Page 1

■寄居虫のつぶやき 第 71 号

Page:1

(寄居虫のつぶやき 71 号)

Sat Nov 4 13:41:48 2006  私のお墓の前で 泣かないでください

両親に託し

なってしまった」という。

( お断り ) 一月に第 71 号を発行しましたが、

 そこに私はいません 眠ってなんかいま

ていた封筒に、その詩が残されていた▼米国

 昨年の六月下旬、ラジオ深夜便の「こころ

印刷所の都合

せん

では去年の

の時代」に、

によりB版用紙しか使えず、やむをえず版下

 千の風に 千の風になって 

9月 11 日、前年の同時多発テロで亡くなっ

二日にわたって新井が出演した。どちらの

を縮小して

 あの大きな空を 吹きわたっています

た父親をしの

日であったか、

印刷しました。しかし、文字が小さくて読み

 秋には光になって 畑にふりそそぐ

んで 11 歳の少女が朗読した。米紙によると

忘れてしまったが、彼がギターを弾きながら

にくいので

 冬はダイヤのように きらめく雪になる

すでに 77 年、

この詩を

一部の読者にお配りしただけで、廃版にしま

 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる

映画監督ハワード・ホークスの葬儀で俳優の

歌った。 冒頭に載せた英詩と訳詞に〈「あと

した。ずい

 夜は星になって あなたを見守る

ジョン・

がき」に

ぶん時間がかかりましたが、本号を第 71 号

 そこに私はいません 死んでなんかいま

ウェインが朗読したという。87 年、女優マ

代える十の断章〉を加えた七〇ページの小冊

とします。内

せん

リリン・モン

子は、二〇

容も若干変更していますので、旧版をお読み

 千の風に 千の風になって

ローの 25 回忌にも朗読されたらしい▼日本

〇三年十一月に発行されたが半年後には第

の方も、も

 あの 大きな空を 吹きわたっています

では、95 年に

八刷発行され

う一度お読みくださるよう、お願いいたしま

 作者不詳の原詩を新井は右のように訳し、

に『あとに残された人へ 1000の風』 (三

ている。この『千の風になって』(注1)の

す。

さらにメロ

五館 ) と

腰巻きに印

ディーをつけて私家盤CDをつくり、友人、

して出版された。最近では、作家で作詞・作

刷されている広告によると、CDもポニー

知人にばった。その後、新井と親交のある朝

曲家の新井

キャニオンか

満さんが曲をつけて、自分で歌うCD「千の

ら発売されているらしい(税込一〇〇〇円)。

日新聞の小池民男論説委員がこのCDを聞

風になっ

絵本版も

いて「天声人語」 (03 年 08 月 28 日)で紹介

て」を制作した。(このあと、新井訳の詩が

あるようだし、似たような二三種類の本が書

した。

紹介されて

店の棚にあ

I am not there, I do not sleep.

 だれがつくったのかわからない一編の短

いるので、略)▼作者をめぐっては、19 世紀

るのを見たことがある。ちょっとしたブー

I am a thousand winds that blow.

い詩が欧米や

末、米国に

ムになってい

I am the diamond glints on snow.

日本で静かに広がっている。愛する人を亡

渡った英国人、30 年代の米国人、米国先住民

るようだ。

I am the sunlight on ripened grain.

くした人が読

の伝承など

 こういうものに、今はやりの「いやされる」

I am the gentle autumn's rain.

んで涙し、また慰めを得る。そんな詩である

諸説ある。いつどこで生まれたのかわから

人がおお

▼英国では

ない、風のよ

いのだろう。しかし、良寛さんがすでにこう

I am the swift uplifting rush

95 年、BBCが放送して大きな反響を呼ん

うな詩だ。

いう歌を詠

Of quiet birds in circled flight.

だ。アイルラ

 この文章によって、この詩の知名度が一気

んでいるではないか。良寛さんが亡くなっ

I am the soft stars that shine at night.

ンド共和軍(IRA)のテロで亡くなった 24

に高まった。

たのは一八三

歳の青年が

新井の家では「その日から電話が鳴り始め、

一年の正月六日(新暦二月十八日)であった。

死んだらどこへ行くの?  新井 満の訳した「千の風になって」が話 題になって いる。  

a thousand winds

Do not stand at my grave and weep;

When you awaken in the morning's hush

Do not stand at my grave and cry; I am not there, I did not die.

「ぼくが死んだときに開封してください」と

止まらなく

(三首の


■寄居虫のつぶやき 第 71 号

Page:2

Sat Nov 4 13:41:48 2006

語句に多少の違いがあるが、その心は同じで

それでも、昨年から今年にかけて、ぼくが得

紹介されていた。

注1 新井満『千の風になって』二〇〇三年

ある。注

た情報は結

 この墓に夫(つま)がゐるとは思はねど

六月、講談

2)

構な量になった。

 何処(どこ)にもゐないのでここに来る(注

社。

1 葬送―「遺骨は墓以外に」4割(04 / 08

4)

注2 東郷豊治編著『良寛全集』下巻。一九

 形見とて何か残さむ春は花山ほとゝぎす

/ 14)2 

 墓をつくってもそこに安住できないこと

五九年十二

秋はもみぢ葉

こころのいまーオウム事件から 10 年ー上・

もある。志賀

月。東京創元社。一九四ページ。引用した

 形見とてなに残すらむ春は花夏ほとゝぎ

中・ 下ー

直哉の骨壺盗難事件をおもいだし、ウェッブ

三首は臨終の

検索でさが

作ではないとの、編著者による注意書きがあ

す秋はもみぢ

(05 / 03 / 16 ∼ 18)

3 長江河口 海葬の朝(05 / 06 / 06)

してみたら「墓荒らしの系譜」というサイト

る。

 亡きあとの形見ともがな春は花夏ほとゝ

4 大切な人 手元で供養(05 / 07 / 02)

があった。

注3 松本市壽(まつもと・いちじゅ)『良

一九七〇∼八七年のあいだの新聞記事など

寛』二〇〇

ぎす秋はもみ ぢ葉

5 シニア3割「葬儀望まず」50 歳以上対

からあつめた

〇年一月。ハルキ文庫。二八四ページ、ほ

死んで「千の風」になろうが、良寛さんの

象、ネッ ト

ものらしい。

か。著者は一

おっしゃる

調査(05 / 07 / 23)

 七〇年の一月、八王子市のある墓園で、牧

九三六年鳥取県生まれの人だが、 『風の良寛』

ように桜の花や山ほととす、あるいはもみぢ

6 シンプルな葬儀・埋葬「お手軽な家族葬」

口常三郎や

葉になろう

「墓 石

(二〇〇

戸田城聖ら 79 人の墓が荒らされているのが

四年一月。文春文庫)の著者

が、残された者たちは遺体をそのままにして

代わりに桜の木」(05 / 10 / 13)以上、朝

発見された。

でもある中野孝次が前者の「解説」のなかで

おくわけに

日。7 大解

奇しくも同じ日、ロンドンでは

次のように

はいかない。遺族には、葬儀や墓をどうする

決! お墓の悩み(ご近所の底力。04 / 10

マルクスの墓が爆破されている。

書いている。「松本市壽は良寛を敬愛するこ

かの問題が

 / 14)

 七一年九月、祖父母や妹といっしょに埋葬

と深く、良

生じる。

8 お答えします いまどきのお墓の悩み

されていた

寛に関する知識の広さ、正確さにおいて、今

三島由紀夫(前年自決)の骨壺だけが消えて

の日本で五

国、民族,宗教などによってさまざまな埋葬

(生活ほ っ

法がある

とモーニング。04 / 10 / 19)

いるのが発

指に入る研究家なのだ。」なお、中野の本も

が、今の日本では火葬にして遺骨(の一部)

9 心を残すエンディングノート(クローズ

見された。二ヶ月あまり後、墓から 40 ㍍離

参照した。

を墓におさ

アップ 現

れた公衆便所

めるのが大勢であろう。

代。05 / 03 / 15)

脇に埋められているのが発見された。誰か

注4 作者、藤岡成子(ふじおか・しげこ)

10 葬儀(ご近所の底力。05 / 06 / 16)

が誤って踏ん

は、一九四

え方や意識

11 葬儀の値段クローズアップ 現代。05 /

だらしく、骨壺は割れていたが、ロメォアン

三年、兵庫県加西市生まれ。職場結婚した夫

がかなり変わってきているようだ。ぼくが

06 日 は

ドジュリ

が加西市長

毎日情報を得

不明)以上7以降、NHKテレビ。

エットの葉巻などが決め手となって三島の

となり、以後十四年間市長夫人として多忙な

ているのは、NHKテレビと朝日新聞による

大晦日の朝日新聞「折々のうた」には次のよ

遺骨と確認さ

生活を送っ

ことが多い。

うな短歌が

れた。(次号につづく)

たが、二〇〇一年夫が急逝、生活は一変。作

しかし、最近、これらの問題についての考


■寄居虫のつぶやき 第 71 号

Page:3

歌で生き延

Sat Nov 4 13:41:48 2006 (角川文

けて洗った。

へ帰って店

びられたと述懐していると紹介されている。

庫)を携えてあちこち歩いた。雑司ヶ谷の墓

祖父は長男の父がこどもの頃出奔して行方

をもった父は、それなりに成功し財もつくっ

大岡信は

地にある夏

知れずであり、

た。それで

目漱石の墓はばかでかい成金趣味の墓で、小

祖母は再婚して養子となった次男と砂見で

も、養子に迎えていた義兄には「わしが死ん

 死んだらどこへ行くの?(承前 )

泉八雲の墓

暮らしていた

だら、骨は

 八〇年三月、志賀直哉の未亡人が死去し、

は小さな自然石の墓石が好ましい、と書かれ

から、分家であるわが家の墓所はなかったの

袋川にでも流してくれればええ」と言ってい

家族がその

ていた。実

だ。祖父は

たという。

遺骨を青山墓地の志賀家の墓に納めようと

際に訪れてみて、ぼくもそう思った。

どこで亡くなったのか、墓はあるのか、あっ

それがなぜ墓をつくったのであろうか。

したところ、

 後年、現職時代に機会があって、高野山を

てもどこに

 ぼくが生まれたとき、父は五十をこえてい

志賀直哉の遺骨が骨壺ごと紛失しているの

訪れたこと

あるのか、わからない。

た。ぼくの

が発見された。

がある。奥の院に近い苔むした古い墓石の

 ぼくがこどもだったころ、父は、久松山の

父親であってもいいような歳の義兄に、父は

四日後、同じ墓地にある他家の墓の敷地内に

群れは別とし

東側から昇

こう言った

志賀直哉の

て、新しい墓の多くは奇をてらった、まさに

る朝日に手を合わせながらしきりに「ナムダ

という。

骨らしきものが散乱しているのが見つかっ

成金趣味の

イセン

た。これで犯

墓石が林立し、霊場の名を汚すものだと思っ

ジョーコンゴー」とつぶやいていた。そのこ

が生まれた、

人は骨壺目当てであったことが明らかに

たことで

ろのぼくに

と思って可愛がってやってくれ。わしの死

なった。骨壺は

あった。

はそう聞こえたが、むろん「南無大師遍照金

に水はおまえ

益子焼きの大家、浜田庄司作の高価なもの

 わが家の墓は、ぼくが生まれた翌年、一九

剛」と言っ

にとってもらう。」

で、志賀自身

三五(昭和

ていたのだ。遍照金剛は、中国で灌頂(かん

 父は、ぼくが成人になるまでに死ぬかも知

十)年に、父がつくったものだ。こどものこ

じょう=伝

れない、墓

ものであっ

ろ、父につ

法を証明する儀式)を受けた空海の密教名で

くらいはつくっておいてやろう、と考えたの

た。

れられて墓掃除に行った。当時、墓のある真

ある。ぼく

かもしれな

「真情迫る歌」と評している。

「年頭所感」という随筆に書いている有名な

「この歳になって子供ができた。かわいい弟

同年五月には、高名な陶芸家であった板谷

教寺は小さ

の名前は弘法大師(空海の死の八十六年後、

い。あるいは、一家離散のあと出奔し、一人

波山夫妻の

なぼくでも家から歩いて行けるほどの距離

時の天皇か

前になって

骨壺が盗まれた。もちろん壺は波山作であ

にあた。父は

ら贈られた諡号しごう)の一字をいただいた

帰郷、それなりの財をなして、本家の墓のあ

る。夫妻の骨

まだ新しい墓石を洗いながら「お父さんが死

とも聞かさ

る真教寺に

壺を六百万円で売り歩いている男がいると

んだら、こ

れた。そんな父が浄土宗の真教寺の墓地を

分家高橋の証として墓を造ったのであろう

の通報を受け

こに入る」と言った。それから近くにある古

選んだのは、

か。

た警察は土建業の男二人を逮捕した。

びた墓へ

本家の菩提寺だったからであろう。

 寺にもそれなりの金を使ったのだろう。

 墓といえば思い出すことがある。東京で

行って、「ここは本家の墓だが、もうだれも

 祖父同様、鳥取にいたたまれなくなった父

亡くなったと

学生生活を始

掃除する者

も故郷を飛

き、戒名は「淳眞院繁譽久榮居士」と院号が

めたころ、野田宇太郎の『新東京文学散歩』

がおらんけえ」と言いながら、墓石に水をか

び出した。大阪で一人前になったのち、鳥取

ついていた


■寄居虫のつぶやき 第 71 号

Page:4

Sat Nov 4 13:41:48 2006

から。もっとも、生前に受けたものではない

くのものも、

決定していたのである。その易(ととの)わ

まったくい

から、母か

みなこわして骨をいっしょにしてもらって

んより寧

いものであった。よその父親は如何に娘に

義兄が寺の勧めに応じてしかるべき金銭を

もいい。骨壺

包んだのであ

なんぞに心を残すのは愚なことだと思って

この引用文の最後は「論語」巻第二の八□に

いが、こういう時の父は天下一品のおやじだ

ろう。石塔は鳥取大震災の時倒れて角が少

いる。

よる。金

と思ってい

し欠けたが、

 話が前後するが、弔いも身内だけでよろし

谷治訳注『論語』(ワイド版 岩波文庫)の

る。どこのおとうさんととりかえるのもい

父はなおそうとはしなかった。

い。新聞の

40 ページか

やだと思う。

 亡くなったのは、ぼくが高校三年生になる

お悔やみ欄に載せることもない。町内に回

ら、読み下し文と訳文を引いておく。「林放

……話は明るく続き、「天見れば雁三羽、喝

三ヶ月前の

覧することも

雪の日だった。父は十数年間空っぽだった

いらない。死はいつ来るか、わからない。厳

う)、礼の本(もと)を問う。子の曰わく、大

云ってそれだけでおしまいの葬式なんぞは、

墓にひとり納

寒あるいは

なるかな

おまえの気

まった。そして、三年生になったとたんに、

酷暑の季節を問わないから、とくに高齢の

問うこと。礼は其の奢(おご)らんよりは寧

に入らないかい」などと笑い……あとに残る

あの鳥取大

方々に見送っ

ろ倹(け

女世帯を庇

火。一年あまり後であったか、街中にあった

ていただくのは申し訳ない。戒名もいらな

ん)せよ。喪(も)は其の易(おさ)めんよ

真教寺の墓

いが、それで

りは寧ろ戚

地は、現在の公園墓地に移されたが、ぼくは

は寺も困るだろう。もらうにしても院号な

東京にいて 移転の様子は見ていない。義兄夫婦はぼく

どはいらない。 「寄居虫居士」でもいい。

(むし)ろ戚(いた)め、なのである。

(りんぽ

(いた)め。」

話すか知らな

(かつ)と

(かば)う親心は厚く、ありがたいと思った )  ぼくが読んだのは『父ーその死ー』(昭和

 林放(りんぽう)が礼の根本についておた

二十四年十

ずねした。

二月)の再版(昭和二十五年一月)である。

が大学を卒業

 先号からご紹介しているように、葬儀や墓

先生はいわれた「大きいね、その質問は。礼

幸田文の本

し結婚するまで親代わりをしてくれた。

の問題につ

にはぜいた

としては、最初のものだ。旧字体、旧仮名づ

 母は父の死後二十九年目に亡くなり、同じ

いて、今の日本人の意識は大きく変わってき

くであるよりはむしろ質素にし、お葬(とむ

かいで書か

墓に入った。

ているよう

ら)いには

れているので、引用は『父・こんなこと』新

戒名は父のそれに見合うように「眞性院光譽

だ。朝日新聞(03 / 18)も「葬送変える死

万事ととには気の毒だがうちは貧乏だ、わた

潮文庫(昭

慈惠大姉」

の個人化」を

しの弔いの

和四十二年改版)の 82 ∼ 84 ページによった。

となった。

とりあげていた。

ためにおまえが大骨折って金を集めたり、気

文章自体に

 墓穴は小さくてこれ以上骨壺が入らない。

 葬儀に関して、忘れられない文章がある。

を遣(つ

も手が加えられており、 「明の太祖の昔話」と

もう少し広

高校時代に

か)ったりして尽くしてくれることはいらな

あるのは、

げなくては、と思っているが、間に合わな

読んだ、幸田文の『父ーその死ー』だ。

い。傷むな

最初は単に「昔の話」となっていた。

かったらぼく

葬儀については遺言などは無かったが、ずっ

と云ったっておまえは子だから傷むにき

 露伴翁が亡くなったのは、敗戦後まもない

の骨は少しだけ拾って、残りは火葬場で処分

と前に私は

まっている、そ

一九四七

してもらっ

父自身から聴いていたから、それは遅疑する

れで沢山なんだよ。」

てもいい。あるいは、壺は父母のものも、ぼ

ところ無く

なごやかな心で柔かく話す時の父の調子は、

(昭和二十二 ) 年七月三十日。享年八十。二 年前の五月


■寄居虫のつぶやき 第 71 号

Page:5

Sat Nov 4 13:41:48 2006

の空襲で小石川の家が焼失、翌年一月、千葉

といふもの長たらしくて書込に困り申候戒

県市川市菅

名などは無く

野千二百九番地に転居。二畳・四畳半・八畳

もがなと存候

三間の小さ

 自然石の石碑はいやな事に候

な家に、文さん、孫の玉さんと三人で暮らし

 柩の前にて通夜すること無用に候通夜す

ていた。

るとも代りあ

 一九三七年、第一回文化勲章を受け、同年

ひて可致候

創設された

 柩の前にて空涙は無用に候談笑平生の如

帝国芸術院会員 ( その十年前、帝国学士院会

くあるべく候

員)となっ

正岡子規『仰臥漫録』岩波文庫(一九八二年

ていたから、八月二日の葬儀には、時の総理、

十一月)一

片山哲も 参列したらしいが、会葬者は翁の言葉通り五 十人にも達 しなかったらしい。  文さんは、『父』の最後に、露伴先生の二 句を挙げて いる。  老子霞み牛霞み流沙かすみけり  獅子の子の親を仰げば霞かな ◇吾等なくなり候とも葬式の廣告など無用 に候家も町も 狭き故二三十人もつめかけ候はゞ柩の動き もとれまじく 候  何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辭傳 記の類讀み上 候事無用に候  戒名といふものもちゐ候事無用に候曾て 古人の年表な ど作り候時狭き紙面にいろいろ書き並べ候 にあたり戒名


寄居虫のつぶやき 第71 号  

死んだらどこへ行くのか。

Advertisement
Read more
Read more
Similar to
Popular now
Just for you