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なぜ、イエス・キリスト?


Ⓒ Alpha International, 2008 本書は権利者の書面による許諾なく、その全文ないしは一部を、機 械、電気、電子、情報システムなどの手段を問わず、複製、録音、伝送、 保管、回復することを禁じます。 本書にある聖書の引用は、別途記述がない限り、すべて日本聖書協 会発行『聖書』 (新共同訳)を用いています。 Originally published in English under the title Why Jesus? Copyright 1991 Nicky Gumbel Holy Trinity Brompton, Brompton Road, London SW7 1JA Illustrations by Charlie Mackesy

なぜ、イエス・キリスト? Why Jesus? 1998年   日本語初版発行 2009年 3月  日本語改訂新版第 8版 出版:AAP Publishing Limited  13/F Methodist House, 36 Hennessy Road, Wanchai, Hong Kong  Tel : 852-21319781 Fax: 852-31151331   E-mail : publishing@alphaap.org   Web : www.alphaap.org 発行:アルファ・ジャパン    Web : www.alphajapan.jp 発売元:伝道文書販売センター   〒 350-0303 埼玉県比企郡鳩山町熊井 170   Tel: 049-296-3143 Fax: 049-296-3173   E-mail: denpan@nlljapan.com    ISBN978-4-9901213-0-3 Printed by New Life League, Japan


キリスト教とは何についての教えでしょうか?  人と関わることは、とても楽しいものです。私たちの人生 において、人間関係は最も重要な部分を占めています。両親 との関係、ボーイフレンドやガールフレンドとの関係、夫婦 関係、親子関係、友達との関係など、どれもとても大切です。

 キリスト教とは、「規則」ではなく「関係」についての教えで す。 「哲学」ではなく「ある方」についての教えです。最も大切な 「関係」についての教えです。そうです。私たちを造ってくだ さった神様との関係についての教えなのです。イエス様は、最 も大切な教えは、私たちが神様を愛することであると言われ ました。次に大切な教えは、隣人を愛することであると言わ れています。キリスト教は、まわりの人との人間関係に関す ることでもあるのです。 1


なぜイエス様が必要なのでしょうか?  あなたも私も、神様との関係 の中で生きるように創造されま した。神様との関係を見つける まで、私たちは人生の中でいつ も何かが欠けた状態で生きるこ とになります。その結果、私たち は、心の中に埋められない隙間 を感じることになります。ある 有名なロック歌手は、この満た されない思いを「心の奥底にい つも空しさがある」と歌ってい ます。  ある主婦がくれた手紙の中には、「深い深い空しさ」という 言葉がありました。またある若い女の子は、 「魂から欠け落ち た大きなかたまり」と表現しました。  皆、この空しさを様々な方 法で埋めようとします。お金 でこの空しさを満たそうとす る人もいますが、お金で満た すことはできません。世界で も有数の大富豪であるアリス トテレス・オナシス氏は、そ の生涯を終える時こう言いま した。 「何百万の富も、たった 一人の男の人生に必要なもの を満たすことはなかった」 。  また、薬やアルコールや性行為によってその隙間を埋めよ うとする人もいます。ある少女が、このように言いました。 「こ ういうことで一時的には楽しめるけれど、その後、すごく空 2


しい気持ちになるのよね」 。仕事や音楽やスポーツに熱中した り、成功を追い求めたりすることで、心の空しさを埋めよう と努力する人もいます。決して悪いことではないのですが、人 間が心の奥底に抱えている飢え渇きを、これらのことで満た すことはできません。  最も親密な素晴らしい人間関 係でさえ、この 「心の奥底にある 空しさ」を埋めてくれることは ありません。私たちを造ってく ださった神様との関係以外に、 この隙間を埋めるものはないの です。  新約聖書によると、この空し さの原因は、人間が神様に背を 向けてしまったことにあると言 います。  イエス様は、「私が命のパンである」(ヨハネ 6:35)と言わ れました。私たちの心の奥深くにある飢えを満たしてくださ るのは、イエス様だけなのです。なぜなら、イエス様だけが、 私たちの神様との壊れた関係を回復させてくださるからです。

a) イエス様は、人生の意味や目的に関する飢え渇きを満た  してくださいます。  誰でも一度は、「一体全体私は何をやっているのだろう?」 「人生の意味とは一体何だろう?」 「この人生に目的はあるの だろうか?」というような疑問を持ったことがあると思いま す。アルベール・カミュが言ったように、 「意味がなければ、生 きていけない」のです。  神様と関係を持って生きるまで、人生の本当の意味や目的 を知ることはできません。様々なものが、一時的な満足感を 3


与えてくれるでしょう。しかし、そうして得た満足感は決し て長続きしません。私たちの造り主である神様との関係の中 にだけ、人生の本当の意味や目的を見つけることができるの です。

b) イエス様は、死に対する不安を解消してくださいます。  クリスチャンになる前、私は死について考えることがあま り好きではありませんでした。自分が死ぬのはずっと先のこ とのように思えたからです。死んだ後何が起こるかは分かり ませんでしたし、考えたくもありませんでした。現実を直視 できなかったのです。私たちは皆死ぬというのが現実です。し かし神様は「永遠を思う心を人に与えられ」(コヘレト 3:11) たのです。  多くの人が死にたくないと思っています。死を避けて通り たいと望んでいます。イエス・キリストにあってのみ、私たち は永遠の命を得ることができます。今から始まる神様との関 係が、死を超えた永遠へと私たちを導いてくれるからです。

c) イエス様は、私たちをゆるしてくださいます。  もし正直になるなら、誰でも間違っていると分かっている 4


ことをしてしまうことがあるのではないでしょうか。時には、 本当に恥ずかしくなるようなことをしてしまうこともありま す。それどころか、それを正当化してしまうような自己中心 性も持っているのです。イエス様は次のように言っておられ ます。 「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり 人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行 い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪 口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人 を汚すのである」(マルコ 7:20 ∼ 23)。  私たちが最も必要としていることは、実は、ゆるしです。自 分が癌だと知らないとしても、癌を抱えている人には医者が 必要です。同じ様に、自分で気づいていないとしても、私た ちは誰もがゆるしを必要としているのです。必要なことを 知っている人の方が、まやかし の安心感を得ている人よりも、 ずっと幸せです。  イエス様が十字架の上で死ん でくださったことによって、私 たちはゆるされ、神様との関係 を回復することができました。 このようにして、イエス様は私 たちの心の奥深くにある飢えを 満たしてくださったのです。

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なぜ、イエス様を知ろうとするのでしょうか?  なぜ、キリスト教を知ろうとするのでしょうか? それは、 キリスト教が真実だからです。もし、キリスト教が真実でな いなら、私たちは時間を無駄にしていることになります。も し真実であるなら、それは、すべての人にとって大変重要な ことに違いありません。

どのようにして それが真実であるとわかるのでしょうか?  歴史的な事実に基づいた信仰であるということからも、キ リスト教が真実であるということが分かります。これは、イ エス・キリストの生と死、そして復活に基づいた信仰です。私 たちの信仰は、歴史的事実に基づいているのです。

イエス様とは、どのような方なのでしょうか?  イエス様は、この世に生まれた人の中で、最も注目すべき 方です。イエス様は、私たちの文明の中心におられる方です。 西暦までもが、イエス様の生まれる前をBC(Before Christ:キ リストの来られる前) 、生まれた後をAD(Anno Domini:ラテ ン語、主の時代)としているのです。  イエス様は、昔も今も神の御子です。イエス様が「素晴ら しい宗教的教師」 にすぎないと考える人もいます。しかし、こ 6


の考えは歴史的事実と一致しません。

a) イエス様の主張  イエス様は、ご自分のことを神様と同じ立場にある神の独 り子であると言われました。イエス様は、人びとの罪をゆる す権威を持っています。イエス様は、世の終わりの日には、そ れまでの人生でご自分に対してどのように応答したかによっ て人びとを裁くと言われているのです。  C.S.ルイスはその著書の中で次のように言っています。「も しある人がただの人間であり、イエスの語ったようなことを 語ったとするならば、その人は、偉大な道徳の教師ではあり ません。頭のおかしい人でないとすれば地獄の悪魔でしょう。 われわれは選択をしなければなりません。この人が神の子で あるか、狂人あるいはもっと悪いものか、どちらかです。・・・ だが、イエスが偉大な人間の師であるといったナンセンスに は同調しないようにいたしましょう。そのことは示されませ んでしたし、そうあろうともなさいませんでした」 。

b) イエス様の人格  クリスチャンではない人たちの多くが、イエス様の生き方 を無私無欲な生き方の極端な例であると考えています。クリ スチャンであったドストエフスキーは、次のように言ってい ます。 「イエス様ほど、魅力的で深遠で思いやり深く、完璧な 方はいないと思う。少しうらやましく思いながらも愛情を 持って、イエス様のような人はどこにもいないし、誰もイエ ス様のようになることはできないとつぶやくのだ」 。  イエス様の教えに関して言えば、それは人間の口から発さ れた言葉の中で、最も純真で最高のものであると、誰もが認 めざるを得ないでしょう。 7


C.S.ルイスも次のように述べるとおりです。「どんなに奇妙 であり、おそるべきことであり、あり得そうもないことのよ うに見えても、私は、その人が神であり、神であったという 見解を受け入れざるを得ません。神は、この敵に占領された 地に、人間の形をとって上陸されたのです」 。

c) 死に勝利したイエス様 イエス様の復活の証拠は、大変力強いものです。弟子たちが 墓に行った時、そこには死体を包んでいた亜麻布だけが残り、 イエス様の死体は消えていました。

 その後の6週間、イエス様は500人以上もの人の前に姿を現 しました。弟子たちの人生は大きく変えられ、キリスト教会 が誕生し、大変な勢いで広がっていきました。  英国最高法院判事であったダーリン卿は、復活についてこ う述べています。 「実際の証拠として、このような強力な証拠 が存在するので、肯定的に見ても否定的に見ても、事実から 見ても状況から考えても、この復活の話が真実であると、世 界中の知性のある陪審員が認めるだろう」 。これらの事実を十 分に説明することができる唯一のことは、イエス様がまさに 死から復活し、ご自身が昔も今も神の御子であるということ を証明されたということです。 8


なぜ、イエス様は来られたのでしょうか?  イエス様は、生まれてくることを選んだ唯一の方であり、死 ぬことを選んだ人の内のひとりです。イエス様は、ご自分が この世に生まれてきたのは、死んで私たちをゆるすためであ ると言われました。イエス様は「身代金として自分の命を献 げるために」(マルコ 10:45)来られたのです。  十字架について私たちが知っていることは、それが、最も 残忍な処刑方法のひとつであるということです。キケロは、十 字架刑を「最も残酷で恐ろしい拷問」であると言っています。 イエス様は、たくさんの金属や骨の重りがついた、幾重にも 束ねられた革の鞭で打たれたことでしょう。3世紀の歴史家 ユーセビウスによると、 「受刑者の血管はむきだしになり、筋 肉、腱、腸が露出した」とあります。  イエス様は、6 フィート(約 180 センチ)もある十字架の横 木を倒れるまで運ばされました。刑を受ける場所に着くと、6 インチ(約 15 センチ)の釘を両手首と足に打たれ、十字架に はりつけにされました。そして、耐えがたいほどの苦痛のま ま、何時間もその場に放置されたのです。  しかし、肉体的な痛みや精神的苦痛よりもさらに耐えがた い苦痛がイエス様にはあったと、新約聖書にはっきりと記さ れています。それは、イエス様が私たちの罪をすべて背負う ことによって神様から断絶された、霊的な苦しみであったと 言います。

なぜ、イエス様は死なれたのでしょうか?  イエス様は私たちの 「ために」 死なれると言われました。 「た めに」ということは、私たちの「代わりに」という意味です。 イエス様は私たちを愛しておられ、私たちが罰を受けること を望まれませんでした。イエス様は私たちの代わりに死なれ 9


たのです。十字架の上でイエス様は、 「私が全てのものを負う」 と言われました。イエス様は私のために、そしてあなたのた めに死んでくださったのです。もし、私やあなたがこの地上 に生きる唯一の人間だったとしても、イエス様は同じように 私たちのために死んでくださったことでしょう。パウロは 「わ たしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」 (ガラテ ヤ 2:20)と書いています。イエス様がご自分の命を身代金と して差し出されたのは、私たちを深く愛しておられたからな のです。  「身代金」という言葉は、奴隷市場から始まりました。ある 親切な人が奴隷を買い取り、その後解放してくれるとしま しょう。そのためには、まず、身代金を払わなければなりま せん。イエ���様は、十字架上で流された血によって身代金を 支払いました。この身代金によって、私たちは解放されたの です。

何からの解放なのでしょうか? a) 罪からの解放  罪の自覚があるないにかかわらず、私たちは皆、神様の前 では罪びとです。なぜなら、私たちは、思いと言葉と行いに よって、神様から与えられた規則を何度も破ってしまってい るからです。罪を犯したときに、誰もがその罰を受けなけれ ばならないのと同じように、神様の掟を破れば罰があるので す。「罪が払う報酬は死です」 (ローマ 6:23)。 10


罪を犯すことによって、私たちは霊的に死にます。神様か ら永遠に断絶されるのです。私たちは、皆、この罰を受けな ければなりません。しかし、イエス様は、十字架の上で私た ちの代わりにこの罰を受けてくださいました。そのために私 たちは完全にゆるされ、私たちの罪は取り除かれたのです。

b) 悪習慣からの解放  イエス様は「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」 (ヨハ ネ8:34)と言われました。イエス様は、この奴隷状態から私た ちを解放してくださいました。十字架の上で、悪習慣の力は断 ち切られたのです。時には、また罪に陥ってしまうこともある でしょう。しかし、イエス様が私たちを解放してくださった時 点で、この悪習慣の力は断ち切られました。これこそ、イエス 様が「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本 当に自由になる」(ヨハネ 8:36)と言われた理由です。

c) 恐れからの解放  イエス様が来られたのは、 「死をつ かさどる者、つまり悪魔をご自分の 死によって滅ぼし、死の恐怖のため に一生涯、奴隷の状態にあった者た ちを解放なさるためでした。」(ヘブ ライ 2:14 ∼ 15)私たちは、もはや死 を恐れる必要はないのです。  イエス様によって解放された者に とって、死はもはや終わりではあり ません。むしろ、死は天国への玄関で あり、そこで私たちは罪の存在その ものからも解放されるのです。イエ 11


ス様は私たちを、死に対する恐怖からだけではなく、すべて の恐れからも解放してくださったのです。

何のための自由でしょうか?  イエス様は、もはや肉体を持ってこの地上には存在しませ ん。しかし、イエス様は私たちをひとりにしたわけではあり ません。イエス様は、私たちと共にいるように聖霊を送って くださいました。イエス様の聖霊が私たちの内に住むとき、私 たちに新たな自由が与えられます。

a) 神様を知る自由  間違った行いは、私たちと神様との間に障壁を作ってしま います。 「お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て」(イザ ヤ 59:2)てしまうのです。イエス様が十字架の上で死なれた とき、イエス様は神様と私たちの間にある隔てを取り除いて くださいました。その結果として、私たちは、創造主である 神様との関係を回復することができるようになったのです。 私たちは、神様の子どもとなりました。聖霊は、神様との関 係を確実なものとし、私たちが神様をより深く知る手助けを してくれます。聖霊は、私たちが祈るのを助け、神様の言葉 (聖書)を理解するのを助けてくれます。

b) 愛する自由   「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださった からです」(Ⅰヨハネ 2:19)。十字架を見るとき、私たちは神 様の私たちへの愛を理解することができます。神様の霊が私 たちの内に住まわれるとき、私たちはこの愛を体験すること ができます。神様の愛を体験すると、私たちは、神様をそし 12


てまわりの人を新たに愛する心を 与えられるのです。私たちは愛の ある人生を送れるようになります。 つまり、自己中心的に生きるより も、イエス様を愛してイエス様に 仕え、また周りの人びとを愛して 彼らに仕えて生きる人生を送るよ うに変えられるのです。

c) 変わることのできる自由  よく「あなたはあなたなのだから、変わることはできない」 と言われます。けれども、聖霊の助けがあれば私たちは変わ ることができます。聖霊は、私たちが心の奥深くで望んでい たような人生を生きることができるようにしてくださいます。 パウロは、聖霊の結ぶ実は 「愛であり、喜び、平和、寛容、親 切、善意、誠実、柔和、節制です」 (ガラテヤ5:22∼23)と言っ ています。神様の霊に、私たちの内にいらして住んでくださ いとお願いするとき、これらの素晴らしい性質が私たちの人 生の中で育ち始めるのです。

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なぜ躊躇するのでしょうか?  神様は、イエス・キリストによって、私たちにゆるしと解放 と私たちの内に住む聖霊をくださいました。これらすべての ものが神様からの贈物です。誰かが贈物をくれるとき、私た ちは選択することができます。その贈物を受けとり、それを あけて楽しむか、または「いえ、結構です」と言って受けとる のを断るかです。悲しいことに、たくさんの方が、神様がく ださるという贈物を受けとらないための言い訳をしてしまっ ています。  ここに、いくつかの言い訳の例を挙げてみましょう。

a) 「私には神様は必要ありません」  これは、神様なしの生活でも十分幸 せだということです。しかし見落とし ているのは、私たちが最も必要として いることは「幸せ」ではなく「ゆるし」 であるということです。自分はゆるさ れる必要がないとは、よほどプライド の高い人でなければ言うことはできな いでしょう。  誰もがゆるしを必要としています。 ゆるしてもらわなければ、私たちは大 変困った状況に陥ってしまいます。神 様は私たちを愛してくださる父である ばかりでなく、公正な裁き主でもある のです。  私たちのためにイエス様が十字架の 上でしてくださったことを受け入れるか、あるいはいつか自 分の罪に対する罰を受けるかのどちらかなのです。 14


b) 「あきらめなくてはならないことが多すぎる」  イエス様を通して神様との関係を楽しみたいと思うと、今まで 間違っていると知りながらやってきたことで、あきらめなくては ならないことを、神様は明らかにしてくださいます。  しかし、次のことも同時に心に留めておきましょう。

□  神様は私たちを愛しておられます。神様は私たちにとっ て害になるものだけを手放すように言われます。もし私 の子どもたちが包丁で遊んでいたら、やめなさいと言う でしょう。それは、子どもたちの楽しみを取り上げたい からではなく、子どもたちに傷ついてほしくないからです。 □  私たちが手放すことは、私たちが受けとるものに比べた ら、大変小さなことです。クリスチャンにならないため に支払う代価は、クリスチャンになるために支払う代価 よりも、はるかに大きいのです。 □  私たちが手放さなくてはならないことは、イエス様が十 字架の上で私たちのために死なれたときに手放してくだ さったことに比べれば、大変小さなものです。 15


c) 「何か罠があるに違いない」  この世で、ただの物を受けとるのが 難しいと言うのはよく分かります。ど うも簡単すぎて、何か見えない罠があ るに違いないと考えてしまうのです。  しかし、ここで見落としているのは、 これは私たちにとっては無償のもので すが、イエス様にとっては無償ではな かったということです。イエス様はご 自分の血でその代価を支払いました。 私たちにとっては楽なことですが、イ エス様にとっては、決して楽なことで はありませんでした。

d) 「私にはふさわしくない」  ふさわしい人は誰もいません。努力して神様にふさわしい 人間になれる人もいません。ですから、イエス様が来られた のです。イエス様が私たちをありのままの姿で神様に受け入 れていただけるようにしてくださったのです。私たちが何を しても、どんなにひどい生き方をしてきたとしても、神様が 私たちを今ありのままの姿で愛してくださるように、イエス 様がしてくださったのです。

e) 「私にはきっと続かない」  続けられないと思うことは正しいことです。私たちは、自 分の力では続けられません。ですが、私たちの内に住んでく ださる神様の霊が、私たちに力を与え、クリスチャンとして 生き続ける強さをくれるのです。 16


f) 「後でやります」  おそらくこれが最も多い言い訳でしょう。時々、 「真実だと いうことは分かるけれど、まだ準備ができていません」と言 う人がいます。後回しにしているのです。後回しにすればす るほど実行するのが難しくなりますし、失うものも多くなり ます。次の機会があるかどうかは誰にも分かりません。私自 身に関して言えば、私の唯一の後悔は、もっと早くにこの贈 物を受けとらなかったということです。

では、何をしなければならないのでしょうか?  新約聖書には、神様からの贈物を受けとるためにしなくて はならないことがあると、はっきり書かれています。それは、 信じるということです。ヨハネは「神はその独り子をお与え になったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も 滅びないで、永遠の命を得るためである」 (ヨハネ 3:16)と書 いています。信じるということは、私たちがイエス様につい て知っているすべてのことに基づいて、信仰によって信じる ということです。盲目的な信仰ではありません。「ある方」を 信頼するということです。ある意味で、これは結婚式で花嫁 と花婿が「誓います」というステップに似ています。  人によってこの信仰のステップの踏み方は様々ですが、あなた が今すぐにでも始められるステップの一つを、ここにご紹介しま しょう。これはたった三つの簡単な言葉に集約されています。

a) 「ごめんなさい」  神様に今までの罪をすべてゆるしてもらい、今までの人生 の中で間違っていると知りながらしてきた、すべての罪から 離れなければなりません。これが聖書でいう 「悔い改め」 です。 17


b) 「ありがとう」  私たちは、イエス様が私たちのために十字架の上で死んで くださったということを信じています。イエス様があなたの ために死んでくださり、ゆるしと自由と聖霊の贈物を無償で 与えてくださったことに感謝しましょう。

c) 「お願いします」  神様は、決して無理に私たちの人生に入ってくることはあ りません。神様からの贈物を受けとり、私たちの内に聖霊に よって入り住んでくださるように、お願いしましょう。  もし、神様との関係を始めたいと思い、これら三つのこと が言えるようでしたら、次に簡単なお祈りがあります。この 祈りによって、あなたも神様との関係を始めることができます。 主イエス様 私が今まで行なった過ちを、どうぞゆるしてください。 (ここで少し時間をとって、心に何か具体的なことが浮かんだ ら、そのことのゆるしを求めてください)。 どうぞ、私をゆるしてください。 私は、これらすべてのことから離れます。 あなたが十字架の上で、 私のために死んでくださったことを感謝します。 私はゆるされ、自由にされました。 あなたがゆるしてくださり、 聖霊を与えてくださることを感謝します。 今、私はあなたのゆるしを受けとり、 聖霊をお迎えします。 どうぞ、私の人生にお入りください。 そして、永遠に私と共にいてください。 主イエス様、感謝します。アーメン。

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さて、次は?

1. 誰かに話しましょう。  私たちが決断したことをより深く確信するために、誰かに 話すことがとても大切です。誰かに話して初めて、それが現 実のものに感じられるということもあります。このニュース を聞いて喜んでくれそうな人に話すことから始めてみましょう。

2. 聖書を読みましょう。  一度イエス様を受け入れ、その名を信じるなら、私たちは 神の子とされます(ヨハネ 1:12)。  神様は私たちの天の父です。父親が子どもとのよい関係を 望むのと同じように、神様も子どもである私たちと親密な関 係を持ちたいと願っておられます。私たちは、おもに聖書を 通して神様の言葉を聞き、祈りを通して神様に語りかけるこ とによって、神様との関係を築き上げていくことができます。 聖書は神様の御言葉です。ヨハネの福音書を毎日数節ずつ読 むことから始めるとよいでしょう。読む時、神様が語ってく 19


ださるようにと祈りましょう。

3. 毎日神様に語りかけましょう。 (例:祈りを通して) 次のステップが、私にとっては分かりやすいものでした。 (賛美)  Adoration      神様をたたえ、これまでに神様がしてくださったことを  賛美しましょう。

 Confession   (告白)   神様に今までの罪に対するゆるしを求めましょう。

 Thanksgiving  (感謝)   健康や家族や友達などを与えてくださっていることを神  様に感謝しましょう。

 Supplication  (願い)   自分自身のことや友人や他の人々のために祈りましょう。

4. 生き生きとした教会に参加しましょう。  クリスチャンが共に集まり、神様を賛美し礼拝する場に参 加することはとても大切なことです。そうすることにより、神 様が語ってくださることを聞いたり、お互いに励ましあった り、友達をつくったりすることができます。教会はとてもエ キサイティングな所です!

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私が初めて 18ページにある祈りをしたのは、1974年 2月 16 日のことでした。この祈りは、私の人生を変えました。私の それまでの人生の中で、最も素晴らしく意味深いことでした。 あなたもきっと同じ体験をされるでしょう。

さらに詳しく・・・ 『人生の疑問』  ニッキー・ガンベル著 この本には、イエス様が今日の私たちの人生にどのようにか かわってくださっているかが詳しく記さ���ています。

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Why Jesus? - Japanese