けていますが、新しい指導がなされることは ありませんでした。その理由の一つとして、これらムーンデイに教師と生徒達―ブラフ ミン。ヒンドゥの司祭階級―によって特定の儀式が執り行われることが挙げられます。 たとえば先祖を祀る儀式は新月に執り行うことに決まっており、またたとえば沐浴の儀 式はムーンデイの翌日に行う慣習となっていました。そして、こうした儀式を執り行う のは非常に時間がかかるものでした。また、私はその原典を発見出来てはいませんが、 パタビ・ジョイス師と、マイソールにいる私の「バガヴァッド・ギーター」の師、2人 が共に引用したのが以下のような言葉でした。「教師がムーンデイの前後3日間に新し い課題を教えるとその教師の知識は減少し、またその生徒の知識も減少してしまう。」 『グルジ』(古くからの生徒達、地元の近しい人々へグルジ=パタビ・ジョイス師につ いて聞いたインタビューをまとめた書籍)制作のためパタビ・ジョイス師の占星術師に インタビューを行った際、彼もまた知識の増減について共通する考えを以下のように話 してくれました。「我々のマインドは月であり、月と同じように満ち欠けがある。学び もまた空の月と同じサイクルに則っている」 パタビ・ジョイス師はマハラジャス・パタシャラ(サンスクリット大学)の生徒であり 、卒業後は1937-1973年までヨガの教授を務めました。ですから彼にとってムーンデ イ前後のお休みはこの頃からの習慣となっていました。さらにヨガをヴェーダの実践と 捉え、ウパニシャッドの知識にはアーサナ及びプラーナヤーマの実践こそが、そこへ至 る唯一の道だと考えていたジョイス師は、ヴェーダを指導する時と同じ慣習をヨガの指 導にも用いました。また満月・新月は「ナクシャトラス」(ヴェーディック占星術によ る星の運行)で特別な星の配置―コンジャンクション(合。占星術で星が重なり合い強 い影響があると言われる状態)にあるため、怪我をしやすく、またその怪我は治り難い とも話していました。これについて「ジョティシュ」(サンスクリット語で「占星学」 )をあたってみても私には確認することが出来ませんでしたが、しかしこれは彼が彼の 父親から学んだのではないかと推測出来ます。というのも彼の父親は熟達した「ジョデ ィシ=占星学者」でしたから。


パタビ・ジョイス師はこれらの事柄については相当な知識を持っていました。なぜなら 「ジョイス」という名前は「ジョティシュ」が南インド訛りで「ジョイス」となったも のであり、占星学はまさに彼の家系の伝統でした。これらの事からパタビ・ジョイス師 は14歳の時からムーンデイや星の運行についての知識や習慣を持っていたこと、そし て彼がこれらの習慣を持つに至った過程を知ることはとても興味深いということが言え ます。私たちはブラフミンでもなく、ましてやインド人でもありませんが、なぜ彼がこ のような事をしたのか理解に務めるのは大事ですし、彼が重要だとみなした事を受け入 れ従うことは、彼の生徒として私たちにも当て嵌まります。しかしだからと言ってこれ らを大げさに捉え過ぎ、様々な幻想を造りあげてしまうのは禁物です! これからするお話は、私たちが(例えばアシュタンガヨガ練習生が!)シンプルな事柄 に対して合理的な検証を怠ってしまう様子を面白可笑しく伝えてくれます。 ある村で、かつて高潔な学僧が木の下で「バガヴァッド・ギーター」の講義を行ってい ました。彼は1匹の猫を飼っていましたが、この猫がたびたび聴衆の間を跳び回り迷惑 をかけるため、僧は講義の間は猫を木に繋いでおくことにしました。時が経ち、魂が僧 の身体を離れ、僧がこの世から亡くなると、彼の弟子の一人が木の下で「バガヴァッド ・ギーター」の講義を続けることとなり、相変わらず猫は講義中は木に繋がれていまし た。そしてまた時が経ち、今度は猫が亡くなると弟子は次の猫を買ってきました。そし てそれから3世代が経つと、神聖なる伝統として「『バガヴァッド・ギーター』の講義 中は木に猫を繋ぐこと」と記されたのでした…。 パタビ・ジョイス師自身および彼のメソッドへの敬意から、ムーンデイの慣習にアシュ タンガヨガの練習生は従うべきだと私は考えます。これらの伝統に従い伝統の流れの一 部に自身を捧げることは、謙譲と思慮深さを私たちの内に生み出します。ムーンデイに 練習をしたからといって、なにも地獄に落ちるわけではありませんが(たぶん)、伝統 の流れに身をゆだねその一部となることは私たち自身に力と影響を与えます。試してみ て損はないでしょう?指導者それぞれにそれぞれの伝統や慣習があるので、私は全ての ヨガ練習生がムーンデイに練習をすべきではないなどとは考えません。より高い理念を 自身の内に持ち、ヨガの実践の中に幸福を見出すことを願っています。それがムーンデ イであってもなくても! 親愛なる皆様へ エディ・スターン director: ashtanga yoga new york 訳:宮村 葉)


LEGENDS & LEGACIES 伝説と遺産 写真: マイク・ヒル 会話翻訳: スナード・ラグラム この記事は NAMATUPA issue no.4 に掲載されたものです。NAMARUPA 共同発行人であるエディ・スターンおよび ロバート・モーゼスの同意のもと翻訳・配布しています。 日本語翻訳: 宮村 葉

1934年、当時まだ若者だった K・パッタビ・ジョイスと B・K・S・アイアンガー。2人はともに、非常に厳しく、そしてその 後伝説的なヨギとして知られることになる T・クリシュナマチャリヤの弟子だった。当時インドはまだイギリス統治下に あり、マハラジャ達がまだ州の長としての特権を保持していた。マハラジャ達の威光や壮麗さは当時まだ現実のもの であり、愛する郷土の伝統を継承し保護することは、外国の統治下にありながらも彼らの最重要事項とされていた。 マイソール州のマハラジャ、クリシュナラジェンドラ・ヴォデヤルは特に古代のサンスクリット語テキストの保護と研究 に尽力し、伝統的なアートや音楽そしてヨガに愛情を注いだことで知られている。重要な伝統祭礼ドゥッセラーを盛大 に行うなど、古くからの伝統儀礼や生活様式を概ね維持しながら、マイソールの住人は清潔で便利な町で日々を暮 らしていた。このような雰囲気の中、若い2人は当時マハラジャの庇護の下にいたクリシュナマチャリヤからヨガを学 んでいたのである。


パッタビ・ジョイスはマイソールに残る運命にあったが、クリシュナマチャリヤは1954年にマドラス(現在のチェンナ イ)へと移って行った。そしてスンダラージャ・アイアンガーは「そこでヨガを指導するように」という師の命令以外ほと んど何も持たず、1934年インドの中央部プーネへと送られたのだった。アイアンガーはプーネに留まり指導と修練 を続け、マイソールに残ったパッタビ・ジョイスはサンスクリット大学へと通いながら修練を続け、その後そこで指導に あたることとなった。そしてこの兄弟弟子達は1940年まで再び会うことが無かった。2人ともその再会についてはあ まり覚えていないようだが、それがクリシュナマチャリヤのヨガ・プロモーション・ツアーの最中であったことは記憶して いた。クリシュナマチャリヤがパッタビ・ジョイスと共に、プーネにあるスワミ・クヴァラヤナンダが主宰するカイヴァリヤ ダーマ・ヨーガ・インスティチュートを訪れた際、短期間だがアイアンガーの家に滞在したのである。 そして歳月が過ぎ、何千年もの数え切れない年月をインドでひっそりと受け継がれてきたヨガが、1960~70年代頃 の初期の探求者マダム・ブラヴァツキーやヴィヴェーカナンダ等の発言をきっかけに、野火のような勢いで世界中に 広まり始めた。それにつれパッタビ・ジョイスとアイアンガーも、徐々にヨガ実践者の間で高名な存在になったが、19 40年に共にコーヒーを飲んで以降、2人が再び会う機会は巡って来なかった。

そして2005年、2人が最後に会ってから65年後、アイアンガーが87歳になりパッタビ・ジョイスが90歳の誕生日を 迎えた直後、私達の時代のヨガに最も影響を与えた二人は、ついに再会を果たすこととなった。歴史的な訪問はこん な会話で幕を開けた。 「もしもし?」「パッタビかい?スンダラジャだよ!」 2人はそれぞれ彼らの生徒達からは指導者として畏怖される存在だが、電話の会話はまるで兄弟のようで、そこに は親しみの雰囲気だけが溢れていた。


再会はにぎやかなものとなった(アレキサンダー・メディンのコーディネートで実現)。 アイアンガーはゲストとして招 聘されていたタムクルでのヨガフェスティバルから、車で4時間をかけてやって来た。フェスティバルの当日は、スピリ チュアル・リーダーが生徒達に呼びかけを行う日とされている「グル・プールニマー」だった。フェスティバルでその呼 びかけの勤めを果たすため、アイアンガーはパッタビ・ジョイス90歳の誕生祭へは参加することが出来なかった。し かしタムクルからゴクラムまではそれ程遠くないため、その後の車での訪問が実現したのだった。6人の生徒と秘書 のラグーとともに、アイアンガーは午後1時頃ゴクラムに到着した。2人のヨガマスターが抱き合いカンナダ語でにぎ やかに話始めると、居合わせた人々の顔に笑顔が広がった。カルナタカ出身(カルナタカではカンナダ語がもっとも 話されている言語)のアイアンガーの生徒の1人は、「グルジはいつも『カンナダ語はよく解らない』と私にはおっしゃ っていたのですが。見てください!流暢にお話されてます!」と話した。

まず全員にコーヒーが振舞われ、その後隣の部屋へ場所を変えると、1940年以来はじめて2人は食事をともにした。 この再会のために、パタッビ・ジョイスの娘サラスヴァティにが特別な食事を用意していた。食事の後 AYRI(現 KPJAYI)共同ディレクターである孫のシャラートが全員を階下のヨガ・シャラへと案内すると、アイアンガーの生徒マ ダーヴァが質問を始めた。


マダー ヴ ァ(以下 M)「ヨガを学び始めた当初、ヨガがこのように広まると思われていましたか?」 パ ッ タ ビ ・ ジ ョ イ ス (以下 KPJ)「全然。全くだよ。少年の頃にクリシュナマチャリヤ師がヨガのデモンストレーションを 行ったのを見て、それらのポーズに魅了されてしまった私は、翌日クリシュナマチャリヤ師を訪れると、彼の前にひれ 伏して生徒として連れていってくれるよう懇願した。するとクリシュナマチャリヤ師はぶっきらぼうに私が誰かと聞いた。 とても怖かったよ。そしてどこから来たのか、父親は誰なのかと聞かれた。私は5マイル先のコウシカの村からやって 来たこと、私の父は占星術師で司祭であることを話した。するとすぐにクラスに出るようにと言われたので、私は頷い て『はい』と答えた。翌日からクラスに出席し始めて、その初日からすぐに引っ叩かれ始めたよ(大笑)」 M「何故やめてしまわなかったのですか?」 KPJ「何故?学びたいという大きな情熱があったからだね。」 M「もし私があなただったら、とっくに逃げ出していたと思います。」 KPJ「そうかな?さっき言ったとおり本当に『学びたい』と思っていたんだよ。ガルーダとハッサン・ランガスワミーとい う2人の友人を覚えている。私達はみんなで学んだ。(アイアンガーに向かって)ガルーダを覚えてるかい?」 B.K.S.Iyengar(以下 BKS)「もちろん覚えてるよ。」 KPJ「1932年にマイソールのマハラジャが、自分のもとで指導をするようクリシュナマチャリヤ師を招いた。師はジャ ガン・モハン・パレスの近くにヨガ・シャラを開き、私達はそこで練習をしていた。教育部の責任者が…彼の名前を忘 れてしまったな…何という名だったか…N.S スッバラオだ!彼はクリシュナマチャリヤ師の給料計算など、全てを担 当していた人で、その頃はヨガを教えて広めるよう、いろいろな地方の役所などに師を派遣していた。1932年にクリ シュナマチャリヤ師がサンスクリット・パタシャラ(大学)に再び来た時、師の前に進み出て礼拝すると『おお、君じゃな いか!』と言われたので、『そうですグルジ。私です。ここで勉強しているんです』と答えた。嬉しそうだったよ。そして また師のもとで学ぶ機会を得た。私と私の友達のマハデヴ・バートは時々パレスに招かれて、ヨガのデモンストレー ションを行った。ある時お礼に5ルピーとハヌマーン・カッチャ(下着)をいただいた。とても嬉しかったよ。(アイアンガ ーに向かって)ところであの女性のことは覚えてるかな?アメリカから来たインドラ・デヴィ?彼女もパレスのヨガ・シャ ラにプラクティスに来ていた。」


BKS「うん、うん、覚え���いる。彼女がインドラ・デヴィと名乗るようになったのは、ずっと後のことじゃなかったかな。」 KPJ「最近亡くなったと聞いたけど…」 BKS「ブラジルで。」 KPJ「そうかブラジルで。一つのことが次々に繋がっていくね。我々はそこで練習をしていた。マハデヴ・バート、シュ リニヴァス・アチャール、ランガナート・デシカチャー、他にもたくさん。」 BKS「そう。全員覚えているよ。」 M「今では5ルピーよりもっとたくさんのお金を得るようになられましたけど、あなたにとってマハラジャから渡された5 ルピーは、さぞ特別だったのではないかと思います。どちらにより価値があるとお考えになりますか?その5ルピーと、 現在得られている収入と」 KPJ「そうだね、その5ルピーは本当に本当に特別なものだった。そのお札はトランクの中に、衣類の束の下にしまっ ておいた。毎日トランクを開けてそれを取り出して眺めては、また衣類の下にしまっていたものだよ(笑)。私はそれま で1ルピー札を見たことが無かったんだからね(笑)!その頃はそういう生活だったんだよ。」


こうして現代の伝説2人は、素晴らしい昼食とカジュアルな思い出話、そして写真撮影を行うと再び階上にあがった。 その後午後のコーヒータイムが始まり、会話は自然とコーヒーについてのものとなった。アイアンガーによれば、コー ヒーはこの暗黒の時代「カリ・ユガ」の「ソーマ・ラサ」=「反道徳的な中毒性の液体」である。「まさにそうだ。それに最 近では、さまざまなブランドの『ソーマ・ラサ』をお店で手に入れることができるね!」とパッタビ・ジョイスが笑った。

午後の時間は飛ぶように過ぎ、アイアンガーの出発の時間が近づくと、会話は再びクリシュナマチャリヤについての ものになった。 BKS「誰が何と言おうと我々の師の功績は確かなものだ。彼の知識は大海のようで、その知識の全てを我々が引き 継いだとは言えないだろう。豊かな知識の持ち主だったが、ほんの少しをこちらに、今度はあちらに、というやり方だ ったから、私達は鶏がえさをついばむように、師の知識をあちらこちらから拾い上げなければいけなかった。そして私 達はそれぞれに学び、その学びをそれぞれの形に育てあげた。だから皆さんへのアドバイスは、クリシュナマチャリ ヤ師の直弟子によって点された、消えない『灯り』を見つけるということ。そして、この彼の教えという『ヨガ・ディーパ (ヨガの灯り)』を絶やさないようにしなければいけないということだね。プラクティスを継続して、『灯り』を燃やして燃や して燃やしつづけることが大切だよ。」 KPJ「師は私達を日に焼かれた石の中庭に何時間も立たせ続けた。その時に、ヨガがどういうもなのか我々は理解 し始めたんだよ!」 BKS「もう少し付け加えてもいいかな?100%額に汗しなければならない。身体だけではなく知的な面でも。そうして 100%励んだ時にヨガというものが少し解るようになる。身体も100%頭も100%、全身全霊をかけなければならな い。知識も同じことだよ。」

素晴らしい日に終わりが近づくにつれ、二人の偉大な人物が一つの場所にいるということ、その事実に対する感動と 興奮を我々は静かに感じるとともに、心から感謝していた。ヨガの、いわゆる「流派」の違いについて批判を繰り返し てきたこれまでの年月は、二人がコーヒーを共にした瞬間、意味を成さない雲や霧のように蒸発し消え去ったようだ った。少なくともパッタビ・ジョイスとアイアンガーの 2 人とって、お互いは久しぶりに再会したヨガの兄弟弟子にすぎな い。アイアンガーが言うように。「1934年に出会い、2005年に再び出会った。私はこれを本当に稀な栄誉だと思 う。」

実践方法の違い、スタイルの違い、哲学や意見の違いは常に存在し、しかしそれは些細な問題でしかない。互いに 尊重しあい友情を築くことこそがインドの伝統であり、人々から多大な敬愛を受ける二人の底流であった。



Volume 2