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December 十二月一日  耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。     エレミヤ書 四章三節  耕地をたがやす  自分を知ることは「耕地を開拓する」ことかもしれません。  そこはまだくわを入れたことのない荒地で、石くれが混ざっています。複雑にからみ合った人間関係を掘り 起こし、いばらを除いて、種を蒔くのです。期待することをやめ、荒れるままに放置してきたところに、豊かな 実りが隠されています。くわを入れる手を休めないことです。「恵み」という種を蒔き続ければ「愛」が実りま す。(ホセア書 十章十二節)

十二月二日  雄々しくあれ。心を強くせよ。     詩篇 三十一篇二十四節  五十一対四十九の法則  「決まりごとは五十一対四十九のことが多い」これはある心理学者のことばです。五十一と四十九で は、その差はわずかです。どちらを選んでも正解といえます。  この場合、どちらが正解かということよりも、どちらかに決めることに意味があります。  「心の強い人」とは、一つを選んで他を捨てるのではなく、一つを選んで他に心を残す人だと思います。

十二月三日  きょう、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。     詩篇 九十五篇八節  洞が峠  天正十年、羽柴秀吉と明智光秀が山崎に対峙したとき、筒井順慶が洞が峠に陣をとり、どちらにつく べきか、形成を見極めようとしました。自分に有利か不利かで洞が峠をきめこむと大切なところで判断を誤 るものです。  私たちが神の御声を聞くのは、たいてい洞が峠の少し手前です。洞が峠では、予想もしない展開を見 てもあわてないことです。神の不思議が現われるのは、そういうときだからです。

十二月四日


あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。     詩篇 四十五篇二節  気難しい人  私たちの場合「そのくちびるから優しさが流れ出る」といわれるような人が注意しなければならないのは 「気難しさ」です。  「優しさ」の影には「気難しさ」が隠されることが少なくないからです。優しい気配りの人なのですが、周囲 はとても気をつかいます。気配りをしながら、周囲に同じ気配りを要求しているからかもしれません。  人に優しさを求めないのが神の優しさです。

十二月五日  あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、     ピリピ人への手紙 一章九節  「知る力」「見抜く力」  「知る力」と「見抜く力」を欠いた愛は、しばしば、人を傷つけます。  愛の存在しない「知る力」と「見抜く力」に私たちは怯えます。  愛は「知る力」と「見抜く力」に支えられるのです。  「知る力」「見抜く力」が愛を深めるのではありません。愛の深まりが「知る力」「見抜く力」を促すのです。  ですから私は「愛がますます豊かになる」ことを祈ります。

十二月六日  主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。     詩篇 百三十一篇一節  反発  役者に「見せよう」という意識が働くと、観客はその舞台に反発し失敗します。舞台を創るには、自分自 身の目と観客のまなざしを自分のものにし、さらに、その「見ている」という意識も消さなければならないのだ そうです。力は自分に向けて充実させれば、外に誇示する必要もなくなります。人から反発をかうのは、ど こかに見せよう与えようという意識が見えるからです。「私は誇らない」という意識も消して、自分自身にな れればよいのです。

十二月七日  嫉妬が、その夫を激しく憤らせ、夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。     箴言 六章三十四節  嫉妬


嫉妬は想像から沸き上がる妄想です。想像が勝手に歩き出して、一人よがりな物語を作るのです。  愛すればこそ嫉妬するのでしょうが、そのとき愛は憎しみに変わっています。愛と嫉妬は同時には存在し ないのです。  愛は想像の勝手な暴走を止まらせます。  嫉妬を克服するには愛を成熟させる以外にありません。

十二月八日  私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神。     創世記 三十五章三節  私の歩いた道  やっと歩くことができるようになったアヤちゃんが道に立ち止まって動こうとしません。お母さんにだっこしてほ しいのです。お母さんは数メートル先で、じっと待ちます。歩き出せば、歩くことが楽しくて、アヤちゃんはトッ トとお母さんを追いかけるのです。  私もそのようにして「私の歩いた道」をきたのかもしれません。神は少し先で、私を待っていてくださいまし た。歩くそのことが楽しくてここまできたのです。

十二月九日  その道は楽しい道であり、     箴言 三章十七節  楽しい道  私は原稿を書くのに鉛筆を使います。鉛筆を削るにはナイフから電動削り機まで一通りそろっています。  鉛筆を削るのはちょっとした休みの時で、その間、思考の流れを妨げないためには、電動は味気なく、ナ イフは手間がかかりすぎ、手動がちょうどいいのです。  便利な生活というものは必ずしも楽しくありません。ちょっと不便なものに楽しさが隠されているようです。

十二月十日  主があなたとともにおられます。     ルカの福音書 一章二十八節  とらわれ  人は何らかの「奇妙な儀式」をもっているものです。何かを始めるのに、その儀式が必要なのです。でも、 それが強迫的になると苦しいものです。なぜそうしなければならないのかを問うことはあまり意味がありませ ん。  とらわれはそれを消すよりも、それと共に生きたらよいのです。ただ、そんとき、とらわれの苦しみをわかって


くれる人が傍にいると、少し気持ちが軽くなります。

十二月十一日  神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。     伝道者の書 二章二十五節  すべては空、されど  伝道者は人間の営みをつぶさに見、低い声で「すべては空」とつぶやきます。最も悲惨なのは、空しさに 行き着いた人生です。行き着かないまでも、それから逃げようとして仕事に没頭しようとするのもむなしいも のです。しかし、伝道者は「空」もまた、神から来るというのです。してみれば、伝道者は労苦の中に幸せ と美しさを見たのかもしれません。それは、むなしいと思うことをやり遂げないとわからないのかもしれません。

十二月十二日  もしその一枚をなくしたら、     ルカの福音書 十五章八節  十枚の銀貨  ユダヤの女性がなくした一枚の銀貨のために、家中を夢中になって探すのには特別の理由がありまし た。女性は結婚すると「銀の鎖に十の銀貨をつけた髪飾り」をつける習慣があったのです。  女性が結婚のために準備しなければならないのは、「自己」という銀貨です。  それを失ってしまっては他の九枚がそろっていても結婚はできません。見つけるまで念入りに探す必要が あります。

十二月十三日  四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。     マタイの福音書 四章二節  四十日四十夜  イエスは荒野で四十日四十夜断食され、サタンの試みを受けられました。  モーセもシナイ山で、四十日四十夜断食した後に十戒を授けられます。エリヤは四十日四十夜を歩 き、神の山ホレブに着きます。  四十日四十夜は、人が一つの試練を受けとるのに必要とされる期間なのかもしれません。  神は四十日四十夜を祈る人の手を支えてくださいます。

十二月十四日


あなたの一生を良きもので満たされる。     詩篇 百三篇五節  ひとつよきもの  「ひとつよきもの、よろずよし」といいます。八方ふさがりの中でも、よきものがひとつ見つけられると、そこか らいくつもの「よきもの」が現われてくるのです。  「よきもので満たされる一生」は、「ひとつよきもの」からはじまるのではないでしょうか。神はときに、意外と 小さな「ひとつよきもの」を与えられます。しかし、それは私の一生を満たすのに十分なのです。

十二月十五日  わたしは「わたしである」という者である。     出エジプト記 三章十四節  有りて有る者  時計を壊す人がいます。時計をていねいに分解し部品の山にしてしまうのです。家中の時計を分解し、 それが終わると時計を買い込んで分解を続けます。  彼が探しているのは、時の中に生きる自分です。でも、いくつ時計を分解しても、そこに時の意味が見え ません。  時の問題は私たちを「有りて有る者」といわれる神に導きます。この方のみが人を「存在に至らせる」こと ができるのです。

十二月十六日  さあ、目を上げて、あなたがいるところから北と南、東と西を見渡しなさい。     創世記 十三章十四節  希望の貧しさ  ロトと決別した後アブラハムは無力感に襲われていました。うなだれて、足元しか見ることができないので す。確かにアブラハムの現実は不毛で厳しいものでした。しかし、神はそれがすべてではないと告げます。  目を上げて、自分の立っているところから遠くを見ることです。そうすれば、約束された恵みの広がりが見 渡せるのです。私たちをうなだれさせるのは現実の厳しさではなく、希望の貧しさです。

十二月十七日  アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。     創世記 十二章四節  見切り発車  いざとなるとあれこれ考えてしまい、ふみきれない時、「見切り発車」という手があります。アブラムも行き


先を知らずに出発しています。いわば、見切り発車でした。  考えて見れば、ものごとはどこか見切り発車です。見切らなければ新しく始めることはできません。  ただ、見切り発車は、全速ですべきでありません。アブラムも祈りながらゆっくり移動していったのです。

十二月十八日  受けるよりも与えるほうが幸いである。     使徒の働き 二十章三十五節  受けることのできる人  援助することはできても援助されることは拒む人は、本当の援助を知らないのではないでしょうか。真に 与える人は、その時がきたら、受けることのできる人のことだと思います。その人は好意を受けることによっ て、より多くを与えるのです。  人はいつか年をとり、一方的に受ける側に立ちます。そのときでも、私たちは与えることができるのです。  幸いに生きるとはそういうことではないでしょうか。

十二月十九日  だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。     マルコの福音書 二章二十一節  穴だらけの靴下  靴下のつま先に穴があいたら、別の靴下のつま先を切り取って穴を修理すればよいのです。靴下の中に 電球を入れて針をさすと上手に仕上がります。その時、古い靴下に新しい靴下をはぐのは禁物です。はい だところから破れます。  イエスは、穴を新しい布で修理するのではなく、穴だらけの靴下の上に新しい靴下を重ねてくださったの です。  古い靴下は、その後で、ゆっくり脱げばよいのです。

十二月二十日  軽々しく心をいらだててはならない。いら立ちは愚かな者の胸にとどまるから。     伝道者の書 六章九節  苛立ち  苛立っても仕方のないことはわかっています。でも、つまらないことでかっかとしているのです。苛立ちに は、深く静かに呼吸するのが役に立ちます。思うようにいかない状況を自分の胸に深く吸い込み、そして 静かに吐くのです。  「苛立ちを胸にととめる愚かな人」とは、苛立ちを自分の内にとどめ、それを増殖してしまう人だと思いま


す。でも、苛立っているときは、この妙案をすっかり忘れています。

十二月二十一日  悔い改めにふさわしい実を結びなさい。     ルカの福音書 三章八節  悔い改めにふさわしい実  彼が右といえば私は左という関係がしばらく続きました。これはよくないと「悔い改め」て、「君に反抗ばか りしてすまなかった」と詫びると、彼もうちとけてくれました。それから数分後、「お前とはどうもそりがあわな い」とけんかが始まったのです。  「悔い改め」が足りなかったのでしょうか。それとも、相手が右といえば自分は左という関係が心苦しいだ けの、「実のない悔い改め」だったのでしょうか。

十二月二十二日  自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。     ヘブル人への手紙 五章二節  世間話  なぐさめのことばも見つからないことがあります。何を話したらいいのかわからないのです。  そういうときには、無理にことばを伝えようとしないで、さりげない世間話をしたらよいのではないでしょう か。上手な世間話はつらい状況にある人をなぐさめ、心をいやします。世間話が上手か下手かは人を、 「思いやる」深さによります。「自分自身も弱さをまとっている」その分だけ、人に寄せる思いも深まるからで す。

十二月二十三日  近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、     ルカの福音書 十章三十四節  トラウマ  トラウマは大きな打撃を受けてできる心の傷です。  この人はエリコに下る途中、強盗に襲われてひどく殴られます。しかし、彼の心を深く傷つけたのは強盗 ではなく、かかわりを避けて足早にその場を去った祭司やパリサイ人ではなかったでしょうか。  彼のトラウマをいやしたのはサマリヤ人でした。  トラウマをいやす方法はただ一つ、傷ついた人の「隣人」になることです。

十二月二十四日


私の心はすばらしいことばでわき立っている。     詩篇 四十五篇一節  ことばの発見  人と出会うとき、私たちはことばと出会っています。心をゆさぶられるようなことばとの出会いによって、その 人と出会うのです。そして、また、ことばは人と出会うことによって発見されます。その人の存在そのものふれ ることによって、ことばにいのちが吹き込まれるのです。  出会いから「すばらしいことばがわき立つ」とき、私は自分とも出会っています。

十二月二十五日  そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。     ルカの福音書 二十四章十四節  お見舞い  病人を見舞うのに花やお菓子でなく、「物語」をもって行くのを習慣にする国があるそうです。  ベッドの脇で、持参した「物語」に笑ったり、涙を流したりしているうちに病もいえていくのです。苦しんだ 人はみな「物語」をもっています。もしかすると、お医者さんの薬よりずっときくかもしれません。エマオの途上 で、ふたりの弟子が聞いたのも、そんな「物語」でした。

十二月二十六日  潔白な人たちはしわせを継ぐ。     箴言 二十八章十節  潔白な人のしあわせ  リスは秋になると地面に穴を掘り、集めたナッツを隠します。このあたりと見当をつけて、リスのナッツを横 取りするのは楽しいゲームです。そのことを子どもに話したところ「リスのナッツを横取りするなんて許せない」 と厳しく抗議されてしまいました。確かにそうなのですが、リスは食料庫を他にも沢山もっていて、あまり困ら ないのです。ほんの少しをあざむいたり、あざむかれてあげるのも「潔白なひとたちのしあわせ」にふくまれてい るのではないでしょうか。

十二月二十七日  また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。     マタイの福音書 六章七節  祈りを聴く  祈っても思いがかなわないことはあります。その原因を祈りや信仰の不足にしてよいでしょうか。


その思いはかなわないという答えもあります。それが神からの答えだと認めたくなくて、熱心に祈り続けるの は「ことば数が多ければ聞かれる」という不信仰かもしれません。  祈りは神に聴くことです。  祈りを神に聴くのです。

十二月二十八日  あなたは、自分の夫と子どもをきらった母の娘、     エゼキエル書 十六章四十五節  母親にきらわれた娘  エゼキエルは「あの母だからこの娘」という古いことわざを引用します。彼女は自分の夫と子どもをきらうの です。  今も「母親にきらわれた娘」は少なくありません。しかし、自分の子どもをきらう母親の心理は理解しにく いものです。  エゼキエルの引用する「母」は、子どもだけでなく夫さえもきらいます。夫との仲がうまくいかず、それで子ど もをきらうのかもしれません。それで深く傷つくのはいつも子どもたちです。

十二月二十九日  わたしを見失うものは自分自身をそこない、私を憎む者はみな、死を愛する。     箴言 八章三十六節  心の中心軸  パレーでスピン(回転)する人は、コマのように回転しながら、どこか一点を見続けるそうです。こうすると、 回転の力が軸を支える力に変わり、倒れないのです。  ことばにも感情にも調和のある人は、心の中心軸に「神」を見ているのです。その一点を見続けることに よって、どれほど激しい回転にも倒れないばかりか、変化する回転の力を自分を支えるに変え、安定する のです。

十二月三十日  主は神であられ、私たちに光を与えられた。     詩篇 百十八篇二十七節  神からの光  母親は子どもの何もかもを詳しく知るべきでしょうか。  すべてに光を当てようとしないのも愛です。わからない部分があっても、「あなたは私の大切な子」と思え ることが大切ではないでしょうか。


わからないところは、目をこらすことも、目をつぶることもしないで、ただ、目を澄ませていればいいのです。  そうしていると、神からの光が子どもの心を暖かく照らします。

十二月三十一日  わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。     創世記 二十八章十五節  忘れて生きる  年をとると、人は誰でも物忘れの名人になります。ある年老いたクエーカー教徒は、何か一つを忘れるた びに、「神さまが持って行かれたのだ」と語ります。そうやって、一つ一つを天に移していけば、老いた日々 は穏やかなものです。  私がすべてを忘れる日が来たとしても、主は私を忘れることがありません。  忘れて生きる恵みです。


あとがき  2011年3月11日の大震災と福島原発事故により、日本は大きく変化しようとしています。これまでの 人間のあり方が根本的に問われているのだろ思います。これに個人として答えていくのは難しい問題で す。「人間とは何か」という問いは「神とは何か」という問いを切り離すことができないからです。「私」の存在 の意味は、私と神の関係を明らかにするかたちでやってくるのです。  「心のデボーション」は一日一日、聖書から短いメッセージを学びます。短い思索も1年2年と重ねていく ことによって、「人間とは何か」という現代のテーマに対する神の「細き聲」(列王記上19:11、12)を聞く ことができると信じています。  今回、「心のデボーション」を電子書籍として出版することになりました。「心のデボーション」は10年間 継続されるもので、聖書研究の資料としても膨大なものですが、それを読者に直接お届けすることを電子 書籍は可能にしてくれます。デボーションのもち方は読者一人一人の形があります。神のことばを心に深く 「思いめぐらす」ことがデボーションなのです。


著者 【氏名】皆川 誠 【生年】昭和18年生 【出身地】群馬県高崎市 【現住所】群馬県邑楽郡大泉町【学歴】

1977年コロンビア・バイブル・インスティテュート卒(カナダ クリアーブロック) 1980年ノースウエスト・バプテスト神学大学卒(カナダ バンクーバー) 【職歴】 1987年心理カウンセリング研究所開設 心理カウンセリング及び企業、事業所の社員研修を行なう。心 理カウンセリング、及び資料提供、講演執筆活動、青少年の心理的ケア、社会人の心理的支援等。 【著書】 「放蕩息子にみる現在の家庭問題」いのちのことば社、「心のデボーション」 他 【プロフィール】 群馬県高崎市出身。カナダの神学大学にて、人間関係論、カウンセリング、神学を学ぶ。日本の文化と 心の問題、子どもの教育に関心をもち、心理カウンセリング研究所を開設、心理カウンセリング、カウンセ ラーの養成、カウンセリングプログラムの研究提供、講演などにあたっている。

この書籍には著作権があります。無断で複製・配布を行わないでください。 発行日 : 2011年11月6日 著作権者: 皆川 誠 発行社 : ホープ・イーブックス http://ebible.jp/books/

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