Page 1


BREAKING NEWS 緊急レポート 「ミャンマー・未曾有のサイクロン災害」   ~被災者不在の救援活動と善意の裏側~ 「浮かんでいる死体の処理? そのうち、魚の餌にでもなるさ」   この言葉は、エヤーワディー管区の被災地にヘリコプターで視 まこと 察に入った政府首脳幹部が語った、と実しやかに伝わっている。 真意は分からないが、ミャンマー政府の力では救えない現状を表 した流布かもしれない。未曾有の被害を生み出したサイクロンの 現状について、緊急レポートする。 ヤンゴン市内、樹齢100年の木も薙倒されていた  5月2日から3日未明にかけてミャンマーを襲ったサイクロン「ナ ルギス」。報道では連日のように死者、行方不明の数を伝えながら、 発生後、半月以上を経過した今でも被害の全体像がはっきりしない。軍政お決まりの情報操作によるものと当初は思われていたが、国 軍を投入しても物理的に被害の大きさが判明仕切れなかったというのが大方の見方だ。確かに、国軍ヘリが数機しかなく、被災奥地へ 入るボートすらない、という限られた機材では土台無理な話でもある。とは言え、暴風雨で家屋や家族が高波に流され、必死の思いで 命拾いしたにもかかわらず、救援が現れずに亡くなった被災者にとっては、死に切れない思いだったろう。

 一方で支援物資をめぐり、被災地での非人道的な行為が明らかになり、天災から人災への要素もさらに高まっている。支援物資の横 流しが報道等で批判を浴びているが、それらの多くは軍当局だけでなく、下っ端役人や民間人の多くも関与している。空港の格納庫に 集められた物資は、個数を確認後に割り当てられ目的地に搬送される。しかし搬送中での抜き取りは日常化し、目的地に到着後も仕分 けの段階で抜き取られ、分けられた物資の搬送中に再び。現場の被災民にはほとんど届かないケースも多いという。 某省の大臣は被災地の現状を一通り視察した後で、「被災地の被害の甚大さには非常にショックを受けたが、一番のショックは、横取 り行為を行う人間があまりにも多いことだ」と落胆しているという。  政府も緊急に、救援物資を売買した人間の罰則規定を発表するなど、物資の横流しが横行していることを認めている。しかしその足 元では未だ、国営放送では連日、首相を初めとする政府首脳部らによる寄付、救援物資の引渡し式典を放映。こちらも、式典後に関係 者が去った後、寄付した物資を回収に来る連中がはびこっているという。 人的・物的救援が遅れ、各国の人的支援も拒み続ける中、被災 後、一週間で憲法草案に対する国民投票を実施し、さらに軍政へ の批判が強まっている。しかも90%以上の国民が賛成したという、 非現実的な数字を見る限り、公正に行われたとは言いがたい。  ヤンゴン中心部から約1時間。郊外特有の貧しい集落では、日 ごろから草案に反対する動きがあった。地区の代表者は反対票が 多数出れば自分の身に危険を感じるため、ある秘策を実行。その 秘策とは何か。  国民投票の前日、リハーサルと称して村人を集め、本番さなが らの投票が行われた。反対票を投じると意気盛んだった村人も、 リハーサルという事もあって賛成の印をつけた。 そして、投票日当日、投票に来た村人は信じられない知らせを聞 く。「昨日の投票はリハーサルではなく、本番の投票でした」と。 嘘のような本当の話である。  昨年9月の民主化デモへの武力鎮圧、今回の被災者不在の支援 政策、国民投票強行と、どれをみても第二の民主化デモに発展す る可能性は非常に高いといえる。加えてサイクロン後の米などの 物価高により、生活苦を訴える民衆が、大勢立ち上がる要素も否 定できない。 フリージャーナリスト 藤原一馬

水•食料を求めて長蛇の列が続く

*緊急レポート掲載のため「インレー湖・小船の旅」 はお休みとさせて いただきます。


現代史の旅No3-2

ドキュメント: (前号掲載概略)   前号、突然の嵐のような生活の激変に巻き込まれ た少女。時代は家族をも切り裂いてゆく。それは、 カンボジアの庶民を襲った暴虐の嵐だった。ポブ・ダ

→ アンロンヴェン

シソフォン

アンコール シェムリアップ

7

バッタンバン

6

コンポントム

クラチェ

5

チョムカー・ルー

コンポンチュナン

→ →

←→→ ← タオン ←→ →

ウドン

プノンペン

ポーサット 3

コンポンチャム

ニーさんの運命の転変は、1970年のロン・ノル派のクーデタ ーに始まる。コンポンチャム州の村で慎ましやかに暮らして いた商人の長女であったダニーさん、当時6歳で小学校通学3ヶ 月目であった。直後、小学校の校長先生はシハヌーク国王派 ということで残忍な殺され方をした。やがてロン・ノル政権 と反ロン・ノル派(北ベトナム/クメール・ルージュ)との内 戦が始まり、村にも戦火が及び、家族は親戚・知人を頼って 転々とする。73年、ポル・ポト派がコンポンチャム州を制圧 して戦火が止むと自宅に戻るが、学校は閉鎖、店は開けず、 父母は畑仕事を命じられる。74年には家族の解体が始まり、 母は手元にあった恋愛小説が因で夜毎の集会で自己批判を繰 さつりく り返す。その頃にはポル・ポト派による組織的殺戮も始まっ ていた。村から呼び出された人たちがトラックで運び出され るが、戻ってきた者はいない。<毒草>と呼ばれたら、根こ そぎ(家族毎)に殺される。ある偶然が家族の運命を変える。 自宅前で故障したポル・ポト派高級将校のオートバイを見事 に修理した父親が、オンカーの命令でプノンペンにある技術 学校の先生に就任することになった。  そのことが家族を過労と飢え、もしくは殺戮による死から 救った。74年、家族は父のもとに呼ばれたが、3週間後、戦火 が再び襲い(ベトナム軍のプノンペン制圧)、家族はポル・ ポト派に編入されて逃避行を始める。  「民の声は天の声Ⅱ」は、ダニーさんとその家族のプノン ペンから始まった長い逃避行の記録である。

誕生地(1964 年 12 月生) 1 戦火を逃れる(72-73 年)

4 2

2 プノンペンへの呼び出し 父と再会(78 年)

3

3 逃避行(79 年 1 月ー) 4 逃避行(79 年)

ー←:ダニー氏の移動経路ー

5 国境越え(79 年 12 月 25 日) *街の名:本記録に出てくる街

3週間後、戦争が起きた!

*

 プノンペンでやっと家族が落ち着いたと思ったら、3週間後、戦争が 始まった。  *オンカ-の命令で直ぐにトラックに乗って逃げる事になった。乗ろ うとして振り返るとベトナム軍の戦車がすぐそこまで迫っているのが見 えた。 私たちは*ウドンまで逃げ、そこに一ヶ月ほど滞在した。プノンペン の街では各所に火の手が上がっているのが見えた。やがてウドンにも戦 火が及び、頭上を銃弾が飛び、周囲には迫撃砲の弾が炸裂した。そうし た中を再びトラックで逃げることになり、*ポーサットにたどり着いた。

ポーサットでタ・モックに遭った。トラックから子どもたち だけ降ろされた。タ・モックは、*子どもは殺さない、忠実な兵 士にするため、子どもだけを集めて教育する。その時、私は、 きっと仏様のご加護があったのだと思っている。お母さんが機 転をきかせて、私を台の上に乗せ、背を大きく見せた。それで 助かった。  ポーサットからバッタンバン、さらにそこから35キロのトゥ モー・コーへ、そしてシソフォンまで逃げた。毎日のようにベ トナム軍から攻撃された。そうした逃避行のなかで男たちがど んどん減っていく。皆、兵隊に取られ、その多くは死んだ。シ ソフォンでは男たちが減ったため、食べ物を自分たちで集めな くてはならなくなった。この時、母と別れた。仕事ができない 人たちはひとつにまとめられ、私は食糧集めのグループに入れ られた。  この時も死ぬのではないか、という目に遭った。或る日、米 袋を頭に載せての帰り、ベトナム軍の攻撃に遭った。戦車に追 われながら米を頭に載せて逃げたが、最後は袋もおっぽり出し て、ジャングルに逃げ込んだ。  シソフォンも追われ、徒歩でタイ国境に向った。タイ国境近 くのサン・パウルンに着くのに3ヶ月かかった。雨に打たれ、 ジャングルの中の逃避行だった。そこからプノン・チャに行く。 住む場所は森の中だ。ここでは一日に30~40人もの人が死んだ。 皆、食糧不足からだ。

ポヴ・ダニー氏(Pov Dany)は、1964 年 12 月 15 日、コンポンチャ ム州チョムカー区タ・オン村に父:ポヴ・サルーン、母:チョン・キ ムセインの長女として生まれた。下に妹さんが 3 人、末っ子の弟さ ん 1 人がいる。共に皆、職場は日本である。ダニー氏は、カンボジ ア国籍ながら、夫スーン・ヨン氏との間に 2 女 1 男のお子さんに恵 まれ、日本に自宅を構えている。現在、日本とカンボジアの間をほ ぼ月の半分、ビジネスのため忙しく行き来している。  ダニー氏の経営する<メコン・エクスプレス>は、カンボジア初 の本格的な遊覧船の定期航路開設で一躍有名になった会社である。 トレードマークの「いるか」は、スピード感ある優雅な船体ととも に人々の話題をさらい、その後の定期バス運行にも引き継がれてい る。メコン・エクスプレスのバスと言えば、運行の安全・時間管理に定評があり、日本製リムジンバ スときめ細かなサービスの快適な旅は、海外のガイドブックにも紹介されている。  ポヴ・ダニー氏への取材は、当初、「頑張るカンボジア人・企業家編」といった内容になるものを予 定していた。在日のカンボジア人経営者の、言わばサクセスストーリーである。が、ダニー氏の語る

ター・モックに会った

ドキュメントの迫真性と重要性に鑑み、敢えて「現代史の旅」シリーズで取り上げるにふさわしい歴 史的証言である、と本誌・編集部は判断しました。  健気に生活していた庶民が時代の嵐に巻き込まれ、数奇な運命でポル・ポト派に編入され、1979 年 ポル・ポト派政権崩壊後は敗走行の中に身を投じている。なかでも敗走行からタイの難民キャンプに 落ち着くまでの本ドキュメントは、現在まで活字化されることはなかった稀有な記録である。本ドキュ メントは 10 代の大半を過酷な運命に身をゆだねた利発な少女の曇りない眼で記憶した家族の記録で ある。 

記事についてのご質問•お問い合わせは下記まで! メコンエクスプレス 電話 :023-427518, 携帯 :012-690638(日本語可) E-mail: mekongexpress@online.com.kh D.A.C. 編集部 電話:012-392754(日本語可)E-mail:dac_info@online.com.kh

父が殺された  その日、父は5時に出かけた。知人が午後2時頃、父が殺され ている、と伝えてきた。「父が殺された!」なぜ、殺されたの か、誰に殺されたのか、未だにわからない。母ががっくりきて いるのが、私にもよくわかった。その時、絶望する母をヨンさ んは何かと心配し、『子どもたちのためにも頑張れ』と言って くれていた。  私たちは、父の亡骸を埋めた。内戦後、プノン・チャに行っ たが、父を埋めた所が何処か、わからなかった。


私は3回死にかけた  私は3回、死にかけた。  或る日、5人の女の子の仲間と国境を渡り、タイの村に食糧探 しに行った。畑からそれぞれ1本ずつトウモロコシを盗んだ。後 は落ちている野菜屑を探し、それぞれが持ってきた袋に入れる。 帰りがけ、持ち主のタイ人に捕まった。彼は銃と包丁を持ってい る。『もし袋の中に盗んだものがあったら、おまえたちを殺す』 と言って、袋を調べ始めた。この時は、間違いなく殺されると思っ た。袋は縦長のものでトウモロコシは下のほうにあった。幸い、 上の野菜屑をひっくり返したタイ人の手はトウモロコシまで届か なかった。  それからもタイ国境内20kmほどの村まで芋を盗みに行った。そ の時は年長の男女の後について行った。すると村には盗みに入っ はりつけ て殺されたカンボジア人が見せしめに木に磔にされていた。その 周囲に多くのタイ人がいて、マイクロフォンを持って『ものを盗 んだら、こうやって殺す』と叫んでいた。  カンボジア側のジャングルに住む私たちには食べ物がない。だ から、また行く事になる。  ある時、タイの村に盗みに行ったら、タイの農民が畑でトラク ターを動かしている姿を見た。私は、その時、「すごいなー」と 呆然と眺めていて盗みに来たのも忘れていた。すると突然、機銃 を載せたトラックが走ってきた。その時、私は事態がよくわから なくて車が来るのを見ていた。車はタイ軍ではなくて農民が運転 して、機銃を構えているのも農民だ。呆然としている私を、突然 、男のカンボジア人が抱え、「殺されるぞ!」といって引っ張っ ていた。私も必死で駈けって逃げた。後ろから銃弾が飛んできた。 やっと森に逃げ込み助かった。  1979年10月25日、*オンカーからの命令でタイ国境を越え、タ イ側の難民キャンプに行くように言われた。家族は母と妹・弟の 全部で6人。プノン・チャに着き、2ヶ月後、命令でタイ国境を渡 る事になった。  この時も死ぬかと思った。

 タイ国境には川があり、雨季の増水で流れが激しい。私は、誰 だか思い出せないが親切な人が私を抱え、馬の背に乗せて川を渡 らせてくれた。ここでも渡りきれずに多くの人々が激流にのまれ て死んだ。

キャンプで落ち着きを取り戻した  キャンプにはたくさんの食糧があり、病院まであるのには驚い た。が、ここでも毎日たくさんの人々が死んでいった。一気にた くさん食べるからだ。食糧不足で縮んだ胃がたくさんの食べ物を 受けつけないのだ。毎日のように死体を積んだ車がキャンプを出 て行った。私たちがいたのは、ポル・ポト派が管理するキャンプ だが、そこには国連援助組織(UNHCO)が入っていた。凡そ5000 人の住人。住む場所はビニール屋根でそれぞれの家族が造った。 ポル・ポト派の管理はやがて衰えていった。多くの人たちは、オ ンカーの言うことを信じていたわけでなく、もう戦争も食糧不足 もこりごりだ、と思っていた。未来の旦那ヨンさんは、フランス 語が話せるため、援助組織のメンバーに入って仕事をするように なった。仕事では食糧倉庫の管理と配分をまかせられるようになっ た。ヨンさんは父の同僚ということもあって、何かと家族を励ま してくれた。そして母に勧められて私はヨンさんと結婚した。や がて援助組織からヨンさんにキャンプの子どもたちのために学校 をつくるよう要請が来て、ヨンさんは学校の校長になった。私か ら見るにヨンさんの地位はどんどん上がっていくように見えた。

*ター・モック;ポル・ポト派参謀総長。彼の率いる部隊は残忍で人々から恐れられてい  た。部隊は少数民族や少年兵で構成され、家族から引き離された少年達は洗脳され、危  険な任務や残虐さを強いられた。少年兵は現在ミャンマー軍やアフリカ各地でも欧米の  人権団体から問題にされている。人々は秘かにター・モック(モック爺さん)ではなく、  アー・モック(悪魔のモック)と呼んでいた。ポル・ポト派最強硬派で99年に逮捕され、  2006年死亡。ポル・ポト指導部で留学生帰りが占める中、唯一の貧農出身だった。 *オンカー: ポル・ポト派支配下では、指導部やその命令組織は「オンカー」(意味: 組  織)という一般名称で呼ばれていた。これは、カンボジア共産党(ポル・ポト派)の極  端な秘密性・閉鎖性を物語っており、指導部が民衆の反抗を極度に恐れていたことが解  る。


D.A.C. お勧めの一冊

アンコール 探 査 行

ドラポルト著・三宅一郎訳  平凡社:東洋文庫 

「 イ ン ドと中国の混合芸術から発生したクメー ル 芸 術 は東洋のアテネ人と呼ばれる芸術家たち に よ っ て純化向上し、インダス河から太平洋へ ひ ろ が るアジアの広大な地域における、人知の も っ と も美しい顕現として現存している。」

  ア ン コ ー ル ・ ト ム の 旧王城内にあるバ プ オ ー ン 遺 跡 に 行 く た びに想う。実に息 の 長 い 修 復 作 業 で あ る 。1930年代から始 ま り 、 内 戦 の 数 年 を 除 き、今日まで続い て い る 。 数 十 m も 続 く 美しい空中参道も 修 復 が あ っ て の 姿 で あ る。10年前、中心 ど まんじゅう 部 は 四 角 形 の 基 盤 の 上 に土饅頭のような 砂 岩 の 散 乱 し た 人 工 丘 であった。それか ら 長 ら く 石 を 持 ち 上 げ るクレーンが見え て い た 。 06 年 、 行 っ て 見て驚いた。土饅 頭 は タ ・ ケ オ 遺 跡 の よ うなピラミッド型 の 変 貌 し て い た 。 言 う までもなく、植民 地 時 代 か ら 続 く フ ラ ン ス極東学院の手に なるものだ。   10 0余 年 前 、 木 々 の 密生していたアン コ ー ル ・ ワ ッ ト 境 内 、 バイヨンは崩壊し た 砂 岩 の 散 乱 で 内 部 に 入ることさえ容易 で は な か っ た 。 現 在 の 姿は、発見当時と は 同 じ で は な か っ た 。 フランスの遺跡保 護 ・ 修 復 へ の 情 熱 に は 頭が下がる。アン リ ・ ム オ 以 来 、 多 く の フランス人探検家 が 奥 地 に 分 け 入 っ た 。 中でもドラポルト の 探 査 行 ( 1 86 6-6 8年 )は、記録も詳細 で 文 化 史 的 価 値 を 見 出 す学識の高さによ っ て 知 ら れ る 。 1 9世 紀 後半、ウドンでの

王室の様子、地方や奥地での自然・ せ たい にんじょう 世態人情の記録も偏りが少ない。本 書に掲載されている多くの図は< ド ラボルトの復元図> として知られ、 『遺跡の精密な測量調査をもとに彫 刻・風俗の研究を合わせ復元したも ので、単なる想像図でない』、また、 本書から『クメール研究が始まり、 アンコール学の古典とも言われてい る。』と訳者;三宅氏は述べる。  日本語訳の初版は1944年、三宅氏 は戦時下の45年にプノンペンのアル

ベール・サロー博物館(後のプノンペ ン 国立博物館)の館長デュポン博士を 訪ねている。本書の後書き末 は88年の 記述になっている。三宅氏の本書に対 する想い入れの深さ、その息の長さに も驚かされる。  本書の圧巻はアンコールの遺跡群の 記述であるが、研究者の言う五大遺跡 のうち、三遺跡(大プリアカーン、コー ケー、ベンメリア)はドラボルト探査 よみが 行の記述によって初めて蘇ったもので ある。「とことんアンコール」と、ク に メール遺跡に魅せられたリピーター すい ぜん とって本書は垂涎の書であり、またカン ボジアを訪れた人なら、どこかで一度 は本書に掲載された復元図に出会って いるはずである。

大プリアカーン寺院の復元図


シェムリアップ

トラベル・トライアングル

ヘッドラインニュース 市場案内図 寄稿:「カンボジア人と、楽しみ、学ぶ、文化遺産」     シハヌーク・ミュージアム案内図

www.discovery-asia.com

信頼の ホテル・レストラン・お店・会社


大人の空間、レストラン「AHA」  2008年3月13日にオープンしたばかりのHOTEL DE LA PAIX系列のレストラン。 店名の「AHA」はカンボジア語で「食事」の意味で、クメール料理、西洋料理、 創作料理が食べられる。  店内はカンボジアにいることを忘れさせる都会的な空気が漂う。スタイリッ シュな間仕切りや照明。席について外を眺めると、ガラスの外の市場の喧騒が まるで映像でも見ているかのようだ。市場に面しているだけにその違和感がお もしろい。  ライスコロッケ、海老とズッキーニのフリッターなどの小皿料理を何品かオー ダーしてテーブルを彩り、豊富に取り揃えられたワインとともに目で舌で味わ いたい。 営業時間 : Old Market Area, Siem Reap TEL: 063-965-501   営業時間 : 8:00-22:30

オールドマーケット周辺 エリアが熱い! ! 「ANGKOR TRADE CENTER」 エスカレーターに大はしゃぎ!?

 オールドマーケット、バーストリ ート周辺エリアがどんどん賑やかに

 シェムリアップの街にもようやく大型のショッピン

なってきた。ここ数年でおしゃれな

グセンターができあがった。場所はオールドマーケッ

レストランやおみやげ屋、スパなど

ト近くのシェムリアップ川沿い。地元の人たちは始め

が次々と増え、アーケードつきの路

て目にするエスカレーターにまるで遊園地のアトラク

地までできた。

ションにでも乗るかのようにはしゃいでいる。

 ごはんを食べて、マッサージして、

 衣料品や靴、かばん屋などをはじめ、おみやげ屋や

お茶して、 お買い物して、飲んで

フードコートもあるから、観光客も楽しめる。エアコ

・・・。気ままに路地から路地へと

ンの効いた店内で一息ついてみては?

散策を楽しもう。

日本人パン職人の熱い思いのつまったパン学校が開校!  パン職人を育てカンボジアの若者の自立を支えるパンプロジェクト。2004年に活動が始まり、 2008年4月22日にBOSCO BAKERY SCHOOLが開校した。  きっかけは現在この学校マネージャーを務めるピロムさんの日本への留学。ホームステイ先がパン 屋さんだった。パン屋のご主人、猪原さんはカンボジアのこどもたちにおいしいパンを食べさせた い、と活動を始めたが志半ばにして癌で亡くなった。猪原さんの遺志を継ぎ、東京都や神奈川、埼 玉県らのベーカリーのオーナーらがプロジェクトを進めた。  そしてこの春、パン職人団体が集めた寄付金、ピロムさんの留学のお世話をした国際ボランティア 団体(VIDES)からの支援を得て、この学校兼パン工房がオープンした。オープン前には日本からパ ン職人がやってきてみっちり特訓を行い、職人の合格をもらってパンの販売も始めた。  BOSCO BAKERY SCHOOLで作られたパンは、シェムリアップ市内に在る ↑写真は週末限定の『カフェ・ プカプカ』のケーキセット

『カフェ・プカプカ』で販売されている。持ち帰りも可能で、厚切りスラ

住所 : Group8, Po Village,

 学校の代表を務める横田さんは、プロジェクトに賛同し脱サラしてカンボジ

Siem Reap District, Siem Reap Province TEL: 012-202-132 (Manager Ms.Phirom)

イスの食パン(ホテルブレッド)やメロンパンが人気だ。 アにやってきた。現在、学生兼職人は3人だけだが彼らを指導し見守ってい る。「彼らはとってもまじめで向上心もある。今後も日本の職人を定期的に 呼んで技術指導を行う予定。学生がりっぱな職人になってその技術をさらに 若い世代に伝えていってほしい。」と笑顔で語ってくれた。


すしバー「ふくおか」  この4月、CITY ROYAL HOTEL内にすし バー「ふくおか」がオープンした。バン コク航空系列のホテルということで、ネ タはバンコクから空輸、まぐろやサーモ ンなどの寿司や刺身が食べられる。店 名の「ふくおか」は、バンコク−福岡間 の就航を記念してつけられた。  落ち着いた店内でカウンターに座って 緑茶を飲みながらゆっくりと味わいたい。 営業時間 : 11:00-21:00 定休日 : 月曜

カンボジア到着査証が変更に   カンボジア到着査証(ビザ)のフォームが変更 されました。  出入国カードと良く似た形式で、以前のA4サ イズのものからA5サイズへと変更にされていま す。観光ビザ$20.00、ビジネスビザ$25.00と料

ベン・メリア遺跡ゾーンに 不法建築増加

金に変更はありません。

 アンコール遺跡群の新スポット として人気を集め始めたベン・メ リア遺跡。広い遺蹟は環濠に囲ま れており、環濠内及びその周囲は 森に蔽われている。遺跡はアプサ ラ機構によって管理されているが、最近、周辺の森に住民が侵入し、 森を開拓して住居を建てることが目立ってきた。いずれも将来の観 光地化を見越しての地価の値上がりを期待しているものと思われる。 無秩序な開発は、結果的には観光地化の支障になると当局は苦慮し ている。(2008年5月報)

コーケー遺跡修復情報  コーケー遺跡群の中でもっとも大きな遺跡「プ

ボレイ•アンコール•ホテルがリニューアルオープン  ボレイ•アンコール•ホテルが4月にグランド•オープンし、新たに名 称を「ボレイ•アンコール•リゾート&スパ」に変更された。客室は127 室から大幅に増え、全室188室となった。増部屋された61室は全て 「ランドマーク• ルー ム」で、部屋は広々 としていてバスタブ などもお洒落な造り になっている。  今後注目の4星ホ

ラサット・トム」 修復のための調査が始まった。  プラサット・トムは砂岩を積み上げた7段ピラ ミッド型の大きなヒンドゥー教寺院。これまで修 復の手は入らずにいた。今年1月22日から国の遺 跡管理機構(アプサラ機構)による調査が開まり 階段は閉鎖され、現在そのピラミッドの頂上へ登 ることはできなくなっている。(※遺跡を下から 望むことは可能)  修復の方法や期間など具体的な内容はまだ決ま っていない。

テルだ。

ソフィテルが名称を変更  シェムリアップにある老舗5ッ星ホテルのソフィテルが、今年6月15日より正式名 称を変更する。今までの Sofitel Phokeethra Royal Angk o r Gol f & S pa Resort からSofitel Angkor Phokeetra Golf & Spa Resort となる。


「カンボジア人と、楽しみ、学ぶ、文化遺産」 -第一回現地見学会( Preah Norodom Sihanouk-Angkor シェムリアップ 、2008年4月1日、三輪 悟  上智大学アジア人材養成研究センタ ー

Museum 他 )―

1 .博 物館 建 設 と開 館 ま での経緯 シハヌーク・アンコールミュ-ジアムは2007年11月2日シハモニ国王ご臨席の下落成式が行われ、博物館建物がカンボジア政府に寄贈された。そ の後2008年1月2日博物館を管理運営するアプサラ機構により正式に開館した。 振り返ると上智大学アンコール遺跡国際調査団(団長:石澤良昭教授・現上智大学学長)は2000-2001年にバンテアイクデイ寺院での発掘調査に おいて、274片の仏像を偶然に発見・発掘した。以来、仏像は上智大学アジア人材養成研究センター(現地オフィス)の居室内に所狭しと保管・管理 されてきた。2002年3月岡田卓也様(イオン(株)名誉会長相談役)が上智大オフィスを訪問し仏像をご覧になられたことが切っ掛けとなり、イオン1% クラブより多大なる支援を受け、これらを収蔵・展示・公開する為の博物館建設の話が進んだ。 2 .現 地 見 学 会 「遺跡周辺の住民教育の為、また発掘調査に際し彼らの協力を得る為には、村人達への現地見学会は大切である」我々はそう考えていた。実際、 バンテアイクデイでは過去に何度か現地見学会を実施し好評を得ていた。しかし先の仏像発見の際、遺跡を警備する警察からの忠告は「仏像の埋 蔵場所を多くの人に知らせると盗難の恐れがあり危険だ。警備上の理由で中止して欲しい。」というものであった。上智大の研究者達はこの忠告を 受け入れ、また幾分のトラウマとして心に残り、その後現地見学会が開催されないまま今日に至っていた。この度、上智大センターから仏像が全て 博物館へ搬出され、遺跡の現場も町のオフィスも仏像盗難の心配がなくなり、アプサラ機構と上智大の双方より、時を同じくして「現地見学会」再開 を望む声が上がり、共同企画として見学会を催す運びとなった。 3. バンテアイクデイ 2008年3月22日(土)朝07:30バンテアイクデイ寺院東門前に、ロハール村の住民達、 子供から年配者までおよそ140人が集まった。ロハール村は寺院の北に位置し、発掘時 の作業員10数名はこの村から雇用しており、日本の考古専門家から第一回目の見学会 は、是非、共に作業をした彼らを招待したい、という希望があった。当時発掘を担当した キムサンとブティーの二人(上智大考古スタッフ)から仏像発見の現場で当時の情況説 明が行われた。小さな子供たちにとっては、生まれてはじめて聞く話だったかもしれない。 また年配者にとっても、専門家の説明を受けたことは初めてであった方も多い。この日 上智大は乗用車からトラックまで動員できる車5台全てを使い、住民達の移動用とし、次 の博物館へと向った。 4.博物館  08:20頃博物館に到着し、先ずは館長であるヴァナ氏の挨拶があった。氏は上智大学へ留 学し博士号を取得という経歴を持つ。ここでは、館長ヴァナ氏を始め、副館長ティナ(同様上 智大で博士号取得)、博物館の考古専門スタッフ、加えて上智大考古スタッフらが皆総動員 され説明に当たった。当時の情況を知るカンボジア人専門家による説明は臨場感に溢れ村 人達には好評であり、多くの質問が出た。「実は発掘後、仏像がどこに行ってしまったか分 からなかった。今日仏像が全てここにある姿を見て安心した」という80歳を超えるおじいさん のコメントが印象的だった。博物館の次にアプサラと上智大の共同プロジェクトであるアン コールワット西参道の修復現場(2007年11月3日に第Ⅰ工区竣工)を見学した。現場を担当 した建築家から修復の経緯や参道の構造につき、説明した。10:30村に戻り解散(終了)。 5.まとめ 村人達は、どの遺跡で、誰が、何をしているのか、実際には良く知らないことが多い。これはアプサラ機構そのものについても実は同様である。今 後も継続的に地域住民たちを対象とし、文化遺産教育を続けたいと考えている。カンボジアの遺跡保存の長期展望に立った時、最も必要とされる ことは何か。誤解を恐れず端的に言えば(広義の正しい)「教育」ではないだろうか。 *博物館情報 シハヌーク・アンコールミュージアム(Preah Norodom Sihanouk-Angkor Museum)   入館料金:外国人3ドル、カンボジア人1000リエル、12歳以下の子供は無料   開館日:火曜日‐日曜日08:00-17:00まで。(カンボジア正月、お盆、水祭りは別途各3日間休館) *参考文献:石澤良昭編「アンコール・ワットを読む」(2005年、連合出版)

シ ハ ヌ ー ク ・ ア ン コールミュージアム  当 館 は 、上智大学の調査・研究活動の成果を 一般に公開する場として イオン1%ク ラ ブの資金提供によって建設され、カンボジア王国に 寄贈さ れ た 博 物館です 。  2 0 0 7 年11月、アンコ ール遺跡群管理するアプサラ機構の運営によっ て 開 館 さ れました 。当館は、遺跡発掘現場に近接す るサイト・ミュウゼアム として非公開では あるが 、研究施設とアンコー ル王朝史研究の第一人者 である石澤良昭氏(現上智大学・学長)の蔵書5000余冊を 有す る図書室 を併 設 しています。


発掘された仏像[1階]

トイレ

ho

→ →

p

Di

sc ov er

「発見の舞台へ」(Discovery room) ・中央部に「埋蔵仏像群の発見」を再現(実寸レプリカ) ・ナーガ上の釈迦像他、発掘仏像を展示。 A 「体験コーナー」(Work shop)

yr oo

m

ks

「はじめに」 (Greeting) ・バンテアイ・クデイ発掘の歴史的意義や発掘展示品の  概略説明(パネル掲示。クメール語・英語・日本語)

→ →

gs tin ee Gr

玄関

W or

A

蓮池

チ ケット  売り場

B

・千体仏石柱(レプリカ)の拓本に挑戦できます。

登る

B 「発掘・修復現場の姿」 (The site of an excavation and restoration) ・バンテアイ・クディ寺院発掘調査、 ・アンコール・ワット西参道修復現場。            (パネル掲示・写真)

☆ → 印は見学順路。

祈りのかたち[2階]

M

of

吹き抜け

3 Ha

ll

e

pl

em et

th

4 トイレ

ain

C 「 タ ニ 窯 跡 群 出 土 品」(Khmer ceramics) ・ ア ン コ ー ル 遺 跡 群の東側平野で発見された窯跡の   一 つ タ ニ 窯 跡 群 から出土した陶器類。

降りる

C

ry

・ ナ ー ガ 上 の 仏 像 を回廊に沿って展示。   バ ン テ ア イ ・ ク ディ中央祠堂の回廊をイメージ化。

lle

4 「祈 り の 回 廊 」 ( G a llery of the temple)

Ga

・ 中 央 部 の 千 体 仏 石柱をはじめとする発掘仏   像 群 の 優 品 を 展 示。   1 階 2 の 発 掘 現 場 再現(仏像埋納坑)を参照。

er Khmmics cera

3 「メ イ ン ・ ホ ー ル 」(Main hall)

* クメール陶器の窯跡発見は19世紀末に遡れる。 *  クメール陶器の本格的研究は上智大学の調査によって始まる。 参照:石澤良昭監修・著「アンコールの仏像」   (2007年、NHK出版)

旅のことなら何でも お気軽にご相談下さい ニューサイトラベルサービスカソボジア

ガイドブックにまだ紹介されていない観光地 オーダーメイドのツアーアレンジ 各種取材・撮影・視察旅行随時受付中 日本人直通ダイヤル:855-12-1795924

プノンペン

シェムリアップ

シハヌークビル

#377Eo, Sisowath Quay, Phnom Penh Tel : (855-23) 362 590 Tel/Fax : (855-23) 991 651 E-mail : saicam@online.com.kh

#95, Ta Phul Village, Siem Reap Tel : (855-63) 963 825/826 Fax : (855-63) 963 398 E-mail : saicamrep@online.com.kh

#025, Ekreach St, S. 4, K. Mitapheap Sihanoukville Tel : (855-34) 933 760 H/P : (855-12) 940 368 E-mail : saikos@camintel.com.kh


Profile for Discover New Asia

D.A.C No.6  

D.A.C No.6  

Advertisement

Recommendations could not be loaded

Recommendations could not be loaded

Recommendations could not be loaded

Recommendations could not be loaded