2021-08

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すごいぞ!ニッポン語 #15

翻訳の困難さ

新しい日本語を造語する上でのリーダー役を果たした西周は、 津和野盆地が生んだ。津和野は中国山地の西のほうである。中 国山地の東のほうには津山盆地がある。津山盆地には作州津山 藩があった。現在の岡山県津山市である。津山も津和野同様、 学問を重んじる藩であった。 ここに箕作(みつくり)家という代々洋学をもって幕府につか える家系があった。そのひとり箕作麟祥(りんしょう)は、文 久元年、蕃所調所教授手傳として幕府につかえた。明治維新の 前年1867年に幕府から派遣されて渡仏し、翌年帰朝後、新政府から 一等訳官に任ぜられた。屋敷は勤務先の近くの神田神保町に構えた。 “新政府は、当初、どんな国家をつくっていいか、わからなか った。戯画的にいえば、私はどこへ行ったらい いのでしょ う、と辻できいているようなものであった。「法にむかいた まえ」という人がいた。「法とは、すなわち国です。国をつ くるというのは、法をつくることです」” (『街道をゆく36 神田界隈』) 法のない状態で国家ができた明治政府としては、法律の作成 が先決問題であった。当時の司法卿江藤新平は箕作麟祥に白羽 の矢を立て、“仏国五法(民法・訴訟法・商法・刑法・治罪法)” の翻訳を命じた。 フランス留学をしたとはいえ、わずか一年間の渡仏である。 フランス語の翻訳、それも法律の翻訳など無理な注文だったろ う。ただ、代々蘭学をもって幕府につかえた家系だけにオラン ダ語は得意で、「仏蘭辞典」をたよりに翻訳に没頭したようだ。 “翻訳の困難さは、法律用語一つずつに、それに見あう日本 語や、似合った概念が日本にすくなかったことに もよるだ ろう。箕作は、日本語からして創り出してゆかざるをえなっ たのである。”(『街道をゆく 36 神田界隈』) 箕作は五年の歳月をかけてフランスの諸法典を全訳し、1874 年『仏蘭西法律書』を世に出した。日本国初の近代法典である。 その後の日本の近代的法制度の整備に多大な影響を与え、日本 における法律学の基礎を築いたのは言うまでもない。その功績 により、箕作麟祥は「法律の元祖」と評される。権利、義務、 動産、不動産なども彼の創作である。 同じく、蕃所調所に津田真道(まみち)という洋学者がいた。 この人も津山藩の出身である。文久二年、幕命により西周、榎 本武揚らとライデン大学に留学し法律学を学んだ。民法・治罪 法などの西洋法律書を訳す作業に従事し、『統計学』という統 計学の翻訳書を著した。 また加藤弘之という洋学者も蕃所調所において翻訳作業に従 事し、『西洋各国立憲政体起立史』という翻訳書などを著し、 日本の法体系の確立の上で大きな貢献をした。明治23年には、 東京帝国大学総長に任命された。 蘭語に秀でた多くの洋学者が、日本全国から蕃所調所に集ま った。そして、新しい日本語の造語に没頭した。しかし、この ことは一朝一夕に成されるようなものではなかった。現在我々 が使う熟語になるまでには相当な紆余曲折を経ている。 “たとえば、憲法ということばでさえ、明治十年代のおわりごろ まで不安定だったのである。 慶応二年版の福沢諭吉の『西洋事情』では「律例」といい、 慶応四年の加藤弘之の『立憲政体略』では「国憲」と訳されて

ジョン金井

おり、同年の津田真道の『泰西国法論』では「根本律法」にな っている。(中略)また、インターナショナル・ローのことを 国際法と訳したのも、明治六年、箕作麟祥だったという。幕末 では「万国公法」といい、明治二年出版の訳書(福地源一郎・ 訳)には、「外国交際公法」とあるそうである。” (『街道をゆく 36 神田界隈』) 紆余曲折の模様を身近なところでいくつか紹介してみよう。 Encyclopediaは言うまでもなく百科事典であるが、その変 遷を追うと面白い。明治1年に「諸学問」、同4年に「万学字 典」、同6年に「節用集・学術字林」、そして同18年には「百 科全書・学術辞書」と訳された。明治20年になると、今度は 「博学・合類節要・学術類典・百科字類」などへと変遷した。 同21年には「三才図会」へと、同41年には「叢書」へと変わ った。そして、大正3年になって「百科辞書」となり同7年に 「百科事彙」「全書」へと変わり、昭和6年になってやっと 「百科事典」で落ち着いた。 Egoist(エゴイスト)は「利己主義者・自己中心主義者」と 訳されるが、その移り変わりを辿ってみよう。文久2年の「利 得を得たがる人」が初めての翻訳で、明治4年に「我欲人」、 同6年に「慈愛者・自惚れ人・私欲人」となり、同36年に「利 己主義者」という翻訳が成される。大正15年には「自己中心 主義」となりそれで固まるが、その後も色々な訳語が現れ、昭 和6年には「独り天狗」とか「我利我利亡者」などと訳されも した。 ところで、egoistを文久2年の「利得を得たがる人」、明治 6年の「自惚れ人」などと用いていたなら、他の漢字圏の人た ちには使用不可能だったと考える。利己主義者や自己中心主義 で初めて、音読みが可能なのだ。他の漢字圏の国々には、訓読 みはない。 比較的新しい外来語に「OK」がある。日本に初めて上陸し たのは大正7年で、「宜しい・間違いなし」と訳された。昭和 二年に「相違なし」、同五年に「完了・件の如し」、同六年に 「検査済み」、同七年に「おっと承知の助・合点だ」への変わ っていった。そして昭和九年には「承認・承諾・承知」と変わ ったが、結局どれもしっくりこなかったのか、オーケーで落ち 着いたようだ。 ところでOKである。現在地球上で最も親しまれ、どこへ行 っても通じる言葉というと「OK」ではないだろうか。このOK の誕生の秘密を紹介して終わりにしょう。誕生した日にちまで 残っている。1839年3月23日である。ボストンのMorning Post紙の編集長C.G.Greenが、上がってきた原稿に、間違い なしを意味する「All Correct」をわざと同じ発音の「Oll Korrect」と書いたのが始まりらしい。いたずらで書いたOll Korrectの頭文字を取って出来たのが「OK」なのだそうだ。 それが世界中で愛用される言葉になったのだから不思議である。 参考まで。



オレンジの小道 第九十五回 短歌 庭染める紫陽花のまり食卓に一輪翔んで部屋を彩る (さざんか) ふと気づく母逝く年にたどりつき老い方くらべ明日を夢みる (柳内みちこ タスティン) 明日の日は無きものと思えひたすらに今日を楽しく過ごさんものと (住山ひろし タスティン) リハビリの大切さ知る日々なれど体力の無さ如何ともぜじ (住山たえこ タスティン) 咲き誇る庭のあじさい葉と合わせ迫る花展の試作する朝 (横田淑子 アーバイン) ジャカランダ色鮮やかに咲くものの人の名声はかなきものよ (樋口ゆういち ミッションビエホ) なぜもっと後悔ばかりの父の日に紫陽花ながめひとりのお茶を (森田のりえ RPV ) 嫁の焼くパンの美味しさ日本一可愛いい孫と幸せ感謝 小(林ひでこ 東京 )

totorotoshokan@gmail.com 高木美津子 宛

二〇二一年 十一月号 短歌募集︵十月三日締め切り︶

二○二一年 十 月号 川柳募集︵九月三日締め切り︶

ネットフリックスで赤毛のアンに再会す青き我へとわくわくの波 (高木みつこ ラグナヒルズ)

作品 募集

▼作品抄

香を撒きてジャスミンの花散り積もり初夏の庭先真白に染める えがわようこ

Irvine

Placentia

Irvine

東雲の茜に海を染め上げる創造主の為される御業  田中登志

花開き小鳥さえずる初夏なれど長々つづくコロナ禍の日々   大橋静江

Irvine

Laguna Niguel

Las Vegas

花の間に青空透けて鐘形のむらさきあはくジャガランダ咲く  高橋敦子

友の文待ち遠しくて外に出る熱風吸い込み郵便箱まで  山本民子

コロナ前見過ごし通った検疫所今は阻まれ過ぐるは難し  真田和子

Garden Grove

Laguna Hills

大谷と同じ背番号身につけてバッターボックスに立つ孫応援す 中川貮子

涼風に水面で揺れる木の影に心癒されしばし佇む  森山芳枝

La Palma

Los Angeles

雉鳩はフェンスに鳴きぬクックホレと庭に穴掘る吾を見下ろし  藤原春

あでやかに虹が立ちたり夕映えの中の短き虹の七色  松江久志

▼己を知る道としての哲学的抒情 松江久志 ﹁最後まで幸福を目指す人生知としての意味を失わなかったギリシャ時代の哲学に、私 は深い郷愁を覚えますが、短歌の方法にしてもつまるところ己を知る道としての哲学 的抒情に他ならないのではないか、短歌をそのような人間的基盤から発想したいと私 は常に考えてきました。およそ一切の佳き文学の底には﹁人々に魂の静安をもたらす、 何かレクイエム的な心に染み入るようなもの﹂︵堀辰雄︶ とならんで、社会改良の理想と 正義への意思というようなものが 源 「としてあるべきだ﹂と信じているが、それがそのま ま﹃断腸歌集﹄︵昭和四十一年刊︶ のおもな内的理由といえるのではないかと考えている 。 ﹂ これは、瀧沢亘の第二歌集の ﹃断腸歌集﹄ のあとがきにある言葉です。 この歌集は滝沢 が昭和三十七年から昭和四〇年末までの三六〇首を発表年代順に収録し、湘南サナ トリウム入院生活中に成った作品です。晩年は求道的姿勢が次第に超私の世界にまで 入ったといわれました。四十一歳の若さで喀血死。